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第三話 清太、怒号の中に立つ


 裏通りから路地に入ると、喧噪はますます激しくなっていった。

 足を進めるにつれ、清太の胸には何やら嫌な予感がふつふつと湧き上がってくる。

 だって、耳に飛び込んでくるこの騒ぎときたら、どう聞いたって只事じゃないんだから。

「誰が悪いってんだい! 冗談じゃないよ!」

「なにすんだ、この野郎!」

「ちょっと、それはうちのだよ! 勝手に触んじゃないよ泥棒!」

「なんだとぅ!」

「うわぁぁーん!」

 狭い路地を抜けた途端、清太はあまりの光景に息を呑んだ。

 物干しが三本、石の土台ごとバッタリと長屋の路地に倒れている。その下には洗濯物が幾重にも重なり、路地を塞ぐように泥にまみれて広がっていた。

 すぐ脇には蓋の割れた道具箱と散乱した大工道具。さらに路地の真ん中を通るどぶ板の一枚がバッキリと割れ、石の土台がその上にゴロリと転がっていた。

 そしてそのど真ん中では太い棒きれを抱えた小さな子供が大声で泣きじゃくり、その周囲では住人同士が怒鳴り合っている。

「どうしてくれんだい! 洗い直しじゃないか!」

「せめぇ場所で、棒っきれなんざ振り回させんじゃねぇよ!」

「あたしばっか悪いってのかい、冗談じゃないよ!」

「ちゃんと見とけって言ってんだよ!」

「うわぁぁーん! うわぁぁーん!」

 騒ぎの中心は、どうやら三人の住人たちのようだ。

「そもそも倒されるほど出張らせてんじゃねぇ! だからこうなんだよ!」

「うちの人数分に、内職の繕いもんも入ってんだよ! しょうがないじゃないか!」

「仕事道具なんだぞ! ガキの玩具とはわけが違うんだ、弁償しやがれこの野郎!」

「怒鳴り散らすんじゃないよ! そんなにお大事なら、家ん中に仕舞っときな!」

「なにおぅ!」

「うわぁぁーん! うわぁぁーん! うわぁぁーん!」

 ――なるほど、子供が棒を振り回して、洗濯物が出張ってて……いや違う、物干しが倒れて、道具箱に当たって……えぇと……。

 清太は懸命に状況把握に努めるが、とにかく飛び交う怒号と、強烈な光景でうまくまとまらない。そうこうしているうちに、奥から現れた浪人がいっそう大きな声で怒鳴り始めた。

「なんと! 拙宅(せったく)の前のドブ板が壊れているではないか! この粗忽者(そこつもの)めっ!」

「うわぁーん! うわぁぁーーん! う……ぐっ、ひぐっ」

 面と向かって怒鳴られた子供は、泣き叫びすぎて引きつけすら起こしそうだ。

「ちょっと! その板はこないだ、あんたが酔っ払って踏み抜きかけたとこだろ、全部うちの子におっ被せるんじゃないよ! ほとんどあんたのせいじゃないか、この飲んだくれ浪人!」

「なっ……無礼者! そこに直れ!」

「直るもんか! 切れるもんなら切ってみな」

 ――えぇと、物干しが倒れて、土台の石がドブ板を割って……いやでもそれは、元々痛んでて……。

 清太はどうにか言い合いの内容から、騒ぎの全貌を掴みつつあった。とにかく今日から自分は大家で、なんとかこの場を収めないといけないことだけは確かだった。挨拶すらまだだとか、そんなことを言っている場合ではない。

 とにかく何とか場を収めようと清太が足を一歩踏み出した時だ。

「やっぱり前からあの家の洗濯もんは出張りすぎだと思ってたんだよ」

「そうそう、あんだけ広げてて、ひとっ言もないんだからさぁ」

 周囲の女たちがまるで煽るように口を挟み出した。それに洗濯物を倒された家の女が、すかさず反撃する。

「仕方ないだろ、洗いもんが多いんだよ! なんでうちにばかり文句言うのさ、悪いのはあっちだろ、こっちは迷惑かけられてんだ! ちったぁ考えな! よく動くのは口だけかい!」

「なんだってぇ?」

「ああ、うるせぇ! とにかくこの邪魔な洗濯もんを退かしやがれ! ただし俺の大事な道具には指一本触んじゃねぇぞ!」

「はっ、ご大層なこった! あ、ちょっと! 私の腰巻きに触んじゃないよ! この助平!」

「なんだとぅ!」

「うわぁぁーん!」

 あちこちで誰かが誰かを睨みつけ、男たちは腕をまくり、女たちは眉を吊り上げ、子供は再び大声で泣き始める。

 ――ど、どうしたらいい……?

