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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ヒーローかわいそうだね

ヒーローやめればいいのに

作者: 猫村空理

 努力家でいじっぱりな女子高校生ヒーロー、崎守ユーカはある日、一般市民の真木村先輩から突然デートに誘われる。思わず了承したはいいものの、危険な怪人から妙に粘着されている彼女は、はたして無事五体満足のまま約束の日を迎えられるのか?


 あるいは拙くて血まみれで報われないおろかな恋。*弱めのアクションと強めの人体破壊があります。注意!


 モニターの中で授業が終わる。ノートの出来を確認して、外したヘッドホンを机に置いた。教室に備え付けのヘッドホンは少々年季が入っていて、つけているだけで首に負担がかかる重さだ。

 自由になった耳に、テニスコートでボールが弾む音や、野球部の喚声が届く。普通科の方はとっくに放課後を迎えて部活動の時間らしい。


 人の気配に隣を向けば、そこにはなぜか普通科所属の先輩がいる。週に数回しか登校できない私のクラスメイトに変わって、ぎしぎしきしむ椅子を占領していた。学年の違うヒーロー特待科の教室までわざわざやってきたくせに、先輩は机に肘をついてただ私を見ている。

 淡い色の前髪を透かして、黒々とした瞳。底なしの暗い色は、むかし海に引きずり込まれて一瞬目にした海溝のようだ。落ち着かない。見られているだけで心臓が速くなる。トラウマだろうか。でも、あの海は綺麗だった。


 しっかり目が合っているのに彼は微笑むだけで、なにも言いださなかった。この人はたまに妙な間の取り方をすることがあって、そこも落ち着かない。どうしたらいいかわからなくなる。

 色々考えて、結局ただ名前を呼んだ。



「……真木村先輩」

「ユーカ。今日は学校来られたんだね」

「はい、午後から」

「ずっと勉強してたんでしょう。お疲れ様。偉いね」



 先輩の屈託ないねぎらいに、「普通です」とだけ返した。別に褒められるようなことじゃない。私はヒーロー業務で生じた遅れを、取り戻す必要があるだけ。やらなきゃいけないからしているだけの努力なのに、偉いって言われるとむずがゆい。

 鎖骨に落ちかかった自分の白い髪を、指ですくってくるくる巻く。私のちょっと愛想に欠けた返事と視線へ、生ぬるい笑みが返ってくる。なにがおかしい。ペンとか、投げつけてしまいたくなった。しないけど。



「それ、だけ、言いに来たんですか」

「そうだね、お疲れさま、って言いたかったのはあるよ。あとは、ユーカが学校に来てるの珍しいから会いたくて。同じ学校なのに、科が違うとこんなに会えないものなんだね」

「それ去年からずっと言ってないですか? ヒロ特が特殊なんですよ」

「本当にね……」



 会うたびいつも変わらない、生産性のない会話だ。先輩が教室の中まで来ることは稀だから、今日は私に用事があるのかと思ったけど。単なる気まぐれだろうか。そうなのかもしれない。数週間会わない間に忘れかけていたけれど、もともと行動に原理がないタイプだったかも。

 あと、さっきからめちゃくちゃ顔を見てくる。



「……なんですか先輩」



 問えば、すらっとして無駄にきれいな指が、私の唇を指した。



「今日、キラキラしてるね。口も瞼も」

「え! わかりますかっ」



 メイクの話だ。先輩気づいてくれた。素直にうれしい。頭が一気に趣味のほうへシフトする。つい前にのめった肩を、緩く巻いた髪がひとふさ滑り落ちる。打って変わって、言いたいことがすらすらあふれる。だってこういう話、聞いてくれる相手なんか普段私の周りにいないのだ。



「今日のテーマ『水晶』なんですよ、わかりますか? 色みを抑えて多色のラメ盛りました」唇をむにゅっ、とつまんで見せる。「これ、シティナイトオパールって新色です。ラメ盛り盛りでちょっとざらざらするんですけどかわいくないですか?」

