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第五話 清太、自称・隠居を訪ねる


 翌日、日本橋へ向かうべく清太が家を出たのは、まだ明け六ツの鐘が鳴ったばかりの早朝。

 空は薄らと白み始めているもののまだ薄暗く、ひんやりと土道から上がる冷気に、清太は一つ身を(すく)めると、表通りへ向けて足を踏み出した。

 裏通りに面する家々からは小さく鍋釜の擦れる音や水音が響いて、豆腐売りや納豆売りの声に混じって、どこからか赤ん坊の声がかすかに聞こえてくる――そんな、昔から変わらぬ裏路地の朝を楽しみながら足を進めていく。

 けれど、家を出てほんの数歩……、歩き始めたばかりのその足が、ふいに止まった。

 自宅と隣家を隔てる細い路地。その路地の奥では、長屋の住人らもまた動き始めているようだ。清太はほんの少しだけ、様子見がてら先に長屋へ寄っていこうと、止めていた足を路地へ向けた。


 路地を抜けた先の長屋では、やはりというか女たちがすでに水を汲んだり、米を研いだりと忙しく立ち働いていた。皆、すぐさま清太に気づいて「あら、大家さん」「早いね」と、手を動かしながら明るく声をかけてくれる。

 それに軽く頭を下げて長屋の路地を歩き出すと、左の家の戸がガラリと開いて、手桶を手にした代書屋の文之進が表に出てきた。

「おや、清太さん。お早いですね。……どこかにお出かけで?」

 半纏を羽織った文之進は、清太の足元の雪駄(せった)に目を留めると、そうニコリと微笑む。

「ええ、これからちょっと日本橋の大伝馬町まで。その前に少しばかり勘助さんの様子を見ていこうかと」

「ああ、なるほど。勘助さんの薬の件ですね。昨日、お勝さんが話していました」

 どうやら、すでに一晩で勘助の病の話は長屋じゅうに知れ渡っているらしい。その話の回る速さに清太は内心、驚きつつ感心してしまう。それが顔に出たのか、文之進が小さく苦笑を漏らした。

「長屋の壁は薄いですからね。私の部屋は井戸のすぐ横ですから、まぁ色々と聞こえてしまうんですよ。大伝馬町なら浅草橋を渡って真っ直ぐ……って、日本橋においでだった清太さんなら百も承知でしたね」

 戯けたように文之進が肩をすくめる。

 なるほど、清太が日本橋で手代をしていたことも、すでに知れ渡っているようだ。

「はい、お(たな)の時は得意先回りであちこち行ったので道は大丈夫です。その得意先の一つの元番頭さんが大伝馬町にいらっしゃるので――」

 と話している途中で、折良く長屋の奥の家から、勘助とお常夫婦が連れ立って出てきた。路地が狭いこともあるだろうが、二人はひたりと寄り添い、足元に気を払いながらこちらに歩いてくる。清太は目線で文之進に断りを入れると、勘助夫婦の元へ向かった。

「勘助さん」と声をかけると、それに勘助とお常は揃って顔を上げ、笑みを見せた。

「まぁ、大家さん」

「おぅ、昨日は色々とすまなかったな。気を揉ませちまった」

 お常が昨日よりも朗らかな様子で頭を下げ、隣で勘助が照れ臭そうに首元を掻いた。聞けば、これから小石川に向かうと言う。

 昨日の今日で体調は大丈夫だろうか……と心配する清太に、勘助は笑いながら首を横に振った。

「辛気臭く寝てるくれぇなら、身体を戻すのに動いた方がマシってもんだ。一日でも早く、こいつを楽にしてやんねぇとよ……」

 勘助の言葉にお常がフフッと笑って、そして、

「ええ。うちの人が転げそうになったら、あたしが引っ張ってやろうと思いましてねぇ。待ち構えているんですよ」

 おっとりとそう言いながら、勘助にそっと肩を寄せた。それに勘助も「やめろぃ……」と言いつつそのままにしている。

 その様子に少しばかりホッとしながら、清太は老夫婦にくれぐれも気をつけて行くよう言葉をかけて、一足先に長屋を後にすることにした。


 裏通りに戻って表通りに出れば、土蔵造りの表長屋が広い通り沿いに立ち並んでいる。店々の半分ほどが大戸口を開いて、店先では女房や小僧らが桶で汲んだ水を撒き始めていた。