 もはや、誰が加害者で誰が被害者なのか判別もつかない。けれど、今にも取っ組み合いになりそうな険悪な状況がまずいことだけは分かった

 ――行かなきゃ……大家として、ここは何とかしないと!

 清太は自分を奮い立たせるようにグッと口を引き結ぶと、繰り広げられる修羅場の真っ只中へと足を踏み出した。そして大きく息を吸い込むと、できる限り大きな声を張った。

「あ、あのっ……」

「ちょっと! 踏んでるよ! その汚い足をどけな!」

「うるせぇ、道具が先だ! ガタガタ抜かすな!」

「黙れ! さっさと退かさぬか、見苦しい! 邪魔で歩けたものではないわ!」

「見苦しいのはあんただよ! 酒抜いて出直してきな!」

 …………。

 清太がもう一度息を吸って声を張ろうとした、その時――。

「おっ、なんでぇ、なんでぇ。面白そうなことになってるじゃねぇか」

 背後からヌッと現れたのは、天秤棒を担いだ若い男。

「ひゃー、こりゃひでぇや」と言いつつ、まるっきり他人事で、何だかとても楽しそうだ。

 そうこうしているうちに、言い合いはどんどん過熱していく。

「だいたい子供の躾がなっちゃいないんだよ!」

「はぁぁ? こないだ(かわや)の戸を壊したのは、どこんちの鼻垂(はなた)れでしたかねぇぇ。あんたに言われる筋合いはないよ!」

「そーだそーだ! 筋合いはねぇぞー」

「あんたの子もいただろうが! 無駄に子供ばっか作ってると、物忘れが酷くなるのかい!」

「そーだそーだ! 子作りばっかしてんじゃねーぞー」

「なんだってぇぇぇ!」

 若い男は、火に油を注いでは清太の後ろにサッと隠れる。実に姑息だ。

「ちょっとあんた! さっきから何なんだい! 変な茶々を入れないでおくれ!」

「そうだよ! 横から口を挟むんじゃないよ、黙ってな!」

 女たちが揃ってキッと清太を睨みつけた。

「え……あっ、い、いや私じゃな……」

 見事に裏返った清太の声に、女たちは呆れたように顎を上げて、小さく鼻を鳴らした。

「はっ、どこの兄さんかは知んないけど、邪魔すんじゃないよ、下がっときな!」

「そーだ、そーだー」

 若い男は、いつの間にやら天秤棒ごと井戸の方へ移動していた。

「おう! こちとら道具箱が壊されてんだ! 関係ねぇ奴はすっこんでろ!」

 大工らしき男が、ミノやら金槌を手に、清太に怒声を飛ばす。

 その大工の言葉に、清太の顳顬(こめかみ)がピクリと震えた。

 寸の間、拳を強く握り締めた清太が、大きく大きく息を吸い込む。

「関係なくありません!」

 一気に吐き出されたそれは、路地が揺れんばかりの大音量。一瞬にして怒鳴り合いはピタリと止まり、その場のすべての視線が一斉に清太へ集まった。

 そんな中を、清太は勢いのままに騒ぎの中心へと歩き始める。

「わ、私は亡き徳兵衛の甥の清太と申します! 徳兵衛の遺思を継いで、私が大家を引き継ぎました! ですから、どうか皆さん。まずはお話を――」

「あんたが新しい大家だって?」

「徳さんの甥?」

「こりゃ、ずいぶんと若けぇな」

「確かに葬儀にいたような、いないような……」

 静寂も束の間、ワッと上がった住人らの声に、清太の声は容易くかき消されてしまった。

「大家だってんならさ、この騒ぎをどうにかしとくれよ」

 誰かが発したそんな一言に、「思い出した」とばかりに再び騒ぎ始めたのは、騒動の当事者たち。

「おい、俺の道具箱、弁償させてくれよ!」

「ドブ板を早く直さぬか! 大家持ちであろう!」

「うちは洗濯もんをやられた側だよ! きっちり落とし前つけとくれ!」

「うちばっかりが悪いんじゃないからね!」

「うわぁぁーん!」

「ちょ、ちょっと待って……順番に……」

 いちどきに詰め寄られて()け反りながら、清太は必死に足を踏ん張り、彼らを落ち着かせようとする。

 と、その時だ。

「おいおい、いつまで騒いでるんだい!」

 路地口から、ビリビリと響くような低い声が響いてきた。

 住人たちが一斉に道を開ける中を、堂々たる足取りで歩いてくるのは、名主の源七。

 その小柄な身に威厳を(まと)わせ、射貫くような視線で清太を見据えながら、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。

