第15話 嵐の前の静けさ
「ロベール!」
「オルトリンデ様!? どうしてここ、に――」
振り返ったロベールは、リンの姿を見るなり固まった。ぽかんと口を開け、どこか呆けた表情でリンを眺める。
永遠とも思える長い沈黙の後、彼はようやく言葉を発した。
「えっと、その……お綺麗です、とても」
消え入りそうなほどの小さな声だ。
「……うん。ありがとう」
外灯のわずかな明かりの下でもわかるほどに、ロベールの顔は赤い。
リンもまた、自分の頬が熱を帯びていることに気づいた――なぜだろう、皆から同じような言葉をかけられたのに、ロベールから言われた途端、恥ずかしくなってしまう。
「あの、わたし、今日の舞踏会に参加したの。帰る前に少しだけ休憩していこうかなと思って。あなたの方こそ、どうしてここに? ミレイユなら少し前に帰ったはずだけど」
「ヴォルフラム殿下と一緒に庭園を散策してくるとのことで、ここで待つようにと言われていたのですが……全然戻ってこないので、念のため捜しに行こうかと……」
「あら、ミレイユは逢引き中なのね。意外とうまくやれているようで安心したわ。邪魔をしては駄目よ」
「あ、逢引き!?」
動揺したロベールの声が、人気のない庭園に響く。相変わらず恋愛への耐性が低い。
「……あの、オルトリンデ様」
ロベールはおどおどとした様子でリンに尋ねてくる。照れているからか、彼はもう視線を合わせてくれない。
「舞踏会に参加したとおっしゃられましたが、その、エスコートのお相手は」
「ナンナに来てもらったの」
「ああ、なるほど」
ロベールの視線がリンの後方に向けられる。リンが振り返ると、主を追いかけてきたナンナが、少し離れた場所に立っていた。何か言いたそうな顔をしつつも、ナンナは黙ってリンを見守っている。
「やはり他の方とも踊ったりしましたか……?」
「そうね。二、三人くらいと」
「……そう、ですか……まあ、そうですよね。舞踏会ですからね……」
本当は二、三人どころの話ではないのだが、正直に話したらロベールは落ち込んでしまうだろう。というか、すでに落ち込んでいる。
その後、リンは舞踏会での出来事をロベールに話した。ミレイユとヴォルフラムの様子や、セイラとの愉快な口喧嘩など――ロベールは楽しそうに相槌を打っていたが、時折チラッ、チラッと何か言いたげな視線をよこしてくる。
「……オルトリンデ様」
やがて、彼は意を決したように口を開いた。
「あの、俺と……俺と、一曲踊っていただけますか」
本当なら、断るべきだろう。いくらロベールに好ましい感情を抱いているとはいえ、リンには婚約者がいる。その婚約を破棄してまで彼と結ばれる覚悟はないのだから、これ以上期待させるのは酷だ。
だが――
「……」
緊張のせいか、ロベールの体はがちがちに固まっている。対照的に、リンに向けて差し出された手はがたがたと震えていた。血の気が引いて真っ白な顔に浮かんでいる表情は、期待よりも不安の方が大きい。
迷った末、リンは彼の手を取った。
「……ええ、喜んで」
ロベールの顔が、二人で見た花火のようにぱっと明るくなる。
……リンはどうしても彼に甘くなってしまう。
◇
月光の下で、二つの影が踊る。
それは、とても優雅とは言えないダンスだった。
リズムは乱れ、振り付けを間違え、時には転びそうになりながらくるくると回る。
舞踏会で披露したらきっと笑いものになっただろう。
だが、二人ともそんなことは気にしていなかった。失敗するたびに顔を見合わせ、照れたように笑う。
視界に映るのは相手の姿だけ。
まるで、この世界には二人しか存在しないかのように――
◇
ダンスが終わる。永遠のようでいて、あっという間だった夢の時間。
「……」
「……」
頬を紅潮させ、息をするのも忘れて見つめ合う。
「……ごめんなさい、何回も足を踏んでしまったわ。大丈夫だった?」
