エピダウロス・スピリツト
古代ギリシャの円形劇場は医療施設の一部だった。心と体、感情と精神全体の異変を「病気」として捉えた医聖ヒポクラテスの「癒しのテクネー」が現代に蘇る。(エピダウロス・スピリット)など、医療福祉史を通じて人間社会の生と死を見つめ、個々の魂に問いかける珠玉の11篇。
第1話「エピダウロス スピリット」
ギリシャ神話に登場する全能
の神・ゼウスは、地球という
大自然の現象全てを統合した象徴
なのかもしれない。ゼウスに
とって人類とは、地球に生息
する二百万種の一種族にすぎない
のだろう。ゼウスは、人類が
地球に害を成すと判断すると、
まるで人体の免疫システムが
作動して害を取り除くように、
人類を文明ごと滅ぼしてしまう。
歴史上、大小さまざまな文明
が栄えては滅んでいった。その
文明の最期は決まって大洪水
などの天変地異か、異民族侵略
による破壊行為で幕を閉じている。
古代地中海世界に咲いたエーゲ
文明や、黄金のミケーネ文明が、
ゼウスの大洪水によって滅んだか
どうかは定かではないが、以後の
ギリシャ世界に約四百年にわたる
謎の「暗黒時代」が存在するのは
史実である。
だが紀元前八世紀、ギリシャは
突如として息を吹き返す。人類
史上に燦然と輝く「ギリシャ文明」
が、高度に完成された形で出現する
のである。政治・経済・芸術文化
などのあらゆるジャンルに多数の
天才が登場し、現代文明と比較
しても遜色のない文明が華開いた
のである。
このギリシャ文明を細かく調べて
ゆくと、そこから見えてくるのは
「自由」を根本に据えた、驚くべき
精神性の高さである。またキリスト教
的文明とは明らかに質が違う。それは
神と人間の関係性という、根本的な
問題にかかわっている。聖書は神に
対する絶対的服従を人間に要求する。
人間は潜在的に罪の意識に苛まれ
神に対して卑小に振舞う。これに
対してギリシャ文明では、神意に
さからってでも人間としての誇り
を高らかに歌い上げ、人間中心の
文明が築かれてゆく。この根本的な
コンセプトの差が、社会システムや
思想などに如実に反映されてゆく。
自然から搾取し続け、物質至上
主義だった二十世紀欧米文明。これを
打破してより良い文明を模索してゆく
為に、非聖書文明である古代ギリシャ
精神を理解し直してみるのも悪くない。
さて、ここで古代ギリシャを生きた
架空の女性・アポロニアに登場願おう。
彼女は哲学者・プラトンとほぼ同世代
のアテネ市民で、夫をペロポネソス
戦争で失った。この戦争ではアテネ
がスパルタに降伏し、アポロニアは
二重の傷心を味わった。彼女は気持ち
が沈みがちになり、食も細くなって
吐血し、やつれていった。
やがて彼女は病気療養の為、エピ
ダウロスへと旅立った。25万都市・
アテネから海路で丸一日。エーゲ海を
隔てた対岸、ペロポネソス半島・
アルゴリス地方の都市・エピダウロス。
ここは健康と医療の神・アスクレ
ピオスの聖地であり、現在でも野外
劇場でギリシャ悲劇などの公演が行わ
れている。この「野外劇場」・・古代
ギリシャにおいては、医療施設の一部
であった。
「えっ、劇場って芝居やコンサートの
為のものだろう。医療施設なら病院
だろう」
というのが、現代人の常識だろう。
ところが古代ギリシャ精神では、
「病院」のコンセプト自体が違うので
ある。その疑問は、おいおいアポロニア
が解き明かしてくれるだろう。
アポロニアはエピダウロスの医療
センターにやって来た。ポリュクリス
トスが設計した、最大一万四千人収容
出来る円形野外劇場の外周に、治療
施設・博物館・美術館・競技場などが
あり、それらを中心にひとつの街を
形作っていた。オリーブの樹木が
それらを囲むように茂り、涼しい
木陰を作り出している。エーゲ海
から吹く潮風の香りとは別に、何処
からか甘やかな乳香の香りが漂って
いた。アテネの広場にはない神秘的
な雰囲気が、アポロニアのささくれ
だった心に柔らかな落ち着きを取り
戻していった。劇場外の柱や小さな
広場の至るところに神々の彫刻があり、
行き交う人々を見つめていた。そこ
には戦争で傷ついた者や老人、病気
に苦しむ者たちが大勢いて、ゆったり
した時間の中で穏やかに過ごしていた。
アポロニアは神殿に向かった。入り口
を入るとすぐに、アスクレピオスの像が
あった。左手に医学を象徴する巻物を
持ち、生命の本質について思考する姿
である。それは意思的で力強い。
アスクレピオスは、光と芸術の神・
アポローンの子で、ケンタウロスの
ケイローンから医術を学んだ。死者を
蘇らせる事もたびたびあったので、
冥界の神・ハデスからクレームが
ついた。この為ゼウスは、彼を雷電で
焼き殺してしまう。アポローンは激怒
してゼウスに詰め寄った。ゼウスは
アスクレピオスを神々の座に加える事
で、アポローンと和解する。以来
アスクレピオスは医学の守護神として、
ギリシャ全土で崇拝させる事になる
のである。
アポロニアは神殿の診察室で医師と
向き合った。医師は鉄筆片手にカルテ
を作成しながら、世間話を織り交ぜ、
アポロニアの病歴を聞き出してゆく。
普段の食事、家族関係や住居の様子
など、個人の病気の背景を探り当てる。
現代医学用語では、これを「ペイシェント・
プロファイル」と言う。患者の生活像
の事で、そうした背景の中に病気の
要因をみる診るのである。近代医学
の祖といわれるヒポクラテスは、
特にこの考え方を重視した。彼は
病変部位だけを治そうとはしなかった。
病気を全体的な異変としてとらえ、人間
の「自然治癒力」を引き出す内科的
センスの方法論である。この「全体的
異変」には、肉体だけでなく、当然
「心・精神」といった無形の要素も
含まれている。ヒポクラテスは言う。
要は全体のバランスなのだと。エピ
ダウロス医療センターとは、ヒポ
クラテス的コンセプトを具体化させた
社会システムといえる。
アポロニアの主治医は問診と触診
を終えると、カルテに従って今後の
「回復メニュー」を作成し、彼女に
説明した。薬草の事、食事の事、エピ
ダウロスの各施設の事などである。
初日は薬草を与えられ、ゆっくりと
休むだけだった。翌朝、グレープ
ジュースとハチミツ、少量のパンと
軽い食事の後、アポロニアは「回復
メニュー」に従って、「風呂」
のある施設に向かった。はじめに
彼女の裸体に泥が塗られた。泥の
エステティックである。次にサウナ
と水風呂。最後に全身に香油が
塗られてマッサージをうけた。
たっぷりと半日の時間をかけ、
無理なくゆっくり行われた。アポロニア
は体の芯からリラックスし、ぐっすり
と眠る事が出来た。月光の女神・
アルテミスは、別名「病を癒す者」
と言われる。そう、眠りは最大の
妙薬にちがいない。
2〜3日、バランスの良い食事と
エステ、軽い散歩を行い、決められた
薬草を飲むだけのメニューで、アポロ
ニアは生気を取り戻し、順調に回復の
方向へ向かっていった。少し食欲が
出てくると、新鮮な野菜や海草のサラダ、
魚貝類、チーズ、ヨーグルト、
ワインなどが加えられた。
そして、次なる「回復メニュー」は、
「芝居を観る事」だった。野外劇場では
連日、午前と午後に分けて、悲劇と喜劇
を2〜3本ずつ上演していた。4日目の
朝、軽い散歩を終えたアポロニアは、
上演時間までを美術鑑賞にあてた。
美術館には色彩豊かな神々の絵画が
展示されていた。題材で特に人気が高い
のは、アポローンの恋物語やムーサ
(ミューズ)たちの姿を描いたものだった。
ム−サはアポローンに従う九人の女神
たちの事で、芸術家に詩的霊感を授けて
くれる。それだけに個性も豊かで、
それぞれに得意なジャンルがある。歴史
のムーサ・クレイオー。トランペットと
水時計を持つ、オリンピックの応援団の
ような存在。笛の演奏が得意なエウテル
ペー。アポローンの竪琴とのアンサンブル
が絶妙。喜劇のムーサ・タレイア。笑い
は心の解放というのが心情の、陽気な
女神。悲劇のムーサ・メルポネー。人間
の怒り・苦しみ・悲しみを優しく見守る、
観音様のような性格。抒情詩と舞踊の
ムーサ・テルプシコラー。ナイーブで
豊かな感性だが、時として激情と陶酔
のディオニソス的境地になる事もある。
恋愛詩のムーサ・エラトー。後に
「ああロミオ、あなたはどうしてロミオ
なの」という命セリフをシェイクスピア
に与えたのは、この女神の働きだったり
する。物真似芸のムーサ・ポリュヒュム
ニアー。「芸」を語らせると、立川談志
以上にうるさい。天文学のムーサ・
ウーラニア。大宇宙や大自然の美学、
サイエンス・フィクションの時空を
超えた壮大な物語を好む。そしてムーサ
筆頭の取りまとめ役・カリオペー。
叙事詩と雄弁のムーサで、この女神の
霊感なくして、偉大なる叙事詩・ホメロス
の「イーリアス」と「オデッセイア」
は成立しなかっただろう。
こうした神々が、人間と共に楽しみ
ながら文明全体を活気づかせているの
だから、古代ギリシャに天才とその
作品がきらぼし綺羅星の如く誕生した
のも無理はない。ギリシャの神々は
豊かで楽しい感性の世界の住人であり、
芸術的イマジネーションの源泉である。
だからこそ、神々も人間ものびやかで
あり、甘やかで活気に溢れているので
ある。
午前中の軽やかな陽射しの中で、
エピダウロス劇場の上演が始まった。
アリストファネスのヒット作・「女の
平和」だった。男たちが戦争ばかり
している為、女たちが一致団結して
セックスをボイコットし、戦争を
止めさせようという粗筋である。地上
のムーサたちが、軽妙に役を演じて
いた。乱れ飛ぶきわどいジョーク。
「あらまっ・・・」
と、少々どぎまぎしていたアポロニア
も、次第に物語の世界に引き込まれ、
腹の底から声をたてて笑った。
「ほらね。大声で笑っちゃえば、多少
の病気なんて吹っ飛んじゃうわよ。」
アポロニアの背後で、喜劇のムーサ・
タレイアがウインクしながら言った。
午後は悲劇が上演された。エウリ
ピデス作の「メディア」。夫に捨て
られた女の復讐劇である。エウリ
ピデスは人間の奥深い心理描写を
得意とし、女王メディアの愛欲や嫉妬、
憎悪や残忍さを赤裸々に描き出した。
アポロニアはさまざまな意味で、自分
の情感をかきむしられた。女としての
共感や反感。夫を戦争で失った現実の
感覚が、メディアの悲劇と照応した。
アポロニアは我知らず涙を流していた。
流した涙によって、気づかぬうちに
心が浄化されていた。アポロニアは
「生きる力」を取り戻した。
ヒポクラテスは、「病める人」と
「悩める人」を同じ次元でとらえ、
それに対する「癒し」の方法について
語っている。先に述べたように、心と
体のバランスについて語り、人間の
情感を揺さぶる演劇・音楽・美術
作品などの芸術を有効に医療に活用
すること。これを「癒しのテクネー」
と名付けた。テクネーとは、テクニック・
テクノロジーの語源でもあるが、当時
は「芸術・医術・建築術・料理・魔術・
処世術」などの広い意味に用いられて
いた。アートやアメニティ(快適さ)
の語源でもある。
「人への愛のあるところには、また
いつも癒しのテクネーへの愛がある。
(医者の心得第四節)」
そして何よりも、「癒しのテクネー」
に必要なのは、「創意工夫」であると
語る。時代や環境の違いに応じて、
「癒し」について考え、創意工夫を
凝らせば、おのずから有効な方法論は
生まれるものだというわけである。
そしてそれは、人間を肉の塊と見なす
ような唯物的思考、および科学の発想
からは決して湧いてこないだろう。
個々の人間の「魂」と向き合う事が
「常識」にならなければ・・・古代
ギリシャ人は、人間が住む地上の環境に
「創意工夫」を加える事で、「癒しの場
=エピダウロス医療センター」をつくり
あげた。自然と医療技術と芸術が渾然
と溶け合った「社会環境」そのものを
「病院」と見なした。そこには人間が
人間である事の誇りを高らかに歌い
上げる、精神性と美が存在した。
いや、かつて存在したと言うべきかも
しれない。ギリシャ文化を継承したと
されるローマ人たちは、物質的享楽に
溺れ、ギリシャの詩的・美的感受性、
および精神的洞察などの無形の宝を、
十分に継承したとは言いがたい。ローマ
から発展した現代欧米文明も、同様の
欠陥を内包している。20世紀・・・
人間も科学も、自然に対して傲慢だった。
その、深い反省から新しい時代が
始まっている。「病院」のコンセプトを
根本的に見直し、「病院には劇場が
必要」とコンセプトを変革すると、
人間の意識と社会環境に革命が起きる
だろう。
悲劇作家・アイスキュロスは語る。
「人間は傲慢な思いを抱いて
はならない。傲慢は花をつけ、破滅の
穂を実らせる。(ペルシャ人)と。」
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第2話「心優しき文化圏」
東京大学名誉教授の村上堅太郎・
江上波夫・山本達郎・学長の林
健太郎著による「世界史(山川
出版社)」の教科書冒頭には、
著作者の歴史観を示す「概要」が
載っている。
「人類は文化をもった生物である。
しかしその文化は、はじめはきわ
めて単純・幼稚なものであった。
それが長い年月を経過するあいだに、
複雑・高級なものに進展して現在に
いたった。その間に生物としての
人類も進化してきたのである」と
ある。
この記述は、物や道具が複雑に
進歩したから、人類も「高級」に
なったのだと言う、「物質的進歩
史観」と解釈出来る。高度経済
成長時代ならともかく、21世紀
になってまで通用する歴史観とは
到底思えない。
世界史の教科書には、ほとんど
登場しない地域がいくつかある。
物質的進歩史観、戦争と暴力・
狂気と混乱の「文明」とは関係
なくとも、生命史観の立場に
立つと重要なのが、環太平洋
文化圏である。北アメリカ大陸
先住民族、樺太や北海道のアイヌ
民族。沖縄の琉球王国。南海の
楽園にたとえられる南太平洋諸島。
これらの地域には、それぞれの
民族が自然と共存しながら、独自
の文化を育んできた長い歴史が
ある。
紀元前200年頃から紀元700年
までの、およそ900年間、南アメリカ
大陸のペルー北海岸には、「モチェ文化」
が存在していた。木村重信・大阪大学
名誉教授の解説によると、この文化
ではすでに「ノーマライゼーション」
が実践されていたという。つまり、
視覚障害者・身体障害者・精神薄弱者
などの人々は、より神に近い存在と
して尊敬され、健常者に大切にされ
ながら、共に暮らしていたという
のである。
ノーマライゼーションとは、20
世紀の福祉先進国・スウェーデン
で提唱された理念で、健常者が
障害者を特別視せず、共に生活
できる社会環境を目指そうと
するものである。現代福祉の理想
として、世界各国から支持されて
はいるが、地球人社会全体に
「当たり前の常識」として定着
するのは、いつになることやら
・・というのが現実のようで
ある。
モチェ文化は、紀元前のペルー
という時代と地域でわかる通り、
キリスト教でもイスラム教でも、
仏教でも儒教でもない。しかし
精神文化の質の高さは特筆に価
する。後にイエス・キリストの
福音無き異教徒は滅びて当然の
野蛮人とする、スペイン人の虐殺
と略奪によって滅びたインカ帝国
の事を思うと、なおさらである。
モチェ文化と同様の考え方は、
沖縄にもあったと言われている。
沖縄が古琉球という時代区分で
呼ばれている遥か以前から、
それは存在していたらしい。
琉球諸島の人々は、障害者を
「白子」と呼び、神の子