「まったく、なんて騒ぎだい。清太、おめぇの長屋だろう。大家としてさっさと収めやがれ」

 清太の正面で腕を組んだ源七が、凄みを利かせながら低く言い放った。

 清太には返す言葉もなく、ただ頭を下げるしかない。

「ほら初仕事だろう。やってみな」

 ボソリと、清太だけに聞こえる声量で源七が呟く。

 その言葉に顔を上げた清太は、ゴクリと一つ喉を鳴らして、小さく頷きを返した。

 周囲に視線を巡らせば、今は怒鳴っている者は一人もいない。けれど各々の顔は明らかに怒りに満ちて、いまだ火種はしっかりと(くすぶ)っているようだ。

「えぇと皆さん、まずはいったん落ち着きましょう。それから……」

 火種を沈めるように、清太はゆっくりと話し始めた。が、その途端、

「落ち着け? 落ち着いてられるかってんだ!」

「あたしゃ洗濯し直しなんだよ! 皆に言って手伝わせとくれ!」

「いや、ですから……」

「うちの子じゃない、出張ってた洗濯物が悪いんですよ!」

「まずはドブ板だ、拙宅の前のドブ板を直せ!」

 あまりの勢いに清太は思わず後ずさる。話がまったく進まない。清太は頭を抱えたくなった。

 その時、騒ぎに加わってなかった年配の女が一歩前に出てきて、清太に詰め寄る住人たちに声を張る。

「ちょいと、そんな一方的に(まく)し立てたら可哀想だろ。聞けば亡くなった徳さんの甥っ子だって言うじゃないか。少しは兄さんの話を聞いてやんなよ」

 すると、それに別の女も声を上げた。

「そうだよ。徳さんがいなくなって気が立ってんのは分かるけどさぁ、継いだばかりの兄さんに詰め寄って、みっともないと思わないのかい? まるで八つ当たりじゃないか」

二人の(たしな)めるような物言いに、怒鳴っていた連中が気まずげに視線を逸らした。周囲からも「確かに……」やら「兄さんを怒鳴りつけるのは違げぇよな」といった声が上がり始める。

「あ、ありがとうございます」

 思わず女たちに礼を言うと、「いいのよぅ」とばかりに手を振られた。

 とりあえず、多少は剣呑な雰囲気が和らいだので、清太はあらためて目の前の四人を見やった。商人上がりの清太にできるのは、目の前の人たちに向き合って気持ちを汲み上げること。

 まず清太は、一番怒鳴り声が大きく居丈高で、けれど解決が最も簡単な、浪人の真正面に立つと、しっかりと目を合わせた。

「お侍様、先ほど皆さんに名乗りましたが、私は清太と申します。今は屋号の桜屋を名乗っております。まずはお名前をお伺いできますか」

 存外に真正面からかけられた丁寧な口調に、武士である浪人は思わず背筋を伸ばす。

「う、うむ。拙者の名は村瀬又右衛門(むらせ またえもん)である。して、ドブ板のことだが……」

「はい、ドブ板が物干しの土台の石で割れてしまったのですね。本日中に取り替えますので、少々お待ちください」

 長屋のドブ板は大家の管理下。これはド素人の清太でも知っていることだ。そして伯父の家に替え用のドブ板が置かれているのを、清太は見たことがあった。

「そうか! うむ、若いながら殊勝な心がけである! なるべく早く頼むぞ、大家殿!」

 清太の対応に満足したのか、打って変わって上機嫌となった村瀬は、胸を反らせると大股で家に戻っていく。まずは一人目を卒なく収めて、清太はホッと息を吐いた。

 そんな清太に、「次は自分だ」とばかりに成り行きを見ていた三人が、ズイッと身を乗り出してくる。その中で、清太は小さな子供を腕に抱えた女に目を向けると、その前に一歩足を進めた。

