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第四話 清太、店賃を集める


 伯父の徳兵衛が亡くなって、早いもので十日が過ぎた。

 清太はこの間、それはもう目が回るほど忙しい日々を送っていた。

 伯父の遺品の整理に弔問客の対応、地主への挨拶、残された帳簿の確認、そして近隣への挨拶回り――。

 気づけばあっという間に日は過ぎて、(こよみ)は神無月の末日(まつじつ)になっていた。

 月末は長屋の店賃(たなちん)の集金日。店賃は盆暮れ二回のまとめ払い、という長屋もあるけれど、伯父の長屋は毎月末に集金を行っている。

 清太は手早く朝飯を済ませると、徳兵衛が遺してくれた羽織を着込み銭袋を肩からかけて、路地奥の裏長屋へと向かった。腰には伯父から譲られた鍵束が下がっている。大切な物なので、清太は腰紐の端にしっかりと輪を通して、それを帯の中にぎゅうぎゅうと押し込んでいた。和泉屋の小僧時代に大事な巾着をスリにやられて以来、そうするのがほぼ癖になっていた。

 とはいえ、鍵はこの家にある帳面箱や道具箪笥(だんす)、町の消防小屋などのもので、正直、(かんぬき)どころか突っ張り棒すらない長屋に行くぶんには、本来まったく必要がない。けれど、新米大家としては、この鍵束と一緒にいると何となく心強いのだ。ついでに羽織も加わると、ちょっと大家らしくなった気分にもなれた。

 裏通りに面する表口を出てすぐ左に曲がれば、そこはもう長屋へ通じる狭い路地。日当たりが悪く、いっそうひんやりとした朝の路地を、清太は足早に奥へ進んでいった。


 短い路地を通り抜けると、六ツ半も過ぎた長屋には飯の炊けた匂いが漂い、井戸端にはすでに何人かの女たちが洗濯物を入れた籠を抱えて集まり始めていた。

 清太が始めに向かったのは、その井戸のすぐ横……左の(むね)の一番手前の家。

「集金はな、手前から左右交互に動きながら奥に進んで、決して逃がさねぇようにするのさ」

 と教えてくれたのは、挨拶回りに行った先の別の大家だ。

 その最初の家に住んでいるのは、代筆屋の文之進。手習塾(てならいじゅく)で読み書きも教えているという。

「ごめんください」

「はいはい……おや、大家さん」

 声がけをして軽く叩いた板戸を引けば、四十ほどの端整な顔立ちをした中年男が、文机から腰を上げた。

 その文机の脇には帳簿や巻紙が整理されて積まれ、手前の火鉢では、年季の入った鉄瓶がゆるく湯気を上げている。

「店賃の集金に参りました。私は――」

「桜屋清太さん、でしょう? 徳兵衛さんの甥御だと聞きましたよ。そうでした、今日は店賃の日でしたね」

 文之進は納得したように軽く頷くと、懐から巾着を取り出した。

「……亡くなった徳兵衛さんには恩がありましてね。行き場を失った私を置いてくだすった上に、つてを使って今の仕事も探して頂いて……。いい方でした。本当に残念でなりません」