として地域ぐるみで大切にしていた
ようだ。文献で確認したわけでは
ないので断定は出来ないが、現在
の沖縄の人々の穏やかで温かい性格
を思うと、さもありなんと納得
出来る話である。
南太平洋の東の端・ペルーと、
西の端・沖縄に、同じような考え方
を持つ文化が存在していたとなると、
想像はさらに膨らむ。南太平洋諸島
は紀元前の昔から、船による海上交易
が発達していた地域である。インド
ネシアの船は、インド洋を渡り
マダガスカル島にまで達している。
そうした航海術があった古代南太平洋
社会ならば、全域にわたってノーマ
ライゼーション的な心優しい精神文化
が存在していたのではないかと思えて
ならない。
一方、古代アイヌの文化圏は、
シベリア・アムール川流域から、
沿海州、サハリン(樺太)、北海道、
千島列島、アラスカ、本州東北地方
などに、幅広く分布している。文字
を持たない文化なので記録は残って
いないが、その歴史は数万年、数十
万年単位のものだろう。
北海道や本州東北地方に暮らして
いたアイヌの人々は、本州の日本人
を「シサム(隣人)」と呼んでいた。
その言葉が訛って「シャモ(和人)」
になったのだという。江戸時代以前
の和人は、交易を通じてアイヌの
人々と平和的に共存してきた。
奥州の阿倍氏・藤原氏、津軽・
十三港の安藤氏など
がそれにあたる。
だが、江戸時代の松前藩や明治
時代以降の日本人は、彼らに対して
民族絶滅に近い侵略・略奪・搾取等
を加え、アイヌ民族を不当に差別
した。また、ノーマライゼーション
について言えば、つい50年程前
まで、日本人健常者は、身体障害者
やハンセン病の人々を、お国の為に
役に立たない「非国民」として蔑み、
徹底的に差別していた。醜い日本人
の姿がここにある。
アイヌの人々は、この世の
生きとし生けるすべてのものは、
不滅の生命を持っていると考えて
いた。つまり、人間や動物・植物
などは、すべて神の化身だった。
人間が殺して食べる動植物は神の子
であり、神々からの贈り物だった。
それゆえ人間は神々に感謝し、
動植物の生命を神々の世界に戻して
あげる儀式を行った。それが
イヨマンテ(神送り)に代表される
儀式である。貝塚もゴミ捨て場など
ではなく、神送りの儀式を行う斎場
だった。
またアイヌには、「テケイヌ」と
いう産婆術があった。胎児の状態を
手で感じ取って透視する能力である。
これは、自然や異界の霊と語り合う
能力にも通じている。もののケハイ
を察知する能力は、現代人よりも
遥かに優れていたのだろう。
現代人は、古代の人々のこうした
自然観・宗教観を、一括してアニミズム
やシャーマニズムと呼ぶ。原始時代の
宗教観だから、科学文明の現代人には
関係ないと、誰もが漠然とそう思って
いる。古いものは遅れていて、未熟で
科学的でないから「悪い」ものだと
思う。どうもそうした、強力な固定
観念が根深く存在するようだ。
どうやら要素還元型の科学と
アニミズムの悪しき関係には、修正
が必要なようだ。科学とは、自然を
認識する方法として、知的かつ論理的
アプローチを選択した。天文学や
物理学、分子生物学の分野では、宇宙
とは何か、自然界の究極物質とは何か、
生命とは何かを探究し、優れた成果を
あげてきた。宇宙創世の起源とされる
ビッグバン。クォークや反物質。
逆転写酵素を持つRNAワールド。
自然界の、かなり本質的なところ
まで肉薄した科学者たちは、はたと
困惑した。DNAやRNAの、あまり
にも精巧なメカニズム。だがそもそも
これらの情報の根源は何なのか。
クォークから銀河団までを「力」に
よって動かし、存在を存在たらしめて
いる「秩序」の根源は何なのか。
ノーベル賞の科学者たちでさえ、
改めて自然の不可思議さに驚嘆し、
人智の及ばぬ偉大さの前に立ち
すくんだ。そして彼らは、一つの
一致した結論に達した。それは
「神」であるという。
一方アニミズムは、自然を認識
する方法論として、六感を伴う知覚
と感覚によるアプローチを選択した。
大自然を恐れ、敬い、天地の恵みに
感謝する。自然のさまざまな現象を
理解する為に、神々の化身、善霊と
悪霊、自然霊、祖先霊、妖怪などが
登場する。ここでは心や感情、魂が
語られる。人間が人間である為の、
原初的かつ普遍的な領域である。
つまり科学とアニミズムは、自然
認識の方法論が違うだけで、自然の
不可思議さを軸として表裏一体の
関係なのである。一流の科学者や
宇宙飛行士が「神」を語らざるを
得ないのは、むしろ当然という
べきかもしれない。知性と感性、
理性と感情は、対立する概念では
なく、補い合う関係だという事で
ある。自然に対して畏敬の念を
払わなくなった科学者の傲慢さが、
原水爆の歴史を作るのである。
人類はやがて、太陽系の諸惑星に
旅立ってゆくだろう。大気圏外の
過酷な自然と対峙する人類は、太古
の人類同様に大宇宙に対する恐れと
神秘、畏敬の念を抱くことになる
だろう。崇高な美しさに対する感動。
それらは皆、原初の人類から脈々と
息づくアニミズムの心そのもので
ある。科学の知性がアニミズムの
感性と手を結んだ時、それは生命の
思想となる。
ところで「神」あるいは「神々」
の概念と、人間の関係性について少し
付け加えておく。人生には必ず、
理不尽な状況がつきまとう。事件・
事故・出会いと別離・戦いの勝敗・
賞賛と非難・病気と死。自分一人の
力ではどうにもならないと感じられる
不可思議な運命の力を、古代ギリシャ人
たちは神々のいし気まぐれによるものと
考えていた。
だからといって、人間が神々に服従
するような事はなかった。神々の意志
がどうあれ、人間は人間である事の誇り
を失わず、人間としての意志を貫き
通した。自己の能力をフルに用いて生き
抜いたならば、戦いに敗れる事も恥
ではなかった。ホメロスのオデッセウス
も、ソフォクレスのオイディプス王も、
そのように生き、死んでいった。人事を
尽くして天命を待つのが、英雄たちの
生き方だった。神々と人間が共生関係
にあった時代の人間は、自由で誇り高く、
のびやかで生き生きと輝いていた。
古代ギリシャが衰退し、キリスト教
に代表される世界宗教が人類に浸透し
てゆく過程において、神は唯一絶対の
存在として権威づけられていった。
仏教における「仏」についても、同様
の事が言える。神や仏は人間と「分離」
した。
人間は「神」を後ろ盾にした教会
権力の支配者層に服従を強いられた。
服従の証しが「信仰」と呼ばれた。
神と人間が分離した時、人間の意識も
分裂した。さらに地上での生活は、
専制君主によって支配され、民衆は
精神も肉体も二重三重に束縛された
まま、生きなければならなかった。
100年・500年・1000年・
2000年と、そうした状況が続く
うちに、人間はそうした現実に慣れて
いった。伝統・習慣として受け入れ、
支配・束縛されている事に、何の
疑問も持たなくなっていった。
宗教というカテゴリーの中にしか、
「神・仏」は存在しなくなり、宗教
が魂の救済に到る唯一の方法だと
「信じられる」ようになっていった。
現在に至るまで人間は、神や仏と
「分離」したまま、救済を求めて
漂流し続けている。
では、人間が「神」によって救済
されるとは、どういう状況を言うのか。
生命・自然・宇宙・意識・無意識・
愛・物質。この世に存在する有形・
無形のありとあらゆる「存在」を
「存在たらしめているもの」を「神」
と呼ぶならば、我々がここに「存在
している」という事実だけで、すでに
救済されているとは言えないだろうか。
宗教的感覚で言えば「生かされている」
という言葉で表現される。
神による救済とはつまり、神や自然
と「自己」は、何も分離していないの
だと気づく、ただそれだけの事では
ないのか。これまでに培った一切の
思い込みを棄てればそれでいい。
これまでの宗教的権威や儀式、複雑な
教義や辛い修行などの一切が不要と
なる。
太陽の光を全身で感じるように、
すでに救済されている自己を感じれば
いい。禅の高僧が弟子に言う。
「誰がお前を縛りつけているのだ」と。
「誰も縛り付けていないのであれば
もうすでにお前は解放されている
ではないか」
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第3話「古代医療伝」
古代ギリシャ世界がヘレニズムの
混沌の中にあった頃、インドでは
チャンドラ・グプタ王による最初
の統一国家「マウリア朝」が成立
した。紀元前317年の事である。
首都はパータリプトラ。現在の
パトナーにあたる。聖なる大河・
ガンガーのほとりの、マガダ国
以来の古都であり、仏教徒の
聖地・ブッダガヤの北に位置
している。初代・チャンドラ・
グプタ王が20年間、2代・
ビンドゥサラ王が23年間統治
した。3代目を継いだのは、
好戦的で血の気の多い王で、
名前をブーラジャ(勇猛王)と
いった。
ブーラジャは即位後9年目に、
東インドのオリッサ州一帯を
制圧する為に軍勢を進めた。
紀元前259年の、「オリッサ
の戦い」である。戦いは激烈
で、マウリア朝軍・オリッサ軍
の双方合わせて約十万人の死者
を出したと言われている。戦い
はマウリア朝軍が勝利し、デカン
高原を除くインド亜大陸が統一
された。
ブーラジャは、戦い終えた戦場に
立っていた。大地に累々と連なる、
人間と象の死体があった。ある者は
象部隊に踏み潰されて、脳や内臓が
飛び散り、ある者は満身に矢を
射られたまま、ある者は首を切り
落とされたまま息絶えていた。
暑さのため腐敗の速度は早く、
息苦しいほどの腐敗臭に満ちて
いた。傷ついてうめき、のたうち、
けいれんする者たちの声が、地鳴り
のように聞こえていた。水を求めて
川へ這う者たちがいた。川は兵士
たちの血で赤くまだらに染まって
いた。田畑は荒らされ、うすら寒く
虚しい風が、ブーラジャの心を吹き
荒らしていた。戦いには勝った。
だが、勝利の栄光などという快楽は
存在しなかった。
「戦争とは・・・かくもむごた惨たら
しく、愚かしい行為だったのか。」
ブーラジャは、五体が切り刻まれ、
崩れてゆくような罪悪感に身を
震わせた。
首都・パータリプトラに帰還した
ブーラジャは、幾日も考え続け、
悩み続けた。
「人を殺すのが国か・・生かすのが
国か・・人無くしては国も王もない。
ならばいかにして生かすか。何を
拠りどころとして。」
ブーラジャは自らの苦悩を、人生の
師とも言うべきウパグプタに打ち
明けた。
「ダルマ(法)によって。」
ウパグプタは静かにそう答えた。
「ダルマとは何か?」
「万物を生かす根本の道理の事で
あります。天地自然の一切を受け
入れ、育む器の如きものであります。
日の光も、大地の恵みである穀物も、
ダルマ無くしては成り立ちません。
王よ。王は国を育み、民を照らす
者でなければなりません。ダルマに
従い、アショカーの心を持たねば
なりません。」
「アショカーとは何か?」
「ダルマの心であります。いたわり
と慈しみの心の事であります。
ダルマに逆らい、慈しみを持たぬ者
には、破滅の運命が待っております。
そうした者たちは、暗黒の世界を
さまよい続けるよう定められて
おりまする。」
ブーラジャは、オリッサの戦場を
思い起こしていた。それはまさに、
破滅と暗黒の世界だった。
「師よ。今からでも取り返しは
つくであろうか?」
ブーラジャは「アショカー」という、
輝きに満ちた言葉に魅せられた。
「光が満ちれば闇は去りましょう。」
ウパグプタが答えた。
「師よ。我が心の闇が消えてゆく
思いがいたします。今、この時を
もってブーラジャは死にました。
これより後、私はアショカーと
名乗りましょう。そしてアショカー
の実践を、私の生涯の仕事にいたし
ましょう。」
「おお・・何と聡明な・・王よ・・」
ウパグプタは感激のあまり、嗚咽
(おえつ)をもらした。それは、古代
インドの名君・アショカー王誕生の
瞬間であった。
人間が「悔い改める」とは、こういう
事を言うのだろう。力による制圧こそ
英雄の条件という事を信じて疑わな
かった男が、愛と平和の実践者として
生まれ変わったのだった。アショカー王
は、ダルマ(法)の理念に基づいた徹底
した平和政策を実行していった。
まず、仏教・ヒンドゥ教・ジャイナ教
などの宗教を、平等に保護した。対立
しがちな価値観の統合という政策は、
21世紀に人類が取り組まなければ
ならない、「多様性の共存」という
概念に通じている。さらに社会福祉
事業の推進を、アショカー政治の
重要な柱にした。薬草園を全国各地
に設置し、薬草の流通ルートを整備
した。人間と動物に効果のある薬草
の研究開発に力を入れ、人間の「病院」
と「動物病院」を建設させた。当然
それにあわせて、医学教育による
人材育成も行っている。
また、現代用語で言えば「グループ
ホーム」や「ホスピス」にあたる施設も、
全国各地に建設させた。古代インドの名君・
アショカー王は、人類史上きわめて稀な
権力者だった。彼の存在は我々に、人間
の意識の進歩が、テクノロジーの進歩と
一致しない事を教えてくれる。現代人は
科学技術の高度化を、意識の向上と錯覚
しているだけなのだろう。意識が未発達
な、類人猿並の権力者がテクノロジーを
手中にすると、ナチスや原爆、オウム
真理教の「毒ガス」や核実験といった
愚行を犯してしまう。それは、弾薬庫で
焚火をする幼児の集団の姿に似ている。
ところで、「アショカー」という言葉は、
幸福や愛という意味を持ち、「アスカ」
という発音と深い関係があると言われて
いる。全世界に「アスカ」から派生した
土地の名があり、「楽園」を意味するの
だという。スペインのバスク地方、
イスラエルのアゼカ、フランスのラスコー、
北アメリカのアラスカ、南アメリカの
ナスカなどがそれである。
アスカという土地なら、日本にもある。
飛ぶ鳥と書いてなぜ「アスカ」と呼ぶの
かはよくわからないが、ともかく「飛鳥」
は、古代日本の都があった所だ。そして
この土地で、アショカー王ときわめて
よく似た政治を行った人物がいた。聖徳
太子である。昭和時代の一万円札の肖像
になった人物、と言えばわかりが早い
かもしれない。ひょっとしたら聖徳太子
というのは、架空の人物かもしれないが、
古代世界の理想像だと思えば、味わい深く
読めるだろう。
聖徳太子は、本名「厩戸皇子(うまやどの
みこ)」。西暦574年に用明天皇の公子
として、現在の奈良県高市郡明日香村の
橘寺で生まれた。当時、中国大陸は隋
帝国が、朝鮮半島北部は高句麗、
南部は新羅と百済が支配しており、日本
との文化交流も盛んだった。日本はこの頃、
地方豪族が割拠する古代国家から脱して、
中央集権的統一国家へと移行する過渡期に
あった。
太子は幼い頃から、英才教育を受けて
育った。当時の新興宗教だった仏教を、
高句麗の僧・恵慈などから、四書五経
(大学・中庸・論語・孟子・易経・詩経・
春秋・礼記)を中心とした儒教を覚哥
(かくか)について学んだ。教える方が
第一級の人物なら、教わる太子も、
伝説を生むほどの聡明な人物だった。
仏教にしろ儒教にしろ、知識だけを
詰め込む現代教育の「お勉強」とは、
根本的に質が違う。宇宙の本質と自然
の理法を洞察し、人間の本質と生き方
の哲学を思考する事を目的としていた。
太子はこうした学問によって人間を
練り、物事の本質を見抜く洞察力、
慈悲の尊さ、さらには卓越した国際
感覚を身につけていった。
太子が学んだ書物の中に、過去の高僧
や名君の伝記に類するものがあったとして