 それに残り二人が口を開こうとするものの、なぜかそのままパクリと口を閉じてしまう。もちろん清太の後ろで源七が睨みを利かせているせいだが、今の清太には気づく(よし)もない。

「おかみさん、私は清太と申します。お名前を教えて頂けますか」

 女は先ほどまでの不満を残した顔で、いまだグズグズと鼻をすする子供を軽く揺すった。

「あたしの名はお浜、この子は三太だよ」

「ではお浜さん、三太と一緒に倒れた竿を戻して、そちらの……竿を倒されたおかみさんの洗濯物を集めるのを手伝って差し上げてください。どちらも三太と一緒に、です」

「なんで、あたしが……っ」

 清太の言葉にお浜がクワッと口を開きかけるが、続く清太の言葉がそれを黙らせた。

「たとえ洗濯物が出張ってたとしても、倒していいことにはなりません。それに下手したら三太は大怪我をしたかもしれないんですよ? そうなったら、一番可哀想なことになるのは三太だ」

 母一人、子一人の片親家庭のお浜にとって、三太はやんちゃでも可愛い我が子だ。そんな我が子に何かあったら……と思い至って、お浜の勢いは急速に(しぼ)んでいく。

「自分のしでかした始末を自分と母親がつけるとなれば、今後三太も気をつけるでしょう? 子供は母親が大好きなのですから」

 ね、とお浜の腕の中に目をやれば、鼻を真っ赤にした三太がコクコクと頷いた。子供のためと言われれば、もうお浜はこれ以上意地を張ることができなくなってしまった。

 清太の周囲では「ほぉ」と感心する者や、ウンウンと頷く者たちがチラホラ見られる。

 一人目、二人目をどうにか収めて、残るは洗濯物を台無しにされたおかみさんと、道具箱を壊された大工だ。

 清太はまず、おかみさんの前に立った。そして先ほどと同じく挨拶から始めようしたのだが、

「あたしの名前はお勝、旦那は善次。(たが)屋の職人だよ。子供は六人。あんたは新しい大家の清太さんだろ。屋号は桜屋だっけ。聞いてるよ」 

 スルスルと先を越されてしまった。しかも、

「この隣の大工は六助。四十間近の独り身の酒飲みさ」

 などと、大工の身元まで明かしてくれた。隣の六助が「俺ぁ、まだ三十六だっ!」と抗議するが、どこ吹く風だ。

「で、大家さん。この洗濯物の始末、どうつけようってんだい? 中には内職で預った半襟(はんえり)ももあるんだ。あたしにとっちゃ大事な商売もんだよ。どうすんのさ」

 腰に手を当てたお勝が顎で示した先には、なるほど古着らしき柄物の半襟が、他の洗濯物に混じってベチャリと落ちている。

「おい、商売もんならこっちも同じだ」

 そこに、六助の怒りを押し殺した声が割って入った。

「大工にとって道具は命。箱を壊しただけじゃなく、道具まで吹っ飛ばされたとなりゃ、さすがに目は(つむ)れねぇぞ」

 道具を拾っていた六助の手は泥まみれで、置かれている道具箱の蓋は割れて。汚れのついたノミや(かんな)が顔を覗かせている。

 商売物が大事なのは清太にもよく分かっている。商人として、小僧の頃から叩き込まれてきたのだから。

「わ、分かりました。ではお勝さんの、洗い直しで遅れた分の手間賃の穴は、私が埋めましょう。六助さんの道具箱の修理代も私が――――」

 清太が言葉を言い切る前に、いきなり天秤棒を担いだ新吉が割り込んできた。

「そういうことなら大家さん、俺っちの天秤棒も頼むよ! いやー、さっきの騒ぎで傷がついちまったんだよー。ほら、ここ、あとここも! なっ、なっ?」

 手にした天秤棒をグイグイと押しつけて、新吉は早口で捲し立てる。

「なら、うちのザルだって! 割れちまってるんだ。これも頼むよ、大家さん!」

「うちなんか(たらい)がひっくり返ったんだよ! 作り直さないとさぁ!」

「だったらあたしの草履も濡れたんだよ!」

「うわぁぁーーーーん!」

 たちまちのうちに、「俺も!」「うちも!」「あれも!」と、好き勝手に声が上がる。

