不可視の投身:終
あの平原から一番近い街のはずれに、かつて4階建てのアパートが建っていた。
そのアパートの102号室には、親子が住んでいた。
母と子の二人暮らし。
始めの頃は父親が居たが、賭けに負けたとかで姿を消したらしい。
母は懸命に働き家庭を支えたが、やがて娘は学校を休みがちになり、とうとう登校しなくなった。
母は毎日、娘に登校するように説得したが、やがてそれは口論に発展するようになった。
そしてある日、娘がアパートの屋上から身を投げた。
娘が学校でいじめにあっていたことが判明したのは、それから数週間後のことだ。
周囲は母を責めたが、やがて母もまた屋上から身を投げるとそれまで声を上げていた周囲はピタリと口を閉ざし、母子に関しての話を徹底的に避けるようになった。
娘をいじめていた子が、そのアパートから身を投げるまでは―――
「…調べたんですが、それから5年の間に一連の出来事の関係者が次々と不審な死をとげているんです。
きっとこの時にはもう、既に怪異が生まれていたんじゃないかって…。」
紅原は語る。
「私、最初はこの母親が怪異の中心なのかもって思ってたんですが、今になって考えると…娘なんじゃないかって。そんな気もするんですよねぇ。」
そう言って後輩は話を締めくくった。
「…そんなことより。
なんでお前はまた俺の部屋に居るんだよ!」
黒鋼はベッドから起き上がり、苛立った様子で声をあげた。
時間は午前7時40分。
朝起きると後輩がベッドを覗き込んでおり、黒鋼は思わず声を上げるところだった。
「オマケに朝からそんな怪談話なんぞ聞かせやがって…せめて夜だろ夜!」
「夜なら良いんですか?」
「そんなことは言ってない。」
黒鋼は両手を振り呆れた、のジェスチャーをし、欠伸をして洗面所へ向かった。
―――とてとて。
とどこか間抜けな足音を立て後輩が付いてくる。
「お前さぁ…」
歯ブラシを手に取りつつ鏡越しに後輩を睨むが、紅原は「?」と首を傾げてこちらを見つめてくるだけだった。
「まぁ…もう、いいや…」
「そんなことより先輩!こんな噂を知ってますか!」
「昨日の今日だぞ!?懲りろよせめて一日くらい!」
黒鋼の叫びが部屋中に響き渡った。
「…お前、病院行けよ。」
黒鋼がおもむろに紅原へ言う。
「…い、いきなり言い過ぎですよ…す、少しは反省してるんです。」
紅原は流石にまだ本調子ではないのか、急に弱気になった。
「そっちの意味じゃない。まぁそれもあるけど、」
「えぇ、ひど―――
「お前、屋上から落ちただろ。」
黒鋼が続ける。
「俺が下になったし、不死鳥の余波である程度回復したのかもしれないが、お前もそれなりの衝撃を受けた筈だ。」
一度詳しく検査した方がいいぞ。
そう言うと紅原は、あぁ…と納得したように頷いた。
―――じゃあ今日の内に行こうかな。
とバックをガサゴソと漁り、保険証を探し始める。
そんな後輩を横目に黒鋼はテレビの電源をつけ、チャンネルを朝のニュース番組に切り替えた。
そして動きを止めた。
「こちら現場です!〇〇駅から〜km程離れた平原の一部が、大きな炎に包まれています!」
あの平原が、炎に包まれていた。
「ここは最近連続して不審死が発生している現場らしく、関連性が疑われています!」
炎から100m程離れたところで、キャスターがその様子を実況している。
丁度消防隊が到着したのか、消防車の音がスピーカーの向こう側からうっすらと聞こえてくる。
「先輩、これって…」
後輩が気付いたのか神妙な面持ちで近付いてくる。
「あ、あれは…!」突如キャスターが炎を指さし、
テレビカメラがアップで現場を映しだす。
そこには―――
「息子を…息子を返せぇぇえええええ!」
「返しなさい!!返しなさいこの悪魔ァァ!」
炎に包まれながら叫ぶ老夫婦がいた。
「アァァァア!!」
「焼き尽くされろォォォ!!悪魔メェェ!」
老夫婦は全身が焼けただれ、それでも必死の形相でそこにいる何かに向かって叫び続けている。
「おい…よせっ!」
テレビの向こう側の偉い人が気付いたのか、
突如カメラが向きを変え、スタジオに映像が切り替わった。
スタジオのアナウンサーは暫くの間唖然とした表情を浮かべ固まっていたが、数秒後には次のニュースを読み上げなんとか場の雰囲気を戻そうとしている。
「あの二人、被害者の福田さんの両親ですよ…!」
後輩が思い出したように声を上げた。
「調べていた時に聞いたんです、あの後カルト教団に付け込まれて、おかしな方向に向かっているって。
…あの事件現場には悪魔が潜んでいて、祓うためにはお布施が必要とかなんとか…」
黒鋼は何も答えない。
「先輩…これって…こんなのって…」
返事がない。
「せん、ぱい…?」
紅原が目を向けると、黒鋼の左眼から血が流れ、緑色にうっすらと光り輝いている。
「な、何か見えたんですか…!?」
「燃えてた…」
返答があった。
「建物と、女が、燃えていて…叫んでた。」
それを聞いた紅原は、バッとテレビを見るが
既に画面はスタジオに切り替わっていて、アナウンサーのぎこちない顔が映っているだけだった。
「怨嗟の炎を燃やし尽くすのは、より強い怨嗟の炎…ってことか…。」
そう言って黒鋼は深く息を吐くと、ソファにゆっくりと沈み込んだ。
「ははっ…簡単なことだが、元から俺達にはどうしようもない話だったな…」
自嘲気味に呟く。
「でも、こんなのって…こんなのって…!」
紅原がわなわなと震えている。
「あぁ、そうだな。」
黒鋼が手を伸ばし、後輩の頭を撫でる。
やがて後輩は―――スッ…と黒鋼の胸元に収まると、静かに…それでも堰を切ったように泣き出してしまった。
「…もっと他にあんだろ…なんかよ…」
返事はなく、暫くの間、
後輩が鼻をすする音だけが響いていた。




