第16話 日常の崩壊①
「……へえ、なるほど。ったく、あんたも悪い女よねえ。神竜様が哀れだわ」
リンの近況を聞いたセイラは、言葉とは裏腹に、どこか面白がっているような表情を浮かべた。
学園の中庭で、午後の優雅なティータイム。
最近のミレイユは忙しいらしく、セイラと過ごす機会が増えている。
「それで? その後、神竜様の様子はどうなのよ?」
「うーん。いつも通りには見えるけど……最近、目を合わせづらくて」
リンはヒルデブラントの、深い沼のような瞳を思い出す。うっかりのぞいたら引きずり込まれてしまいそうな、底知れぬ恐怖がそこにはあった。
「バッカねぇ。それじゃあ自分がやましいって言ってるようなもんじゃない」
「そんな……どうしよう」
うじうじ悩んでいるリンの態度に、セイラはじれったそうに舌打ちをする。
「そういうのは隠しているから苦しくなるのよ。あんたはその、ロベールってやつが好きなんでしょ? もうこの際だからはっきりと認めちゃったらどうなの」
「好き……? え、いや……そんな、ことは」
「ちょっと、まだ粘るわけ? でも、はっきり否定することはできないんでしょ。だから神竜様の前に立つのが怖い」
図星をつかれ、リンは口ごもる。
本当は、リンだって薄々気づいていた。
ロベールがそばにいると、自然と胸が高鳴る。彼の笑顔を見ると心の奥がじんわりと温かくなる。もっと彼のことを知りたい。
どれも、ヒルデブラントに対しては抱くことのなかった感情である。
もちろん、リンはヒルデブラントのことも大切に思っている。でも、ロベールに対する感情とは明らかに種類が違うのだ。
だが、はっきりと口にしてしまったら、リンがこれまで築き上げてきた日常が崩壊するかもしれない。それが怖かった。
「だってわたしは、『神竜の巫女』だから。本当は貴族でもなんでもない、ただの平民なのよ? こうして学園に通えているのも、普通の人より贅沢な暮らしができているのも、全部神竜様の婚約者になったおかげ。何よりも、神竜様はいつもわたしに優しくしてくれる。それを裏切るだなんて……」
「あんたは難しいこと考え過ぎよ」
「あいた!?」
セイラはリンの額を指で弾く。彼女は珍しく真剣な表情で、リンを真正面から見据えていた。
「人を好きになるのに身分とか立場とか関係なくない? だって、恋って勝手に落ちるものでしょ。個人の力じゃどうにもならないわ――だから、あんたが罪悪感を抱える必要はないのよ。悪いのは、そう、運命の巡り合わせね」
「うーん……?」
正直その理屈には納得できないが……今回の件はリンに非があって、ヒルデブラントは何も悪くないと思う。とはいえ、セイラなりに真面目に考えてくれているのはわかる。
「だいたい、結婚は卒業後でしょ? それならまだ間に合うじゃない。知ってる? 最近貴族の間で婚約破棄がはやっているのよ」
「いや無理無理無理! 絶対無理。あの神竜様が了承するとは思えないわ。そもそも破棄しないし」
「チッ、ダメかぁ。行動するなら早い方がいいんだけどね。子どもが生まれた後なんて最悪よ?」
セイラは遠い目をする。自分の家族の話だろうか。
結局、悩みを吐き出したことで多少すっきりはしたが、状況は全く好転しそうになかった。誰かに相談したところで、結論を出すのはリン自身なのだ。
――神竜様に遠慮したりせず、ご自身が納得できる道をお選びください。
ついこの前、セティに言われたことを思い出す。セイラは早めに行動するべきだと言うが、リンの中で折り合いをつけるにはまだまだ時間がかかりそうだった。
「――そういえばさ、あんたルイルイと仲いいわけ?」
真面目な話が終了し、話題はセイラの婚活に移った。彼女がルイに言い寄っていたことは、ルイ本人からも聞いている。
「ルイルイって……いや、別に仲良くはないんだけど」
