第13話 千年祭②
大通りの喧騒が嘘のように、橋の上には人気がない。
「……」
「……」
二人きりだとどうしても緊張してしまう。
リンはセティが迎えに来るまで少し休憩していくつもりだが、ロベールは主の元へ帰らなくてよいのだろうか。
確認すると、ロベールは今日、非番らしかった。
「あの、俺がそばにいてはご迷惑ですか?」
ロベールが寂しそうな笑みを浮かべる。リンの胸がぎゅっと締め付けられた。
「……いいえ、そんなことはないわ」
悲しそうな顔をされると、どうしても拒絶することができない。
二人で橋の欄干に寄りかかり、ぼんやりと川の流れを眺める。上流から漂ってきたランタンの光が、ゆらゆらと揺れていた。
「オルトリンデ様。あなたはご自身の将来を不安に思ったことはありますか?」
ランタンに目をとめたまま、ロベールが静かに問いかけてくる。
いつになく弱々しい声色に、リンは思わず左隣を見た。ロベールは痛みをこらえるかのように、眼帯に覆われた左目を押さえている。ミレイユを暗殺者から庇った時にできた傷だ。
「まだ痛むの?」
「そうですね……」
ロベールはどこか悔しそうに顔を歪める。
「俺はもう、殿下の護衛でいることに限界を感じています」
「えっ」
突然の言葉に驚くが、よく考えればおかしなことではない。左目が見えていた頃と同じように剣を振るうことはできないはずだ。
でもリンからすれば、ロベールは今でも十分強いと思う。あの時ごろつきを華麗に成敗した剣筋は、聖騎士団にも引けを取らないほどの腕前だった。
しかし、ロベール本人は自分の剣に満足していない。
「左目を失って以来、思うように体が動かないんです。それを補うため、昔よりも鍛錬の時間を増やしました。でも、どんどん剣の腕が落ちていって……そんな自分が情けないんです」
言いながら、ロベールは手の平を見つめる。つぶれて血のにじんだマメと固くなった皮膚は、彼の努力の証だった。
「殿下からは以前と同じように護衛の任を与えらえていますが、だからこそお役に立てないことが恐ろしいんです。殿下はお優しい方なので、部下が使い物にならなくなったからといって切り捨てたりはしません。ですが、内心では不甲斐ない俺に失望しているはずです」
「ロベール……」
「俺は自分の役目を全うしたい。でも、また殿下が襲われるようなことがあって、あの時みたいに反応が遅れてしまったら――もしものことを考えると体が震えて……」
語り終えると、ロベールはじっと虚空を睨みつける。ぎりぎりと歯を食いしばる音が聞こえてきた。
「……」
初めて聞いたロベールの弱音。彼が苦しそうな姿を見せたことに、リンは驚きを隠せなかった。
リンはこれまで、ロベールのことを完璧な人物だと思い込んでいた。堂々としたたたずまいと確かな剣の腕。周囲への心配りを忘れない、優しい性格。人知れず努力する姿も素敵だ。
でもすぐに思い直す。生きていれば誰だって悩みの一つや二つはある。何しろ、世界で一番偉いヒルデブラントですら悩むことはあるのだ。普通の人間であればなおさらだ。
それに、ロベールが悩みを打ち明けてくれたということは、リンは彼に信用されている。その事実がうれしかった。
だからこそリンはロベールの悩みに寄り添ってあげたい。力になってあげたい。
どうすれば彼の心を和らげることができるのか、リンは真剣に考える。
「あなた、今言ったことはミレイユに伝えた?」
「い、いいえ……」
ロベールは困惑した様子で首を横に振った。
「わざわざ俺なんかのために、殿下のお心を煩わせてしまうだなんて……」
「でも、今のままでは仕事に支障が出るかもしれないのでしょう? ミレイユのことを心配するのなら、なおさらきちんと話しておくべきだわ。だいたい、ミレイユの護衛はあなた一人ではないでしょう? あなたが全部一人で背負う必要はないのよ」
「……やっぱりそうですよね」
ロベールはしゅんとした表情で肩を落とした。
