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第1話 人事部長、最強の「災害」を隔離する

 過酷な戦場には、たいてい二種類の悲鳴が響き渡る。

 ひとつは、無惨にも斬られた者が上げる苦痛の悲鳴。

 もうひとつは――斬られる直前に、自らの死を悟った者が上げる絶望の悲鳴だ。

 そして今、この北部丘陵第三防衛線に満ち溢れているのは、疑いようもなく後者であった。


「来るぞォォォ! 白いのが来るぞ!」


「勇者だ! 化け物勇者アッシュだ!」


「盾兵、前へ! 前へ出――ぎゃあああああっ!」


「おい、前に出た盾兵が一瞬で遥か後ろまで飛んだぞ!?」


「報告書! 誰か報告書を守れ! 先月の損耗率がまだまとまってな――あああ、燃えたァ!」


 飛び交う絶叫、耳を劈く爆音、そして天を衝くように舞い上がる土煙。

 地獄絵図と化した戦況を高台から見下ろしながら、魔王軍人事部長ザガンは無言のまま、冷たい指先で片眼鏡を押し上げた。

 漆黒の軍装は皺ひとつなく、胸元の階級章は陽光を反射して鋭く磨かれている。血なまぐさい最前線にはまるで似つかわしくない、冷暖房の効いた会議室の空気をそのまま持ち込んできたような男だった。だが、その視線は氷のように冷え切っており、目の前の惨状を見てもまるで動じる気配がない。


 いや、正確には違う。

 彼は決して、恐怖していないのではない。

 恐怖の向いている対象が、他の者たちと決定的に違うだけだった。


「第一大隊左翼、壊滅。第二大隊の予備兵二十七名、戦線投入後わずか十五分で行動不能。投石機二基、補給車三台、仮設柵百四十メートル損失……」


 ザガンは部下から受け取った板紙に、さらさらと羽ペンで数字を書き込んでいく。


「人事部長! 今はのんきに集計している場合じゃありません!」


 横に立つ副官が、半泣きになりながら叫んだ。


「今だからこそ集計するのだ」


「どうしてですか!」


「被害が大きい時ほど、どこでいくら失っているか正確に確認しなければ、上に予算を請求できん」


 副官は、完全に絶望した顔になった。


 二人がそんなやり取りをしている間にも、戦場の中心では凄まじい白銀の光が幾度も閃いていた。

 勇者アッシュ。

 人間界の聖剣に選ばれたとされる青年であり、魔王軍にとってはここ半年で最大にして最悪の頭痛の種でもある。金髪碧眼、白銀の鎧、背に聖紋の刻まれた大剣。外見だけを切り取れば、誰もが納得する完璧な勇者像だ。

 ただし、その実態は魔王軍にとって極めて不都合なものだった。


「はぁっ……! ごめんなさい、通ります!」


 妙に礼儀正しい声が響いたかと思うと、同時に前線のオーガ小隊がまとめて宙高く吹き飛んだ。

 巨体が跳ねる。

 分厚い盾が紙のように割れる。

 足元の地面がごっそりと抉れる。

 アッシュはまるで荒れ狂う突風のように戦場を駆け抜け、魔族兵の分厚い列を真っ二つに引き裂いていく。しかも質が悪いことに、当の本人はまるで悪意などなく、純粋に「仕事(任務)をこなしている」だけという顔をしていた。


「ごめんなさい!」


 大剣が唸りを上げて斬る。


「急いでいるので!」

 

凄まじい衝撃波が周囲を吹き飛ばす。


「本当は、なるべく手加減してるんですけど!」


 その申し訳程度の「手加減」の余波で、巨大な見張り櫓が轟音を立てて倒壊した。


 ザガンは、ぴくりと額に青筋を立てた。


「手加減の概念が狂っているな」


「人事部長! 早く撤退命令を!」


「すでに伝令は回した」


「なら、なぜそんなに冷静なんです!?」


「冷静ではない」


 ザガンは、手元の紙面を親の仇のように睨みつけた。


「怒っている。非常に」


 彼が見ているのは、戦場を駆ける勇者そのものではない。

 勇者がもたらす「損失の総量」だった。

 アッシュ一人が現れるたび、魔王軍は大量の兵を失う。兵を失えば当然、補充が必要になる。補充には多額の採用費と訓練費がかかる。戦場に出せるようになるまでには膨大な時間もかかる。そのうえ、あの化け物勇者と当たりたくない兵士たちがこぞって配置替えを希望し、部隊の士気は地の底まで下がり、休職申請がデスクに山積みになり、離職率まで跳ね上がる始末だ。