 少し先の煮売り屋の大鍋からは煮物の湯気が白く上がって、通りの端で寿司の屋台が赤酢のいい匂いを振りまいている。

 清太は鳴りそうな腹を誤魔化しつつ、進む足を速めていった。

 そうして暫く、蔵前の御米蔵を過ぎ、茅町(かやちょう)の人形問屋から浅草橋、その先の浅草御門を抜ければ、そこはもう日本橋。奉公人の時にさんざん歩いた馴染み深い場所だ。

 広小路は人でごった返し、馬子の掛け声と荷運びの怒声が飛び交っている。

 その手代の頃に慣れ親しんだはずの賑わいが、今日はどこか新しく見えて、清太はほんの少し、しみじみとした思いを抱きながら、大きな通りを先へと歩いていった。


 そうして、小伝馬町の手前まで来た時だ。前方の店先に人だかりができているのが見えた。

「嘘つくんじゃねぇ! 正直に言いやがれ!」

「ち、ちが……わた、私は……」

 野次馬の隙間から覗けば、番頭らしき男が、十一、二才ほどの小僧を怒鳴りつけている。小僧は周囲の大人に埋もれるようにして、縮こまっていた。

「お前、ついさっき受け取ったろうがッ。うちに言いがかりつけるのか!」

「そ、そういう……い、意味じゃ……」

 お仕着せの(すそ)を小さな手で握り締め、小僧は必死に喋ろうとするも、唇が震えて声になっていない。

 周囲の野次馬から「なんかまた、やらかしたかねぇ」「小僧が言いがかりはいけねぇなぁ」などと、ひそひそとした囁きが上がる。それが耳に入ったのか、小僧は細い肩を震わせて、ますます下を向いてしまった。

 その姿が、何だか昔の自分を見ているようで……清太は思わず輪を割って前に出ると、小僧の肩に手を置いて、男へと向き直った。

「まぁまぁ、立派なお店の番頭さんが、店先でそんなに声を張り上げて……いったい、どうなさいました?」

 清太のその物言いに番頭は気まずげな表情を浮かべると、先ほどよりは抑えた声で……けれど苛立ちはそのままに、言葉を吐き捨てる。

「こいつは四町先の問屋の使いでね、代金の受け取りに来たんで、確かに渡して返したんだ。証文もある。なのに――」

 (かば)う間もなく、番頭の大きな手がグイッと小僧の(えり)を掴んだ。

「言うに事欠いて『金がないんですが』だと? は? 受け取ってないような口利きやがって。払ったろうが! 証文もあるんだぞ!」

「ちちち……ちがっ、それは言葉のあやで……」

 なるほど、どうやら慌てた小僧の言い回しが悪かったらしい。きっとこの番頭は朝の忙しさで気が立って……いや、元々機嫌が悪かったのかもしれない。

 清太は小僧の襟を握っている番頭の手をそっと外すと、小僧の目線までしゃがんで、ゆっくりと問いかけた。

「大丈夫、慌てないで順番に話してごらん」

 清太の言葉に小僧は少しだけ落ち着いたのか、つっかえながらようやく話し始めた。

「お、お代を受け取って……こ、ここにちゃんと挟んでっ、でも角まで行ったら、な、なくなってて……っ。お、おれ、どうしていいか分からなくて、番頭さんに言いに行って……っ!」

 小僧が震える手で指さしたのは自分の帯。そこには確かに、緩んだ紐の切れ端が残っている。巾着そのものは跡形もない。

 清太は帯の位置と紐の切断面を一瞥した。切り口が鋭い――つまり盗られたのだ。

 それが分かった瞬間、清太はしゃがんだまま、野次馬の隙間からぐるりと周囲に目を凝らすが、小僧の言う角にも、周りにも、それらしい人物はいない。

 ――そりゃ、もう逃げてるよなぁ。

 内心ガッカリとしながら、清太は立ち上がって番頭に向き直った。

「スリですね。ほら巾着の紐がスパッと切れてるでしょう。この子も慌てていて言い方が悪かったんでしょうが、本当はあなたに助けを求めたんじゃないですかね」

 それを聞いた周囲の野次馬から「あー……」と、納得の声が上がった。この辺はスリが多いのだ。金の集まるところにスリも集まる……清太が昔やられたのも、ここを少し行った先だった。