彼だって頭の中では理解しているはずだ。ただ、恩人であるミレイユに必要とされなくなること、これまで築き上げてきた立場を失ってしまうことを恐れている。
欄干を握りしめていたロベールの右手に、リンは自分の両手を重ねた。
「――ねえ、気づいていた? ミレイユったら、わたしといる時はあなたのことばかり話しているのよ。それはもう、楽しそうに。あの子だってあなたのことを大切に想っている。たとえ戦えなくなったとしても、あなたがそばにいてくれればそれで十分なんだわ」
だから安心して――リンがそう伝えると、ロベールは目を見張る。わずかな沈黙の後、彼はほっとしたように息を吐いた。憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔だ。
「……ありがとうございます。少しだけ心が軽くなりました」
やがてロベールは、覚悟を決めたかのようにリンに向き直る。柔らかな月の光が彼の微笑みを照らしていた。
「オルトリンデ様。あなたはとてもお優しい方ですね」
「うぇっ!?」
突然褒められて、リンは戸惑う。
リンはこれまで、周囲の人たちからは頼りになる、しっかりしている、などと言われてきた。だが、優しい、とは。リンのことならなんでも肯定してしまうヒルデブラント以外に言われたのは初めてだ。
「優しいだなんて、そんな……わたしはただ、話を聞いただけで」
「それだけではありません。たとえば、あなたは俺と話す時、いつも右側から声をかけてくれますよね? 今日だってわざわざ場所を移動してくれました」
「……気づいていたんだ」
確かにリンは、ロベールの視界に入りやすいように注意していた。自分が特別なことをしているつもりはなかったが、気にしない人の方が多いのだろうか。
「殿下のことだってそうです。殿下が行方不明になった時、あなたはいつも、文句一つ言わずに捜すのを手伝ってくれます。他にも、この前喧嘩になった令嬢を、望まない結婚から救ったとお聞きしました。誰かに強制されなくても、自然と人のために行動できる――俺はそんなあなたのことを尊敬しています」
今度はリンの両手をロベールが包み込む。熱のこもった真剣なまなざしが、リンの心を真正面から捉えた。
「本来であれば、この感情は胸の内に秘めておくべきものです。でも、俺はどうしてもあなたに伝えたい。言わずに後悔するのは嫌なんです」
ロベールは一瞬だけ、リンが頭につけていた仮面へ視線を向ける。
「オルトリンデ様。俺は、あなたのことが――」
その時、背後で花火が打ち上げられた。ロベールの声はかき消されてしまう。
「あ……」
どうやら、千年祭の目玉である花火コンテストが始まったようだ。
閃光に照らされた二人は、関係が明らかになることを恐れるかのように慌てて距離を取った。
気まずい空気をごまかすようにして夜空を見上げると、打ち上げられたばかりの小ぶりな花火が目に入った。いくつもの黄緑色の光が点滅し、ふわふわと夜空をさまよいながら静かに消えていく。
その後も続々と、職人たちの趣向を凝らした花火が打ち上げられる。
でもリンは、小さな黄緑色の花火が一番心に残っていた。ロベールも同じ感想を抱いたらしい。
「俺、一番最初のやつが好きです。蛍みたいで綺麗でした」
「本当? 私もあれが好き。美しいけれど、どこか儚くて」
「えへへ、なんだかうれしいですね」
リンとロベールは顔を見合わせて笑う。二人の関係は、ぱっと咲いて散る花火のように儚いものだった。
◇◇◇
「ただいま神竜様」
神殿に帰ると、リンは真っ先にヒルデブラントの部屋へ向かう。彼はソファに座り、膝の上で頬杖をついていた。なんとも白けた表情をしている。
「ずいぶんと遅かったじゃないか」
不機嫌さを隠そうともしない、ドスの効いた声。つい先程まで公務をこなしていたヒルデブラントの顔には、明らかな疲れの色が見えた。
「ごめんさない、ちょっとトラブルがあって」