もおかしくはない。太子は何らかの形で
アショカー王の業績に触れ、深い感銘を
受けたのかもしれない。
593(推古元)年4月、19歳の太子
は、日本初の女帝・推古天皇を補佐
して政治を行う「摂政」となった。
太子は早速、少年時代からの念願だった
仏教寺院の建立を命じた。難波
(大阪市天王寺区元町)の「四天王寺」
である。翌年2月には、
仏教興隆のみことのり詔が発せられた。
今後日本は、仏教文化を積極的に取り
入れるぞという、国家の一大方針が打ち
出されたのである。これによって、日本
古来の神々を信仰していた大伴氏、物部氏
といった有力豪族が中央政界から失脚。
仏教支持の蘇我氏が、新しい勢力として
力をつけていった。
現代の寺院は、文化遺産としての
観光名所か、葬式・法事の集会所と
いった機能しか持っていない。しかし
当時の「寺」は、多目的な重要施設
だった。僧(人生の指導者・教育者)を
養成する学問所であり、社会福祉施設
であり、医療施設でもあった。
その為、寺の建立が国家事業だった
のである。当然建立には、当時の最先端
技術が導入された。瓦ぶきの屋根は、
四天王寺が始まりとされている。寺の
建立という公共事業によって、職人たち
の技術力を向上させるというねらいも
あった。
太子は四天王寺に、「療病院」「施薬院」
「悲田院」「敬田院」という施設をつくら
せた。療病院はその名のとおり「病院」
にあたる。身分の上下や男女の差別なく、
施設を利用することができた。「霊魂」
というのは、貴族や豪族にしかないという、
社会常識がまかり通っていた時代の話で
ある。生命における平等という考えを
実行した太子が、いかに時代を超越して
いたかがわかる。
施薬院は薬草園の事。薬草の研究と
流通・普及を目的としていた。当時の
医学は、朝鮮半島の「韓方医学」が
主流だった。399年にみまな任那の
医師・吉大尚・小尚兄弟が日本に伝えた
のが始まりとされ、562年には高句麗
の医師・知聡が日本に帰化し、薬学関係
の書物百六十四巻を朝廷に献上している。
悲田院は、仏教の「慈悲」の心を
現実化した社会福祉施設で、貧しさ
ゆえに行くあてのない人や、さまざまな
理由で孤独に苦しむ人々を受け入れ、
食事を振る舞い、人間としての
「尊厳」を回復させる場所だった。
彼らの精神的ケアが、僧たちの仕事
だった。僧はこれらの人々の心を
ときほぐし、仏教の教えをわかり
やすく、おもしろおかしく語って
聞かせたのだろう。人がこの世に
生きる事の意味や、生きる事の
苦しみや喜びを。元気を回復した
人々は、後からやって来る人々
の世話にあたった。今で言う、
ボランティア活動による喜びを
味わったものと思われる。
敬田院は、盗みや傷害事件などを
犯した人々の更正施設だった。「道場」
と言われているので、多少の厳しさは
伴ったかもしれない。太子は「悪人」
に対する基本的な考え方を、後に制定
する「十七条憲法」二条で次のように
述べている。
「人、はなはだ悪しきもの少なし。
よく教うるをもて従う。」
つまり犯罪行為を行うのは、どう
しようもない貧しさか、愛情の不足が
原因で、根っからの悪人というのは稀
である。だから、衣食足りて愛情を
持って接し、人の道を説けば必ずや
善き心を発動するだろう、というわけ
である。敬田院のスタッフだった
僧たちは、日頃経典で練った仏教精神
を試す、またとない道場になった事
だろう。
四天王寺四院の業績は、後の仏教者
の行動の指針となり、「太子信仰」
として受け継がれていった。太子を
敬愛した人物として、弘法大師・空海
や伝教大師・最澄、法然や親鸞などが
いる。太子は日本仏教界を語る際、
最初に登場する天才だが、仏教
だけに固執していたわけではない。
アショカー王同様、幅広いスタンス
をとり、儒教や神道も手厚く保護して
いる。
609(推古17)年には、「敬神の
詔」を発し、日本古来の神々を敬愛
するようにという方針を打ち出した。
いわゆる「神仏習合」を発想し、
ファジーな宗教政策をとったのである。
日本の精神文化の伝統は、聖徳太子に
よって決定されたといっても言い過ぎ
ではないだろう。
アショカー王がダルマ(法)によって
国を統治したように、太子もダルマを
具体化した。十七条憲法である。その
内容は、時代を超えた高い意識に貫か
れている。太子の精神生命の結晶で
あり、中核には「和」があった。和と
いう言葉は、非常に感覚的な価値観で、
欧米的価値ではない。だがこれは、
日本が世界に誇るべき民族の宝だと
言える。分裂は「和」によって統合
される。大いなる和の魂と書いて、
「大和魂」という。
和の精神に根ざした文治国家が、
太子の理想だった。そうした新しい国
づくりの為には、何よりも優れた文化的
ソフトの移入が急務だった。太子は
小野妹子を全権大使とする使節を、
隋帝国に派遣した。遣隋使である。
命がけの航海だった。使節の留学
生や留学僧は、隋帝国の法律・税制・
政治機構・都市計画・建築学・天文学・
医学・薬学・仏教などを幅広く学び、
多数の資料を持ち帰った。これが
やがて、律令国家の基礎として用い
られる事になるのである。
太子は622(推古20)年2月、
49歳で没した。太子死去の知らせを
聞いた民衆は、自分の父母を失った時
のように嘆き悲しみ、号泣する声が巷
に満ちたと日本書紀は伝えている。太子
は雲の上の人などではなく、民衆に
親しまれる存在であったと思われる。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第4話「福祉僧・忍性伝」
松本清張原作・野村芳太郎監督・
橋本忍・山田洋次脚本の映画
「砂の器」。ゴールデンアロー賞など
多数の受賞対象となった、1974年
公開の作品である。和賀英良(加藤剛)
作曲・演奏のピアノ協奏曲「宿命」
をバックに、故郷を追われて旅に出る
病の父・本浦千代吉(加藤嘉)と、秀雄
(春田和秀)親子の巡礼姿が映し出さ
れる。時代背景は太平洋戦争中の
日本。この秀雄こそ、和賀英良の幼い
頃の姿だった。和賀は、自らの過去を
知る唯一の人物である三木謙一(緒方拳)
を殺してしまう。和賀はなぜ、殺人と
いう罪を犯してまでも、過去にこだわり
葬り去ろうとしたのだろうか。
父・千代吉が故郷を追われ、巡礼姿
で放浪する原因になった病とは
「ハンセン病」。らい菌の感染が原因と
されている。らい菌の発見者・アルマ
ウェル・ハンセン(ノルウェー人)の名
にちなんで、世界的に「ハンセン病」
の病名で呼ばれている。
このハンセン病は、皮膚の栄養障害
から水ぶくれが生じ、手足が痺れ、爪
が割れて脱毛がおこる。指の関節が
内側に湾曲する。さらに病状が進むと、
指末端の崩壊がおこり、筋肉の萎縮に
よって、「しし顔」と呼ばれる顔つき
に変形する。骨は進行的に破壊されて
ゆく。体の崩れが目に見える病気で
ある。現代日本では数十人にまで
減少したとされるが、アジア・
アフリカ地域では、推定550万人
の患者が今なおこの病に苦しめられ
ている。
ハンセン病は一応伝染病とされて
いるが、感染力は極めて弱い。
健康人に患者の「膿み」を擦り込ん
でも感染しない程である。先天性の
感染も否定されている。だが、そう
した医学的事実が知られていなかった
時代には、患者は「恐るべき病原体」
として扱われた。病院とは名ばかりの
「強制収容所」に隔離され、二度と
社会復帰が望めない「死に場所」で、
治るあてのない絶望的な暮らしを
強制されていた。施設は離島や人里
離れた山奥につくられた「タコ部屋」
で、自給自足の生活を送る。要するに
人間扱いされていないに等しかった。
患者やその家族たちは、社会の偏見
と絶望の闇の底で「信仰」にすがった。
数多くの人々が、四国遍路の旅に出た。
第七十五番札所・香川県善通寺には、
あらゆる差別の根絶を願う意味から、
「母子遍路像」が建立された。
「砂の器」が訴える悲願もそこにある。
ハンセン病は、古代エジプトの
ミイラからも発見された。6000年
以上の遥か昔から、患者は「呪われた」
存在だった。1943年、アメリカで
「プロミン」というハンセン病の特効薬
が開発され、医学的には不治の病では
なくなった。だがそれで、ハンセン病
患者とその家族が味わい続けた悲劇、
すなわち「差別と偏見」の病根が無く
なったかというと、どうもそうではない。
ハンセン病を「エイズ」と置き
換えてみてもよい。人間と「病気」
のかかわり方の歴史の中で、実際の
病よりも根深いのが「無知と偏見」
から引き起こされる差別だろう。
この病は五体満足な健常者に多く、
しかも病識(自分が病気であるという
認識)がない。また困った事に、仏教
思想に差別を助長するような考え方
がある。
仏教では、奇形や重病の発生原因を
「過去生(前世)」の行為(悪業)の結果
であり、現世で克服すべき自己の業
(カルマ)である」としている。仏陀の
「縁起の法」以来、現在に至るまで
連綿と引き継いできた「因果応報」
の根本思想が背景にあるのだろう。
ハンセン病に限らず、体の不自由な
人がどれほどこの「宿業」の思想に
苦しめられ、健康人社会から阻害
さてきただろうか。
これは過去だけの話ではない。
遺伝子診断によって判明する「病」
に対して、宗教家と称する者たちが
「宿業」を持ち出し、遺伝子階級差別
を助長することになりかねない。
輪廻転生や因果応報という考え方
自体には、否定出来ない側面もある。
だが単なる観念の一種にすぎない。
病の根本は常に、その思い込みにある。
仏教ならば「慈悲」キリスト教なら
ば「愛」、それだけで十分事足りると
いうものだろう。慈悲の「慈」は、
古代インドのサンスクリット語で
「マイトリー」。生あるものすべてに、
喜びや楽しみを与える事を意味する。
また、語源の「ミトラ」には「友情」
の意味もある。
「悲」は「カルナー」。うめき、
苦しみという意味で、人間はお互いに
助け合い、苦しみ悲しみを取り除いて
あげられる存在でなければならないと
仏陀は説いている。早い話「困った
時はお互いさま」という事。
「あたかも母が我が子を命を賭して
守るように、全世界の生きとし生ける
ものに、無量の慈しみの心を起こす
べし」(中阿含経)
ところで「仏」といえば、日本の場合
仏陀(釈迦如来)よりもむしろ、阿弥陀
如来と薬師如来が、東西両横綱にして
スーパースターだった。民衆は崇高な
「悟り」の仏教より、「救済」の仏教
を望んだ。
阿弥陀如来は、観音菩薩や勢至
(せいじ)菩薩を筆頭にした「救済部隊」
を率いる元締めで、死の不安を取り除き、
細かいモラルを問わずに善男善女を
底引き網のように救済する仏である。
真に信仰を必要とする人々にとって、
その効力は絶大である。西方極楽浄土
にあって、無量光を放ち続けている。
一方、薬師如来は東方極楽浄土に
あって、日光・がっこう月光菩薩や
十二神将などを率いている。この世の
病気・苦しみを救済する、現世利益の
仏である。薬師如来は対症療法、阿弥陀
如来はターミナル・ケアの担当者と
いったところだろうか。
鎌倉時代に、この薬師如来の生まれ
変わり、あるいは「医王如来」と言わ
れた僧がいた。名を「忍性」
と言う。
忍性は、1217(建保5)年7月16日
大和国城下郡屏風(現・奈良県磯城郡
三宅村)で生まれた。ここからは、南に
畝傍山・天香具山(あまの
かぐやま)・耳成山の
大和三山を、北西に法隆寺の五重塔を
望むことができた。忍性が生まれた年は、
鎌倉幕府を創設した源頼朝が没してから
18年。2年後には、三代将軍・実朝が
暗殺され、幕府の実権は北条一族に
移ろうとしている頃だった。
忍性は母親が亡くなったのを契機と
して、16歳の時、聖徳太子とゆかり
のある額安寺に入って出家した。翌年
奈良・東大寺で受戒。受戒とは、師が
弟子に仏教の戒律を授ける儀式の事。
この時の師が、真言律宗を創始して
西大寺中興の祖となる「叡尊」と、
唐招提寺中興の祖で、後に「大悲菩薩」
と言われた「覚盛」である。
東大寺は、全国の国分寺を統括する
華厳宗の寺で、本尊は「奈良の大仏」
として有名な大日如来。奈良時代に
聖武天皇が建立を願い、行基が
プロデューサーとして大勧進(資金
調達)を行ったのが始まりである。
大仏殿(金堂)は、世界最大の木造
建築物で、金銅製の大仏は高さ15
メートル。7年がかりの鋳造だった。
国家の総力を結集した大プロジェクト
であった。
752(天平勝宝4)年4月9日、
聖武上皇・光明皇太后をはじめ、
文官・武官400人、僧1万人が
集まり、「大仏開眼供養式典」が
行われた。導師はインド僧・
ボーディセーナ、ベトナム僧・仏哲
唐僧・道せん。東大寺内にある正倉院
御物の内容からもわかるとおり、奈良・
平城京は、アジア全域との文化交流
が盛んだった。
808(延暦23)年4月9日、この
東大寺大仏殿前の「戎壇院」で受戒
した僧がいる。弘法大師・空海
31歳。彼はこの年の5月22日に、
摂津(現・大阪)の湊から唐の都・長安
に渡る。ここで恵果から密教の奥義
をことごとく授けられ、2年後に帰国。
真言宗を開いた。
また、810(弘仁元)年から4年間、
東大寺第14代別当をつとめた。東大寺
で密教経典である「理趣経」を読経する
のは、この時の因縁によっている。
空海は弟子たちに、「密教によって悟り
を理解し、大乗仏教によって人々を救済
する心を磨きなさい」と教えた。高野山
で密教を学んだ忍性の師・叡尊は、空海
の教えに忠実な一人だった。彼は
「どんな苦難があっても悟りを求める心
を捨てず、平等の心で人々に接し、
持っているものは惜しみなく分け与え、
民衆の救済に努力します」と、仏に
誓った。
忍性が出家する前の1230(寛喜2)年
から翌年にかけて、日本は天候異変により
全国的な大凶作となった。餓死者が続出
する、想像を絶する飢餓地獄となって
いった。草や虫を食らって生き延びよう
とした。死体に湧いたうじ虫も、食料に
なった。うじ虫は、甘い味がするという。
29歳の叡尊は、旅の途上でこの光景
に遭遇した。野ざらしの死体が累々と
横たわり、腐臭が満ちて息苦しかった。
骨と皮ばかりの人間が、地面を這って虫
を探していた。エリートでもある僧は、
粗食であっても餓えるという事はまず
ない。叡尊に向けられる、妬みと羨望の
視線。彼はおのれの無力さを恥じ、身も
心もずたずたに切り刻まれるような苦悩
を味わった。旅の僧に出来る事と言えば、
死者の霊にねんごろな経文を手向ける事
ぐらいだった。この絶望的な状況下で、
餓えた人々の口から唱えられていた言葉
がある。「南無阿弥陀仏」。親鸞による
浄土真宗(一向宗)である。
叡尊は忍性に対し、徹底して「生命
における平等」を説いた。
「よいか。非人と呼ばれる者たちは、
文殊菩薩の化身だと思い、接するが
よい。」
当時「非人」という言葉は、乞食を
はじめ、ハンセン病や天然痘の患者、
身体障害者などの人々に、幅広く用い
られていた。叡尊は、文殊経に説かれ
ている「利他」の思想を菩薩行の理想
として、不当に差別されている「非人
救済」を自らも実践し、弟子たちにも
教えていたのである。
聖徳太子の頃から、僧は仏教者・
教育者であると同時に医者でもあった。
薬草に関する知識は必須科目だった。
唐招提寺開山の鑑真和上が医学・
本草学について口述した「鑑上秘方」
や、丹波康頼(たんばやすより・
911〜995)が中国医学を集大成
した「医心方」などの
テキストが存在した。
忍性は覚盛から、医学の基礎を学んだ。