 つまり、勇者アッシュは単なる強大な敵戦力ではない。

 魔王軍における、巨大な固定費を瞬く間に食い潰す「歩く災害」そのものだった。


「第三四半期の対勇者関連損害だけで、南部戦線二年分の再建費に匹敵する……」


 ザガンは低く、地を這うような声で呟く。


「……人事部長?」


「副官。結論が出た」


「はい?」


「あれは敵ではない」


「……は?」


「あれは、災害だ」


 その言葉が発せられた瞬間、高台のすぐ下を、重傷を負ったミノタウロス兵が転がるように逃げていった。


「助けてくれ! 勇者が! 勇者が俺の肩をポンと叩いて『無理しないでくださいね』って優しい声で言いながら、俺の肋骨を粉々に折ったんだ!」


「……短い中に情報量が多いな」


 ザガンは戦場を見下ろしたまま、冷徹な目でさらに観察を続ける。


 勇者アッシュは強い。

 規格外に、異常なほどに強い。

 だが同時に、その姿はどう見ても激しく消耗していた。

 踏み込みは鋭い。剣筋にも一切の狂いはない。だが、目にも留まらぬ動きの合間に、ほんのわずかに息が乱れている。肩甲骨が激しく上下し、鎧の隙間から見える喉がひどく乾いている。そして何より、目の下には濃く落ちたくぼみと隈。左脚の運びも、着地の瞬間だけわずかに動きが鈍る。

 疲れている。

 それも、今日一日戦っただけの疲れではない。骨の髄まで蓄積した疲労だ。

 一晩の休息で取れる限度をとうに超えた、長期的な酷使の痕跡。


「……なるほど」


 ザガンの口元が、ほんのわずかに歪んだ。

 正面から戦って倒せない相手がいるなら、正面から戦わなければいいだけの話だ。

 どれほど強力な聖剣も神の加護も、剣を振れない状況下においては意味が薄い。

 極限まで疲れ切った人間が、一番無防備になる瞬間は決まっている。


「眠る時だ」


 横にいた副官が、ぎょっとした顔で勢いよく振り向く。


「今、何かおっしゃいましたか」


「退くぞ」

「えっ」


「全軍撤退だ。勇者との交戦を即刻切る」


「ですが!」


「これ以上、我が軍の貴重な労働力を、あの災害に近づけるな」


 ザガンはバサリとマントを翻し、踵を返した。

 背後ではなおも魔族たちの悲鳴が続いている。だがもう、彼の頭の中には「次の会議の議題」しか存在しなかった。

 勇者アッシュをどう排除するか。

 否。

 どう「回収」するか、である。


 


 その夜、魔王城の薄暗い軍議室は、肌が粟立つような異様な空気に包まれていた。

 重厚な長机を囲む幹部たちは、みな一様に苛立っていた。あの勇者のせいで各戦線の消耗が激しすぎることは、この場にいる誰もが痛いほど理解している。しかし、有効な対抗策が何一つないのだ。軍の最高戦力である四天王ですら、正面から当たれば無事では済まない。巧妙な罠も凶悪な呪詛も、勇者の規格外の加護と聖剣のごり押しであっさりと突破されてきた。

 つまり、誰もが心のどこかで絶望的な行き詰まりを感じていた。

 その重苦しい停滞を、ザガンは手元の資料の束一つで無情に引き裂いた。


「結論から申し上げます」


 会議室中の視線が、人事部長に集中する。


「勇者アッシュを、物理的に隔離します」


 三秒間、誰も反応しなかった。

 その後、議場が爆発した。


「はぁ!?」


「貴様、何を言っている!」


「隔離!? 奴は病原菌か何かか!?」


「相手はあの化け物勇者だぞ!?」


 炎将ガルドが、激昂して長机を叩き割らんばかりに立ち上がる。


「人事部長、過労でついに頭がいかれたか!」


「いいえ」


 怒号を浴びても、ザガンは氷のように静かに返した。


「ようやく、現実的な思考になっただけです」


 議場の奥、豪奢な玉座に腰掛ける魔王ヴァルゼドだけが、面白そうに片眉を上げていた。


「……続けろ」


「ありがとうございます、陛下」


 ザガンは机の上に、大判の統計表をバサリと広げた。


「こちらをご覧ください。勇者アッシュ出現以降における、対人間戦線の損耗率推移です」


 そこに並ぶのは、前線ごとの死傷者数、装備の損耗額、新たな補充採用費、再訓練にかかるコスト、そして士気低下による配置希望の著しい偏りまで、すべてが冷酷な数字として可視化された絶望のグラフだった。幹部たちの顔色が、徐々に青ざめていく。