最初に口を開いたのはリンだった。
「平気です。それに、俺も何度か転びそうになりました。……すみません。俺、本当はそんなにダンスが得意ではなくて。でも、どうしてもあなたと一緒に踊りたかったんです」
ロベールも申し訳なさそうに答える。
「あやまる必要なんてないわ。だって、私も同じ気持ちだったの。それに――」
「そうですね――」
二人の思いは全く同じだった。
――楽しかった。
しばらく二人は余韻に浸っていたが、背後から咳払いが聞こえてきたため、慌てて距離をとった。
「……オルトリンデ様。そろそろ帰りましょう。あまり遅くなると神竜様にバレてしまいますからね。それにほら、ミレイユ殿下も戻ってきました」
ナンナの指さす方向から、ミレイユとヴォルフラムが歩いてくる。
主の元へ向かおうとしたロベールは、名残惜しそうに振り返った。
「オルトリンデ様。俺、今日のこと忘れません――絶対に」
「……うん。私も、忘れないわ」
一夜限りの魔法は解けた。
◇◇◇
帰りの馬車の中でもリンは上機嫌だった。鼻歌を奏でながら窓の外を眺めている。
「あの、オルトリンデ様」
明らかに浮かれている様子の主に、ナンナは険しい表情で声をかけてきた。
「ロベール殿と過ごす時間が楽しいのはわかりますよ。わかりますが。でも、さすがにこれ以上は――」
「大丈夫、わかっているわ」
リンは窓から顔を離すと、隣に座っていたナンナに向き直る。自分ではうまく取り繕えていると思っていただけに、浮ついた感情を見透かされたことに内心は動揺していた。
「確かに、ロベールのことは素敵な人だと思う。けど、それだけのことよ」
「ほんとですか? でも今日のあれは」
「ナンナ」
その時、今まで無言だったセティが沈黙を破った。彼は姿勢を正すと、向かい側に座っていたリンと目を合わせる。
「オルトリンデ様。たとえあなたが神竜様以外の人を好きになったとしても、我慢する必要はないと僕は思います」
「えっ……」
リンは自分の耳を疑った。
セティはリンの護衛であるが、同時にヒルデブラントの臣下でもある。それなのに、リンの自由を肯定しようとするなんて。
「ちょっと、センパイ!? ななな何を言っているんですか? 冗談ですよね」
驚いたのはナンナも同じようで、彼女は掴みかからんばかりの勢いでセティに詰め寄った。
「いや、僕は本気だ――だって、あんまりじゃないか。幼い子どもに『神竜の巫女』だなんて大層な役目を押しつけて、親元から引き離した挙句、結婚相手まで勝手に決めて……オルトリンデ様には、最初から選択肢なんてなかったようなものだ」
ナンナを押しのけると、セティは再びリンに向き合う。彼がリンを見るまなざしには、年の離れた妹を心配する兄のような、温かい感情が含まれていた。
「僕はあなたに命を救われた時からずっと、あなたの幸せを一番に願っています――ですからどうか、神竜様に遠慮したりせず、ご自身が納得できる道をお選びください」
「……わたしが納得できる道」
リンはセティの言葉を反芻する。
だが、ナンナがこのまま納得するわけがなかった。彼女は声を荒げてセティを睨みつける。
「いやいやいや! 勝手なこと言わないでくださいよセンパイ! もしそんなことになったら、神竜様が怒り狂いますよ? 手がつけられなくなったらどうするんです、センパイが責任取ってくれるんですか!?」
セティは迷いのない瞳で頷いた。
「ああ、その時は僕が罰を受ける。他の人には危害が及ばないようにするから、安心してくれ」
「センパイ……まさかそこまでの覚悟を持っていたなんて」
反論できなくなったナンナは黙ってしまう。
小さな子どもに言い聞かせるように、セティはリンに声をかけた。
「オルトリンデ様、結婚とはあなたの人生を大きく左右するものです。結論を急ぐ必要はありません。焦らずゆっくり考えてください」