やがて忍性は旅に出る。広く世間の暮ら
しを見る事こそ、何よりの修行という、
師・叡尊の考えもあった。忍性は、各地
の寺を巡っては教えを請い、病気の者が
あれば薬草を摘んできて、煎じて飲ま
せた。村の者を集めて、病気に対する
心構えや薬草の種類を教えた。貧しく
餓えた者たちがあれば、寺や豪族たち
を説いて食料を分け与えた。
忍性の旅は、東は関東から西は九州に
至るまでの広範囲にわたっている。
忍性は、40代まで続く旅の期間に、
全国各地にハンセン病患者が安心して
療養する為の施設を17ヶ所に造った。
1261(弘長元)年、44歳の忍性
は鎌倉にやって来た。ちょうど、立正
安国論を執筆した日蓮が、伊豆に流刑
となった年にあたる。忍性は相変わ
らず、光泉寺を拠点として医療福祉
活動を続けていた。これが、幕府
執権・北条長時の知るところと
なった。長時は忍性の菩薩行に
感動し、全面的なバックアップを
約束した。
こうした経緯によって建立された
のが、鎌倉山の麓にある「極楽寺」
である。この寺は、金堂や講堂の
外郭に、「施薬院」「療病院」
「悲田院」「らい宿」などの施設を
備えていた。聖徳太子の四天王寺
以来の、国立総合医療福祉センター
である。
極楽寺の運営が軌道に乗ると、
忍性は奈良へ向かった。極楽寺と
同様の施設を建設する為である。
それが、東大寺の北西・東之阪町
に史跡として現存している「北山
十八間戸」である。ここに「悲田院」
「敬田院」と共に、間口十八間の
ハンセン病患者の為の施設があった
わけである。
なだらかな般若坂途中のこの高台
からは、興福寺の五重塔や東大寺の
金堂、遠景には法隆寺の五重塔を
見る事が出来た。忍性は、こうした
福祉施設の場所を選定するにあた
って、「医療環境」の概念を重視
していた。心の風景とでも言おうか。
長年の経験にもよるが、患者の心が
癒される環境がどんな場所なのかを
よく知っていた。
社会から「非人」として差別され、
身も心も絶望の暗闇の中にあった
ハンセン病患者たちにとって、この
場所はただただありがたかった。
事実、奈良・北山の患者たちは、
朝に夕に興福寺や法隆寺の五重塔
に向かって手を合わせ、涙を流して
いたという。
この頃叡尊は西大寺にあって、
弟子たちの教育に専念していた。
忍性の施設に協力したスタッフの
多くは、西大寺の律僧たちだった。
丸顔で人なつっこい性格の忍性は、
彼らと共に患者たちの世話をした。
いつも柔和な笑顔を絶やさなかった。
気軽にハンセン病患者を背負って、
東大寺や興福寺のあたりを散策して
歩いた。背負いながら、四季の
移ろいや寺の由来の事などを話し、
仏教にまつわるさまざまなエピソード
を語って聞かせた。
話し好きの忍性にとって、それは
自分自身の楽しみでもあった。
決して気負う事なく、力を抜いた
自然の状態でそれが出来る人物
だった。もしも現代のテレビ
スタッフがタイムマシンに乗って、
忍性にインタビューを試みたとしたら、
彼は笑いながらこう言っただろう。
「いやあ、こういう性分なんで
しょうな、きっと。」
忍性の後半生は、鎌倉と奈良を往復
する事に使われた。鎌倉では極楽寺の
他数ヶ所に、同じような施設を造った。
馬の為の動物病院も、忍性の提案で
設置された。そして1303(嘉元元)
年7月15日、極楽寺において息を
引きとった。86歳だった。忍性は
死の直前まで、献身的に患者たちの
世話をしていた。葬儀の際には民衆
の長い長い列から、すすり泣く声が
絶えなかったといわれている。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第5話「戦国南蛮医療伝」
16世紀後半のヨーロッパには、
宗教改革の嵐が吹き荒れていた。
カトリック対プロテスタントの
血みどろの抗争。その頃の日本は、
戦国乱世のまっただ中にあった。
スペイン生まれの宣教師・
フランシスコ・ザビエルが鹿児島
にやって来たのは、1549(天文
18)年の事だった。ザビエルは
島津氏の許可を得て、キリスト教
の布教に着手した。好奇心旺盛な
九州の民衆は、こころよくザビエル
に接した。カタコトのコミュニ
ケーションが成立した。
南蛮人のバテレン(司祭)が説いた
天帝如来(天地創造神・デウス)の
教えは、またたくまに民衆に
広まっていった。ザビエルは、
最初の一年で三千人以上の洗礼を
行ったと言われている。
南蛮宗の信者は、九州を支配
していた大名にも広まった。
有馬・大村・松浦・小西・宗・
黒田各氏が、妻子・一族ごとに
洗礼を受けて入信。領内に南蛮寺
の建設が認められた。彼ら
キリシタン大名の中でも特に
熱心だったのは、豊後国(現・
大分県)の領主・大友義鎮
(よししげ・宗麟)だった。
大友氏はもともと、相模国
(現・神奈川県)足柄郡大友村の
豪族で、足利尊氏に味方して室町
幕府を支え、東九州一帯の守護
大名に成長した家柄である。大友
義鎮は、ザビエル来日当時19歳。
新しい思想に最も影響を受けやすい、
多感な年頃だった。この義鎮こそ、
1583(天正11)年にローマ教皇
のもとに少年使節団を派遣した
大友宗麟その人である。
この豊後国に、ポルトガルの医師
「ルイス・アルメイダ」がやって
来たのは、ザビエル来日から6年後
の1555(弘治2)年の事だった。
豊後国では、コスメ・ド・トーレス
神父を中心とするキリシタン信徒が、
布教と救護活動を続けていた。
アルメイダは彼らが作った「育児院」
の拡張を最初の仕事にした。育児院
の子供たちは、貧しさゆえに両親
に殺されかけた赤ん坊たちだった。
避妊に関する知識や技術がないため
に、子供は産むにまかせるが、食い
ぶちを減らす為に「間引く」ので
ある。
キリシタン信徒たちは、そうした
子供たちを引き取って乳を与え、
育てようとしていたのである。
ポルトガルの裕福な商人でもあった
アルメイダは、私財五千金を投じて
「診療所」も建設。医療ボランティア
活動に着手した。30歳だった。
大友義鎮は、1559(永禄2)年
に豊後港を外国船に開港することを
決定した。これによって豊後府内は、
長崎・平戸と並ぶ貿易港になって
ゆくのである。キリスト教布教の
活動資金は、毛織物輸入の仲買に
よって得ていた。この貿易のもた
らす巨大な利権をめぐって、豊臣
秀吉とキリシタンは鋭く対立する
事になるのだが、それは後の事。
豊後国で信頼され、資金的バック
アップを得たアルメイダは、この年
「診療所」の大増築を行った。
これが、日本初の西洋式病院だと
言われている。
アルメイダは、外科手術を得意と
した。採光の良いベランダに手術室
をつくり、日本人医師の弟子たちに
見学させながら、一日に六〜七人の
手術を行うこともあったという。
病院には重症患者五〜六十人が
収容され、ターミナル・ケアを
含む医療が行われていた。外来患者
は身分の上下を問わず、常に百人
ほどあり、アイレス・サンシエス
を長とする看護スタッフが、献身的
に患者の世話にあたった。
アルメイダの病院には、別病棟が
二ヶ所あった。ハンセン病患者と
天然痘患者を収容する施設である。
彼らはここで、キリスト教の「愛」
に基づく手厚い介護をうけた。
さらにアルメイダは、弟子たちを
医療スタッフとした「巡回診療
チーム」を編成し、病院外無23里
(約9キロメートル)に住む貧しい
人々に、無料で医療行為を行い、
薬を投与した。豊後国に「南蛮
医王如来」が出現したという
情報は、京都はもちろんの事、
遠く関東地方にまで伝えられた
という。
アルメイダの病院運営が軌道に
乗り始めた頃、本州では戦国大名
の勢力争いに大きな異変が生じて
いた。1560(永禄3)年5月
12日、東海地方の大名・今川義元
は、2万5千人の兵を率いて駿府
(静岡市)より出陣。京都を目指した。
足利将軍家を補佐して、天下に
号令するのが目的である。
今川家は、吉良家や細川家と
並ぶ足利家の分家であり、大義
名分も実力も十分にあった。駿府
と京都の中間地点に、尾張(愛知県
西部)という小国があった。領主は
「うつけ殿」と噂されていた織田
信長・26歳。兵力は最大でも
4000人程度。今川軍では問題
にもしていなかった。
5月19日午前11時半。織田
信長家臣・梁田四郎左衛門政綱が、
重大な情報を信長に伝えた。
「今川義元、田楽狭間にて休息中。」
信長率いる三千の兵は、一丸となって
今川本陣のある小さな丘を目指した。
正午から降り始めた滝のような
にわか雨が、織田軍の動きと音を
カモフラージュした。
「死生は天にあり。目指すは義元の
首、ただ一つ。」
午後2時過ぎ、織田軍は田楽
狭間に殺到した。予想もしない
奇襲攻撃に、今川本陣はあわて
ふためくばかり。毛利新助が義元
の首をあげ、3時には戦闘終了。
天下に織田信長の名が轟く事に
なった。この今川軍敗北によって、
人質の身分から解放されたのが
松平元康。後の徳川家康である。
信長が足利義昭を奉じて京都に
入ったのは、田楽狭間の戦いから
8年後の、1568(永禄11)年
の事だった。京都の町は戦乱で
荒れ果て、難民が多数流入して
いた。ここで救護ボランティアの
活動をしていたのは、ポルトガル人
司祭・ルイス・フロイスを中心
としたキリシタン信徒たちだった。
フロイスは、キリシタン大名・
高山右近らの仲介により、二条城の
工事現場で信長と会見する事が出来た。
信長はフロイスに、京都在住と布教
を許可し、南蛮寺建設を援助した。
またフロイスの願いにより、近江国
(滋賀県)の伊吹山に、薬草園の為の
土地が与えられた。
天帝宗の南蛮寺は、京都の医療
救護活動の拠点として、たちまち
大評判となった。
「豊後国だけじゃなく、京にも
菩薩が現れなさった。」
実際、街にあふれていた難民の
大半は、生きる目的や希望を
失っていただけだった。彼ら
は南蛮寺で風呂を使い、衣服を
支給され、粥が与えられた。
「どくだみ」や「げんの
しょうこ」などの薬草茶を飲んだ。
皮膚疾患には、簡単な外科手術
も行われた。
こうしてしばらく休養し、優しく
接するキリシタン信徒たちから、
奇跡を起こす異国の天帝如来の話
を聞かされた。彼らは、普通の
健康体に戻るのと同時に、人間性
を回復した。彼らにしてみれば、
これだけでも奇跡的な出来事だった。
眠っていた魂が、熱く揺さぶられる
ような感動があった。やがて彼らが、
天帝宗布教の第一線で活躍する事
になるのである。信長の庇護も
あって、キリシタン信者は20万人
に達したと言われている。
1582(天正10)年6月2日
午前5時。信長が宿泊していた、
京都・四条西洞院の本能寺が、
家臣・明智光秀軍に取り囲まれた。
信長は、反乱軍と戦闘の後、寺に
火を放って自害。
「光秀謀反。信長死す。」
悲報に接した羽柴秀吉は、備中
(岡山県)から軍勢を大反転。一日
80キロとも言われる行軍スピード
で、光秀を討つべく引き返してきた。
いわゆる「中国大返し」である。
6月13日午後4時。秀吉軍は、
京都南西の山崎で光秀軍と激突。
日没前に光秀が戦場を離脱して
勝敗が決した。秀吉はこの後、
信長の後継者として天下統一を
成し遂げてゆく。
1586(天正14)年、太政大臣・
豊臣秀吉は、北陸・四国平定に
続いて、九州平定を準備していた。
この年、薩摩の島津義久は豊後国の
大友領内に侵入。城下をことごとく
焼き払った。30年間続いたルイス・
アルメイダの医療・福祉事業は、
一瞬のうちに灰となった。南蛮医王
如来・アルメイダは、この年の3年前、
平戸の教会で58歳で没していた。自ら
の病院が、戦乱の狂気の火で焼かれる
場面にだけは、遭遇せずにすんだわけ
である。
また、天帝宗・キリシタン信仰は秀吉
によって禁止され、徳川幕府もその政策
を引き継いだ。日本は幕末まで、外国
との交渉を経つ「鎖国」の時代を迎える
に至った。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第6話「幕末任侠医・高松凌雲
(りょううん)伝(上) 緒方洪庵と
適塾の事<1>
日本の夏。大阪の夏。コテコテの夏。
幕末の頃、下帯ひとつも身につけて
いない素っ裸の男たち30人ほどが、
二階三十畳ほどの部屋でオランダ語と格闘
していた。彼らは皆、二十代前半の若者
たちであった。外は35度で風ひとつ
ない。まして薄暗い室内はモワッとして
息苦しく、人いきれと熱気で40度近
い。この蒸し暑さをまぎらわすためには、
「うちわ」で熱風をかきまわすしか
手段はない。男たちは、全身から汗を
したたらせながら、念仏のようにぶつぶつ
とオランダ語をつぶやき、とり付かれた
ように勉強していた。
意識が無くなったら、机に突っ伏して
寝る。起きたならばオランダ語。この
光景は昼も夜も変わりなく、一年中続く。
夜ともなれば、30本のローソクが
明け方近くまでともり続ける。誰もが
必死だった。いや、劣悪な環境など
ものともしない神経と体力の持ち主で、
なおかつ学問に対する「情熱」がなけ
れば、この塾で生き残る事など出来な
かった。
場所の名は「適塾」。蘭方医・緒方
洪庵が、大阪・北船場・過書町(大阪市
東区北浜3丁目)に開いた医学私塾で
ある。洪庵は1810(文化7)年、
備中足守(岡山県総社市足守)に、下級
武士の三男として生まれた。少年時代
にこの土地にコレラが流行し、バタバタ
と人が死んでゆくのを目撃したことが、
医者を志した動機となった。
16歳の時、家出して大阪へ。稲村
三伯の弟子・中天遊の門人となった。
稲村は「ハルマ和解」という
名の蘭日辞書をつくった人物である。
この当時、人々は「オランダ語を
読むと目が青くなる」という俗説を
疑っていなかった。蘭学は「異端」
に近く、世間の風当たりは厳し
かった。だが洪庵が目撃した漢方医
学は、コレラに対して無力だった。
洪庵は何のためらいもなく蘭方を
選択した。
洪庵は21歳の時江戸に出て、
宇田川玄真の弟子・坪井信道の門下
となった。稲村三伯と宇田川玄真
とは、仙台藩医にして蘭医学者の
大槻玄沢の塾「芝蘭堂(江戸・京橋)」
の同門だった。
洪庵は27歳で長崎へ旅立つまで
の6年間を、「あんま」などの
アルバイトをしながら、「人身窮理
(生理学)小解」や「視力乏弱病論」
などの翻訳をものにしていった。
そして1838(天保9)年、洪庵
29歳の時、「適塾」を創設。以後
20数年にわたって多くの門人を
輩出し続けてゆく。
「医者ってのは、病気で苦しんでる
人を見ると、いてもたってもおられん
人間の事を言うんや。無条件にやで。
そういう性分でないやつ、身分が
どうの、銭金がどうの、立身出世が
どうのと考えるようなやつは、医者
になったらあかん。」
洪庵は事あるごとに、弟子たちにそう
教えていた。
洪庵の時代、東には「任侠
三島医術」と言われた鈴木宗観(1759〜
1824)が、西には「世には権門俗流に
おぼれる小医多し。老柳こそ真医である」
と洪庵が尊敬していた原老柳(1782〜
1854)がいた。幕末の「赤ひげ」と
いったところだろうか。
古今東西、医者という職業は立身出世
の手段であった。だが一方で、生命に
直接向き合うという性質上、強烈な個性
や思想を持つヒューマニストを数多く
生み出している。
江戸時代初期、「生命における平等」
を説き、封建社会の身分制度を厳しく
批判した安藤昌益(1707?〜?)。
貧乏人に無償で薬を施したため、患者
の数より借金取りの数の方が多かった
という北山寿庵(1600?〜?)
