不可視の投身:帰還
辺りはすっかり暗くなっていた。
「…鍵が開いてるんだけど。」
本田は自宅、玄関の前で青ざめながらそう言った。
「あぁ、稲嶺が来るって言ってたな。」
完全に忘れてた。と黒鋼が目を背けつつ答えた。
紅原が目を覚ましたのか「んん…」と声がする。
本田は「えぇ…。」と複雑な表情を見せた後、
手汗の滲んだ掌を拭い扉を開ける。
「あら、遅かったわね。」
本田宅のリビングには我が物顔で居座る女が一人、そして―――
「おぉ〜帰って来た!無事だったんだな!」
と豪快に笑う男が一人居た。
「稲嶺さん、ここ俺ん家なんですけど。」
「そうね。」
「そうねって…まぁ、いいやもう。」
本田が稲嶺の家宅侵入を咎めようと試み、一言目で諦めた。
その様子に苦笑いしつつ、黒鋼はもう一人の男へ向き直る。
「勝、お前無事だったか。」
―――犬神 勝
二人に先んじて怪異へ向かった筈の男だ。
日に焼けて茶色がかった髪、鋭い犬歯、サングラスが組み合わさり凶悪な面構えに見える。
「いやー、全然無事じゃない。無様にやられちまってなぁ…さっきこの近くに”リスポーン”したんだよ。」
―――いやぁ参った参った。
そういって笑いながら勝は机をバンバンと叩く。
ついさっきまで”死んでいた”とは思えないテンションだ。
「まぁ、んなこったろうと思ったよ。」
「…だなー。」
黒鋼と本田は顔を見合せ、そして考えるのをやめた。
「せ、先輩…その、降ります…す。」
不意に後ろから声が掛かった。
先程からモジモジと動いては沈んでいたが、やっと持ち直して来たらしい。
そっと降ろしてやると、―――っとと。
と少しふらつき、そして足元を確認するようにその場で二、三歩足踏みする。
「瑠夢ちゃんんん!災難だったわねー!」
「ぎゅむっ」
稲嶺が紅原を抱きしめる、
―――というより、あれは捕獲に近いな。
黒鋼は目の前に広がる光景をどこか冷静にそう判断し、近くのソファにドサッ。と座り込んだ。
「うし、じゃあ夜飯にしよう。本田の金で特上寿司頼んでおいたから。」
勝がこともなげに言う。
「はぁ!?お前何してんの!?」
「そんなに怒るなよ、昨日久々に勝ったんだ。
半分は出してやるって。」
「全部だろうが全部!」
勝と本田は暫く取っ組みあっていたが、そのうち落ち着いたのか両者とも椅子に座り直した。
「今度お前に同じことすっからな。」
「おう、その日勝ってたら払ってやるさ。」
…恐らく反撃の機会はやって来ないだろう。
そんなことを考えているうちに、稲嶺がどこからか大きな寿司桶を持ってくる。
「おぉ…」
と紅原が唸り声をあげ、途端に
(グゥゥゥゥ)と腹を鳴らした。
「あ゛っ!えっと、その!」
「あはは、璃夢ちゃん多分朝から何も食べてないでしょ〜。ほらほら食べな!」
稲嶺に促された紅原は椅子に座り、
おずおずとしめ鯖を摘みあげ口に放る。
「美味しい…」
そう呟き、また一つ寿司を摘む。
よく見ると目の端に涙を浮かべている。
そんな紅原につられて、稲嶺、本田、犬勝も
手を合わせ、寿司をつまみ始めた。
「おい、お前も来いよ。」
勝が呼ぶ。
「んにゃ。」
黒鋼はスッとソファから身を起こし、玄関に向かって歩き出した。
「帰る。」
四人が黒鋼の方を向く。
「食べないの?」
「せ、先輩も…」
「美味ぇぞ〜」
それぞれが口々に、一堂に引き止める。
「俺はいい、本田は…今度メシ奢るわ。」
「おけ。」
本田に一言だけ断ってから、玄関の扉を開いた。
「―――先輩!」
後輩が走り寄ってくる。
「わたし…その…」
「お陰で死ぬとこだった。」
「…う。」
後輩の身が竦む。
「これに懲りたら、もう巻き込んでくれるなよ。」
「…。」後輩は何も言えず俯いた。
すると、玄関の扉が閉まる直前。
黒鋼は後ろ手に扉を掴み、ほんの少しだけ扉が開いた状態で振り向いた。
「そういえば、後輩。」
「は、はい。」
「お前、一つ目にしめ鯖を選ぶとはセンスがいいな。」
「はい?」
―――バタン。
紅原が当惑しているうちに扉は閉められてしまい、彼女はそのまま暫く立ちすくんでいた。