「う、うん。かわいい」

「いい匂いしたから舐めたら苦かったです」

「メイクに必要ないチャレンジ精神……」

「なんか先輩も似合いそうコレ。ね、つけてみませんか?」

「えっ? 僕? ああ……じゃあ、お願い」



 あっさり肯う返事とともに、先輩が私を向いて目をつむる。無防備な表情だと頭のすみで思う。

 ポーチから取り出した新色のグロスを、彼の唇へペタペタのせた。血色なくただきらめくばかりの唇は、色素の薄い先輩にあんがい似合う。唇に手を入れただけでなかなか神秘的な仕上がりになった。

 手鏡を渡すと、覗き込んだ彼は「これが僕〜?」みたいなリアクションのあと破顔した。彼はあまり、コスメの実験台になることに抵抗がない人だ。


 私の好きなものを、先輩はからかわないし、フラットに歩み寄ってくる。そういうところが……なんというか、変。いつもそわそわする。でも、客観的に見ればそれは、先輩は優しい、って表現できるのかもしれない。

 先輩が鏡面から顔を上げてまた私を見つめた。淡い色の中にインクを落としたみたいな黒瞳。目が合うだけで内心動揺するから悔しい。私はちゃんと人の目を見て、堂々としていたいのに。



「ユーカ」



 今度は珍しく私の様子を伺うような、控えめな声音だった。



「は、はい」

「僕とデートしない?」

「は」

「このまえ鼻血が出ちゃって、福引でティッシュもらおうとしたら、美術館の特別展入場券当たったんだよね……。二枚。ティッシュ以外渡されることあるんだね、あれ」



 ものすごく間抜けなエピソードがおまけでついてきたけどそれどころじゃない。

 ペアチケットが余って、なんて、そんなベタな。デートって言ったこのひと。美術館デート? 真木村先輩と? 誰が? 私が?

 先輩は私とデートしたいの?



「でっ、で……。デートっていうか、それはチケット消費要員じゃ……」

「デートが嫌だったらそれでもいいけど」

「い……」



 嫌なんだろうか。わからなかった。ただその甘やかな響きを認めるのが、なんとなく癪だということしか。

 結局、嫌ともいいとも言わずに濁した。それはちょっとずるくて、ヒーローらしくないことのような気がした。でも、でもさ、これは、許してほしい。デートはヒーローの仕事じゃないのだ。

 唇を柔く噛んで、すり合わせて、ラメの乱れたそれを開く。細く息を吸うのにこんなに苦労する。オフで一緒に出かけようって、それだけのことなのに動揺しすぎだと自分でも思う。舌もなんだかもつれて上手に動かなかった。



「日曜なら……お仕事、ない、私……」

「なんか、カタコトですね? 崎守さん。考えてくれるよってこと?」

「……ヒーローのお休みは貴重なので、そこ、心してください。先輩が遅刻しても帰りますし先輩の私服がダサくても帰ります」

「ふふ。うん、気を付ける。じゃあ、約束ね」



 私用の端末に予定を入力しようとする私へ、滑らかでほっそり長い先輩の小指が差し出される。

 グロスの下でちょっとこわばった先輩の唇と、四角い爪の指を見比べて、それから私は端末を置く。先輩の指に自分の小指を絡めた。


 ひやりとした温度が肌の上に指輪のように巻き付いて、ずっと離れなくて、やっぱり先輩と関わると私は落ち着かなくなる。
























 約束は違えないのがポリシーだ。

 日曜日に万が一にも予定が割り込まないよう、前倒しでできることは今のうちに片付けようと思って、気づけば忙殺されていた。

 討伐、巡回、防衛、身体と精神の検査。それからなんだか知らない雑誌の取材。母親が昔モデルをやっていたせいで、おかしな売り出し方をされたりする。度を過ぎなければ興味はないけど。