「何だこれは……」


「ひどいな……」


「第四戦線の補充予算、ほぼ勇者一人に食い潰されているのか?」


 ザガンは静かにうなずく。


「もはや勇者アッシュは、戦力評価で測るべき対象ではありません。彼は我が軍における『最大の人件費損害』です」


「言い方……」


 誰かが呆れたように呟いた。


「事実です」


 ザガンはさらに一枚、別の資料を滑らせる。


「加えて、戦場での観察の結果、勇者は極度の疲弊状態にあります。慢性的な睡眠不足、過密すぎる任務、そして多大な精神的負荷。人間側が彼を『象徴』として扱い、限界を超えて酷使しているのでしょう」


「だからどうした?」


「壊れる寸前の労働者は、『差し入れ』に弱い」


 また沈黙が落ちた。

 今度は怒りではなく、深い呆れが勝っていた。


「まさか」


「そのまさかです」


 ザガンは、資料の最後のページをめくった。


『対勇者アッシュ隔離計画案』


「私が人間側の補給係に偽装し、勇者の野営地へ直接接近します。そして、超高濃度の睡眠薬を混入した『疲労回復ドリンク』を差し入れます」


「やり方が雑だな!?」


「雑に見えて、極めて合理的です」


「見えてもなにも、雑!」


 ガルドが顔を真っ赤にして叫ぶ。だが、ザガンのプレゼンは止まらない。


「勇者が昏睡状態に陥った後、麻袋にて回収。転移門を使用して私邸の地下へ速やかに搬送します。所在を完全に不明化し、魔王軍損耗の根本要因を物理的に除去します」


「おい待て」


 別の将が、引きつった顔で片手を上げた。


「今、お前……『私邸の地下』と言ったか?」


「ええ、言いました」


「お前、自宅にあの勇者を置くつもりか!?」



「職場(魔王城)に置くよりは安全です」


「比較対象がおかしいだろうが!」


 議場が再び騒然となる中、魔王ヴァルゼドだけが喉の奥で楽しげに笑っていた。


「失敗したらどうする?」


「私の首が飛びます」


「成功したら?」


「我が軍の損耗率が劇的に改善します」


「ふむ……」


 魔王は頬杖をつき、しばらく考え込む素振りを見せたあと、にたりと三日月のように口角を上げた。


「やれ」


「陛下!?」


 幹部たちが色めき立つ。


「面白いではないか。どうせ正面からは倒せんのだ。なら、攫ってみろ。見事成功したなら余が褒めてつかわす。失敗したら――まあ、その時はザガン、お前が死ぬだけのことだ」


「承知いたしました」


 ザガンは胸に手を当て、迷いなく深く一礼した。

 議場はなおも騒然としていた。だが彼にとって重要なのは、トップの決裁(許可)が下りたという事実だけである。

 勇者アッシュ誘拐計画、正式決定。

 魔王軍の長い歴史において、たぶん最も頭のおかしい人事案件が動き出した瞬間だった。


  


 三日後、夜。

 人間軍の野営地は、戦勝気分とも安堵ともつかぬ、ひどくだらけた空気に包まれていた。

 兵士たちは焚き火を囲んで酒をあおり、あることないこと勝手な武勇伝を語り合っている。勇者が前に立ってくれている限り、自分たちはそうそう死ぬことはない。そんな根拠のない甘えが、夜の空気のぬるさから痛いほど伝わってくる。