 そう言いながら、文之進が巾着から取り出したのは、一朱金一枚と銭緡(ぜにさし)一本。

 きっと家賃のために用意していたのだろうそれを、清太は手早く確かめ銭袋に入れると、懐から懐紙を取り出した。

「文之進、一朱一枚に銭緡一、以上……っと、よし」

 素早く筆を走らせ、次に文之進の名が書かれた木板の「一と月満額」の欄に朱印をつける。

「では文之進さん、また来月」

 清太が会釈をしてそう告げると、文之進もまた柔らかい笑みを返してくれる。

「ええ、また来月。この先、奥に行くほど少々厄介な連中がいますが……まあ、清太さんなら大丈夫ですよ。頑張って下さい」

 ニコリとそんなことを言われて思わず「え?」と返しそうになったが、それをゴクンと飲み込んで、清太は戸口をくぐると、目の前の路地に足を踏み出した。

 と、バチリ! と、直後に路地の向かいにいた振売りの新吉と視線がぶつかる。

「ひぃっ……!」

 新吉はあからさまに肩を跳ね上げ、胸に抱えた風呂敷包みをギュッと抱きしめた。

「おおお、おう、大家さん……! きょ、今日はいい天気で……」

 明らかに挙動不審な新吉が、引き攣った笑みを見せる。……ちなみに空はどんよりとした曇り空だ。

 目を丸くする清太の前で、新吉は突如、クルリと背を向けると一目散に走り出した。

「待っ……!」

 清太が一歩踏み出した時は、すでに新吉は路地に飛び込んで――

「おぅぅら、どーこ行くんでぇ!」

「いでっ! いでででで……!」

 ――すぐさま、襟首を掴まれ引きずられるようにして戻ってきた。

「……源七さん」

 小柄な身体で悠々と新吉を引きずる名主の源七が「おぅ」と短く返事をして、清太の前にポイッと新吉を放り投げた。「ぐぇっ」という潰れた声と土埃が上がる。

「今日はおめぇの初めての月末だからな。来てみてよかったぜ」

 なあ、とドスを利かせて新吉を見下ろす源七の勢いに、逃げ道を塞がれた新吉が風呂敷包みを抱き締めて、訳も分からずコクコクと頷く。

「えぇと……新吉さん、店賃の集金です」

 地べたに座る新吉を覗き込むようにそう告げれば、新吉がススッと目をそらした。

「あ、その……俺っちこれから商いに……」

「丸分かりの嘘ついてんじゃねぇ!」

 ゴツン! と源七のゲンコツが飛んだ。とても痛そうな音が響く。

「商いだって言うなら、その風呂敷包み、見せてみなっ」

 頭を押さえて苦悶する新吉の膝から、源七が風呂敷包みを取り上げた。

「ちょ……っ! まっ……」

 何とも素早くそれに飛びついた新吉に、風呂敷の端が緩んだ。

 パサッ、カラリ……と包みから中身が落ちて、色めいた手ぬぐいやら、派手な(かんざし)やら帯留めが地面にばら撒かれていく。

「ああぁ……」

 新吉が悲しそうな声を挙げるが、すぐさま鬼の形相で仁王立ちする源七に口を引き攣らせた。

「こ……これには深い事情が……」

「何が深い事情だ。どうせ岡場所にしけこむつもりだったんだろうが。とっとと払いやがれ!」

 源七の言葉に、新吉はただモゴモゴと口ごもるばかり。

「清太、舐められてんじゃねぇぞ。まずはこういう奴からとっ捕まえて、キッチリ取り立てるんだ」

 清太はそれにしっかりと頷いて、不貞腐れたように黙る新吉に顔を近づける。

「新吉さん、店賃を」

「…………」

 新吉が、上目遣いでそぉーっと清太を見上げてきた。それにニッコリと笑ってズイッと手を差し出せば、新吉がまるで縋るようにその手を握ってくる。

「そうじゃない」と手を振りほどく間もなく、新吉は勝手なことを言い始めた。

「だ、だって……いま家賃取られて行けなくなったら、下谷のお(つた)ちゃんや、お(なみ)ちゃんや、お(えん)ちゃんたちが泣くんだよぅ」

「そうですか。岡場所の回数を減らすか、頑張って稼いでください。店賃!」

 大店の奉公人だった清太は岡場所など行ったことがない。そんな無駄な時間も金もないのが、ごく普通の奉公人というものだ。だから新吉に同情する気など微塵も湧いてこなかった。