 周囲の空気が少しだけ和らいで、暫し黙り込んだ番頭が舌打ちをした。

「……ちっ。こっちの帳面はもう支払い済みだぞ。どうすんだ」

「この子はただの使いですよ。この先は店と店の話……。後々のお付き合いを踏まえて落とし所を決めるしかないのでは?」

 清太の言葉に番頭は再び黙り込んだが、やがて肩を落とすと深いため息をついた。

「……分かったよ。どう考えても兄さんの言う通りだ。小僧の店には後で改めて知らせをやる。こっちもいきなり怒鳴っちまったしな。……すまなかったな、坊主」

 番頭の言葉を聞くなり、小僧の目からぽろりと涙が落ちた。

「……すみません……すみません……」

 何度も何度も頭を下げる小僧を(なだ)めるように、清太はその頭をひと撫でする。

「次から巾着は、帯のもっと深くに挟みなさい。腰紐の結び目を前に作って、その下に入れるとすられにくいですよ」

「はいっ……はいっ……」

 頷きながらまだ頭を下げる小僧に苦笑して、清太は番頭に目を向けた。その清太の視線を受けた番頭は、苦い顔で頭を下げ続ける小僧に顎をしゃくる。

「もういい。帰れ。帰ったら店にきちっと次第を伝えろ。次はないぞ」

 小僧は最後まで深く頭を下げて、走るようにして去っていった。

 それに視線を向けていた番頭が、清太にも詫びを入れる。

「兄さんもすまなかったな。どっかの店のお人かい?」

「いえ、以前は本町(ほんまち)の店におりましたが、今は家業を継いでおります」

 なるほど……と納得する番頭に短く挨拶をして、清太は先に進むべくその店を後にした。

 いつの間にやら人だかりは散って、いつもの問屋街のざわめきが、騒ぎの名残をかき消していった。

 ――あの小僧、今夜は叱られて布団の中で声を殺して泣くんだろうな……。

 歩きながら、清太は過去の自分や面倒を見た小僧たちを思い出した。

 ――でも結局は、ぐうぐう寝るんだよなぁ……。で、翌日はまた元気に走り回ってるんだよ。

 クスッと小さく笑って、清太はほんの少し足を速めながら、表通りを歩いていった。


 やがて、通りの右手に伝馬町(てんまちょう)牢屋敷が見えてきた。土手の上に築かれた高い土塀が、まるで上から圧し掛かるように続いて、近づくにつれ、どこか張り詰めた気配が漂ってくる。

 その塀沿いには、差し入れらしい包みを抱えた者たちがぽつぽつと立ち、これから西の表門へ向かうのだろうか、背を丸め、心なしか足取りも遠慮がちに見える。

 泣く子も黙る伝馬町牢屋敷――清太は泣いたことはないが、小僧時分、手代の兄さんたちに「悪さをすると、伝馬町で墨ぃ入れられて(たた)かれちまうんだぞ」と、さんざん脅されたものだ。時には幽霊だの化け物だのも混ざっていたけれど、幼い小僧には、やはり伝馬町の話が一番効き目があった。清太も手代に上がった後は、ありがたくその脅し文句を小僧たちに使わせてもらった。

 話を聞いてぷるぷる震えていた小僧たちの顔を思い出し、こみ上げる笑いを堪えながら、清太は表通りを左へと曲がった。

 本町筋を逸れると人通りはぐっと落ち着き、綺麗に掃き清められた人形丁(にんぎょうちょう)へと続く裏通りには、朝のひんやりした気配が残っている。

 少し進んで一つ目の路地を右に曲がれば、それまでの喧騒が嘘のように、しっとりと静かな趣へと変わる。道沿いには商家の離れや小さな長屋、小振りな鉢植えをひっそり置いた家などが、肩を寄せ合うように軒を連ね、その中程に清太が目指す家はあった。

 清太が小僧の時分から何くれとなく世話になったお人、与五郎(よごろう)が、今はあの家に暮らしている。物腰の柔らかな、時々飴玉をくれる優しい人――それが取引先の薬種問屋の大番頭さんだと知った時、小僧だった清太は腰を抜かしそうになったものだ。手代になってからも、会うたびにサラリと助言や励ましをしては、飴玉を握らせてくる……そんなお人だ。

 大店から暖簾分け寸前と言われていた与五郎だが、病の母親の介抱をきっかけに隠居したと聞いたのは二年前のこと。一度ご挨拶に伺ったが、今日はそれ以来の訪問だ。

 路地の半ばほどにある与五郎宅の前に立つと、小さな植木鉢が飾られた表口には、以前と同じく白い半暖簾(のれん)が下がって、昇り始めた朝陽を受けてかすかに揺れていた。その白い麻地の中央には、太筆で大きく「与」の文字が描かれ、与五郎らしい大らかで柔らかな筆づかいに、ホッと清太の肩から力が抜ける。