 目まぐるしい毎日の中で、「デートと呼ぶべきかいまだに判断できない名状しがたい予定」への、残り日数をいつのまにか数えている時があった。昨日より今日ひとつ数字が減る。間違えようのない初歩の計算を繰り返してはその推移に恐々とした。


 服はどうしようかな、とか。先輩なんてどうせぼんやりした私服しか持ってなさそうだし、私が合わせてあげないと、かもしれない。でも私の髪は白いから、淡すぎると幽霊みたいになってしまう。任務の合間に色々色々考えてしまって、私をチェックしているオペレーターにも少し怒られた。

 そうして服装ひとつ決められないでいるうちに、例の予定は目前に迫っていた。


 土曜日だ。吹きさらしの海風が髪を巻き上げる。湾岸地域に構えたある街の防衛のために、補助要員として駆り出されていた。私が籍を置く乃扇市から、新幹線で約一時間。



『アエロくん』



 インカムから聞こえたオペレーターの声に「はい」と返す。アエロは私のヒーローネームだ。正式にはもっと長い。



『三時の方向の海中に敵影があります。推定数は五十。君は上空から、偵察と援護につとめなさい。危険だから、なるべく海面に降りないように』

「了解」



 ぷつ、と通信が切れる。

 海中から敵がやってくる。ノアの方舟とかいう敵対組織は、海の底にアジトを隠している、なんて噂がある。実際のところその所在は突き止められていないけれど、確かに海岸線での任務は比較的多かった。

 テトラポットの表面へ足の鉤爪をひっかけて立つ、私のつま先にしぶきがかかった。


 身にまとう山吹色のボディスーツには腰から一対の翼が生えている。ノアの怪獣ハルピュイアを鹵獲し解体、その部品から造られた、私のためのヒーロースーツ。空は飛べるが攻撃手段に乏しい。偵察や陽動、攪乱が私の主な役目だった。

 スーツは生きている。温かく血の通う被服の操作にはとっくに慣れて、生まれつき有翼のように空を飛べる。テトラポットを蹴り、翼で何度か空を打って、空気の流れをつかむ。

 私は太陽光の下で目が利く。遥か上空からでも、波間に異形たちの影を視認した。海中から訪れる百鬼夜行だった。魚人の類が多いけれど、大半は言い表しがたい形状をしている。基本的に、彼らは各地の伝承をもとに造られているらしい。私は神話とか伝説なんか興味がないから、大抵外見上の特徴だけで識別していた。


 見つめる先で海の色が、ふと深くなった気がした。眉を寄せる。慣れ親しんだ、嫌な感じだ。ぐん、と高度を上げた私の、元いた位置に一抱えほどもある触腕が伸びてのたくった。

 舌打ちした。最悪、また来たコイツ。

 白い体が水を押し上げ浮上する。ちょっとした戦艦のような、それは巨大なイカだった。クラーケン、と呼ばれる海魔。

 ちなみに顔馴染みだ。興味がないのでよく知らないが、種固有の能力以上の異能があるとかないとかで、彼は器用に身体を変化させる。

 眼下でみるみる巨体を縮め、十本足の上に青年の上半身を作り出した。濡れた前髪の奥から、不気味な横長の瞳孔で私を見上げる。



「……ひさしぶりだね。……アエロ」

「ケートス、しつこい! あんた、先週も会わなかった?」

「……好きだからね」



 怪人ケートスは、いつもああいう歯の浮くようなことを言う。うえ、と舌を出した。中学に上がり、ヒーローとして実戦に出始めたころからの腐れ縁だった。私はヒーローなんだから、とっくに倒すか倒されるかしていなければいけないのに、いまだ敵として関係の続く汚点。