 キッパリとした清太の言葉に、新吉はようやく諦めたのか、グズグズと着ていた小袖をゆるめて、プックリと膨らんださらしの下から巾着袋を引っ張り出した。

 渋々といった風に新吉が取り出したのは、ずらりと一文銭を通した銭緡が四本と、バラの一文銭に四文銭。

「おめぇ、一朱くれぇ持ってんだろう。稼ぎは悪くねぇんだから……」

 呆れたような源七の口調に、「だって、岡場所でビタ銭なんか出したら格好悪いだろ……」と、新吉は口を尖らせる。

 まあ、清太としては店賃五百文が揃っていれば何も文句はないので、しっかりと数えた銭を袋に入れて、「また来月」と言い残して、源七とともに長屋の棟へと引き返した。

「新吉、銭緡四、四文銭二十、一文銭二十、逃亡注意、最優先に集金」

 懐紙の覚え書きには、そうしっかりと書き残した。

 まだ集金したのは二人だというのに、何だか妙に疲れを覚えたが、あと十八件残っている。清太は斜めがけした銭袋の肩紐をしっかりと握って、次の家の板戸を叩いた。


 左側の二軒目、右側の二軒目、次は左側の三軒目……と順繰りに回って、清太は思いのほか順調に店賃を集金していった。

 もちろん集金の際には、「最近は世知辛いからよぉ、食っていくのも大変だよなぁ」とか、「子供が病弱だからさぁ、もう切り詰めて、切り詰めて……」とか、遠回しに同情を買う台詞を投げられたりするのだけど、食うのが大変な割に別々の酒屋の屋号が入った貸し徳利が三つもあったり、子供が元気いっぱいに走り回っていたりと、そんな感じなので清太は特に何をするでもなく、淡々と仕事をこなしていった。

 鍵束とは反対側の腰に下げた木札の束をパラパラとめくれば、もうすぐ半分。次で九件目だ。まだ半分もいっていないというのに、肩から提げた銭袋はすでにズッシリと重くなっている。それもそのはず、ほとんどが一文銭や四文銭なのだから、目方(めかた)も嵩も張るのは当然である。

 奉公していた大店では、銭貨は見ないことはなかったけれど、勘定のほとんどは一分や二分の金で、細かい銭と言えば一朱金がせいぜいであった。なので、清太は重くなる一方の銭袋に、「大家は体力勝負でもあるのだな」などと、妙な感心をしていた。