 まるで「気軽に寄っていきな」と迎えるようなその暖簾は、隠居してもなお与五郎の人脈と存在感が健在であることを示していた。どう見ても「隠居」とはほど遠い。

 清太はその暖簾の前で軽く背筋を伸ばすと、麻の端をそっと持ち上げた。

「ごめんください。与五郎さん、清太です」

 朝の空気と混じるように、清太の声が家の奥へと吸い込まれていく。

 それにすぐさま、奥から小気味のいい声が返ってきた。

「おお? 清太か? ちょっと待ちな」

 奥でカタリ、と湯呑みを置くような気配があり、ほどなく障子の向こうから与五郎が姿を現した。

 白髪まじりの頭に柔らかい笑み。背筋がスッと伸びた立ち姿は、以前とまったく変わらない。

「朝からどうした? まさか、うちの薬草が恋しくなったわけでもあるまいよ」

 からかうような言い草に、清太も思わず笑って頭を下げた。

「ご無沙汰しております。あの、いえ……実は少々ご相談があって参りました」

「ほう? まあ、お上がり」

 与五郎に促されて暖簾をくぐると、小さな土間の先に板の間があって、さらに奥へ向かう障子越しに柔らかな朝光が揺れている。三間長屋の整った造りは、実に与五郎らしく、控えめながらも品があった

 勧められるままに、ちゃぶ台を挟んで与五郎の前に座った清太は、姿勢を正して、勘助とお常の事情を隠さずに話し始めた。

 与五郎は清太の分の茶を入れると、黙って頷きながら静かに話を聞いている。

「それで、薬種に詳しい与五郎さんのお顔が浮かんだんです。何か良い手立てがあればと思いまして」

 清太がひととおり話し終えると、与五郎は「ふむ」と短く息をついた。

「お前が和泉屋の手代から、浅草の大家になっていたのには驚いたが……まあ、それは置いといて、とりあえず話は分かった。要は店子の薬代の工面に難儀しているわけか」

 そう言って与五郎は目を細めると、顎に手を当てて暫し考え込んだ。その横顔に、かつての番頭時代の知慮と鋭さがちらりと覗く。

 少しして「ふむ」とまた小さく呟いた与五郎が棚に手を伸ばし、小さな帳面を取ると、ぱらりと(めく)り始めた。

「薬を安く手に入れるには、掛け売りを利かせるのが一番だ。だが掛けで買うには、それ相応の信用がいる。必ず払えるという証だ――お前なら分かるな?」

 番頭だった時の顔で、与五郎は手代であった清太に念を押す。

「……はい、保証人ですね」

 当然ながら、清太も承知している。商売に欠かせないのは、信用。信用がなければ、そもそも取引はしない。信用のない一見の客が取引するには保証人が不可欠だ。

「その通りだ。で、清太。お前はそれを引き受ける腹は、あるかい?」

 真正面から向けられたその問いに、清太は少しだけ背筋を伸ばした。

 保証人のことは、商人として十分に心得ているつもりだが、当事者として元・大番頭の口から問われると、重みが違う。

「……はい。私でよければ。他ならぬ私の店子のことですから」

 その返事に、与五郎は静かに頷き、やがてふっと目尻を緩めた。

「そう言うと思ったよ。お前は昔っから、そういう奴だった」

 湯呑みを手にしながら、そう苦笑するように笑った与五郎は、けれど次の瞬間、くいと口端を上げて強かな笑みを浮かべる。

「いいか、売れる恩は売っておけ。恩を売るのも返すのも、商人の大事な駆け引きだ。私も若い頃は、繋いだ縁に何度助けられたことか……。ただし人はよく見極めることだ。そこを誤ると後が面倒になる。覚えておきなさい」