いつも牛の背にまたがり、将軍秀忠で
あろうと誰だろうと、薬一服18銭均一
を貫いた放浪の旅医者・永田徳本
(1508〜1624)。江戸・小石川
養生所を設立して貧しい者の治療に
あたった「赤ひげ」のモデル、
小川笙船(1671〜1760)など、
背中に「任侠」と描いてあるような
「人物」である。
「こうした人物こそ、医者というのだ」
と、洪庵は言いたいのだろう。
洪庵は適塾で教育者として活動する
一方、「種痘」の普及に力を注いでいた。
種痘は、恐怖の疫病「天然痘」予防の
決定版と言うべき技術だった。牛の
痘瘡を人に移植して免疫性を高くする
ので、「牛痘法」という。イギリス人
の外科医・エドワード・ジェンナーが、
1796年開発に成功。日本にはその後
40年を経て、シーボルトの門下生・
伊藤圭介や、オランダ通訳・馬場佐十郎
らによって紹介されていた。
しかしこれを一般庶民に普及すると
なると、ただごとではなかった。ただで
さえ「西洋嫌い」の多い中、牛の膿みを
健康な人間にすり込むなど、正気の
沙汰ではなかった。さらに幕府の官僚
主義の厚い壁にも阻まれた。「前例が
ない」というわけである。
洪庵が有力大阪商人の協力を得て、
「堺種痘所」を開設するのは、1859
(安政6)年の事である。種痘普及を
始めてから10年。筆舌に尽くせぬ
苦労を味わったと、洪庵は述べている。
さて、「適塾」である。二階三十畳の
畳は、20年にわたって男たちの汗を
たっぷりと吸い続けてきた。その
おかげで、蚤・しらみ・南京虫たちは
すくすくと成長・繁殖し続けた。塾生
たちは、蚤・しらみを友とする事から、
蘭学修行の第一歩を踏み出すといって
よい。
また、「畳」は塾生たちにとって
重要な意味を持つ。畳一枚が、塾生
一人の「領土」となる。そこに机や
身のまわりの品を置き、勉強し、寝る。
「畳」は場所によって条件が異なる。
窓際の畳は、光と風が多く入り、
ローソク代の節約も出来る。しかし
階段脇の畳となると、昼なお暗く、
夜中に便所に起きた他の塾生に
蹴飛ばされもする。
この「畳」の位置は、月6回
行われる試験の成績によって決定
される。塾生は学力に応じて8段階
に分けられ、最上段階の者たちだけ
が洪庵から医学・語学・物理学・
化学などの講義を受けるのである。
入門者は当然の事ながら、階段脇の
畳からスタートする。すごろくの
「振り出し」にあたる。「あがり」
は塾頭といったところだろうか。
「なんばしよっとですか。」
深夜、階段脇の畳で寝ていた男が、
便所に立った先輩塾生にわき腹を
蹴飛ばされて、思わず大声を張り
上げた。
「やかましい。いやなら寝るな。
ここでは机が枕である。」
男ははき捨てるように言うと、
ドカドカと一階に下りていった。
蹴飛ばされた男、名を高松凌雲と
言う。筑後御原郡古飯村(福岡県
小郡市古飯)の産で、この時26歳。
血の気は多い方だが、先輩塾生の
迫力に負けて呆然と見送ってしま
った。
━えらかとこに来てしもうたかも
しれん。それにしても痒かぁ。
頭が割れる程 痒かぁ・・・━
早速蚤としらみの洗礼をうけた
凌雲は、おちおち寝てもいられ
なかった。この薄汚い塾から、
明治政府で公衆衛生等の医療制度を
整えた長与専斉が出るのだから、
世の中というのは面白い。
蘭学の需要が急速に増大したのは、
やはり1853(嘉永6)年6月3日、
浦賀沖に来航したペリー率いるアメリカ
艦隊の衝撃波以降ということになる
だろう。
二百数十年間鎖国政策を維持していた
徳川幕府に対して、ペリーは武力で
威嚇して開国を要求。外国の武力侵略
に対抗する為に、軍備の増強を考えた。
幕府は海岸防備の重要性から、大船
の建設を許可し、砲台を全国に築かせた。
海軍創設の必要性から、長崎に海軍
伝習所を開設。勝海舟・榎本武揚・
佐野常民・五代友厚らの人材を育成
した。鉄砲や大砲の製造知識や、
国際情勢の情報収集など、軍事部門
の充実に蘭学は欠かせないものに
なっていった。
適塾出身者は、全国から引っ張り
だことなった。村田蔵六(大村益次郎)
は、伊予(愛媛県)宇和島藩主・伊達
宗城に招かれて、黒船建造
と西洋式砲台の建設を命じられた。
武田斐三郎は、函館・
五稜郭の設計・建設を行った。
適塾は蘭医学の塾だが、語学を徹底的
に行うのが特徴である。言葉がわからな
ければ、本が読めないからである。本が
読めるようになれば、それは医書でも
兵書でもかまわない。適塾が日本有数の
技術者を多数世に送り出していった理由
もここにある。政治的イデオロギーに
左右される事のない自由人が多い。
福沢諭吉などは、その代表だろう。
凌雲が医者を志した動機は、洪庵の
場合と同じくコレラだった。1858
(安政5)年8月、上海で流行していた
コレラを、イギリス人が長崎に持ち込み、
九州から京・江戸にまで広がっていった。
江戸だけでも約3万人の死者が出た。
各地で死者を焼く炎が絶える事なく、
地獄絵図そのままの光景となった。
凌雲は、コレラの恐怖と人々の泣き
叫ぶ声に対して、いてもたってもいられ
なくなった。武士を捨て、医者を志し、
家出して江戸へ。シーボルトの弟子・
石川おうしょ桜所の塾生となった。
それから約2年間、オランダ語の
基礎を習得してから適塾の門を
たたいたわけである。凌雲は不眠不休
の適塾方式の勉強で、短期間で
めきめきと実力をつけていった。
凌雲が素っ裸でオランダ語と格闘
している頃、清国・上海に向かう幕府
使節団の一行に、一人の長州藩士が
まぎれこんでいた。高杉晋作23歳。
吉田松陰創設の松下村塾四天王の一人
である。
高杉は、西洋列強諸国に半ば植民地化
されていた上海の現実を目撃。同時に
豊かな財力と軍事力と文化を持つ西洋
文明を見て、強い衝撃をうけた。
━ これが明日の日本の姿か・・・━
高杉は考え抜いた。欧米列強の
植民地政策から、いかにして日本を
守り抜くか。
━ 今の幕府ではだめだ。新国家が
必要だ。━
高杉は倒幕を決意する。この革命に
必要なエネルギーはただ一つ。「狂気」
だった。国に対して大規模な外科手術
をほどこして、積年の毒虫を残らず切り
出してしまおうというわけである。
帰国後、高杉はアメリカ公使館襲撃
を計画。だがこれは未遂に終わる。次は
イギリス公使館焼き討ちを決行。高杉は
欧米との戦争を望んでいた。外敵を
出現させて内部を一つに統合し、幕藩
体制を超えた「強い日本」を誕生させる
為の方法論だった。
高杉が火をつけてまわった「狂気」
の導火線は、長州藩という弾薬庫で
爆発する。下関海峡を通過する外国船
を無差別砲撃して、フランス・アメリカ・
オランダに宣戦布告したのである。
素人がヘビー級のプロボクサーに殴り
合いを仕掛けたようなものである。
むろん長州藩は、ぼろくそに殴り
返された。
だがその結果、藩主を頂点とする
縦割り社会が、機能不全の液状化現象
を起こして崩壊した。高杉はこの時を
待っていた。士農工商の階級差別の
無い軍隊「奇兵隊」を結成。やがて
この軍隊が、倒幕軍の中枢になって
ゆくのである。
凌雲が塾頭になろうという頃、
緒方洪庵が幕府の奥医師として江戸へ
旅立っていった。凌雲はその後を追う
ように適塾を出て、再び石川桜所の
もとで蘭医学を学ぶ一方、横浜の
ヘボン英語学校へも通って見識を
広めていった。
1864(慶応4)年5月26日、
30歳の凌雲は一橋家軍制所付表医師
となった。つまり一橋慶喜の主治医で
ある。慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭の
第七子で、一橋家を相続。この頃は
第14代将軍・家茂を補佐して、長州
征伐などの危機管理に神経をすり
減らしていた。
翌年8月20日、将軍・家茂死去。
12月5日、慶喜は第15代征夷大将軍
となった。慶喜は、家康の再来と
言われるほどの人格・英知を宿していた
と言われている。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第7話「幕末任侠医
高松凌雲(中)
国際赤十字誕生の事<1>
将軍慶喜の誕生と時を
同じくして、慶喜の弟・松平民部
大輔昭武が幕府代表として、第二回
パリ万国博覧会に派遣されることに
なった。凌雲は昭武のお付き医師と
して、同行することを命じられた。
使節には、適塾の先輩・鍋島藩士
(佐賀県)佐野常民も参加していた。
使節一行は、1867(慶応3)年
1月11日に横浜港から出航し、
29日にフランスのマルセイユに入港
した。
「おい、見てみろ。長屋が動いとるぞ。」
凌雲が目撃したのは汽車だった。凌雲
は、というより日本人にとって西洋
文明は、驚きと発見の連続だった。
マルセイユに着いた一行は、さっそく
市内観光。公園や博物館などを、目を
丸くして見てまわった。
「極楽浄土は西にあると聞いとった
が、いやあ、まさにここは仏国じゃ。」
凌雲は完全に舞い上がっていた。
凌雲らは、10月24日にパリに
入るまで、「動く長屋」に揺さぶられ
ながら、スイス・ドイツ・オランダ・
ベルギー・イタリア・マルタ島などを
旅してまわった。
パリ万博幕府館には、陶器や武具
などが展示され好評を博していた。
凌雲も全身好奇心に満ちて各パビリ
オンを見学したわけだが、とりわけ
気になったのが医学関係だった。
建物の前に白地に十字の旗がある
施設に、凌雲は吸い寄せられるように
入っていった。展示されていたのは、
さまざまな医療器具だった。
「これは何か?」
館内のフランス人に、凌雲は
オランダ語と英語と覚えたての
フランス語のチャンポンで質問した。
何とかコミュニケーションが成立
した。戦争時の野戦病院で用いる
担架や、消毒用の石炭酸水など
だった。凌雲はこの時始めて、
「赤十字」という国際組織の存在
を知った。戦争や災害時に、
敵味方の別なく医療行為を行う
のだという。
「もっともだ。洪庵先生も言って
おられた。西洋にも先生のような
人物がいるとみえる。西洋の任侠道
も捨てたもんじゃないわい。」
凌雲は、国際赤十字関連の病院が
ノートルダム近くの「オテル・デュー」
である事を知り、ここにお百度を踏む
事になる。
「最初は極楽かと思ったが、西洋にも
戦争や疫病、貧乏はうんざりするほど
ある。赤十字という西洋の任侠道から
学ぶ事は多い。」
凌雲から「西洋の任侠」と評された
男、名をアンリ・デュナンと言う。
1827年5月8日、スイスの
ジュネーブで生まれた。凌雲より9歳
年上という事になる。ちなみに「戦争と
平和」で知られるロシアの文豪・
トルストイも同じ年に生まれている。
デュナン家の先祖には、宗教改革者
として名高いジャン・カルヴァン
(1509〜64)がいる。そのせいで
デュナン家は代々、カルヴァン派の敬虔
なクリスチャンで、アンリも両親の福祉
活動の影響を強く受けて成長してゆく。
ジュネーブの名門お坊ちゃまは、母と
共にスラム街を訪れ、家畜小屋のような
住居で生活する人々の悲惨さに強い衝撃
をうけた。この少年は、スラム街の現実
を体験した後、これを全人類の不幸に
置き換えた。学校の成績はごく普通の
少年だったが、この発想力は凡庸では
ない。あらゆる差別と偏見、病気と迷信、
貧困と人間のエゴを克服するという大命題
が、少年アンリ・デュナンの魂を熱くした。
一応世間体もあって銀行に就職した
が、ボランティア活動の方により熱心
だった。そしてデュナンの夢は膨らむ。
「このクリスチャンの社会活動を、
世界組織に統合しよう。」
あっさりと銀行を退職すると、団体
の名を「YMCA(キリスト教青年会)」
に改め、世界大会を提案した。
各国の著名な団体に手紙を書き、
同意を求めた。思い込んだら命がけ
というような、のめりこみやすい
性格だった。
この情熱は、2年後の1855年
5月8日、第一回YMCA世界大会の開催
という形で結実する。デュナン28歳
の誕生日の事であった。
その同じ頃、スイスの遥か東方、
黒海沿岸のロシア領・クリミア半島
では、イギリス・フランス連合軍が
ロシアと戦火を交えていた。この
地獄の戦場の野戦病院で戦傷者の看護
にあたったのが、後に「クリミアの天使」
と呼ばれるフローレンス・ナイチンゲール
である。
彼女は、イギリス・タイムズ紙従軍
報道記者・ウイリアム・ハワード・
ラッセルの記事によって紹介された。
戦傷者の悲惨さと、ナイチンゲール以下
37人の看護婦たちの働きは、多くの
人々の心を揺さぶった。
デュナンも新聞によって、彼女の
存在と行動を知った。
「私と同じ魂の持ち主がいる」と、
デュナンは直感した。以来ナイチン
ゲールはデュナンにとって、「あこ
がれのお姉さま」となり、大きな
心の支えになってゆく。
看護を神の啓示による使命と思い
定め、一途に深く掘り進んでいった
ナイチンゲールに対して、デュナン
は多角的視野で行動し、かつ野心的
だった。デュナンは、以前銀行の出張
で訪れたアルジェリアに「のめり
込んで」ゆく。製粉会社の経営に着手
し、事業家として成功しようとした。
そこで得た資金を、YMCAなどの
ボランティア活動にあてようと考えて
いたのかもしれない。
だが、この事業は大失敗する。
干ばつと水不足、地震といなごの襲撃
という天変地異。加えて組織内での
裏切りと、踏んだり蹴ったりの状態で、
荒れ果てた小麦畑と借金の山だけが
残った。
追いつめられたデュナンは、起死
回生・一発逆転の秘策に打って出た。
アルジェリアを支配していたフランス
皇帝・ナポレオン三世への「直訴状」
である。皇帝は北イタリアにいた。
当時の北イタリア国境地帯には
「サルジニア王国」が存在し、領土的
野心を持つオーストリア帝国と
フランス王国との中間地帯で、利害
関係が複雑に入り乱れていた。
1859年6月24日、オーストリア
軍17万とサルジニア・フランス連合軍
21万の軍勢が、北イタリア・ミラノ
の東、バダノ・ベネタ平原で激突した。
19世紀最大の戦闘の一つ、
「ソルフェリーノの戦い」である。
両軍合わせて900門の大砲が火を
吹き、騎兵がぶつかり合い、銃弾を
撃ち尽くした後は銃剣で殺し合い、
最後は石を投げ合い、殴り合い、噛み
殺すという死闘を、日暮れまで続けた。
戦闘はオーストリア軍の退却でケリが
ついたが、戦場には4万とも5万とも
言われる死傷者が、累々と横たわって
いた。銃剣で腹を刺された者は出血
するにまかせ、やがて来る死を待つ
だけだった。
戦場の西4キロの町・カスティリ
