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第17話 日常の崩壊②

「っ!?」


 一瞬、リンの息が止まる。心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。


「ど、どどどどうしてそう思ったの?」

 

 自分でも声が震えているのがわかる。

 ヒルデブラントは口元を歪め、皮肉っぽい笑みを浮かべた。


「親切な人間が色々教えてくれたんだよ。階段から落ちそうになったところを受け止めてもらったんだよね? なんとも運命的な出会いだこと」


「……」


「千年祭の時も、舞踏会の時も、君は彼と一緒にいたそうじゃないか。僕といる時よりも楽しかったかい?」


「……い、いいえ。そんなことは」


 ――まさかそこまで知られているだなんて。

 

 とうとうロベールの存在がバレてしまった。どうしたらよいのだろうか。そもそも、誰が二人の関係を密告したのか。

 頭の中が疑問と混乱でぐちゃぐちゃになる。


「いつもなら、僕は君以外の言うことなんて信じない。最初にあの男の話を聞いた時だって、君を貶めようとする人間の戯言だと思っていた。……でも、リンのことなら僕が一番知っている」


 ヒルデブラントの声に怒りはない。ただ、静かな悲しみがあるだけだ。


「本当は、ずっと前から気づいていた。学園に通い始めてからの君は、僕と一緒にいる時よりも楽しそうだった。君だって心の底では、普通の人間として生きることを望んでいるはずなんだ。皆と同じように恋をして、結婚して、子どもが生まれて。年老いたら、家族に見守られて死んでいく――そんな普通の幸せを」


「……」


 何も言葉が出てこない。ヒルデブラントの言葉を完全に否定することはできなかったのだ。

 ――もうはっきりと認めるしかない。リンはロベールに惹かれている。異性として彼のことが好きだ。


「で、でも、わたしは」


 リンはなんとか震える声を絞り出す。


「だからといって、自分の立場を捨てようとは思わなかった。神竜様を裏切るつもりなんて、そんなことは」


「僕だってそんなことはわかっていた。だけど――」


 ヒルデブラントの目に涙がにじむ。


「聞いたよ? あのセイラとかいう娘。彼女が君に宣戦布告した時、君は『やれるものならやってみたら』と言ったそうじゃないか。それはもう、面倒くさそうに」


「あ……」


 あの時は軽い気持ちで発言してしまった。まともにセイラの相手をしたくなくて、適当にあしらおうとしたのだ。それがヒルデブラント本人に伝わって彼を傷つけてしまうだなんて、思いもよらなかった。


「千年祭の時だって、君は心ここにあらず、といった様子だった。君にとって僕はもうどうでもいい存在なんじゃないか――そう考えたら不安になったんだ」


「違うわ。そんなこと思ってない」


 だが、リンの言葉はヒルデブラントに届かない。態度は正直だよね――そう言って、彼は乾いた声で笑う。


「本当はリンのことを信じてあげたかった。でも、いつの間にか信じることができなくなって……僕はそんな自分のことが許せなかった」


 ヒルデブラントの瞳から、こらえきれなくなったように涙があふれる。


「そうしたらどんどん心が苦しくなって、何もかも投げ出したい気分になって。それで――」


 はらはらと流れていく雫を、リンは拭ってやることができない。その資格がないと感じていた。


 リンは自分の愚かさを呪う。今まで散々、ヒルデブラントを苦しめた人間たちに憤っていたのに、リン自身も彼のことを苦しめてしまっている。

 腕の中で震えているヒルデブラントは、いつもよりも小さく見えた。


「それで自分の力がうまく制御できなくなって、結界に穴を空けてしまった。なんとか修復しようと頑張ってはいたけど、精神的に落ち込んでいたら体の調子も悪くて――気がついたら、ケガレの侵入を許してしまっていた。土地だけじゃなく、僕の体にまで」


「は!?」


 リンはヒルデブラントの、黒く濁った髪や瞳をまじまじと観察した。


「え。え? うそ、ケガレなのこれ!?」


「うん……」


 まさか本当にケガレのせいだったとは。言われてみれば、どことなくまがまがしい気配を感じる。

 リンは慌ててヒルデブラントに治癒術をかけたが、全く効果がない。


「ええっと、こういう時は浄化の力を使うんだっけ……」


 昔セティの治療をした時のことを思い出そうとするが、気が動転しているせいでうまくいかない。突如としてリンは不安に襲われた。


「ね、ねえ。神竜様、死んじゃったりしないよね? 大丈夫よね?」


「これくらいならまだ平気だよ。でも、今はケガレの侵食に抵抗するのに精一杯だ。とてもじゃないけど、結界の修復にまで手が回らない。早く元の状態に戻したいけれど――頑張って数カ月、長ければ数年かかるかも……」