 空中で体を反転させ、鋭く旋回しながら上空へ逃れる。空気の薄さを肌で感じる高み。それでも内心油断はできなかった。あの巨大イカの触腕といったらとにかく伸びるのだ。

 索敵結果を報告しながら雲に迫る高度へ達する。吐き出した息が凍る。強化済みの身体は気圧や気温の影響を低減する。平気だ。

 翻って一息に翼をたたむ。

 頭を下へ。空気抵抗を減らして重力に身を任せる。加速。空でわずかに身をよじり、伸ばされた吸盤の腕をかわす。かすめた頬が、じゅ、と削れた。潮味の血しぶき。


 そうして一息に肉薄した彼の首へ両脚を掛ける。つま先とカカトの鋭い爪が彼の喉笛を切り裂いた。ばつん! と弾けるような音、暗青色の血が吹き上がる。

 身をひねった私の風切羽が飛沫で青く濡れる。白い髪先も藍の血を吸い、息をすれば胸へ深く銅が匂った。死んじゃえ。死ね。今日こそ。



「っ……」



 彼の息が震える。青白い腕が私の羽を撫で、ずるりと海中へ落ちる。見届けてから翼を広げ、上空へ戻ろうとした。

 私の足首が強烈な力でとらえられた。



「ッあ」

「ア゛エ゛ロ゛ォ。……本当、甘い゛よ゛ね゛え゛え゛!」



 深い場所から吹き上がるような、泡交じりの声がした。耳元だった。あっという間に伸縮する多腕に身体を抱き込まれていた。

 雑巾でも絞るみたいに、私の手足が締めあげられる。



「うあああああああ!?」

「……はあ。……アエロ、僕のこと、殺す気あるの? ……本当に?」

「ふっざけ、ッいぎ、あ゛っ」



 四肢の根元から、みち、と厭な音がした。

 肩の関節も、肘の関節もとっくに外れて皮膚の下でぐるりとまわる。

 私の喘ぐみたいな情けない悲鳴。それが聞きたくなくて、必死になってもがくけれどダメにされた腕じゃ叶うわけもなかった。十本脚の怪力に全身を絡め取られてずぶずぶ引き込まれていく。内臓が口から出そう。

 殺す気ならある。いつだって本気だった。全部の攻撃が必殺のはずなのに、このイカ男の身体がぐにゃぐにゃ変わるせいで急所がよく分からない。へらへらと攻撃を受け流されて、こうやってつかまって、そして。



「……なんか。……懐かしいね。……二回目に会った時に僕。……君の手足、全部。……ちぎらなかったっけ?」



 あれ、あの後どうしたの? 泣きながら頑張ってくっつけた? 再生医療? それとも義肢?



「うるさい……うるさい、うるさい……っ!」



 頭を振って喚いた。耳に吹き込まれる言葉たちが不快で、不快でたまらない。

 そうだ、中学二年に上がったばかりの頃だった。この男に海へ引きこまれて、根元から両手両足捥がれた。見開くしかなかった瞳に、私の血で嘘みたいに赤い海面が映っていた。

 あの頃の彼は人の殺し方を知らなかったようで、私は虫の息で救出された。医療棟へ運び込まれ、右の手足はくっついたけれど、左は虫がわいて使えなかったから新しく培養して無理やり嵌めた。痛くて、私どうなるんだろうって、底なしに怖くて。思い出したくない、苦痛の記憶。


 いま逃げられなきゃ二の舞だ。今度は確実に、この男は私の息の根を止める。喉に入った海水を吐き出す。覚悟を決めてもがくのをやめ、目の前の胴へ組み付いた。あはは! と忌々しい男が愉快げに笑う。


 ケートスの頭に見えるモノはたぶん頭じゃない。姑息なデコイだ。

 本物のイカは頭足類で、脚の付け根に脳がある。やたらタフなうえに可変の男だが、経験上、内臓の位置は変えられても主要な臓器を体内から消すことはできないみたいだ。人間体の頭部に脳がないなら、腹部が一番ありえそうだった。