「聞いたよ。また例の友人が迷子になったんだって? まったく、リンの手を煩わせるなんてとんだ無礼者だね。君の友人じゃなかったらとっくの昔に処罰しているよ」
ミレイユはすっかり方向音痴の人として認識されてしまっている。
「おいお前。今日はリンのそばから離れていないだろうね?」
「は、はいっ! ずっとそばにいました……」
ヒルデブラントの刺すような視線に、セティは声を上ずらせて答えた。嘘の発覚を恐れているせいか、青い顔で震えている。
だが、彼は普段からヒルデブラントの前でそのような態度を取っているため、不審に思われなかったようだ。
「それならいい。もう下がっていいよ」
「はい……」
セティが退出すると、リンはヒルデブラントと二人きりになる。彼の隣に腰かけると、彼はいつものようにリンへ引っついてきた。
ヒルデブラントは、リンが頭につけていた仮面を手に取って眺める。
「……何が悲しくて、自分の記念日に仕事しなきゃいけないんだろうね。君がお祭りを楽しんでいる間、僕はずっと人間の相手をして疲れたよ」
「神竜様。念のため確認するけど、面倒だからといって使者の方たちに失礼な対応はしていないよね?」
「祭りの期間中に仕事をさせられているのは彼らも同じだからね。大丈夫、いつもより丁寧にもてなしてあげたよ。たぶん」
「ちょっと心配ね……」
ヒルデブラントの部屋からは花火が良く見える。
そろそろフィナーレの時間だろうか。打ち上げられる花火はより豪華に、規模も大きくなっていた。特に今のものは、最初は白一色だったが、赤、黄色、青、緑と次々に色を変えていく。虹を見ているかのようだ。
「なんだか神竜様の髪の色みたいね」
ヒルデブラントは、花火ではなくそれを楽しむリンの笑顔をにこにこと眺めていたが、リンに言われてようやく外の景色へと目を向けた。
「……ふぅん」
職人たちの技術の結晶に、さすがのヒルデブラントも心打たれたようだ。感嘆の響きが彼の口からこぼれる。しばらくの間、二人は無言で花火に見入っていた。
最後に、ひときわ大きな花火が打ち上げられる。眩い光が太陽のように夜空を照らしたかと思うと、やがて世界に静寂が戻ってくる――千年祭が終わったのだ。
「……なるほど、想像以上だったね。今までは全く興味がなかったけど、人間たちが夢中になるのもわかる気がする」
ソファの背にもたれかかると、余韻も冷めやらぬ、といった様子でヒルデブラントは息を吐いた。
「でもやっぱり、リンと一緒に見たから、というのが大きいかな。君が隣にいてくれるから、こんなにも世界が輝いて見えるんだ」
ヒルデブラントは愛おしそうにリンの肩を抱き寄せ、その耳元で囁く。
「次のお祭りでも、一緒に花火を見ようね」
「……次のお祭り」
ヒルデブラントはまるで来年のことのように語るが、千年祭ということは、当然ながら次回は千年後である。まだ十六歳のリンには想像できないほど、途方もない未来の話だ。でも、ヒルデブラントと結婚したら、リンは千年後も生き続けることになる。
――オルトリンデ様。あなたはそれで本当によろしいのですか。
かつてミレイユに言われたことを再び思い出す。
苦しい思いをしても死ねないこと。
普通の人の何倍も出会いと別れを繰り返すこと。
あの時は何の根拠もなく、なんとかなるだろうと考えていた。だけど、いざそのような状況に遭遇した時、自分は本当に耐えられるのだろうか。もっと別の生き方があったのでは、と己の選択を後悔することもあるのではないか。
突然芽生えた将来への不安に、リンは動揺していた。
「リン?」
「あ、ごめん神竜様」
返事がないため不安になったのだろう。ヒルデブラントが、心配そうな様子でリンの顔をのぞき込んでいる。
――神竜様の目の前でこんなことを考えるなんて、失礼よね。
リンは慌てて笑顔を作った。
「ええっと、次のお祭りよね? もちろん楽しみだわ」
「そう、だよね……」
うまくごまかしたつもりだったが、ヒルデブラントの顔は依然として暗いままだ。
そして、リンはそのことに気がついていなかった。