「そんな、じゃあ第七王国の人たちは……」


 泣きはらして真っ赤な目が、救いを求めるかのようにリンを見上げる。


「リン、どうしよう。僕のせいだ。僕が自暴自棄になったから……僕は人間が嫌いだけど、彼らが傷つく姿は見たくない。それなのに、こんな――僕が世界を守らなくちゃいけないのに。失敗したら、また嫌われてしまう」


「あやまらないで神竜様。悪いのはわたし。わたしが神竜様のことを不安にさせて……」


「違うよ。僕が勝手に嫉妬したんだ――はは、我ながら情けないね。一人でなんとかするつもりだったのに……」


 意識が遠くなってきたのだろうか。ヒルデブラントの体が重くなっていく。


 ――もしかして、自分のせいで世界が滅びかけているのでは?


 気づいた瞬間、リンの背筋がぞっと寒くなる。体中から血の気が引いた。

 『神竜の巫女』は神竜王を支え、ともに世界を守護する存在だ。それなのに、リンはヒルデブラントの心を乱し、彼の役目に支障をきたしてしまった。

 

 だが、傷ついてもなお、ヒルデブラントは自分の責任を果たそうとしている。その身がケガレに侵されても、誰にも助けを求めようとしなかった。リンが気づかなければ、全部一人で抱え込んでいただろう。世界を守護する神竜王として、皆の期待に応えたいから。

 ヒルデブラントが一人で苦しみ続ける中、『神竜の巫女』は安全な場所でのうのうと生きていく――そんなの、許せそうにない。


「……わたしがなんとかするわ」


 リンは意を決して立ち上がった。


「リン?」


 ヒルデブラントの手を取り、安心させるかのようにリンは微笑む。


「だって、わたしは『神竜の巫女』だもの。こういう時こそ出番よね」


 リンがケガレの浄化を行ったのは、十年前のあの時だけだ。先程だってうまくいかなかったし、結界の修復に至っては一度も経験がない。でも、リンが本当に『神竜の巫女』であるならば、なんとかなるだろう。


「ちょっと第七王国に行ってくるわね。安心して、すぐ戻るわ」


 一見すると人間嫌いのヒルデブラントだが、本当は責任感が強くて、誰よりも人間のことを大切にしている。ずっと一人で世界を背負い続けていたら、いつかその心は限界を迎えてしまうかもしれない。彼の孤独に寄り添い、苦しみを分かち合う。『神竜の巫女』はそのために存在するはずだ。


 リンは覚悟を決めて部屋の外に向かう。


「駄目だ、危険すぎる!!」


「わっ?!」


 しかし、ヒルデブラントはリンの足にしがみついて引き止めようとする。


「君だって見たことはあるだろう? ケガレに侵された人間は、生気を奪われてじわじわと弱っていくんだ。いくら浄化の力が使えるからといって、危険な場所に行かせるわけにはいかない。僕が頑張ってなんとかするから、君は何もしなくていい」


「でも神竜様、それじゃあわたしの存在意義が」


「君にもしものことがあったら、僕はもう立ち直ることができない。それよりも、僕の目の届く場所にいてほしい。お願いだ、そばにいてくれ――」


 言葉が途切れたかと思うと、リンの足が自由になる。ヒルデブラントは床に突っ伏して動かなくなった。


「神竜様!?」


 リンはぎょっとしてヒルデブラントの体を揺さぶったが、すぐに規則的な呼吸が聞こえてきて、胸をなでおろす。どうやら体力の限界が来て眠ってしまったらしい。


(よほど疲れていたのね……)


 思えば、リンがヒルデブラントの寝顔を見る機会はあまりない。目の下にくっきりと浮かぶ隈は、彼がたった一人でケガレに抗っていたことを物語っている。危険だから行くな、とヒルデブラントは言っていたが、もし彼がこのまま目覚めなかったらと思うと、そちらの方がずっと恐ろしかった。


「――よし、行くか」

 

 自分の不始末は自分でつけなくてはならない。

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