無題
ガタン、と継ぎ目を越える大きな揺れで、男は弾かれたように顔を上げた。
車窓を流れる景色はいつものビル群ではない。まだ住宅街だ。いや、もしかしたら寝過ごして、折り返してしまったのか。老齢のサラリーマンである男の背中を、嫌な汗が伝う。
慌ててドア上の電光掲示板を見上げた。
『次は、〇〇――』
表示された駅名を見て、男は大きく息を吐き出した。
まだだ。降りるべき駅は三つも先だった。
毎日の通勤の疲労が蓄積しているのだろうか。吊革に掴まり直して、再び浅い眠りに戻ろうと腰を深く沈めかけた、その時だった。
視界の隅に、不自然に踏ん張る足元が入ってきた。
紺色の制服のスカート。その下の足は、片方だけが重々しいギプスに固められ、手には松葉杖が握られている。
高校生くらいの少女だった。揺れる車内で、松葉杖を脇に挟み、必死にバランスを取っている。額には脂汗が滲んでいた。
男は反射的に立ち上がった。
寝過ごしたと勘違いして飛び起きた勢いのまま、あたかも「ここで降りるのだ」という顔をして、ドアの方へと身体を向けたのだ。
空いた席に気づいた少女は、驚いたように男の背中を見た。
男は振り返らない。ただ、窓の外を見るふりをして、少女が座る気配を背中で感じ取った。
しばらくして、衣擦れの音と共に安堵の息遣いが聞こえ、視界の端で少女が軽く頭を下げるのが見えた。
男は結局、三駅分を立ったまま過ごし、目的の駅で降りた。
翌日も、男は同じ時間の、同じ車両に乗った。
そして、あの少女もそこにいた。
昨日と同じように、松葉杖をついて立っている。
男は昨日のような慌てたふりはしなかった。スマートフォンでニュースを見るふりをしながら、自然な動作で席を立った。
少女は一瞬躊躇ったが、男が頑として座ろうとしないのを見て、申し訳無さそうに、けれど深く一礼してその席に座った。
それからの日々、それは二人の間の無言の約束事になった。
男が座っている。少女が乗ってくる。男が立つ。少女が座る。
そこには「どうぞ」も「ありがとう」もなかった。
あるのは、男が席を立つ時のさりげない動作と、少女が座った後に向ける、静かで丁寧な会釈だけだった。
定年を間近に控え、色のない毎日を送っていた男にとって、そのほんの数秒のやり取りは、朝のコーヒーよりも温かいルーティンになっていた。
ある日、少女が来なかった。
風邪でも引いたのだろうか。男はその日、誰も座らない自分の前の席を、誰かが埋めるまでぼんやりと眺めていた。
翌日も、その翌日も、少女は現れなかった。
一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎた。
男はもう、少女のために席を立つ準備をしなくなっていた。
窓に映る自分の顔が、以前よりも少し老け込んだように見えた。松葉杖の少女は、ただの一時的な風景の一部だったのだと、自分に言い聞かせた。
季節が変わり、コートがいらない陽気になった頃。
あれから二ヶ月が経っていた。
いつもの駅でドアが開く。
男は読みかけの文庫本に目を落としていた。
ふと、視線を感じた。
顔を上げる。
そこに、彼女がいた。
松葉杖はなかった。
ギプスも外れていた。
両足でしっかりと電車の床を踏みしめ、吊革を両手で握っている。
少女は、座っている男の顔を真っ直ぐに見つめていた。
男は反射的に腰を浮かせかけた。
だが、すぐに動きを止めた。
もう、席を譲る必要はないのだ。彼女は治ったのだから。
少女の顔が、花が咲くように綻んだ。
それは、これまでに見せたことのない、満面の笑みだった。
男もまた、つられて口元を緩めた。
眉間の皺が消え、穏やかな笑みが広がる。
ガタン、と電車が揺れる。
男は座ったまま。少女は立ったまま。
二人の間には、やはり言葉はない。
けれど、車窓から差し込む朝の光の中で、二人は確かに会話をしていた。
「よかったね」
「おかげさまで」
男は再び文庫本に視線を落としたが、その文字はしばらく頭に入ってこなかった。
三つ先の駅に着くまで、男の口元はずっと緩んだままだった。