 ザガンは煤けたボロボロの外套を深くまとい、粗末な荷車を引いてその野営地へ静かに近づいた。

 荷台の木箱には、それらしい立派な焼き印が押されている。


『聖都特製・勇者専用疲労回復飲料』


 偽造書類も完璧に完備。

 通行章も本物そっくりだ。

 魔王軍の人事部長が夜更けにコソコソと何をやっているのかと問われれば、彼自身ですら少し答えに窮する。


「止まれ。誰だ」


 見張り兵が、気怠そうに槍を向けた。


「補給部の者です」


 ザガンはわずかに背を丸め、いかにも長旅で疲れた使い走りらしい、擦り切れた声を作る。


「勇者殿向けの差し入れを届けに参りました」


「こんな時間に?」


「上層部から『あれが壊れると困るから、最低限の整備はしておけ』と急ぎで言われまして」


 見張り兵は、露骨に納得した顔になった。

 人間側の腐敗した統率系統が透けて見えるようで、ザガンは内心で心底彼らを軽蔑した。


「……通れ」


 野営地の中央付近は、宴会のように騒がしい。

 だが、一番奥に張られた天幕だけが、周囲の喧騒から切り離されたように妙に静かだった。

 ザガンはそこへ鋭く目を向ける。

 勇者アッシュは、焚き火の光すら届きにくい暗がりにポツンと一人座り、大剣の手入れをしていた。周囲の兵たちが鎧を脱いで休んでいるというのに、彼だけは重い鎧も脱がず、背を丸めて黙々と布で刃の血糊を拭っている。

 そこへ、誰かが天幕の外から遠慮のない声を張った。


「勇者殿! 明日は夜明け前に出立ですぞ!」


「東の魔物群を掃討後、休まずその足で南方の街道警備へ向かってもらいます!」


「帰還したらすぐに聖騎士団への戦況説明! 大口の寄付者との面談も忘れないように!」


 アッシュは顔を上げず、研磨布を動かしたまま小さく答える。


「……はい」


「あと、祈祷書への署名三百枚も!」


「孤児院支援の式典で、感動的な一言をお願いします!」


「聖女様との顔合わせが先延ばしになっているので、その調整も急ぎで!」


「…………はい」


 返事の声が、もうほとんど死んでいた。


 ザガンは確信する。

 いける。

 この男はもう、限界をとっくに超えている。

 身体ではなく、ただ強迫観念のような「義務感」だけでかろうじて立っている状態だ。だからこそ、理外の「善意」に対しては完全に無防備になる。

 ザガンは木箱を抱え、音もなく天幕へ近づいた。


「勇者殿」


「……はい?」


 アッシュがゆっくりと振り向いた。

 至近距離で見れば見るほど、その消耗具合はひどかった。

 若い。まだ二十歳前後だろう。だが、目の下の隈は痛々しいほどに濃く、頬は少しこけ、唇はカサカサに乾いている。戦場では神々しい光を放つ聖剣の担い手も、こうして静止していれば、ただ疲れ切った哀れな青年にしか見えない。


「補給部より、差し入れをお持ちしました。特製の疲労回復ドリンクです」


「差し入れ……?」


 たったその一言に、アッシュの光を失った瞳が少しだけ丸くなる。

 本気で驚いているのだ。

 誰かが自分のために何かを持ってきたという、ただそれだけの、当たり前のことに。


「今日の戦い、かなり消耗されていたようでしたので」


「……見てて、くれたんですか」


「ええ」


 アッシュは、尊いものを触るかのように遠慮がちに、小さな小瓶を受け取った。


「あの、ありがとうございます」


「業務の一環ですから」


「それでも、ありがとうございます」


 礼を言う時だけ、彼特有のほんの少しだけ柔らかい笑みを浮かべる。


 その笑顔があまりにも弱々しく、そして無垢すぎて、ザガンは自分がこれからやろうとしていることの犯罪性を一瞬だけ忘れかけた。

 だが、作戦は作戦だ。


「新鮮なうちにどうぞ」


「はい」


 アッシュはこくりと頷き、コルクの栓を抜いた。

 甘い匂いがふわりと立つ。


 魔界の筆頭薬師に作らせた、致死量スレスレの超高濃度睡眠薬入り栄養剤。味は疲労時にもっとも安心感を与えるよう、緻密に調整されている。薬師本人は「ここまで悪質な配合は、長い薬師人生で初だ」とひどい渋面を作っていた代物だ。