 相手の腹に足をかけて、異形の鉤爪に力を込める。爪の下で弾性のある筋肉がブツンブツン派手に断ち切られる。分厚いゴムみたいにひどく硬かった。爪を立てるだけで私の傷口からも血が噴き出す。いたい。でも、負け、たくない。



「死……ッね、死ね、死ね! 死んで、みんなに、詫びろっ!」

「あぐ、ぁ、……ぁは。……アエロ、かわいいね、ッく」

「ばかに、しないでっ……!」



 私と彼の全身を青い血が染め、ヒーロースーツの溝に入り込んで流れる。痙攣する触手が私の身体を這い上って巻きつく。

 引き寄せられるまま、とどめに生白い腹の真ん中へレーザー弾を打ち込んだ。重くもない引き金を引くたびに、関節の外れた腕が熱を持って震えた。どぶ、滝のような藍の血があふれて海中に水流を生んだ。ぐう、と唸る吐息を漏らし、十本の腕がわずかに緩む。


 しゃにむに身をひねって腕の内から脱出した。海水と血と粘液で重くなった翼を開く。ほうほうの体で空へ逃げた私の身体が、中空で、くん、とリードを引かれたように止まった。

 腰から生える右翼の付け根に、触腕の先が引っ掛かっていた。



「ひ」



 力任せに片翼をむしり取られる。



「あ、ッあ、あああああああッ!?」



 激しい痛みが脳を灼いた。

 ヒーローはスーツと神経を連結するから、その損傷は脳へ甚大なダメージを与える。ちぎれた羽の根元から人造の血液と青い火花が迸る。ばちばち、光る。空中で身体の制御を失ってまっさかさまに墜落した。


 その私の横腹へ、触腕の先が突き刺さる。むりやり腹腔へ侵入した先端がお腹の内側を掻きまわした。内臓、触られて、い、いた、いたい?

 混乱していた。頭の底がびりびりしびれる。硬直した舌があふれた胃液で濡れてひりついた。鼻の奥がツンと痛く血と酸の匂いに満ちている。ぎゃあああああああと恐ろしい悲鳴が自分のものだなんてわからなかった。

 串刺しにされたまま、空へ高々掲げられる。冗談みたいな量の血液が彼の腕をながれて吸盤にたまり水面を真っ赤にした。


 目がかすむ。けど、目を凝らすとケートスの方もやはり顔色が悪い。腹に開いた穴を片手でかばう、その指の隙間からも青い水が湧出する。

 それでも彼は笑っていた。身を乗り出して、私だけに聞こえる声量でささやく。



「……アエロ。……早く、ヒーローなんて、やめなよ」

「う、あ、あぐ、あああ」

「……アエロ、君。……早晩死ぬもの」

「黙れっ、うあ、あああああ! 殺してやる……! 殺す!」

「……アエロはそういう言葉と無縁で。……生きてたほうが、よかったと思うよ」



 いつも、決まって、絶対。この男は「ヒーローをやめろ」と言う。どんな戦いの終わりでも、ルーティンのようにそれを繰り返す。こんなに辱められて、それで私が、彼の言葉に従うなんてできようはずもないのに。


 ゴロゴロと喉が鳴る。吐瀉した血液が彼の頭へ降った。頭髪もまつげも、彼は身体中すっかり私の血の色に染まっていた。そのおもてが、なにかを聞き取ったようにピクリと上がる。思案げに目を細め、数秒。

 私に突き立っていた触腕が無造作にふりはらわれ、吹き飛んだ身体はテトラポットのひとつに衝突して隙間に引っかかった。ざぶ、と彼が沈む音が間遠に聞こえた。



「……目的は達成されたから、今日はここでおしまい。……神体の回収は、無事に完了した。……あれで本物の神は、創れないだろうけど。……化け鯨くらいには、なるかもね?」