オーネ。デュナンはどういう運命の
いたずらか、負傷兵で溢れかえる町に
いた。戦闘終了の翌日の事である。
町は血の匂いとうめき声に満ちていた。
出血で体の水分を失った者は、誰もが
等しく激しく喉の渇きを訴えた。
デュナンは町の人々と共に、何かに
とりつかれたように彼らの介護に
あたった。三日間不眠不休で、水を与え、
体を楽にさせ、包帯を巻いた。約9千人
の負傷者に対して、医者は5人しか
いなかった。
ジュネーブに戻ったデュナンは、この
時の体験を一冊の本にまとめ、3年後
に出版する。「ソルフェリーノの記念」
と題された本の中で、デュナンは2つ
の事柄を提案した。ひとつは、国際的
中立救護機関の設立。もうひとつは、
戦傷者救護の国際条約の制定である。
誰もが夢物語だと思った。だが
デュナンの言う、「人道精神を基底に
した救護団体」の必要性に、一人また
一人と心動かされていった。法律家・
ギュスタヴ・モアニエ、将軍・ヘンリー・
デュフール、医学博士・ルイ・アッピア、
テオドル・モノアール。デュナンの
情熱に応えて、5人の専門家による
委員会が組織され、具体的準備に
向けて始動したのである。
1863年2月9日に発足したこの
「5人委員会」は、同年10月ヨーロッパ
16ヶ国の参加を得て国際会議を開き、
「赤十字規約」を決定。翌1864年
8月、ジュネーブ条約(赤十字条約)調印。
ここに「国際赤十字」が誕生するに至る。
「戦場に博愛を」と唱えたデュナンの想い
は、ここに結実したのである。時に
デュナン、37歳だった。
年が明けて1868(慶応4)年1月。
オテル・デューにお百度を踏んで医学
を吸収していた凌雲のもとに、一通の
電報が舞い込んだ。
「幕府軍、薩摩・長州連合軍に大敗。」
幕府の公費で留学しているような凌雲
らにとって、この知らせは自分たちの
立場を根底から揺さぶられる直下型
地震と言えた。
「なんじゃこりゃあ・・幕府が潰れる
っちゅうことか?」
「うーむ・・」
「どうする?」
「わからん。」
凌雲らがヨーロッパに滞在していた
慶応3年という年は、日本の政治の
大転換の年だった。10月に徳川慶喜
が、政権を朝廷に返上。いわゆる大政
奉還を行った。倒幕を画策している薩摩・
長州藩の動きを封じ、朝廷と幕府が一体
となって政治を行うのが狙いだった。
だが慶喜の考えは甘かった。岩倉具視
(ともみ)らの朝廷工作により、倒幕の
密勅が薩長両藩に下っていたのである。
薩長軍は、約六千の兵を京に向けて
進軍させた。これを迎え撃つのは、
会津・彦根・津・大垣・桑名の幕府軍
約一万。慶応4年1月3日午後5時、
鳥羽伏見街道で両軍の戦闘が始まった。
鎧兜に槍・刀・火縄銃という、
300年前の戦国時代とあまり変わらぬ
幕府軍の装備に対して、薩長連合軍は
最新式のライフル銃を雨あられと
浴びせかけた。実戦経験豊かな奇兵隊
が主力だった。だが、奇兵隊の生みの親・
高杉晋作も、薩長連合の仕掛け人・
坂本龍馬も、すでにこの世の人では
なかった。
戦闘は翌朝まで続き、大勢は薩長軍
有利で決した。6日には総大将・徳川
慶喜が大阪城を脱出し、江戸へ引き
上げて謹慎した。朝敵になる事を恐れ
たのである。
薩長連合軍は江戸へ向けて進軍。
3月14日には、官軍代表・西郷隆盛
と幕府全権・勝海舟の話し合いにより、
江戸城無血開城が成立。抗戦派の幕府軍
は、関東各地に散っていった。
抗戦派鎮圧の指揮官には、長州の
村田蔵六(後の大村益次郎)が就いた。
適塾出身で、数多くの兵法書の翻訳を
手がけ、近代戦に精通した村田の才能
を見抜いたのは高杉晋作だった。情や
気合いといった精神論ではない、合理的
戦略によって、四面楚歌の長州軍を連戦
連勝に導いた男だった。5月には上野に
結集した彰義隊を、村田の「計算
どおりに」鎮圧した。
凌雲らのもとには、続報電報が次々に
届いていた。いよいよ幕府が危ないと
いうことで、渋々帰国を決意。マルセイユ
からフランス郵船に乗り、5月17日
横浜に到着した。その日は、上野彰義隊
鎮圧の2日後だった。
江戸市中は、薩長の新政府軍で
ごったがえしていた。7月には江戸が
「東京」と改められた。
「西軍は錦旗を頭上に戴き、市中を
横行し、傲慢無礼なる事、見る毎に
憤怒に堪えざる事あり(東走始末)」
と、凌雲は書いている。新政府軍の横柄
な態度に、よほど腹が立ったのだろう。
凌雲は医者仲間の内部情報で幕府海軍
脱走計画を知り、榎本艦隊と行動を共に
することになるのである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第8話「幕末任侠医 高松凌雲(下) 」
函館戦争の事<1>
「抜錨。」
東京・品川沖に停泊していた、旧幕府
軍の軍艦8隻が、錨を上げて出航準備
にとりかかった。艦隊を指揮するのは、
旧海軍奉行・榎本武揚
32歳。生粋の江戸っ子である。
旗艦・開陽丸の甲板には、榎本と凌雲
のほかに、軍艦奉行の荒井郁之助、
艦長・沢太郎左衛門などが立ち、
ぼおっと紅く染まる東京の街を見て
いた。
「オランダから帰って早々、幕府海軍
が揃って夜逃げってんだから、なん
ともべらぼうな話じゃねえかい。
ねえ、凌雲先生。先生もフランスで
これからって時にさ。」
榎本が凌雲に話しかけた。
「新しい国造りでしょうが、釜さん。」
榎本は通称・釜次郎。
「そうさね。薩長の威張りくさった
芋侍は、勝先生がにらみを効かせて
くれてる。その間にこっちは、新しい
独立国の建設よ。」
開陽丸は静かに動き出した。回天丸・
播竜丸・千代田丸・長鯨丸・神速丸・
美加保丸・咸臨丸が、その後に続いた。
旧幕臣やフランスの軍事使節団を乗せた
総勢2000名の艦隊は、北海道・
函館の五稜郭を目指した。時に
1866年8月19日午後11時。
太陽暦では10月4日。東京湾の
暗い海面に、秋の冴えた月光がきら
きらと輝いていた。
この頃東北戦線では、会津軍が
最後の抵抗を示していた。奥羽越
25藩の列藩同盟による戦闘は、
各地で新政府軍が勝利し、最強と
言われた越後・長岡藩との「北越
戦争」も、7月29日にケリが
ついた。
これらの戦場の最前線に、常に
ひるがえっている旗があった。
それには「奥羽出張病院」と描か
れてあった。敵味方の区別なく
戦傷者を治療する野戦病院である。
病院長は関寛斉35歳。医者でも
ある村田蔵六の推薦する「仁術
医者」だった。18歳で佐倉
順天堂に学び、10年後、長崎
のポンペから「患者に身分の上下
なし」という精神を叩き込まれた
男である。
ポンペはユトレヒト大学で医学を
学んだオランダ人医師で、1857
(安政4)年に来日。口の悪い勝海舟が
「ありゃ名医だよ」と誉めたぐらい
だから、よほど人格・見識の優れた
人物だったのだろう。
ともあれ「奥羽出張病院」は、
日本初の「赤十字的」病院となった。
関に協力した薩摩軍従軍医師・
ウイリアム・ウィリス(28歳)の名
も特記しておく必要があるだろう。
意気揚々と出航していった榎本艦隊
だが、8月21日犬吠埼沖で台風に
傷めつけられた。美加保丸座礁。
勝海舟らが太平洋横断を果たした
咸臨丸は、漂流して駿河(静岡県)の
清水港に流れ着いた。旗艦・開陽丸
は舵を失い、3本のマストを折って
しまう。回天丸も2本のマストを折り、
8月28日にヨタヨタの状態で仙台湾・
東名浜の沖までたどり着いた。
仙台藩62万石。徳川幕府から
見れば外様大名である。表向きは
幕府に従い、腹の中ではあまり幕府
をよく思っていないというのが、藩祖・
伊達政宗以来の伝統的精神である。
中央政府の動乱とは常に一歩距離を
置き、時代の潮流に乗って生き延びて
ゆく家風があった。気候が温暖で自然
災害が少なく、米がよくとれて、江戸
時代に百姓一揆がほとんどないという、
全国でも例外的な藩だった。
そうした豊かな経済力のせいか、
革命的精神は育たなかった。奥羽越
列藩同盟の中枢に位置しながら、
どっちつかずの態度をとったのは
そのせいである。榎本らが仙台藩に
徹底抗戦を呼びかけても、「のれん
に腕押し」の状態だっただろう。
事実、仙台藩内の強硬派はことごとく
要職を追放され、榎本らの艦隊も燃料
と食糧の補給をうけただけで、体よく
追い払われてしまった。
9月8日、年号が「明治」と改元
された。9月11日、榎本艦隊は、
体勢を立て直して仙台湾を出航した。
美加保丸と咸臨丸に代わって、鳳凰丸
と大江丸が加わった。また、旧新撰組
副長・土方歳三率いる「額兵隊」が
合流した。
この年、土方歳三33歳。鳥羽伏見
の戦い、甲州勝沼、宇都宮、会津若松
で戦闘に参加。「死に場所」を求めて
の転戦だった。新撰組局長・近藤勇は、
すでに新政府軍に捕らえられ、斬首の
刑に処せられていた。
10月19日、榎本艦隊は北海道
(蝦夷地)内浦湾に投錨。翌日、鷲の木村
へ上陸した。目指すは函館(箱館)五稜郭。
榎本軍は、大鳥圭介率いる本隊と、土方
率いる支隊に分かれて進軍。26日に
五稜郭を無血占領した。彼らは休む間
もなく、松前城攻略戦に着手。常に
死ぬ気でいた土方の大胆な作戦もあって、
12月初めまでには松前藩勢力を追い
出す事に成功した。
12月5日、榎本を総裁とする
「蝦夷共和国」が誕生した。土方は
陸軍奉行並、凌雲は箱館病院の病院長
に就任した。
「ヨーロッパなら日本位の広さの
土地に、3つも4つも共和国がある。
新国家の承認は、万国公法(国際法)
に照らして、イギリス・フランス
などに求める」
というのが、榎本の言葉だった。
だが、明治政府が手をこまねいて
独立を承認するわけはなかった。
1869(明治2)年3月、明治政府
は雪解けと共に蝦夷共和国総攻撃を
行うと決定。4月9日、長州・薩摩・
福山・備前・伊予・筑前・津軽・
松前藩の陸・海軍から成る新政府軍
は、江差の北・乙部村に上陸した。
二千の兵は3隊に分かれて、函館
への進軍を開始。4月13日、両軍
は二股口で激突した。土方歳三率いる
伝習隊などの軍勢が、死に物狂いで
戦う事13時間余。ついに新政府軍
は、一時退却せざるを得なくなった。
「傷ついた者は敵味方問わず、誰でも
いいから連れてこいよ。」
という凌雲の意志によって、戦傷者は
次々に箱館病院へと移送されていった。
「医者のはずが、これじゃ畳屋だよな。」
などと言いながら、凌雲は弾丸の摘出や
刀傷の縫合などの手当てに忙殺されて
いた。この戦闘での共和国軍の死傷者は
78人にのぼった。
4月17日、新政府軍は陸海軍を
松前に集結。艦砲射撃と陸軍の狙撃
で、共和国軍を撤退させる事に成功
した。以後共和国軍はじりじりと
追いつめられ、5月3日の時点で残る
陣地は、五稜郭と弁天台場だけと
なった。こうなっては勝敗は明らか
だった。共和国軍は心理的にも追い
つめられ、全員玉砕を覚悟した。
5月11日、夜明けと共に
新政府軍の総攻撃が始まった。
函館山沖からの艦砲射撃が、市街地
に向けて行われた。共和国海軍の
回天丸・播竜丸も負けじと応戦。
また陸軍も、銃弾を撃ち続けながら、
五稜郭本陣に向けて進軍。各所で
壮絶な市街戦が繰り広げられた。
本陣を出て弁天台場の救援に
向かおうとした土方は、この時
一発の弾丸に腹を貫かれ、どっと
落馬した。この弾が狙撃による
ものか、流れ弾によるのかは
わからない。ともあれ土方の出血
はなはだしく、数時間後に絶命した。
午前10時、箱館病院は久留米藩
の兵士に取り囲まれた。皮肉な話
だが、凌雲は医者を志す以前、この
藩の小姓勤めをしていた事がある。
だが今さら昔の縁を頼って同情を引く
ような凌雲ではない。殺気立っている
兵たちに、戦傷者の保護を説いた。
「傷ついて動けない者を殺しゃ、
そりゃただの人殺しだろうが。人の
道を踏みはずすような真似はやめ
なよ。」
と凌雲は言った。
「私は医者だ。傷ついた者に、薩長
も幕府もないよ。平等にあつかう。
あんたがたの仲間で、傷ついた者が
いれば連れておいで。」
凌雲の説得により、戦傷者は保護され、
医療行為の続行も許された。
だが、悲劇は凌雲の目の届かぬ所
で起きた。箱館病院の分院として
使われていた「高龍寺」に、松前・
津軽藩の兵が乱入。戦傷者十数人を
殺害のうえ、寺に火を放ったのだ。
「呪ってやる・・生涯・・」
凌雲は慟哭した。戦争ゆえの狂気に
対して、怒りに震え、はらわたが煮え
くりかえった。
この日の戦闘は夜8時頃まで続け
られ、共和国側の死傷者だけで
171人に達した。海軍の回天・
播竜も弾を撃ち尽くした後炎上。
文字通りの死闘となった。その夜
戦傷者でごった返している箱館病院に、
榎本がやって来た。榎本は凌雲の前に、
分厚い本二冊と一通の手紙を差し
出した。
「おいらぁ、腹切る覚悟は出来てる。
けどね、こいつを燃しちまうのは日本
海軍の損失になる。先生から西軍の
黒田さんに渡しちゃもらえないかい。」
榎本が持参した本とは、「海律全書」
という海上国際法である。オランダの
ハーグ大学教授・フレデリクスが、
フランス人オルトランの著作を訳した
自筆本だった。
凌雲は翌朝、自ら黒田の営舎に
向かった。明治政府軍参謀・黒田清隆
28歳。茫洋としてつかみどころの
ない男である。酒豪であり情が深い。
西郷隆盛を師と仰ぐ。
「かたじけなかです。」
黒田は「海律全書」を押し戴いた。
「先生。御礼状を書き申す間、
しばらくお待ち下さい。」
凌雲は、黒田の手紙と使者一人を
連れて営舎を出た。黒田の使者は、
荷車に酒5樽を乗せて、ガラガラと
引いていた。
「おう、行ってきたよ。」
凌雲は五稜郭の本陣に榎本を訪ね、
黒田の手紙を手渡した。
榎本は手紙を読み終えると、腹を
抱えて笑い出した。
「はははははっ。先生、負けたわ。
こんな男が西軍にいるんじゃ、勝て
ねぇ。」
そう言って榎本は、凌雲に手紙を
見せた。海律全書の礼を述べた後、
追伸として次のように書かれてあった。
「義を重んじる篭城 感心した。食糧
弾薬が欠乏なら送る。防御の個所が
行き届かぬのなら、攻撃を猶予する。
期日を知らせよ。」
凌雲は、脇にいた陸軍奉行・
大鳥圭介に黒田の手紙を見せた。
大鳥も大笑いした。
「玉砕と気負ってみても阿呆らしい。
今回はひとつ、降参と洒落てみようか。」
指揮官の英断で、無用の玉砕戦は避け
られた。5月18日、共和国軍は降伏
した。
江戸が東京となり、年号が改まっても、
刑務所にはまだ、小伝馬町の牢屋敷が
使われていた。
「大牢、払い下げる。」
「へーい。おありがとうござい・・・」
薄闇の中から、牢名主の声がする。