 アッシュは一口飲み、パチリと目を瞬かせた。


「……おいしい」


「そうですか」


「甘くて、少し苦くて……なんか、すごくほっとする味です」


「……それは何より」


 ごくごくと、喉を鳴らしてためらいなく飲む。

 疑いもしない。

 毒見すらしない。

 見ているザガンのほうが、背中を冷や汗が流れるように落ち着かなくなった。こんなにも簡単に、見ず知らずの男の善意を信じるというのか。

 いや、違う。

 信じたいのだ。

 極限まで疲れ切った人間は、他人を「疑う」という気力すら失う。


「最近、忙しくてあんまりご飯食べられてなくて」


 アッシュは空になった瓶を両手で持ったまま、ぽつりとこぼした。


「喉を通るだけで、すごくありがたいです」


「……そうか」


 もはやほとんど会話になっていない。

 だがザガンは、胸の奥に奇妙な感覚を覚えた。

 こいつは本当に、我々を脅かす敵の勇者なのか。

 少なくとも今ここに座っているのは、世界を救う輝かしい英雄などではない。終わりの見えない明日の予定表に殺されかけている、ただの若者だった。


 やがて、アッシュの指先がカタカタと揺れ始める。


「あれ……」


「効いてきたか」


「え?」


「いや、溜まっていた疲れが出たのだろう」


「そうかも……急に、目の前が……眠……」


 ぐらり、と糸が切れたように体が大きく傾く。


「でも、まだ、報告書……署名……明日の祈祷……」


「知るか。寝ろ」


 ザガンが倒れ込む肩をガシッと支えると、アッシュは抵抗らしい抵抗を見せることもなく、ふっと息を吐いてそのまま深い意識の底へと落ちていった。

 決して軽いわけではない。だが、同年代の成人男性と比べると、思ったよりずっと細い。硬い鎧越しでも骨張っているのが分かる。

 使い潰される寸前の、悲鳴を上げている体だ。


「……ひどい扱いだな」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。

 ザガンは素早く周囲に警戒の視線を配り、用意していた巨大な麻袋をバサリと広げる。そこへ昏睡した勇者を丸ごと押し込み、口を固く結び、よっこらせと肩へ担ぎ上げた。

 そのシルエットは、控えめに言っても完全に不審者だった。

 帰り際、見張り兵が不審そうに声をかけてくる。


「おい、そのやけにデカい袋は何だ」


「空瓶の回収です」


「いくらなんでもデカくないか?」


「最近の栄養剤の瓶は、大型化する傾向にあります」


「そうか……?」


 見張り兵の頭には疑問符が浮かんでいたが、疲弊しきった脳はそれ以上深く追究しようとはしなかった。

 人間側の危機管理能力も末期である。


 野営地を抜けるまでの数十歩が、ザガンには針のむしろのように妙に長く感じられた。

 足元の乾いた草を踏む音。

 遠くで響く、酔っ払い兵士たちの下品な笑い声。

 そして、肩の袋の中から微かに聞こえてくる、規則正しい寝息。


 寝息。

 寝息?

 ザガンは一瞬、ピタリと足を止めた。

 麻袋の中に押し込まれた勇者は、薬のせいで完全に意識を失っているはずだ。にもかかわらず、その呼吸はひどく穏やかだった。拉致されているという怯えも、戦士としての緊張も微塵もない。ただ深く、母親の胎内にいるように安心しきって眠っている。


