第19話 一見落着?①
遅くなりました。
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ラグナル大神殿の入口前でリンを出迎えたのは、意外な人物――ヒルデブラントだった。
しとしとと降る雨の中、腕を組み、地面を睨みつけながら、落ち着かない様子で行ったり来たりを繰り返している。彼が神殿の外に出ているのは非常に珍しい。
「神竜様……?」
リンの声に反応して、ヒルデブラントは顔を上げる。髪と瞳が元の色に戻っていた。まだ輝きは弱々しいが、多少は体も回復したようだ。
「神竜様。よかった、元に戻って――」
「オルトリンデ!!」
どかどかと足音を立てて迫ってきたヒルデブラントは、リンの肩を両手で掴む。爪が食い込むほどの強い力だ。
「えっ……ちょっと、どうしたの? 痛いんだけど」
リンは抗議したが、聞こえていないようだ。ヒルデブラントの表情は硬く、険しい。不穏な気配を感じ取り、リンは思わず身構えた。
――神竜様、怒っている……?
わかるのはそれだけだ。
しかし、リンはヒルデブラントの代わりにケガレを浄化し、結界を修復した。途中までとはいえ護衛も連れて行った。
もちろん、今回の事態を引き起こしたのはリンなのだから、褒められることではない。でも、きちんと責任を取ったのだから、これ以上怒られる理由はないはずだ。
「……お……の……」
「え、なんて?」
ヒルデブラントが何か言っているが、雨のせいでかき消されてしまう。聞き返すと、彼は大きく息を吸い込んだ。
「――この、大馬鹿者!!」
「!?」
それは、鼓膜が破れそうなほどの大声だった。
「なっ……」
「どうして僕の許可なく危険な場所に行ったりしたんだ!? その後一カ月も寝込んでいたと聞かされて、僕はずっと生きた心地がしなかった。今だって、こんなにボロボロで……どれだけ心配したと思っているんだ!」
ヒルデブラントは目に涙を浮かべている。
だが、リンはショックのあまり、彼の悲痛な叫びが耳に入っていなかった。
――神竜様が、怒鳴った? わたしに?
ヒルデブラントはずっとリンに優しかった。強く叱られたことなど一度もない。
その彼が今、本気で怒っている。リンはその事実に混乱していた。顔からどんどん血の気が引いてく。
「君は昔からそうだった。人の心配ばかりするくせに、自分の身は全然省みない。僕が見ていなければどんな無茶をするかわからないよ。過保護になるのも仕方ないじゃないか――今回だってそうだ。護衛は連れて行ったけど、結局街の中には一人で入ったんだよね? 途中で倒れて誰にも助けてもらえなかったらどうするつもりだったんだ!?」
「……」
あの時の無茶がヒルデブラントの耳にまで届いているとは。おそらくはナンナかセティが手紙で報告したのだろう。ヒルデブラントの言うことは正しい。事実、リンはケガレの浄化中に意識を失いかけた。
勢いよくまくし立てて苦しくなったのだろうか。ヒルデブラントは肩を大きく上下させる。
「リン、ちゃんと聞いている? ……君はいつもそうだ。僕が真面目な話をしていても、大したことないって聞き流すんだ。僕の心配はするくせに自分のことは全然大事にしない。そんなリンなんて、リンなんて……大っ嫌い――」
嫌い、と口にした途端、ヒルデブラントの顔が苦しそうに歪められる。
次の瞬間、彼は勢いよくリンを抱きしめた。息が苦しくなるほど、彼の体に強く押しつけられる。
「……いや、無理だ。嫌いになんて、なれるわけがない」
――どうやら、リンは思い違いをしていたようだ。ヒルデブラントにとっては、一人で苦痛に耐えることよりも、リンを失うことの方がずっと恐ろしいのだ。
「リン?」
一人で感情を高ぶらせていたヒルデブラントは、リンの反応が鈍いことに気がつく。言いたいことをすべて吐き出したせいか、少しだけ冷静さを取り戻したようだ。
「……あれ。うそ、もしかしてリン、泣いているのかい!?」
指摘されて、リンは初めて自分の頬が濡れていることを知った。慌ててリンを解放したヒルデブラントが、うろたえた様子顔をのぞき込んでくる。
「神竜様に、おこられた……」
「ご、ごめん……大きな声を出したから驚いたよね」
ヒルデブラントは、リンの頬を伝う涙を指で優しく拭う。リンは子どものようにぽろぽろと涙をこぼしながら、十年前とは立場が逆だな、とぼんやり考えていた。
「……ねえ、神竜様。まだ怒っている?」
「ううん、怒ってない。僕はただ、君のことが心配だから、危険なことはしないでほしいと伝えたかっただけなんだ」
「うん……ごめんね、心配かけて」
「わかればよろしい」
ようやくヒルデブラントの表情が和らぐ。彼は安心させるように、リンの頬を両手で包み込む。徐々にリンの気持ちも落ち着いていった。
「……もう大丈夫。見苦しいところを見せてごめんなさい」
ちょっと怒鳴られたくらいで取り乱してしまうなんて、我ながら恥ずかしい。正気に戻ったリンはヒルデブラントから距離を取ろうとしたが、なぜか再び抱きしめられてしまう。
「あ、あの。神竜様?」
「……ごめん、もう少しだけこのままでいさせてもらえるかな」
雨に濡れた体は寒さのせいか震えている。ヒルデブラントはどれだけ長い間リンの帰りを待ち続けていたのだろうか。