入牢した男は、牢名主から声をかけ
られる。
「お前、娑婆でどんな悪業を働いた?」
「私が函館戦争の榎本である。」
「へっ?・・へっ・・へへぇっ・・」
榎本は即刻牢名主になった。
凌雲も東京に送られ、10月から
翌年2月11日まで、阿波藩邸での
謹慎が命じられた。11月に浅草・
新片町で医院を開業。地元の「赤ひげ」
としての第一歩を踏み出した。凌雲は
動乱の生活からようやく解放され、
家庭を持った。
凌雲と共に「赤十字精神」の
さきがけとなった「奥羽出張病院」の
医師・関寛斉は、徳島に戻り医院を開業。
種痘の普及に努めるとともに、貧しい者
無料の医療を続けた。「徳島の赤ひげ」
「関大明神」として、地元の人々から
崇められた。
1872(明治5)年1月、榎本は
西郷隆盛・黒田清隆らの尽力によって
釈放され、明治政府の為に働く事に
なった。北海道開拓使を経て、明治
7年、海軍中将兼特命全権大使として
ロシアへ。外交顧問として、旧知の
オランダ人医師・ポンペを招いた。
ポンペは後に、第4回赤十字国際
会議に出席。西洋の任侠医者として、
普仏戦争の野戦病院で働く事になる。
1877(明治10)年2月、熊本。
西郷隆盛率いる薩摩軍3万余人を、
明治政府軍6万1千人が包囲した。
西南戦争である。政府軍は物量に
ものを言わせて、山砲・小銃を一日
約32万発、日本刀しか持たぬ
薩摩軍に浴びせかけた。薩摩軍は
夜間の抜刀作戦で抵抗し、血で血を
洗う激烈な戦いとなっていった。
戦闘は2ヶ月あまり続き、この
熊本城攻防戦だけで約7千人の死傷者
を出した。死体の腐乱臭、血の臭い、
戦傷者の叫び・うめき声。戦場は常に
地獄絵となる。
3月。凌雲は元老院議員・佐野常民
の訪問をうけていた。佐野は、赤十字
と同様の救護団体、「博愛社」の設立
を準備していた。
「高松さん。この仕事はあなたが
最も適しています。同じ洪庵先生の
教えを受けた者としてお願いします。
昔のいきさつは水に流して、協力
してもらえませんか。」
佐野は凌雲を口説いた。
「おっしゃる事はよくわかります。
しかし私は、自由・平等・博愛と
いう崇高な理念からはほど遠い人間
です。つまらん事と笑われるかも
しれないが、私はいまだに高龍寺を
焼き討ちした者たちを恨んでいます。
そんな男が赤十字でも
ないでしょう。」
「あれは悲劇だった。しかし箱館
病院はまぎれもなく赤十字だった。」
「私はただの医者です。組織運営と
いう政治的な事柄は、私の最も苦手
とするところです。むろん、医者と
しての協力は約束しましょう。」
凌雲は佐野の申し出を断った。
佐野は大給恒
らと共に「博愛社」を準備し、西南
戦争の救護にあたった。参加救護員・
126人。戦傷者・1429人が彼ら
の救護をうけた。5月、小松宮彰仁
親王を初代総裁にした救護団体
「博愛社」が成立。10年後の
1887(明治20)年5月20日、
日本赤十字社と改称。同年9月2日
に赤十字国際委員会の承認を得て
国際赤十字の一員となり、佐野が
初代社長となった。
一方凌雲は、過去の恨みを克服し、
1879(明治11)年3月2日、
貧しい者たちの施療院「同愛社」を
設立し、福祉医療に力を尽くした。
仁義、すなわち博愛仁愛の精神を貫き、
徹底したサービスこそが医療の本道と
言い切った。
凌雲は1916(大正5)年10月
12日、81歳で死亡する。それ
までに60ヶ所の「同愛社」施設で
恩恵をうけた人々は、111万人に
のぼった。反骨の任侠医者・高松凌雲
は、近代福祉事業の礎となった。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第9話「生死迷境」
弥次郎兵衛と喜多八。通称「ヤジ・
キタ」コンビの珍道中でおなじみの、
「東海道中膝栗毛」。この物語の
作者は、江戸時代中期の喜劇作家・
十辺舎一九。彼は人生の最期までも
「洒落」でしめくくった。火葬の炎
と同時に、自らの棺桶に仕込んで
おいた花火に点火し、江戸の空に
パッと咲いたというのである。
時に1831(天保2)年8月7日。
享年66歳。
「この世をば どりゃおいとまに
線香の 煙とともに 灰さようなら 」
という辞世の句が、痛快に光っている。
生命というものは例外なく、「誕生」
と「死」を体験する。遺伝子工学の発達
した遠い未来世界において、これが
どのように変化するかはわからないが、
今のところ人間も例外ではない。
言いかえれば、人間は死ぬまでは
生きているということになる。自分
や他者の「死」と向き合い、死に
ついてあれこれと思いをめぐらすと
いう事は、現在の「命」を思う事に
なる。自分が何の為に生まれてきた
のかなどという、根本的な問いかけ
を広く深く見つめ直すきっかけにも
なるだろう。
だが、死を語らずして生命に
ついては語れないなどとは言う
ものの、普段あまり考えたくない
事柄なのは確かだ。ゆえに、
わかっているようでわかって
いない、曖昧模糊としたものが
「死」というものの特徴なのかも
しれない。
人間、死んだらどうなるのか?
誰もが一度や二度は、必ず持つ疑問
だろう。臨死体験者の証言や、退行
催眠による前世の存在などを通じて、
霊界や輪廻転生の事柄がさまざまな
形で語られている。賛否を決める
のは各々だろう。おそらくこうした
事柄は、個人個人がそれぞれの人生
の中で、獲得してゆくべき内面の
智恵のようなものだろう。
人はそれぞれ多様な感情と感性を
持って生きているので、少なくとも
傲慢で唯物的な科学者によって否定
されるべき性質のものではない
だろう。「あの世」なるものが
あって、この世と一対の鏡のように
響き合っていた方が、感情が
豊かに膨らむ事だけは間違いない。
生まれる前が恐くなかったの
だから、死んでからも恐くない
だろうと言う人がいる。なるほど
そうかもしれない。だが大抵の
人は、死ぬのが恐い。だがもし
人間から、「死に対する恐怖」が
無くなったらどうなるのか?
おそらく、殺人や自殺が日常となり、
人間社会が維持出来なくなるだろう。
死に対する恐怖という感情(あるいは
本能)は、生命維持の為には絶対
不可欠なものなのだろう。死は
恐くて当たり前だと思っていれば、
まちがいないだろう。
死には二種類ある。自分の死と、
他者の死である。死について
わかっている事はただ一つ。誰もが
皆死ぬという事。わからないのは、
それが「いつ・どこで・どのように」
起こるのかという事。わからないから
不安なわけだが、人智を超えた事柄
なので仕方ない、としか語れない
。
一般に、心臓と呼吸が永久停止
した状態を「死」と呼んでいる。
「脳死」は人の死か、という大議論
がある。脳死とは、脳の機能が死滅
して、心臓がまだ動いている状態を
指す。臓器移植という問題から、
法的には死と認められたが、そうで
ないとする意見も多い。
また、フランツ・ハルトマン著作
の「早すぎた埋葬」で紹介されて
いるような、「蘇生」という現象も
ある。脈拍・呼吸が無く、角膜反射
の欠如という、医学的には完全に
「死」と認定される状態であるにも
かかわらず、その状態から生き返った
例がいくつもある。時間的には、
数時間から数日と幅がある。
この為「墓地・埋葬に関する法律
第3条」にも、死亡後24時間を
経過しなければ、火葬や埋葬を行って
はならないと定められている。
「蘇生」という現象は、今のところ
医学(科学)では説明のつかない、
生命の神秘とでも言うよりほかない
だろう。
現代日本では、約8割の人々が
病院で死を迎え、死者の96.4
パーセントが火葬される。死体に
接する機会はあまり多くないし、
腐乱死体となると、警察や法医学
関係者などの特殊な人を除けば、
まず目撃する事はないといってよい。
そこで、法医学資料に従って死体
の腐敗を再現してみる。人間が
死ぬと、体の温度調節機能が失わ
れて、ゆっくりと体温低下が始まる。
点状の斑点、つまり死斑が現れる。
血液循環が停止して皮膚が青白く
なり、筋肉が硬くなる。死後硬直
である。やがて体内で、最近酵素
による物質の分解作用が始まり、
メタンガス・硫化水素・アンモニア
が発生。死臭という、独特のくさい
匂いの素をつくってゆく。
さらに腐乱がすすむと、まず毛や
爪が剥がれ落ち、全身の皮膚が
いたるところで崩れ出す。腐敗ガス
によって全身が膨れ上がり、強烈な
悪臭が漂う。血液や腐敗液が、口や
鼻、あるいは汗腺から流れ出して
くる。腐敗ガスの圧力によって
頭蓋骨が破裂し、脳みそが体外に
飛び出したり、子宮内の胎児が押し
出されたりすることもある。
この間、おびただしい数のうじ虫
が湧き、死体を食い続ける。食い
尽くした後に白骨化する。生前
いかなる美人だろうと、英雄と
呼ばれた人物だろうと、この自然の
摂理には逆らえない。死体を放置
しておけば、例外なくこの現象が
発生する。
死体が腐乱し、白骨化してゆく
プロセスは醜く汚い。目を覆いたく
なるほど無残な姿に違いない。
だから、日本人の「死」に対する
イメージの原型は、「醜く汚れた
恐ろしいもの」だった。死者とは
見るのもおぞましいような「穢れた」
存在だった。
死の穢れを払い清めるためには、
「みそぎ」が必要だった。現代でも
葬式帰りの人に対して塩で清めると
いう慣習がある。このように日本人は
「死」に対する「穢れて不気味で
恐ろしい」というイメージを深層に
持ち、古代から現代に至るまで連綿と
受け継いできたのである。
現実の腐乱死体は、そのまま死後
の世界のイメージに直結していた。
死者たちは、永遠の闇黒である「ヨミ
の国」に住んでいる。死者の霊は、
この世を生きる人々に害を成す、
恐くて仕方のない存在だった。この
「悪霊」を封じ込める力があると
信じられていたのが「石」だった。
古事記では、ヨミの国に行って現世
に逃げ帰ってきたイザナギが、
「チビキノイワ」でヨミの国の入り口
を塞ぐ。石に対する信仰は、やがて
「寺」と結びついて「墓石」となって
民衆に定着してゆくのである。
この「死=けがれ」という観念は、
日本人社会の中に、独特の階級差別を
生み出した。江戸時代の身分制度に
「士農工商」があった事は、誰もが
歴史の教科書で知っている。だが
文部科学省黙認の事実として、その
下の階級として「穢多・非人」という
賎民身分があった事は御存知だろうか。
けがれが多いと書いてエタと読む。
牛や馬などの皮なめしや、処刑場の
死体を処理する人々を総称してこう
呼んでいた。
「非人」とは、文字通り人にあらずと
歴然と差別を示す言葉である。乞食の
他、ハンセン病患者や身体の不自由な
人々を含んだ総称として使われていた。
こうした人々が各地にいて、弱い者
同士が助け合い、支え合う小さな社会
を形成していた事から、「部落差別」
と言われてきた。
明治時代になって、表向きは四民平等
の社会になった。しかし、「死=けがれ」
の観念や、「業」という仏教的
観念が入り組んで、彼らへの差別は
「同和問題」と名を変えて存在し続けて
いる。現在まで「死」にまつわる問題を
「タブー視」してきた為、固定観念や
偏見が根深く尾を引いている。
日本人は「死体」に関する感情として、
二重構造を持っていると言われている。
無縁の死体は徹底して嫌うが、愛情の
深い肉親や戦友の死体に関しては、
異常なまでの執着を示す。諸外国の
人々には、理解不能の感情だという。
仏教的思考でも説明のつかない、日本人
特有の身体観が存在するらしい。死体も
遺骨も、単なる「物」ではない。神が
泥からつくったという性質のものでも
ない。神秘的な霊力が宿る「何ものか」
なのである。
昭和初期まで、死体を食べる事が
難病の妙薬になると信じられていた。
原爆で火傷を負ったわが子に、父親の
遺骨の灰を塗ったという例もある。
この時、死体や遺骨は穢れたものでも
恐いものでもなくなる。愛情の深さを
示す例として、日本人は涙する。戦友や
飛行機事故で亡くなった人の遺骨ならば、
地の果てだろうと深海だろうと、捜し
求める遺族の姿がある。
こうした、日本人独特の死体に
まつわる感情を抜きにしては、脳死や
臓器移植の問題は語れないのかもしれ
ない。臓器移植には、生体移植と死体
移植がある。生体肝臓移植は1989
(平成元)年11月、島根医大の末長直文
助教授のチームにより、初めて行われた。
以後順調に移植手術は続けられている。
腎臓移植は、年間500件から
700件の割合で行われている。移植
希望者は約1万8千人前後。23人に
1人という数字が出る。腎臓移植の
成功率は、生体移植で90パーセント
以上、死体移植でも80パーセント
以上になっている。死体移植の場合は、
心臓死から80分以内という厳しい
条件がある。
臓器移植で、ドナー(臓器提供者)と
患者家族、医療機関のパイプ役に
なるのが、「移植コーディネーター」
と呼ばれる人たちである。原則として
医師である。移植コーディネーターは、
脳死状態にあるドナーの家族に対して、
臓器移植の説明と承諾の取り付け、
ドナーのHLA型(白血球の血液型)適合
検査、移植患者の選定、移植医への
連絡、臓器の摘出と移植手術の時刻
設定、臓器の搬送の手配等の準備作業
を行う。この一連の作業を、脳死状態
から約24時間以内に完了する必要が
ある。
移植コーディネーターは、ドナーの
死を厳粛に見つめ、なおかつまだ心臓
が動いている状態で、家族の合意を
得なくてはならない。辛い仕事である。
手配は冷静かつ迅速に判断することが
要求される。ドナーの家族の悲しみと、
臓器移植を待ち望む患者やその家族
との間で、板ばさみになる。
死体移植には「角膜移植」がある。
アイ・バンクである。「盲人に光を」と、
1925年・アメリカ合衆国オハイオ州
セダポイントで開催された、ライオンズ
クラブ世界大会で、ヘレン・ケラー女史
は涙ながらに訴えた。奇跡の人。盲・
聾・唖の三重苦の人。
この大会は「視聴力委員会」を生み、
後にアイ・バンク設立へと発展して
ゆく。ヘレン・ケラー女史は、戦前・
戦後を通じて三度来日した。日本の
障害者の為の講演を、全国で行った。
これがきっかけとなり、1950
(昭和25)年に「身体障害者福祉法」
が、1958(昭和33)年には「角膜
移植法」が制定された。日本初のアイ・
バンクは、1964(昭和39)年に
慶応大学と順天堂大学に設立されてから、
大学病院を中心に全国に広がっていった。
ヘレン・ケラーの精神が、アイ・バンク
の原点となった。
