不可視の投身:再開①
「暑い。」
誰にいう訳でもなくそう呟いた。
その言葉が耳に入ったのか、見知らぬ老人がすれ違い様に小さく頷く。
ささやかな感情の共有だったが、ほんの少しだけ救われた様な気がした。
今は8月、遥か天空の彼方から太陽がじりじりと肌を炙る。
俺―――黒鋼 譜鳥はそんな灼熱の日の中、古い知人に呼び出され彼女の住むアパートへ向かっている最中だった。
はじめは当然の如く断ったのだが、彼女が諦める筈もなく、持ち前の情報網を駆使し俺の行く先々の電話を鳴らすため泣く泣く引き受けざるを得なかった。
アパートの一室に辿り着き、ため息を付きつつチャイムを押した。
...返事がない、続けてノックする。
...返答が無い。
もう一度ため息をついた。
「呼びつけといてこれか...」
顔を顰めつつ何の気なしにドアノブを回すと
―――ガチャリ、と抵抗なく回る。
何の躊躇いもなくドアを開け放ち、
「あぁ…」
と喉から声が漏れた。
玄関から、トイレとキッチンに挟まれた長さ2,3m程の廊下とその先のワンルーム。
それは見るも無残なゴミ屋敷と化していた。
至るところにゴミ袋が置いてあり、その全てにゴミが敷き詰められている。最低限の分別はしてあるようだが、カップ麺や煮物の残り汁も乱雑にぶちこまれており、どこからか匂いが漏れだしている。
そんな中で衣類だけは丁寧に畳まれ整理されており、彼女の外面の良さを思い出させた。
「異臭がしてないだけマシか…」
彼はそう呟くと土足で部屋に上がり込む。
以前訪れた際、馬鹿正直に靴を脱ぎ、白い靴下を真っ黒にしてしまって以来この部屋への礼儀は捨て去ることにしたのだ。
足元に転がる空の消臭スプレーを見ながら苦笑していると、
「―――まるで異臭がしていた頃があったかのような言い草ね。」
不意に、部屋の奥から澄んだ声が切り込んできた。
小さな部屋に不釣り合いなゲーミングチェアがゆっくりと回転しこちらへ振り向く。
そこには俺を呼び出した知人、
稲嶺 薫がまるで女王の如く鎮座していた。