 九件目の板戸を叩いて中に入ると、強い煙草と酒の匂いが鼻をついた。薄暗い家の中には、男が畳の上で大の字になって寝ている。

「おぅ、なんでぇ……」

 何やら不機嫌そうなダミ声の主は、起き上がる気がなさそうだ。

 とりあえず起きていることは分かったので、清太は気にすることなく声をかけた。

「喜八さん……ですよね。店賃の集金に参りました」

「あぁん?」

 大の字になった男が頭をちょっと上げて、「ああ、新しい若造大家か」と、小上がりの手前に立つ清太に、煩わしげな視線を向ける。

「銭ならねぇよ……昨日、全部スッちまった。くっそ、途中までは良かったんだがなぁ……。ってことで、ちょっと待ってくれや」

 その言い草に溜息をつきたくなったが、清太はそれを(こら)えて、できるだけ穏やかに問いかける。

「ちょっとって、どれくらいです?」

「おぅ、昨日は少しばかしツイてなかっただけだからよ。今夜にでもガツッと取り返して、すぐに耳揃えて払ってやらぁ」

 その啖呵に清太は「それ絶対に駄目なやつ……」と目を半目にしながら、そっけない口調で即座に言い返した。

「つまり、今日賭ける金はあるんですね。ではそれで店賃をお支払いください」

 淡々と言い放つと、畳に寝転んだ喜八が、ギョッと目を見開いた。

「なっ……なに言いやがる!」

 ガバッと起き上がった喜八が、湯呑みを蹴散らしながら胡座をかいた。

「おい、よぅく聞きやがれ。博打ってのはなぁ、流れってもんがあんのよ。ここで今日の銭を店賃に回してみろ。せっかくの勝てる流れを棒に振っちまうだろうがっ」

「……その流れとやらで、昨日全部スッたんですよね?」

 痛いところを突かれ、喜八がグゥと黙り込んだ。

「つまり、今ある銭は負け銭になる可能性が高い、ってことですよね」

 目をいっそう細めて断言した清太に、喜八が慌てたように言い訳を始める。

「いや、違ぇんだよ。昨日はたまたま、横にいた奴がツキを持って行きやがってだな……」

「持って行かれる程度の運なら無いも同じです! はい、店賃。出して!」

 バッサリと切り捨てられて、喜八は頭をかきむしった。

「だぁぁああッ! 今夜取り返すって言ってんだろうがよ! ちぃとくれぇ待てねぇのか、おめぇは!」

 ばたつかせた足が湯呑みに当たって、ゴロゴロと畳の上を転がった。その直後、

「まぁったく、往生際が悪いったらないねぇ! その台詞、何度目だい!」

 清太の背後から、呆れたような女の声が飛んできた。その声に振り向けば、開け放った戸口の向こうで、洗濯物を抱えた女たちが、こちらを覗き込んでいる。

「今日取り返す、明日取り返すって、よくもまぁ飽きもせず毎回同じことが言えるもんだよ」

「そうそう。盆の頃も『もうすぐドーン稼ぐ』とか何とか言って、スッテンテンになってたじゃないか」

「あんた昨日も『今日はいける気がする』って言ってたろ!」

 女たちの容赦ない追撃が飛び、喜八は耳まで真っ赤になって怒鳴り返す。

「う、うっせぇぇ! 女子供は黙ってろい! こちとら勝負師なんだ、勝負師には勝負師の流儀ってもんがあるんだよ!」

「では、店賃は長屋の流儀で払ってください。住むときのお約束ですよね」

 清太の容赦ない切り返しに、喜八は言葉もなく顔を真っ赤にして歯ぎしりをした。

 しばし沈黙の間があって、スイと小上がりに腰掛けた清太が、身を乗り出すようにして喜八に声をかける。

「博打を止めろとは言いません。けれどまずはお約束を守って頂かないと。決め事を守ってイカサマ無しが、勝負師の筋でしょう? さ、喜八さん……」

 ニッコリと笑った清太が、畳の上に手を差し出した。

 しばらく喜八は唸っていたが、ついには観念したのか、大きな大きな溜息をついた。

「ちっ、しゃーねぇ……。払ってやらぁ」

 吐き捨てるようにそう言って、喜八は雑に畳んでいた布団の間から、潰れた布袋を引っ張り出す。そして、その中から少し汚れた一朱金一枚と、四文銭や一文銭といった銭貨をジャラリと取り出した。

「おぅ……これで五百文。持って行きやがれ」

 清太が素早く指で数えれば、確かに五百文。間違いない。

「ふん、これ見よがしに数えやがって。男にゃ二言も三言もねぇんだ。出すっつったらキッチリ出すに決まってんだろ」

 鼻を膨らませて胸を張る喜八に、「なら最初から素直に出してください」と言いたくなったが、清太はそのまま黙って木札に朱印を押した。もちろん懐紙にも「博打・要注意」と記すのを忘れない。

「はー……しゃあねぇ。今日は小せぇ勝負で済ませるかー」

 ボリボリと頭をかいてボヤく喜八をよそに、清太は小上がりから腰を上げて小さく頭を下げた。

「では私はこれで」

「おぉう、来月こそはドーンと景気よく払ってやっからよ」

 虚勢半分、本気半分で胸を叩く喜八に「楽しみにしています」と苦笑いを浮かべて、清太は喜八の家を後にした。


 その後はまぁまぁ順調に回収は進んで、と同時に銭袋もズッシリと肩に食い込んで、明日から霜月だというのに、清太は小袖の下にじっとりと汗をかき始めていた。

 なんせ喜八の家から後、奥に行くほど支払いの銭に一文銭の割合が増えていくのだ。最初は確かに五百文揃ってれば文句はないと思っていた。けど、ここまでくると文句はなくてもボヤくくらいは許して欲しい。

