不可視の投身:顛末②
阿部のところにその老夫婦が訊ねてきたのは二週間前、六月が終わる事だった。
「息子が何故死んだのか、その原因を調べて頂きたいのです。」
2人は席に着くなりそう言った。
老夫婦の息子、福田 優一郎は数ヶ月前、隣町の郊外に広がる"平原"で死体として発見された。
優一郎は営業マンの職に就いており、成績も優秀で社員との関係も良好、親や友人との揉め事もなく、事件性は愚か自殺の兆候などは皆無に等しかった。
しかし、彼は‘飛び降り死体として発見された‘。
鑑識が調べた結果、この場所に高い所から飛び降り、この地面に叩き付けられたと鑑定づけられたのだ。
唯一の問題はこの場所が開発の進んでいない平地のど真ん中だったこと、周囲に建物や建造物、背の高い木等のない原っぱの中心地だったことだ。
「平原の真ん中で飛び降り自殺、ですか。」
そう思わず口に出すと、夫人が目を覆いながらも頷く。
「ありえないことですが、鑑識の調査ではあの場所で落下したとしか考えられないそうです。」
夫人の背をさすりながら釈然としない顔でその夫が続ける。
「担当の刑事も困惑していました。捜査は難航し死因の判明以降進展は一つもない。藁にも縋る思い、と言えば失礼かもしれません。しかしどうか、お願いします。」
――理由を、知りたいんです。
消え入りそうな声だった。
阿部が福田優一郎の遺体発見現場を訪れたのは老夫婦の依頼を受けた次の日のことだった。
警察といえば言わずもがな捜査のプロだ、鑑識などは言うまでもない。
そんな連中が一歩も前に進めない事象に辿り着けるとは到底思えなかった。
それでも、依頼を断ることが出来なかった。
優一郎氏を死に追いやった‘なにか‘や犯人がいるとして、そいつを見付けたり捕まえたりすることは恐らく不可能だろう。
それでもなにか掴めるものがあれば――そう思ったのだ。
阿部が住む街から二駅、15分程電車に揺られ、駅を降りてから歩くこと21分。
隣町の郊外に広がる原っぱの中心にそれはあった。
草の上に引かれた白い線が人の形を作っており、周囲の草は何やら黒ずんでいる。
「――ここか。」
阿部はそう言って辺りを見回した。
(ひょっとしたら何か見つかるかもしれない…)
等という考えはとうの昔――原っぱが見えてきた頃にはとっくに消え失せていたが、それにしたって何もない。老夫婦に聞いた通り一面の原っぱだ。
――誰かがクレーンか何かで吊り上げて落としたのか。
とも考えたが、こんな何もない野原にクレーンが入り込んで来たら流石に目立つ。
それに周囲の地面に大型車両が通った痕跡もなかった。警察もそれぐらいのことは調べがついているだろう。
阿部が頭を振りもと来た方へ向き直ると、もう自分の影がゆっくりと伸び始めていた。
今日は帰って、明日交友関係を洗ってみよう。と考えを巡らせていると、
――不意に影が呑まれた。
はじめ、日が沈んだのかと思い、直ぐにその考えを打ち消す。
日は確かに傾いてはいたが、ここまで急速に落ちることなどありえない。
それに今日は雲一つない、一体何が――
そこまで考えたところで阿部は
”自分の直ぐ後ろに何か大きなものが現れたのではないか”
その可能性に辿り着いた瞬間、彼の全身を駆けたのは興奮だった。
”もし後ろに何かが現れたのなら”
”もし…その何かに、てっぺんから落ちれば確実に死ぬことが出来る高さがあるのなら”
誰もがこの数ヶ月辿り着けなかった真実が直ぐ後ろにあるのかもしれない。
阿部の中で長年姿を隠していた探偵としての飽くなき探究心が、ここに来て彼の全身を駆け回っている。
…しかし、依然として彼は棒立ちのまま、振り向けずにいた。
好奇心は猫をも殺す。
長年の経験から、この感情が身にもたらす厄災がどれほどのものかを良く知っていたのだ。
振り向けば何かが起こる、しかしこの期待を抑えられるものか。
感情と理性の狭間で葛藤していると-
-――ドサッ。
背後で何か重たいものが落ちる音がした。
同時にぐじゅりと何かが潰れ砕ける音がする。
-――ズシャア。
と、また何かが落ちる音がした。
-―ドシャッ――ズン――グシャ。
背後で絶え間なく何かが落ちてきて、そして潰れている。
ふと下を見ると、いつの間にか足元はどこからか流れ出てきた血によって真っ赤に染まっている。
その血がゆっくりと野原の草や地に染み込んでいく様を見て、今度こそ彼は動けなくなる。
そんな阿部の肩を、がしり。と何かが掴んだ。