向こうが一方的に絡んでくるだけだ。
そういえば、ルイは元々ミレイユに因縁をつけることを日課にしていたようだが、最近はリン一人でいる時もよく遭遇する。
「あいつさぁ、顔はいいけど態度がでかくてうざかったのよね。だから一回切ったんだけど、やっぱり次期国王有力候補ってのは魅力的じゃない?」
「やめておいた方がいいわよ。だって彼、セイラの生まれがどうとか悪口言っていたもの」
「なんですって!? はぁー、あの野郎ふざけやがって!」
それから二人はくだらない会話で盛り上がっていたが、近くを通りがかった生徒たちの緊迫した会話が聞こえてきて、口をつぐむ。
『おい、聞いたか。今、第七王国が大変なことになっているらしい』
「え……?」
第七王国はリンの出身地である。
『ああ。また結界に穴が空いたんだろう? すでにケガレが街の中に侵入しているらしい』
『他の国でも結界が弱まっているらしいじゃないか。うちの領地、結界に隣接しているんだけど大丈夫かなあ』
結界のそばにある街ということは、まさにリンの故郷の話だ。
リンはセイラと顔を見合わせる。
「あんた、何か聞いてる?」
「いいえ、何も……」
まさかヒルデブラントの身に何かあったのでは――そう思うと、リンは居ても立ってもいられなかった。
◇◇◇
帰宅するなり、リンはヒルデブラントの元へ向かう。
「神竜様! いったいどうなっているの!?」
がらん――
息を切らして謁見の間に駆け込むが、なぜかもぬけの殻だった。
扉を守っていた兵士に尋ねると、ヒルデブラントは今朝から体調がすぐれないため、自室に籠っているという。
(まさか、また毒を盛られたりしたんじゃ……)
十年前の出来事を思い出す。あの時も、ヒルデブラントが体調を崩したことで結界に穴が空き、そこからケガレが侵入したのだ。
ヒルデブラントの私室に突撃しようとすると、アトリが立ちふさがってくる。
「申し訳ありません。どなたも中に入れないよう、神竜様から命じられております」
「それって、私もなの? 急ぎの用事なんだけど」
アトリは困ったように頷く。
「神竜様は、特にオルトリンデ様には見られたくないと……」
見られたくない、とはどういう意味だろうか。しかし、ここで押し問答をしている暇はない。リンはアトリを押しのけて無理やり扉を開けた。
「神竜様、入るからね!」
ヒルデブラントは、部屋の片隅で膝を抱えて丸くなっていた。ぼんやりとした目つきで床を眺めている。
「……」
彼の変わり果てた姿を見て、リンは言葉を失う。
「し、神竜様……どうしたの、その姿」
――ヒルデブラントの髪と瞳の色が、真っ黒に染まっていた。
先程の生徒たちの会話を聞いたせいだろうか。闇のような色合いは、ケガレによる侵食を連想させる。磨かれた玉のようだった肌も、くすんで艶を失っていた。
眩いほどの白さと虹色のきらめきが美しい、光の神竜王ヒルデブラント――そんな彼から、一切の輝きが失われている。
リンはヒルデブラントの元へ駆け寄った。
「しっかりして神竜様! ねえ、何があったの? その髪と目はどうしたの? 結界に穴が空いてケガレが侵入したって聞いたけど、そこに住む人たちは大丈夫なの!?」
矢継ぎ早に質問を浴びせながら、彼の肩を揺さぶる。
リンの姿を目にした途端、ヒルデブラントは申し訳なさそうに顔を歪めた。呻くように謝罪の言葉をこぼす。
「リン……ごめん、全部僕のせいだ」
「……何があったのか説明してもらえる?」
意気消沈した様子のヒルデブラントを見て冷静になったリンは、彼の背中をさすりながらゆっくりと続きを促した。しかし、彼はためらっているようで、言葉を発しかけてはすぐにやめてしまう。それが何回か続いた後、ようやくヒルデブラントは重い口を開いた。
「僕は知っている。全部、知っているよ。リン――君、好きな人ができたよね?」