「……何だ、それは」


 誘拐されておきながら、安心して眠るな。

 常識に反しすぎている。

 だが、今はこんな所で立ち止まって思考している場合ではない。

 ザガンは転移門の待機地点へ急ぎ、青白く光る魔力紋に足を踏み入れた。

 視界がぐにゃりと歪む。

 空間を切り裂くような風切り音。

 次の瞬間、彼は自邸の地下にある、ひんやりとした保管室の中心に立っていた。

 冷たい石壁、揺れる薄暗い灯り、整然と天井まで積まれた木箱の山。

 そこに、秘書官リリスが呆れたように腕組みをして待っていた。


「……本当に持って帰ってきたんですね」


「その言い方はやめろ」


「じゃあ何て言えばいいんですか。『勇者回収、お疲れさまです』ですか?」


「余計に嫌な響きだな」


 ザガンはドサリと、麻袋を慎重に石の床へ降ろした。

 一仕事終えたどっと重い疲労が押し寄せる。

 成功した。

 魔王軍史上最大の暴挙が、あろうことか成功してしまった。


「今のうちに、手枷や魔力封じの拘束具をつけますか?」


 リリスが淡々と尋ねる。


「いや、まだだ。まず状態の確認を――」


 ザガンが言いかけたその時、床に置かれた袋の中がもぞりと動いた。

 二人は氷のように硬直した。


「早くないですか!?」


「もう薬効が切れたというのか……? 化け物め」


 ザガンは警戒しつつ、袋の口の紐を少しだけ緩める。

 隙間から、サラサラとした金色の髪が覗いた。

 アッシュはうっすらと目を開けている。だが、焦点は全く合っていない。強力な睡眠薬のせいか、完全に寝ぼけていた。


「……ここは……」


 掠れた、か細い声が漏れる。

 ザガンは反射的に身構え、魔力を練った。ここで暴れられたら、この地下室ごと吹き飛ぶ。いや、私邸もろとも更地にされる。

 だがアッシュは、薄暗い石造りの天井をぼんやりと見上げたまま、しばらく静かに、パチ、パチと瞬きをした。


「……静かだ」


「……」


「怒鳴る人が、いない……」


「……」


「『次の任務はこれだ』って……言われない……」


 その声は、深い夢の中に落ちていく直前のように弱く、そして、ひどく安堵に満ちていた。

 やがてアッシュは、小さな子どものようにふうっと息をつき、とろけるような顔で呟いた。


「……ここは、天国?」


「違う」


 ザガンは即答した。


「たぶん違う」


 横からリリスが真顔で補足する。


「聖騎士団の長い説教も……終わらない魔物退治のノルマもない……」


「ノルマ?」


 ザガンが眉をひそめる。


「最高だ……」


 そのままアッシュは、麻袋の中から手を伸ばし、ザガンの黒い外套の裾をギュッと無意識に掴むと、完全に安心しきった赤子のような顔で二度寝を始めた。


 ザガンは固まった。

 リリスも固まった。

 ひんやりとした地下室に、完全な沈黙が降りてくる。

 しばらくして、リリスが大変遠い目をして口を開いた。


「人事部長」


「何だ」


「これ、誘拐というより」


「言うな」


「保護では?」


「言うなと言った」


 だがザガン自身、その的確すぎるツッコミを否定しきれなかった。

 この青年は、魔王軍における最悪の損害要因だ。

 絶対に倒せない敵。

 最大の人件費泥棒。

 災害じみた戦闘能力を持つ、危険物中の危険物。

 その認識は、今でもまったく変わらない。

 だが同時に、今この冷たい床で眠っているのは、ただの疲れ果てた哀れな若者でもあった。

 重い剣を持たされ、神に祈らされ、血反吐を吐くまで戦わされ、倒れ込むまで休むことすら許されなかった、壊れかけの労働者。


「……ひどく面倒なことになったな」


 ザガンはこめかみを揉みながら、低く呟いた。


「今さらですよ」

 リリスがやれやれと肩をすくめる。


「魔王軍人事部長が、敵の勇者を麻袋に詰めて自宅にお持ち帰りした時点で、十分すぎるほど面倒な事態です」


「部下の正論は胃に悪い」


「胃薬、出しましょうか」


「……頼む」


 リリスが薬を取りに去ったあとも、ザガンはしばらく無言でアッシュを見下ろしていた。

 麻袋の中で丸くなって、幸せそうに眠る勇者。

 戦場を薙ぎ払う、あの理不尽な「白い災害」の面影は、今はひどく薄い。

 安らかな寝顔だけ見れば、本当にその辺の平和な村で、のんびりと帳簿でもつけていそうな、冴えない好青年にしか見えなかった。


「……お前のせいで、一体何人分の予算が吹き飛んだと思っている」

 絶対に返事など返ってこない相手に向かって、仕方のない文句をこぼす。


「……だが、まあ」


 やはり返事はない。

 あるのは、外套の裾を握りしめたまま繰り返される、穏やかな呼吸だけだ。

 ザガンは短くため息をつき、部屋の隅から厚手の毛布を一枚持ってくると、丸まった背中の上からそっとかけた。


「しばらく、寝ていろ」


 その言葉が、宿敵に向けるにはあまりにも優しすぎることに、自分で少しだけ苛立つ。

 だが仕方がない。

 ここまで心身ともにボロボロになった人材を目の前にして放置するのは、管理者たる人事部長としてどうしても見過ごせなかった。

 魔王軍人事部長ザガン、三十四歳。

 この夜、彼は初めて勇者アッシュを「排除すべき敵戦力」としてではなく、「回復が必要な一名の人員」として扱った。

 後に歴史を振り返れば、それこそが全ての始まりだったのだろう。

 世界最強の勇者を拉致するという、前代未聞の暴挙。

 その結果、自宅地下に転がり込んできたのは、憎き宿敵でも偉大な英雄でもなく、ただ「眠る場所」を失っていただけの若者だった。

 この先、ザガンは身をもって知ることになる。


 勇者を倒すより、

 勇者を休ませるほうが、

 よほど世界を変えてしまうのだと――。


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