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第一話 清太、伯父との別れ


 ここは花のお江戸は浅草、観音様と隅田川を望む賑やかな門前町。

 大小さまざまな店が建ち並ぶ表通りは活気にあふれ、参拝客や買い物客が引きも切らない。あまたの行商人は高らかに売り声を上げ、その横を軽快な足取りで職人らが通り過ぎていく。

 そしてそんな表通りを一歩入ると、表の店々に囲まれた裏路地に、ひしめくように建つ裏長屋の数々――。

 その裏長屋のとある一画で、その日の夕刻、一つの騒動が巻き起こった。


「てぇへんだ、てぇへんだ!」

 転がるような勢いで、一人の男が路地から駆け込んできた。

 その騒々しさに、夕餉(ゆうげ)の大根を片手に井戸端でお喋りを楽しんでいた女たちが、一様に眉根を寄せた。

「ドタバタとやかましいよ新吉! 無駄にデカい雑音は声だけにしとくれ!」

 一人が呆れ混じりにそう声を張り上げれば、新吉がむむぅと口をへの字に曲げる。

「へっ、うるせぇやい。これでも岡場所の綺麗どころにゃ『素敵なお声だわぁ』って言われてんだ。年増には分かんねぇだろうがなぁ!」

 そう言って、肩から下ろした天秤棒を地面に突き立てる新吉に、「やだ、おべっかを本気にしてるよ」「馬鹿だねぇ」と女たちから容赦のない言葉が飛ぶ。

 それにまた言い返そうと息を吸って、けれどそこで新吉はハタと本筋を思い出した。

「そうだ! そんなことより本当にてぇへんなんだよ。大家の徳さんが倒れた!」

「なんだってぇ!?」

 よく通る新吉の声と同じくらい大きな女たちの叫び声に、あちこちから住人が飛び出して、長屋はまるで蜂の巣をつついたような大騒ぎへと発展した。


 一方その頃、陽が傾き始めた日本橋の表通りを、額に汗をにじませた男が大急ぎで走り抜けていた。男の名は清太。倒れた徳兵衛の、ただ一人の身内であった。

 奉公先の小間物問屋に知らせが届いたのはほんの少し前。「早く行け!」という(あるじ)の言葉に押されるようにして、取るものも取りあえず、もつれそうな足を叱咤しながら伯父の元へとひた走っていた。

 そうして小半時(こはんとき)もかからず到着した徳兵衛の家――。そこには長屋の住人らがわらわらと集まり、ところ狭しとひしめいていた。

「身内だ! どいてくれッ」

 人を掻き分け、表口を塞ぐ籠や天秤棒を払い除け、大根やら菜っ葉を手に座り込む女らの尻を押し分けて、先へ進んでいく。

 どっと(どよ)めきが上がり、何やら浪人が怒鳴って子供が泣き喚いているが気にしてなどいられない。清太は草履(ぞうり)を飛ばしながら小上がりを越えるや、一目散に部屋へ飛び込んだ。

 そうして、息を切らした清太が目にしたのは、がっしりとした身体を布団に横たえ、力なく呼吸をする大切な伯父の姿。

 一瞬息を止めるように身じろいで、ヨロリと清太が伯父の枕元に膝をついた。そんな清太に向かいの壁際に座っていた男が声をかける。

「医者が言うには卒中だそうだ。寄り合いの帰りにバッタリよ。薬は飲ませたが……」

 声をかけてきたその小柄な老人は町名主である田所源七(たどころげんしち)。普段の厳めしい顔に疲れを滲ませ、皺の入った口元をグッと引き締めている。

 清太がそっと握った分厚い徳兵衛の手はくたりとして、指先がひんやりと冷たくなっていた。

「伯父さんっ」

 声をかけるも徳兵衛はピクリともしない。清太の頭に最悪の事態がよぎり、それを振り払うようにきつく目をつぶると、清太はまるで祈るように、伯父の手に額を擦り付けた。

 ――まだだ。まだ私は伯父さんに何の恩返しもできちゃいない。だから伯父さんっ……。

 流行病(はやりやまい)で両親を亡くした清太を引き取り、親代わりに育ててくれたのが、母の兄である徳兵衛であった。清太が日本橋の大店(おおだな)に奉公が叶ったのも、徳兵衛の助力があればこそ。清太が二十五になった今でも何くれとなく気にかけては、厳しくも温かく支えてくれていた。

「伯父さん……」

 幾度めかの声がけに、徳兵衛の(まぶた)がピクリと動き、そして薄らと持ち上がっていった。それにハッと清太が顔を寄せれば、徳兵衛の乾いた唇から、まるで消え入りそうな、小さな掠れた声がこぼれた。

「……清坊」

 細く開けた瞼の奥で、伯父の瞳が揺れるように清太を見上げてくる。

 弱々しく握り返された伯父の手に息を呑む清太の対面から、すっ飛ぶように近づいてきた源七が「徳兵衛!」と声を張った。障子の向こうでは、小上がりにぎゅうぎゅうと身を乗り出すように(うかが)っていた長屋の面々が「徳兵衛さん!」「徳さん!」と次々に声をかけ、それが聞こえたのか徳兵衛の口端が小さく引き上がった。

「うる……せぇなぁ、相変わらずよぉ………」

 苦笑するようにいっそう目を細めて、徳兵衛の太い指が少しだけ強く、清太の手を握り込んできた。

「あとは頼む……なぁ……清坊」

 その言葉に、清太は知らず何度も頷いていた。頷くたびにパタリ、パタリと自分と伯父の手に(しずく)が飛んで、それを見上げる徳兵衛が、小さく笑った気がした。

 ――情けねぇ顔、してんじゃねぇよ。

 いつもなら、そう飛んでくるはずの叱咤の声。けれどそれが徳兵衛の口から上がることはなかった。握った手からは力が抜け、空気が漏れるような小さな呼吸音が続くばかり。

 そうしてその夜半、徳兵衛は多くの人々に見守られながら、静かに旅出っていった。



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