「じゃ……あ、あんたは、陽動……?」

「……ふふ、うん。……じゃあね、アエロ。……さよなら、またね」

「海の、底で……そのまま、くたばれ」

「あはは」



 最後に私へ手を振って、彼は水底へ潜っていく。水中で髪が揺らぎ、溶けだした私の血液が黒く揺蕩って帯になる。じっと、姿が見えなくなるまで見送って、それから瞼を閉じた。



「……からだ、痛い」



 呼吸すら苦しくてやめてしまいたい。こんなにぐちゃぐちゃになるの、久しぶりだ。スーツを着ていなかったら人の形すら保ててないかも。

 だから、よかった。ラッキー。私はまだ五体満足で、救命の可能性だって残っている。


 そして、もう、ここで私に頑張れることはない。救援が間に合うか、間に合わないかの問題だ。強い脳内麻薬で意識はふわふわとかすれていて、私は自分のことだけ考えていればよくて、なんだかそれはすごく気楽だった。


 ここで死んじゃったらパパとママは泣くかな、とか。

 しばらく会えてないけど、私のこと忘れていないかな。離れないように、離れても家族でいられるように、そう言ってもらえるように頑張ってきた。頑張って、頑張りぬいて、時間を作って家族らしいことができるように。みんなが持ってる絆を、うかうかしていると私だけ失ってしまいそうで怖かった。


 あと、真木村先輩は、泣くかな。デートに行けなくて、チケットが余っちゃって、それで悲しくなってくれるだろうか。それが今日はやたらと、頭から離れなかった。いや、死ぬ気なんて、ないけど……。



























 目を覚ますとそばに人の気配があって、すこし驚いた。

 ヒーローの病室は基本的に人払いされる。私たちの身体能力は、スーツとたくさんの手術によって造られたもので、無関係な人にその痕を晒すべきではない。技術が流出するかもしれないし、ヒーローが先天的な超人じゃないと、気づかれるのも困るから。お見舞いなんてしてもらえるはずない、のにその人はそこにいた。


 彼は深くうつむいており、色素の薄い髪とつむじのうずまきだけが見えた。すべすべして綺麗な手が、内出血まみれで悲惨に青黒い私の手を、布団の上で握りこんでいた。その手をそっと揺らす。


 関節は意識のない間にちゃんとはまっていたけれど、ちぎられかけた腕の付け根が鈍く痛んだ。手の感触と私が痛みに息を詰める音で、彼はぱっと顔を上げた。


 夜より深いぬばたま色。どうしたって無視できない濃色の瞳が、食い入るように私を見つめた。彼はなにも言わなかった。ただその喉が震えているのが分かった。

 そっと、つないでいない方の手で、彼は私の脇腹に触れた。上掛け越しに、本当にやさしく触られただけなのに、走った衝撃で顔をしかめた。瞬きもなく一部始終を眺めて、それから彼は「ごめん」とつぶやく。強化された聴覚じゃなければ聞き取れないほど、かすれた言葉だった。