 その厚みのある深い言葉に、清太は深く頭を下げた。

「ありがとうございます。肝に銘じまして」

 それに与五郎は一つ頷くと、脇に置いた帳面に書かれた店を指さした。

「掛け売りの話は私がつけておこう。この店ならお前の長屋からも遠くない。代替わりして五年ほどで、店主は若いが目が利く。心根も悪くない」

 そう言いながら、与五郎は手文庫から奉書紙(ほうしょし)と封紙を取り出す。

「一筆書いてあげるから、それを持って勘助やらと一緒に行ってきなさい。支払いの目処(めど)や期間も、無理のないように話を通しておくよ」

 与五郎の行き届いた心配りに、清太は胸を詰まらせながら、重ねて頭を下げる。

「恩義に思うなら……まあ、暫く茶に付き合っていけ。隠居の朝というのは、長くて適わんからな」

 冗談めかした声に、顔を上げた清太も「はい」と照れくさそうに微笑んだ。


 暫く、茶のみ話に花を咲かせてから、清太は腰を上げた。

 続けて与五郎も、慣れた所作で音もなくスッと立ち上がる。それは、足袋(たび)の裏を擦る音すらしない滑らかさで、その所作の見事さに、清太は溜息を漏らしそうだった。

「たまには顔を見せにおいで。用事はあってもなくてもいい。隠居は暇でね、腐ってしまうよ」

「はい。また伺います」

 頭を下げる清太に、与五郎は「よし」と短く頷いて、暖簾の手前まで見送ってくれた。

 外に出ると陽はすっかり昇って、小さな植木鉢の葉が、届いたその陽をのんびりと受け止めている。

 その穏やかな静けさを味わうように、清太は一度息を吸って背筋を伸ばすと、来た道を戻って日本橋を後にした。


 その日の夕方――。

 勘助とお常が小石川から戻る頃合いを見計らって、清太は長屋を訪ねた。

 ちょうど夕餉の支度時とあって、家々からは煮物や焼き魚の匂いが漂って、開け放った戸口の向こうで、忙しげな女たちの声が響いてくる。

 路地を奥に進んで、勘助の家の前まで行くと、ちょうどガラリと戸が開いて、清太を見たお常が「まぁ」と声を上げた。

 その声に勘助もすぐ後ろから現れて、二人揃って丁寧に頭を下げた。

「医者に行ったら、やっぱり脚気だそうで……」

「ええ、食べるもんだけじゃなく、他にも色々と気をつける事を教えてくれたんですよ」

 少しばかり肩を落とした勘助の横で、お常がホッとしたように微笑んだ。この先の目処を付けたことで、胸のつかえが一つ取れたようだ。

「それで、薬のことなんですが――」

 清太は二人に、元薬種問屋の知人に相談したこと、掛け売りの目処がついたこと、一筆と店の名を書いた封書があることを、順を追って説明した。

 勘助とお常は聞くほどに目を丸くし、互いに顔を見合わせ、目を潤ませる。

「すまねぇ、大家さん……もう何と礼を言えばいいか……」

「そこまで面倒をかけて……とんだご迷惑を……」

 何度も恐縮したように頭を下げる二人に、清太は微笑みながら首を振った。

「迷惑じゃありませんよ……大家ですから」

 スルリと、言葉が出た。

 思いのほか自然に口から出たその言葉に、清太は少し照れを覚え、誤魔化すように続けた。

「勘助さん、明日の朝にでもその薬種店に行ってみましょう。鳥越神社の近くですから、さほど遠くありません。代替わりして間もないようですが、いい店主だそうですよ」

 そう言い終えた途端、いきなり背後から大きな声が響く。

「ほらね! あたしの言った通りだ。やっぱり江戸患いだったろ!」

 斜め向かいのお勝が、いつの間にか戸口に立ち、鼻息荒く胸を張っていた。

 もう清太は驚かない。たとえ、ここから声が増えようとも……。

「そこなら知ってるよ! 鳥越神社んとこの代替わりした薬屋だろ。小さいけど評判がいいらしいじゃないか。いやぁ、よかったねぇ」

 やっぱり増えた……。お勝の隣のお浜だ。

 女二人の声に釣られるように、別の家からもひょこひょこと顔が増えていく。

「江戸患いにはね、ぬか漬けがいいんだよ」

「そうなのかい? お常さんとこは、いっつも塩漬けか醬油漬けだろ? じゃあうちのぬか床を分けてあげるよ!」

 なぜ人んちの飯の内容まで知っているのか……。清太は思わず顳顬(こめかみ)を揉んだ。

「うちのぬか床にしなよ! 美味くてあっという間になくなるんだよ」

「そりゃ食うもんがなきゃなくなるよ。うちのにしなよ、子供らが競い合って食べるんだよ!」

「子供は腹減ってりゃ何でも食うからね! うちのぬか床はちょっとその辺のとは違ってね……」

 あっという間に、路地は女たちの世話焼きの嵐が吹き荒れた。

 当の勘助夫婦はと言えば、縮こまりつつも、どこか嬉しそうに笑っている。

「豆もいいんじゃないかい? あたしは煮豆にはちょっと自信があってね……」

「切り干しはどうだい? うちのを分けてやるよ!」

 女たちの張り切った声が路地いっぱいに弾んで、清太はその勢いに少々呆れながらも、その頼もしくも騒がしいやり取りに胸が温かくなった。

「では、あとは頼みました。勘助さん、お常さん、今日はお疲れでしょうから、無理のないように」

 そう言い残して軽く頭を下げると、清太は収まる気配のない女たちの声を背に、夕暮れの長屋路地を歩いて家へと戻っていった。



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