「え……いや、それは……」

 呆気にとられる清太に構わず、住人たちはグイグイと迫ってくる。

「やめねぇか、バカタレどもが!」

 腹に響くような重低音が、びりびりと周囲に響き渡った。

 一瞬で静まりかえった住人たちの間から、今にも舌打ちせんばかりに渋面を浮かべた源七が歩み寄ってきた。

「途中までは良かったんだがなぁ……」

 ボソリと、溜息にも似た呟きを落として、源七は清太のすぐ横で歩みを止めると、お勝の方へと向き直った。

「お勝。洗濯もんをあんだけ出張らせてたのは、おめぇの手落ちだ。おまけにあの量だ、倒されたって文句は言えねぇ。長屋の路地はおめぇのもんじゃねぇんだ」

 お勝は一瞬ムッとしたが、何も言い返さず唇を噛んだ。

「洗濯もんは諦めて明日にでも洗い直せ。(つくろ)った半襟の納期に関しちゃ、わしから古着屋に伝えとく。なに、あの古着屋の主人はおめぇの旦那の贔屓(ひいき)だからな。二、三日程度は笑って許してくれるさ。腕利きの旦那で良かったな」

 旦那の善次を褒められてお勝は少しばかり得意げに頬を緩めると、小さく溜息をついてから首を縦に振った。

 それに頷いた源七は、次に六助へと身体を向ける。

「六助。職人の命だってんなら、大事な道具を外に放っぽっとくんじゃねぇ。らしくねぇな、飲み過ぎたか」

 六助はむすっと眉根を寄せると、「うるせぇ……」と小さく吐き捨てる。

「ちっ、しょうがねぇな。知り合いの指物屋(さしものや)に口利いてやらぁ。腕のいい職人だ。今回はそれで腹ぁ収めとけ」

 口ぶりに反して柔らかな源七の言葉に、六助はしばし無言で(うつむ)いたのちに、渋々といった風で静かに頷いた。

「……すまねぇな」

 ボソッと呟いた六助に軽く口端を上げた源七は、その後ずうずうしくも口を開きかけた新吉や他の面々をひと睨みで黙らせると、再び清太の前に歩み寄る。

 その清太は、源七の見事な収め方を目の当たりにして言葉もなかった。安易な解決の道を選んでしまった自分が何とも情けなく、恥ずかしくて、ただ奥歯を噛みしめていた。

「なに辛気臭ぇ顔してんだ。おめぇとは年期が違ぇんだよ。新米にひょいひょいこなされたら、こっちの立つ瀬がねぇわ」

 軽く鼻を鳴らして清太の肩を叩いた源七は、一度ぐるりと周囲を一瞥した後、用は済んだとばかりに飄々と長屋を後にしていった。

「あんた、よく頑張ったよ」

「そうさ、あの連中相手に上出来だよ」

「ほら、あの世から徳兵衛さんが見てるよ。そんな顔すんじゃないよ」

 源七が立ち去った後、周囲の女たちが口々にそう言って、清太の肩や背中を叩く。

「ほら片付けるよ。皆でやりゃあ早いだろ」

「ちょっと三太! いつまで母ちゃんにしがみついてんだい! あんたの片付けだよ!」

 三太を腕から下ろしたお浜が、照れくさそうに清太へ小さく会釈をして、そのまま三太とともに洗濯物を拾うお勝の元へと向かう。きっと意地を張ったことを謝りに行くのだろう。

――新米大家かぁ……。

 源七の言葉を思い出して、清太は小さく息を吐いた。

 果たして自分は徳兵衛のような立派な……いやせめて一人前の大家くらいにはなれるのだろうか、と少しばかり(しお)れながら、清太は新しいどぶ板を取りに、伯父の家へ足を向けた。

 すでに陽は傾き始め、江戸の町には夕刻が迫っていた。

 長屋から路地を抜けてすぐの裏通りの角、徳兵衛が遺したその古い家の、西日に照らされた表口の戸に手をかければ、板戸の戸車がキィと小さく鳴った。その音がなぜだかすごく温かく感じて、清太は徳兵衛が旅立ってから初めて、なんだか泣きたいような心持ちになった。

 ――精一杯、頑張ってみるよ、伯父さん。

 そう心の中で呟いて小さく深呼吸すると、清太は顔を上げて、今日から我が家となる家の中へ、足早に入っていった。

 


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