「――リン。一つ、僕の話を聞いてくれるかな?」
しばらくして、ヒルデブラントが口を開いた。
「今の君に対する、正直な僕の気持ちだ」
「う、うん」
思わずリンの体がこわばる。
今回の騒動の発端は、リンがロベールと親しくなり、それを知ったヒルデブラントが、動揺して力を制御できなくなったことにあった。
ヒルデブラントの本音を聞くことは恐ろしいが、自分の罪から目を背けてはいけないと思う。だからリンは、彼の言葉に静かに耳を傾ける。
「君と出会うまで、僕はずっと孤独だった」
ヒルデブラントは過去を懐かしむように語り出す。
「もちろん、直接人間たちと触れ合うことが難しいというのもあるけど……一番の問題は、僕が彼らを信用していないことにあった。笑っちゃうよね、人間を守るために生まれたはずの僕が、人間嫌いだなんて。でも、心を閉ざしたら余計に彼らとの間に溝ができて、それはやがて修復できないほど大きくなってしまった。原因を作ったのは僕自身だったんだよ」
それは違う、と叫びたかった。
過去の出来事を知った時、あまりにもひどい話だとリンは憤った。天災をヒルデブラントのせいにして反乱を起こした人々や、邪竜信仰の儀式のために彼を暗殺しようとした者。最初にヒルデブラントを裏切ったのは人間の方だ。だが、彼に反撃する手段はない。守護対象である人間を傷つけないように創られているから。
それでも、どれほど悪態をつこうが、ヒルデブラントは心の底から人間を嫌いになることができないのだ。そのあり方は、ひどく悲しい。
「僕は永遠に、誰とも分かり合えないまま生きていく。そう思っていた――」
リンの背中に回された手に、力が入る。
「でも、そこに君が現れた。君は僕を見ても怯えたりしないし、目を合わせて会話をしてくれる。そんな人間は生まれて初めてだった。初めて出会った時の僕の喜びは、想像つくだろうか。気が遠くなるほどの長い年月を生きてきて、僕はようやく、生涯を共にする伴侶を見つけたんだ」
「うん」
『神竜の巫女』としてヒルデブラントの婚約者に選ばれ、リンの生活は大きく変わった。
特別な力を有するとはいえ、中身は普通の少女である。それなのに、両親と引き離され、慣れない土地で厳しい教育を受けさせられた。当然、苦労も多かった。
けれども、リンは決して、自身の境遇を不幸だとは思っていない。リンと出会わなければ、ヒルデブラントは今でも孤独に苛まれていたことだろう。彼の表情が十年前と比べて豊かになっていることに、リンは気づいていた。
「だけど、それだけじゃない」
「えっ?」
おとなしくヒルデブラントにくるまれていたリンは、彼の言葉が気になって顔を上げる。
「初めて会った時、君は僕の涙を拭おうとしてくれた。それからも、君は僕のために誕生日を祝ってくれるし、僕の言動に問題がある時はちゃんと叱ってくれる。全部、僕のためを思ってやってくれていることだよね。僕は君の、そんな優しいところが好きだ――『神竜の巫女』だから、じゃない。君が君という存在だから、僕はリンが大好きなんだ。もし君が普通の女の子だったとしても、僕は君のことを好きになっていたと思う」
「……神竜様」
再び目頭が熱くなってきて、リンは瞼を閉じる。
ヒルデブラントはリンのことを大切にしてくれている。だから結婚後は大変だと色々な人から言われても、不安になることはほとんどなかった。それでも、時々は考えた。
リン以外の人間に対して冷たい態度を取るヒルデブラント。彼が自分にだけ優しいのは、普通の人とは違う特別な存在だから――幼い頃からリンはその事実を理解していた。もしも『神竜の巫女』が自分の他に存在するのなら、ヒルデブラントの結婚相手はリンでなくてもいい。
でも、ヒルデブラントは『神竜の巫女』としてだけでなく、一人の人間としてリンのことが好きだと言ってくれた。リンの内面を見てくれている、それがとてもうれしかった。胸の中がじんわりとあたたかくなる。
その一方で、ヒルデブラントの声はどこか寂しげな響きを帯びていく。
「僕にはリンしかいない。だけど君はそうじゃない。僕と結婚しても、きっと普通の幸福を与えることはできないだろう。君が他の人を好きになったとしても、僕はもう責めたりしない。嫉妬もしない。僕は君の幸せが一番なんだ。だから……」
必死で本音を押し殺そうとしている、震えた声。
「神竜様」
リンはヒルデブラントの背に自分の手を回すと、ポンポン、と優しく叩く。昔に比べて、彼の背中はずいぶん小さくなったように感じる。
「わたしはこれからもずっとあなたのそばにいる。絶対にあなたを一人にしないわ」
「リン……」
ヒルデブラントが驚いたように息を呑む。
「この先も二人で生きていきましょう。世界が終わるまで、ね」
「……うん。ありがとう」
リンを抱きしめる力がさらに強くなった。
――やっぱりわたしは、この人を見捨てることができない。
神竜王ヒルデブラントは、世界とそこに住む人々を守っている。
それならば、ヒルデブラントのことは自分が守る――世界の王としてはあまりにも弱々しい彼の嗚咽を聞きながら、リンは決意を新たにした。
二人の頭上に降り注いでいた雨が、いつの間にか止んでいた。