 あの浪人の村瀬又右衛門に至っては、銭緡にしていないバラの一文銭を五百枚、ザルに盛って得意げに差し出してきた。

 思わず「なんで全部バラ銭……」と遠い目をしかけたが、鍋釜のほとんどない土間や、寒くなってきたというのに半纏(はんてん)も火鉢もない部屋の様子を目にすれば、清太はただ黙って必死に金を数え続けるしかなかった。

「村瀬さんね、どんなに食い詰めても腰のものだけは絶対に質に入れないの。やっぱりお侍さんなんだねぇ」

 次の家へ移動する清太に、ポツリとそんなことを囁いたのはどこかのおかみさんだ。清太は何だかちょっと切なくなった。

 そうして今、十六件の集金が終わって、木札は残り四枚。

 清太は銭袋が食い込む肩を軽く揺すって、左の棟の奥から二軒目の板戸の前に立った。腰の木札を確かめれば「勘助・お常」とある。初老の夫婦世帯のようだ。

 戸を叩き、声をかければ、中から返ってきたのは女の声。板戸を開けると、すぐ目の前の土間に、なるほど小柄な初老の女が立っていた。

「あら……ええと大家さん。こんな朝早くから何……あっ」

 清太の顔と重そうな銭袋を見て、お常が言葉を詰まらせた。

「はい、大家になりました清太と申します。店賃の集金に参りました」

 そう言って会釈する清太に、お常は所在なさげに土間に目を泳がせると、「お茶でも……」と清太を小上がりへと促した。

 そろそろ肩が痛み始めたのも相まって、清太はありがたく小上がりに腰を下ろす。小上がりの板間に底をつけた銭袋が、ゴトン、ジャラッと銭の音を立てて、清太の肩が束の間だけ重さから解放される。

「あのね……大家さん」

 コトッと小上がりに湯呑みを置いたお常が、どうにも言い辛そうに口ごもった。

「その……ほんの少しだけ、待って……もらえないかね」

 まるで消え入りそうな風情で、お常が「すまないね……」と膝の手ぬぐいを握る。

 奥に目を向ければ、畳に薄い布団が敷かれ、勘助らしき初老の男が横になっていた。男は清太の視線に気がついたのか、ヨロリと床から半身を起こした。

「勘助さん、何か病を患ってらっしゃるのですか」

 清太の声がけに、畳に肘をつき枕元に手を伸ばした勘助は、湯呑みを傾けて喉を湿らせた。その湯呑みを握る手が、小さく震えている。

「いや、ただの疲れよ……すぐに(だる)くなってなぁ。年ぃ取るとあちこちガタがきていけねぇ」

 苦笑いを浮かべた勘助の手から、お常がそっと湯呑みを受け取った。

「最近食欲まで落ちちまって……前は白飯を大盛りで何杯も食べてたのに……」

 眉を下げて勘助の肩に半纏をかけるお常は、気重な様子で言葉を続ける。

「こんなんだから、この人の経師(きょうじ)屋の仕事も減っちまってね。あたしも雑巾縫いの内職を増やしたんだけど……」

「……すまねぇ。手がうまく利かなくてな。足も蹴躓(けつまづ)くことが増えて……。情けねぇ、年は取りたくねぇなあ。ハハハ……」

 弱い笑みをこぼす勘助に、ついつい清太の眉も下がっていく。

「医者にはかかったのですか?」

 清太の問いに、二人が緩く頭を横に振った。

「前は三つ四つもこなしてた仕事が、今じゃ同じ時間かけて一つ仕上げるのがやっとだ……。手間賃が減って食うのが精一杯よ。高い薬に回す金も暇もねぇ……」

 これを聞いてなお店賃を取り立てるほど、清太は鬼でもなければ図太くもない。これで取り立てたら、ただの因業(いんごう)大家だ。

 清太は肩を寄せ合う二人の気持ちを引き立てるように、できるだけ誠実に柔らかく声をかけた。

「事情は分かりました。では今月は――」

「ちょっと、それ江戸(わずら)いじゃないかい?」

 いきなり女の声が割って入った。

 清太だって大概、ここまでの十六件で学んでいる。高確率で誰かしら唐突に話に混じってくるのだ。なのでもう何も驚くことなく振り返れば、やはりというか、開いた戸口に長屋のおかみさんが立っていた。今回は厠帰りらしいお勝だ。