 なんと声をかけるべきか悩んで、結局口から出たのは謝罪だった。



「せんぱい、チケット、むだにして、……ごめんなさい」

「なに……いいよ、そんなの。どうだっていいことだよ」

「どう、でもよくない。先輩、たのしみにしてたでしょ」自分が言った言葉に違和感があって少し考える。「ちがった」と口からこぼれていた。

「ん? なにが?」

「私がね、たのしみだった」

「……そう」

「デート、さそわれたことなかったんです」

「そっか」



 何度でもチケット用意するから、とちょっと早口になった先輩の言葉が、もし冗談でも嬉しかった。

 繋いだ手は離されずに、もうはがれないんじゃないかと錯覚するくらいぴったり、慎重な力加減で重ねられ続けている。手のひらの皮膚がひりひりするくらい熱い。

 憔悴した目はひたりと私へ据えられて、乾いた唇がもの言いたげに開閉する。言わないで、と祈った。お願い、先輩、なにも言わないで。


 ヒーローをやめてなんて言わないで。


 あの癪に障る怪人にだったら、何度言われたってやめたりしないけれど。今、この時、他でもない先輩に「やめてくれ」と乞われたのなら、私は負けてしまうかもしれない。


 痛くても怖くても、正しいと信じることから逃げたくなかった。逃げるのがいちばん怖かった、けれど。

 たとえば先輩が同じように、大きな怪我をいつも負っていたら、私はそんなことやめてほしいと思うはずだ。自分が痛いのより、先輩が苦しい方が我慢のしようがない。


 きっと先輩も同じ。私を見つめる目が痛そうだ。私が傷つくのを厭うてくれる人の前に、私はいつもぼろ雑巾みたいになって帰ってくる。この人にずっと、ひどいことをしている。

 先輩には私を糾弾する資格がある。


 だから、だから言わないで。先輩、あなた、だけは──。

 惑って惑って、彼の唇は結局、浅い息だけを宙に吐き出した。


























◇◇◇



 初めて目にした有翼のヒーローを僕は天使だと思った。

 小鳥を包む羽毛のような薄い色の髪。それから鋭い鳶色の瞳。


 それは僕の初陣で、おそらくはアエロの──崎守ユーカの初陣でもあった。僕は与えられた可変で軟体の新しい体を使いこなせず、彼女の小さな爪牙でずたずたに切り裂かれた。頭からかぶった自分の血は青色で、僕は本当に人外になったのだと、その時実感した。


 仲間に助けられ、なんとか戦線から離脱して、二度目には僕が彼女をめちゃくちゃにする。そのころやっとなじんできた僕の新しい体は本当に力が強く、柔らかなパンをちぎるように少女の手足を捥ぐことができた。

 ひとつ捥がれるたび聞いている方が苦しくなるような声で泣き叫ぶのに、あの時ユーカは結局、一度も気を失わなかった。

 怯えに濡れた目に、それでも折れない憎しみをたたえてずっと僕を睨んでいた。彼女は脆いくせに強かった。それはとてもかわいそうなことだ。なんて、可愛いひとだろう。


 僕は怪人の分際で、ヒーローに恋をした。

 人間のふりをして彼女と同じ高校へ通うのは、僕を造った博士から猛烈に反対された。最後にはなんとか同意をもぎ取って、博士から偽の名前を貰い、普通科所属の「真木村藻屑」として彼女のそばに。


 いつも、早くヒーローをやめればいいのに、と思っていた。


 空を飛ぶユーカは美しいけれど、彼女が消費されないで済むのならもう二度と見られなくてよかった。救い手なんて損な役回り、どだいユーカに向いていない。現実主義で頑張り屋で負けず嫌いで、そんな性格だから自身を犠牲にすることすら、躊躇も容赦もしないのだ。


 ユーカのメイクの話が好きだった。僕はとっくに人倫を捨てた身で、何万人死のうが生きようがどうでもいい。そんなものよりユーカがしあわせそうに趣味の話をしている瞬間が愛おしかった。彼女はそういう本当の僕を、理解すらしないだろう。


 お願いだから、ヒーローなんかもうやめて。

 やめないならせめて、殺されるのは僕にして。


 病室で、昏々と眠る彼女の手を弱く握った。今はあざだらけで、マメやタコの多い手はそれでも柔らかく、僕の握力で砕けてしまいそうだった。手だけじゃなく小さい身体。スーツへの適合手術を繰り返し、出会った頃より一層白くなった髪が、光の束として枕に流れていた。

 俯き、握った手を額に押し付けた。祈る神もない身体で祈るように。凍えたため息が漏れる。


 ユーカ。早く、ヒーローをやめればいい。僕や、僕以外に、君がすっかり壊されて、なくなってしまう前に。


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[良い点] 赤い血と青い血······バチバチに殺意高めなヒーローと怪人の関係······好······。にこにこしながら読んじゃいました······。可愛いヒーローが、死んじゃえ、死ねとか言ってるの…
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