「う、うん」
――そうはいっても、神竜様を裏切るような真似は……。
リンの心は大きく揺れていた。
◇◇◇
帰宅後。自室の明かりをつけたリンは、驚きのあまり悲鳴を上げそうになった。
扉を睨みつけるかのように、ヒルデブラントが腕を組んで立っていたのだ。
「し、神竜様!? どうして!?」
アトリが仕事漬けにしていたのではなかったのか。
ナンナをいったん下がらせ、リンはヒルデブラントの元へ駆け寄る。
「だって君、いつもの時間になっても部屋に来なかったじゃないか。それで神官長を問い詰めたら、舞踏会に行ったって……だから、戻るまで部屋で待たせてもらおうと思ったんだ」
ヒルデブラントは、ふてくされた様子で口を開いた。
「それはわかるけど……」
なぜ明かりをつけずにいたのか。
ヒルデブラントはわざとらしくため息をつく。
「まさか神官長だけでなく騎士たちも共謀していたとはね……それで? 僕に黙って出かけた舞踏会はどうだった? こんな時間まで帰ってこなかったんだ、さぞ楽しんできたのだろうね」
ヒルデブラントのねちっこい視線を浴びせられ、自分の部屋だというのにリンは居心地が悪くなった。これは完全にへそを曲げてしまっている。素直に謝罪した方がよさそうだ。
「ごめんなさい、神竜様。最近出かけていなかったから、ちょっと息抜きしたくなったのよ。わたしが強引に協力させただけだから、他の人は怒らないであげて」
「……」
(あれ?)
いつもならおとなしくあやまるとすぐに笑顔を見せてくれるのだが、今日のヒルデブラントは妙に静かだった。
「――ねえ、リン」
突然、ヒルデブラントが顔を近づけてくる。彼と目が合った瞬間、リンは違和感を覚えた。
――神竜様の瞳、こんなに暗かったっけ。
リンの記憶の中にあるヒルデブラントの瞳は、きらきらと宝石のように輝いていた。だけど今は、どんよりと濁っていて、うつろな闇を思わせる。
「君、何か僕に隠し事をしていない?」
一瞬、リンの心臓が大きく跳ね上がる。
真っ先に思い浮かんだのは、先程ロベールと踊った時のこと。ヒルデブラントの存在を忘れそうになるくらい楽しんだのは事実である。
でも、ただ一緒に踊っただけだ。舞踏会ではロベールの他にも多くの男性と踊っている。
だから自分はやましいことなど一切していない。リンはまっすぐにヒルデブラントの目を見つめ、きっぱりと言い切った。
「いいえ、何もないわ」
しかし、ヒルデブラントは信じてくれなかったようだ。
「…………………………そう」
「えっ……?」
耳を澄ましていなければ聞き取れなかったであろう、低くかすれた声。それだけでも信じられなかったが、リンは何よりも、ヒルデブラントが見せた表情に困惑していた。
「あ、あの……神竜様、もしかして怒っている?」
リンが声をかけると、ヒルデブラントは我に返ったようだ。
「――あ。ご、ごめん。疲れているのに邪魔してしまったね。僕はもう戻るよ。おやすみ、リン」
急ごしらえの、どこか引きつった笑み。早口でまくし立てると、ヒルデブラントは逃げるようにリンの部屋から出ていった。
◇
「……」
その後、リンは入浴と着替えを済ませてベッドに入ったが、ヒルデブラントのことが気になって眠れない。
ヒルデブラントがあの時見せた表情は、何か言いたいことがあるのに言葉にできない、というもどかしさを訴えていた。
強いて形にするなら――あれは失望、だろうか。
瞳に宿る傷心の色が、まるで裏切られたとでも言いたげに、リンを責め立てていたのだ。
確かに、黙って舞踏会に行ったことは申し訳ないと思っている。でも、ヒルデブラントがリンの言葉を信じていない、という事実に彼女は動揺していた。
――でも、私は神竜様を裏切るつもりはない。
今は疑っているけれど、ヒルデブラントだってそのうちわかってくれるはずだ。そう信じてリンは眠りについた。