「だって、手足が痺れて、やたら怠くて、食が細くなったんだろ? あたしの知り合いにそっくりだよ。その人も白米が大好物でねぇ。そりゃあもう、この世の終わりってくらい騒いじゃってさぁ。んで、医者にかかったら江戸患いだったんだって。今じゃケロッと治ってピンピンしてるけどね!」

 今の今までの沈んだ空気が吹っ飛ぶような勢いで、お勝が(まく)し立てる。

 一体どこから聞いていたのか……と、長屋の女たちの地獄耳に(おのの)きつつ、清太はいわゆる江戸患い……脚気(かっけ)について記憶を巡らせた。

 奉公人だった頃、和泉屋で出る夕飯は、月の半分ほどが雑穀の入った飯だった。それに小僧の誰かが「もっと白い飯が食いてぇなぁ」と寝床で呟いたのを聞いた手代の兄さんが「ばぁか、白い飯ばっか食ってっと脚気になるんだぞ。飯があるだけ有り難く思いやがれ」と(たしな)めていた。

「そういえば、あんた。寺町の仕事が終わってから、蕎麦を朝飯にすんのをやめたんじゃなかったかい?」

「お、おぅ。寺の仕事ん時ゃ、出先で蕎麦すすって身体あっためて気合い入れてたが、去年終わってからは家で湯漬けのどんぶり飯かっこんで……」

「それだよ!」

 お勝が鬼の首を取ったように声を上げた。

「あたしが悪いんだ……。勝手の違う町方で頑張ってるあんたを、少しでも力づけられたらと……好物だからって馬鹿みたいに炊いて……」

「何言ってんだ、お常……。俺ぁ残りの老い先を、おめえと少しでも長くいたくて、時間の読める町方の仕事に変えたんだぜ? 後悔なんざ、しちゃいねぇよ。飯だっておめぇの炊く飯が旨すぎて俺が勝手に食っただけだ。ぜぇんぶ俺が決めたこった。おめぇはなんも悪くねぇよ」

「お前さん……」

「お常……」

「ちょいと! なにいい雰囲気になってんのさ。今はそれどころじゃないだろ!」

 お勝が見つめ合う二人を一喝して、声をかけていいものか躊躇(ためら)っていた清太に視線を飛ばす。

 清太はその視線にコホンと小さく咳払いをして、老夫婦に向けて改めて口を開いた。

「ええと、はい。事情はよぅく分かりました。なので店賃は二ヶ月、お待ちします。払える分ができたら、その分を少しずつ渡してください。その方が後々楽ですからね。それと勘助さんは一度きちんと医者にかかって、お薬と食事でしっかり身体を戻しましょう」

 清太の言葉に、勘助夫婦は手を取り合ったままホッと表情を緩めた。

「でもさ、医者も薬も高いだろ。病を抱えちまった貧乏長屋の夫婦に、そんなまとまった金があるはずないじゃないか」

 ズケズケとした物言いながら的を射たお勝の言葉に、清太は「確かに……」と頭を抱える。

「おう、金のいらねぇ医者なら小石川にあるぜ。こっから上野の山を過ぎて半時ばかり先だ」

 ズイッと戸口から遠慮なく入ってきた源七が、そう言ってニッと口端を上げた。その源七の手には棒きれが三本握られており、後ろでは子供が三人、頭を押さえて悶えている。どうやら性懲りもなく棒を振り回して、源七に雷を落とされたようだ。

「薬も、知恵を絞りゃ何とかなんだろ。清太、大家と言えば親も同然。ここが力の見せ所だ。おめぇが何とかしてやんな」

 できるよな? と暗に念押しするような源七の視線と言葉に一瞬戸惑いを覚えたものの、清太はすぐに「知恵を絞る……ですか」と、顎に手を当てて考えを巡らせ始めた。

 そうして思案すること暫し、清太は和泉屋の手代時代に繋げたツテに思い至り、思わず膝を叩いた。すぐさま勘助夫婦に顔を向ける。

「勘助さん、お常さん。薬については薬種関係に明るい方に心当たりがあります。明日にでも訪ねてみますから、お二人は先に小石川で診てもらってください」

 迷いなくそう告げれば、勘助とお常は顔を見合わせて……そして清太に揃って何度も頷くと、深く頭を下げた。

「あとはお常、おめぇの踏ん張り次第よ。亭主に甘ぇ顔ばかりしちゃなんねぇぞ。麦飯でもかて飯でも、尻ひっ叩いて食わせるんだぜ」

 源七が土間から(げき)を飛ばせば、お常が目を潤ませながら「ええ、ええ。金輪際(こんりんざい)、白い飯など食わせるもんですか……」と手ぬぐいを強く握り締める。それに勘助が「そんなぁ……」と情けない声を出したものだから、土間にいた全員から笑い声が上がった。

 

 そうして、清太は勘助とお常の家を後にして、残り三件を回る。もちろん懐紙に「勘助に脚気の疑い、二ヶ月分猶予、薬の件で日本橋に行くこと」と記すのは忘れず、木札の「延滞」に朱印を押した。

 最後の三件を、まあ順調とまでは言えないものの無事に集金して回って、どうにか清太は最初の大家の大役を越えることができた。

 清太が集金している間、長屋のあちこちで小言を言ったり、男どもを締め上げていた名主の源七は、清太の集金が無事終わったのを見届けると、「じゃあな」と手を挙げてあっさりと帰って行った。

 清太はそんな源七を頭を下げて見送ると、パンパンに膨らんだ銭袋を抱えて自宅へと戻った。路地を出てすぐの自宅が、本当に有り難いと心から思った。

家に入って閂をかけ、小上がりを上がり提げていた銭袋を外せば、肩が軽くなったことも相まって、清太の口からホゥッと安堵の溜息が漏れる。

 畳敷きの六畳間には、徳兵衛が遺した長火鉢や行灯(あんどん)、そして年季の入った帳場机などが置かれ、生前の徳兵衛の、飾り気のない真面目で誠実な人柄と仕事ぶりが窺える。

「よし!」

 清太は気合いを入れるように声を上げ、肩をぐるっと回す。

 まだまだこれから、やることはあるのだ。持って帰った木札や懐紙を元に帳簿をつけ、銭袋の金を数え直して仕分けなければならない。手代の頃に扱っていた帳簿とは勝手が違うので、最初は少しばかり骨が折れるだろう。心してかからねばならない。

 清太は一つ頷くと、まずは最初の段取りとばかりに長火鉢から鉄瓶を持ち挙げると、茶を沸かすべく、足取り軽く土間へと降りていった。







換算レート:1両4分16朱

一両=銀60匁=6000~6500文

一分=1/4両=約1500~1625文

一朱=1/16両=約375~406文=約400文ってことで。


・江戸時代は米価や金銀銅や景気によって日々交換レートが変動してたそうです。同じ1両でも何杯食えるかはその時々で違った…という感じ。(日銀さんがそう言っておりました)

・一文は、計算の基準によって違ってくるのですが現代日本円に換算すると、まあ12~20円くらい。

・銭を紐に100枚通したものを銭緡ぜにさし、1000枚通したものを一貫文といいました。銭緡には実は96枚しか一文銭が通ってなくて(九六銭)、差額の4文は手数料(切賃/打賃)だったらしいです。

・一分銀等の銀貨は天保年間以降に製造されたので出てきません。

・1文銭の1枚重さ=1もんめ=3.75g(今の5円玉と同じ重さ)。なので500文すべてを1文銭で出された場合、1件で3.75g×500枚=1,875g…1.8kgの重さになちゃいます。それが何件も……。重いです。

・長屋の土地は地借…要は借地で、母方の血縁の地主さんから借りております。




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