臓器移植の問題に関して、世界の
宗教関係者はほぼ許容している。反対
の立場をとるのは、ユダヤ教やエホバの
証人などの少数にとどまる。ユダヤ教
は、認めないのではないが、手続きが
ややこしいらしい。エホバの証人では、
教義の上から輸血すら認めていない。
1985(昭和60)年、川崎市内で
ダンプカーにひかれて病院に収容
された子供に対し、両親がエホバの
証人の信者として輸血を拒否。再三の
医師の説得にもかかわらず、子供は
失血死した。この事件は「生命か、
信仰か」という議論を世間に巻き
起こした。
1997(平成9)年4月24日、
生命倫理研究議員連盟会長の中山太郎
議員提出の「臓器移植法案」が、
衆議院本会議で賛成320、反対
148で可決した。この中山案は
脳死を人の死であると認め、臓器移植
を推進するという法案である。
一方、脳死を人の死としない臓器
移植をめざす議員の会会長・金田誠一
議員提出の法案は、賛成76、反対
399で否決された。これによって
社会的な意味での脳死は、人の死で
あるという一つの指針が示された事に
なる。だが、最終的には、個人個人が
「死」をどのようにとらえ、どう向き
合うかの問題に返ってくる。今後
ますます、「死」に関わる問題が重要
になってくる事だけは間違いない。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第10話「ホスピス(上) 」
ホスピスの成り立ち
がん。日本人の死因第一位。年間
総死亡者約78万人のうち、約22万人
ががんで死亡している。4人に1人
の割合である。「がん戦争」の言葉
通り、人類の宿敵であるがんをめぐる
壮絶な戦いは、果てしなく続けられて
いる。
外科療法・化学療法・放射線療法・
電磁波温熱療法などの対症療法。再発
予防法としての免疫温熱療法。さらに
中国医学を考慮に入れた治療法など、
考えられるありとあらゆる治療が
成されてきた。その結果、がんは
不治の病ではなくなった。胃がんや
乳がんは、早期発見の場合、90
パーセント以上の確率で治ると
言われている。
しかし、末期発見などの理由で、
そうした治療法をもってしても生命
を救いえない状態がある。末期状態と
呼ばれる命。3〜6ヶ月以内と予測
される残された命を、最大限有効に
生きる「場」。それを「ホスピス」
と呼んでいる。また「死を看取る
医学」のことを、「ターミナル・ケア
(末期ケア)」と言う。
ホスピスとは「温かいもてなし」を
意味するラテン語、「ホスピターレ」
を語源にしている。「ホテル」も、
ここから出た言葉である。中世
ヨーロッパにおいて、聖地エルサレム
を巡礼する際に、途中病気になった
信者を治療した施設をそう呼んでいた
事に由来している。聖ヨハネ修道会の
ホスピタル騎士団が知られている。
また1600年代のフランスで、
司祭のヴァンサン・ド・ポールと
シスターたちが、奴隷や貧しい者たち
の為に、ホスピスや孤児院などを多数
設立し、救済活動を行った。しかし
残念な事に、これらはごく稀な例で
ある。愛と奉仕・いたわりが信条で
あるはずのキリスト教世界において、
他者への愛や憐れみの感情が浸透する
のは、19世紀中頃になってからの事
である。王や教会・市民が、医療・
福祉事業にかかわった例はほとんど
ない。教会の権力闘争と、血塗られた
虐殺の歴史だった。
では東洋はどうだろう。紀元前の
インドに、アショカー王がいる。彼は
戦争の悲惨さを反省して仏教に帰依。
諸国に病院・薬草園・動物病院・老人
ホーム・ホスピスなどを多数建設した。
日本では飛鳥時代、聖徳太子が同様の
事業を行った。
聖徳太子を仰ぐ多くの僧が、救済
事業を受け継いだ。中でも鎌倉時代、
医王如来として民衆に慕われた僧・
忍性は特筆に値する。中世カンボジア
の王・ジャヤヴァルマン7世も、慈善
病院設立に力を注いだ。東洋世界は、
決して不毛ではなかった。
やがてキリスト教世界に、1人の
天使が舞い降りた。この頃からキリスト
教世界は、「愛と奉仕」の巻き返しを
はかった。1820年5月12日生まれ
の、フローレンス・ナイチンゲールで
ある。彼女は神の啓示によって、看護
婦を天職と考えるようになる。当時は
娼婦と看護婦の区別さえ曖昧で、アル
コール中毒の看護婦が大勢いた。病院は
薄汚い収容所にすぎなかった。
ナイチンゲールは、華やかなパリ
社交界のドレスを脱ぎ捨て、悲惨と
汚物にまみれた「病院」に身を投じた
のである。33歳の時、志願して
クリミア戦争に従軍。野戦病院で壮絶
な働きをして、「クリミアの天使」と
賞賛された話はあまりにも有名である。
イギリスに帰国後、ビクトリア女王
に病院改革案を献策し、看護婦学校を
創設。自ら病に冒されながらも、自宅
のベッドで1万5千通にのぼる手紙を
書き続けた。それまで一室に50〜60
ものベッドがあり、床に汚物臭が
たちこめていた病院が、様相を一変させて
ゆく。スチーム暖房。食事用リフト.
ナース・コールなど、現代の病院の基礎
が次々に築かれていった。
現在のホスピス=ターミナル・ケアの
精神を、西洋で最初に説いたのは、アイル
ランドの修道女・メリー・エイケンヘッド
である。1905年の事だった。ナイチン
ゲールが死亡した翌年の1911年、
イギリスのダグラス・マクミランは、
「救癌マクミラン基金」を創設。訪問
看護婦(マクミラン・ナ―ス)による、
在宅ケアチームが組織された。
1967年、女性医師・シシリー・
ソーンダースの働きにより、世界初の
独立型ホスピス「セント・クリスト
ファー・ホスピス」が誕生。イギリスは
ナイチンゲールの登場以降、医療・福祉
の先進国になってゆく。人口5千万人に
対し、民間100施設、国営30施設の
ホスピスがある。
日本初のホスピスは、1982(昭和
57)年11月にスタートした、静岡県
浜松市の「聖隷三方原病院・ホスピス
病棟」である。準備に5年をかけた。
開設にあたっては、傑出した社会福祉
事業家・長谷川保の存在を抜きにして
語る事は出来ない。
「わたしがあなたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合いなさい」
というイエス・キリストの言葉を、生涯
かけて実践した人物だった。
長谷川は1903(明治36)年、浜松市
の商家に生まれた。県立浜松商業を卒業後、
日本力行海外学校に入学。ブラジル移住を
志しての事だった。学校では、内村鑑三の
教えを受けた。内村の著書「来世と復活」
を読んだ長谷川は、日本で生き抜く決心を
する。大不況の就職難だからという理由
だけでブラジルに行く事は、「逃避」だと
思った。イエスが十字架に架かり、死から
逃げなかったように生きようと固く誓った。
多感な20歳の青年だった。
1926(大正15)年、聖隷
クリーニング店を開業。この時この店に、
長谷川の父親が結核の青年を連れてきた。
結核は当時、死の伝染病として恐れられ
ていた。感染者は「病原菌」扱いされ、
世間から差別されていた。長谷川は、
結核患者の為の診療所建設を決意する。
キリスト教信者の支援を得て、世間の
迫害と戦いながら事業を続けたが、
資金的に苦しくなり、万策尽きて事業
断念を決意する。そんな時、昭和天皇
から御下賜金が出るという奇跡が
起こったのである。事業継続はもちろん
の事、なにせ「天皇陛下公認」である。
世間の見る目ががらりと変わった。
時に1939(昭和14)年。長谷川
36歳。細々の13年だった。
1961(昭和36)年、長谷川は
日本初の寝たきり老人専門療養院
「十字の園」を設立。ドイツの
キリスト教女性看護組織「ディア
コニッセ」の援助が、大きな支えと
なった。老人福祉法が制定される
2年前の事である。翌年、聖隷三方原
病院完成。1968(昭和38)年には
「がん専門病棟」、1973(昭和
48)年には高齢者世話ホーム「エデン
の園」が完成する。
長谷川は1946(昭和21)年に、
43歳で社会党から立候補。衆議院議員
として当選7回。社会保障・医療福祉の
法整備を推進し、常に時代の先端を
歩んできた。日本初のホスピスが「聖隷
三方原病院」という私立病院だった
事が、十分にうなずける。長谷川の
原動力になったのは、世間の偏見や差別
と戦い続けた精神だった。
聖隷三方原病院ホスピス開設の翌年、
愛媛県の松山ベテル病院。82年4月、
沖縄のオリブ山病院。84年4月には、
大阪・淀川キリスト教病院にホスピスが
設置された。この1980年代前半と
いう時代、国民は空前の漫才ブームや
健康食品ブームに浮かれていた。死と
真剣に向き合うなどという「暗い」話題
は、ほとんどタブーと言ってもよかった。
そんな中、がんが死因のトップになった
のは、1982年6月の事だった。
その後ホスピスは、1985(昭和60)
年に神奈川県の聖テレジア病院、千葉県の
八日市場市立病院に。87年には千葉県の
国立がんセンター東病院、大阪の幸会喜多
病院、三重県の藤田学園保険衛生大サナト
リウム。88(昭和63)年には北海道の
東札幌病院にと、ポツポツと開設して
いった。
1990(平成2)年4月。厚生省は
「緩和ケア病棟」として、
聖隷三方原病院、国立がんセンター東病院
(旧・国立療養所松戸病院)、大阪淀川
キリスト教病院の三病院を正式承認し、
健康保険制度の適用を決めた。ホスピス
承認の基準はさまざまある。医療法の
基準を満たし、常勤の専任医師がいる事。
患者1人に対し、看護婦1.5人。患者
1人あたりの病室の広さは8平方メートル
以上で、50パーセント以上が個室である
事。家族の為の控え室、台所、面談室が
ある事などである。
ホスピスは90年に入って、東京の
救世軍清瀬病院、福岡の福岡亀山栄光
病院、福島の慈山会医学研究所付属坪井
病院、埼玉の上尾更生病院が新たに
加わる。日本のホスピスは、総合病院
の一部をホスピスとして利用している
か、病院内でチームをつくり、ホスピス・
ケアを行うタイプがほとんどである。
宗教的にはキリスト教精神を基礎に
したものが多く、宗教抜きの病棟が
それに続いている。
日本初の仏教ホスピスが誕生した
のは1992(平成4)年、新潟県長岡市
の長岡西病院ビハーラ病棟である。
ビハーラとは、サンスクリット語で
「休養の場・気晴らし・仏教の僧院」
などの意味がある。仏教ホスピスの
準備は、1987年9月、浄土真宗の
僧・小泉敬信を代表とする「仏教
ホスピスの会」設立から始まった。
会員数25人のボランティア団体だった。
本来「生老病死」の苦を説き、慈悲
と方便で衆生(民衆)を救済するのが、
仏教であり僧だった。日本人にとっては、
キリスト教より馴染み深い。死と直面
するホスピスこそ、救済の場として
ふさわしい。ところが、現代伝統仏教
は救済力を失い、葬式を主とする典礼
儀式しかやって来なかった。僧=葬式
というイメージは民衆の中に定着し、
病院に顔でも出そうものなら、「縁起
でもない」と塩でも撒かれかねない
存在になってしまった。そうした意味
でも、「ビハーラ病棟」の存在意義は
大きい。
小泉のホスピス運動に呼応した
1人が、長岡市在住の飯田女子短大
教授の田宮仁だった。田宮は「県仏教者
ビハーラの会(代表・木曽隆)」の一員
としてホスピス建設を推進。田宮の兄・
崇が経営する長岡西病院の一角に、
新病棟を建設するに至ったのである。
浄土真宗系の寺にはかつて、「往生院」
「涅槃堂」と呼ばれる、末期ケアの
為の施設があったと、田宮は語る。源信
(942〜1017)の著作「往生要集」
という、ターミナル・ケアについて
記した本もあった。仏教が衆生救済
という、本来の生命力を取り戻せるか
否かは、「ホスピス運動」の成否が象徴
的に語りだすはずである。
1993(平成5)年9月。聖路加国際
病院院長の日野原重明は、長年の夢で
あった独立型ホスピス「ピース・ハウス・
ホスピス」開設にこぎつけた。日野原が
理事をつとめる(財)ライフ・プランニング
センターが、神奈川県や日本船舶振興会
から約6億円の寄付を得て、神奈川県
平塚市の北西・中井町に建設。富士山や
丹沢連峰を望む、絶景の地である。外観
も室内も、病院というよりは、ホテルか
ペンションといった感がある。中庭には
花々が咲き乱れている。個室12室、
2床室1、4床室2。医師6名、看護婦
17名、宗教者1名、ケースワーカー1名、
薬剤師1名、栄養士1名、その他調理師、
環境整備員、ボランティアなどのスタッフ
で構成されている。
日野原は、1970(昭和45)年に、
日本赤軍による「よど号」ハイジャック
事件に、乗客として遭遇。死の恐怖と
向かい合った。機内で4日間を過ごし、
若き日の闘病体験を回想する。ドスト
エフスキーの「カラマゾフの兄弟」を、
機内で読み続けた。
「誠にまことに汝らに告ぐ。一粒の麦、
地に落ちて死なずば、唯一つにてあら
ん。もし死なば、多くの実を結ぶべし。
(ヨハネ伝第12章24節)」
という聖書の言葉が、日野原の死生観の
原点になった。ピースハウス・ホスピス
の石碑には、旧約聖書詩篇56「いのち
の光のうちで」という文字が刻まれて
いる。
1994(平成6)年3月。仙台市の
社会福祉法人「ありのまま舎」は、全国
初の難病者ホスピス「太白ありのまま舎」
を完成させた。自らが筋ジストロフィー
患者でもある、常務理事・山田富也の
長年の夢だった。完成を夢見ながら
亡くなっていった人々も多い。
難病と言っても多種多様だが、
筋ジストロフィー・脳性麻痺・脊髄損傷・
抗原病などが主なものである。総工費
10億円。定員60名、全室個室。
医師1名、看護婦3名、寮母30名、
チャプレン1名をメインスタッフとし、
ボランティアと共にケアにあたる。
施設は、自然の光をふんだんに取り
入れた設計になっている。仙台市西部の
緑に囲まれた環境の中にあり、
キリスト教精神を基本としている。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第11話「ホスピス(下)
痛みを知る」
がんは激しい痛みを伴う。歯痛を
体験した人は多いだろう。ズキズキ
する痛みの為、何も手につかなかった
事はなかっただろうか。そしてそんな
時に考えた事と言えば、何でもいいから
一刻も早く痛みを取り除く事ではなかった
なかっただろうか。
末期がん患者の70パーセントは、
主症状として「痛み」を体験する事に
なる。がんには「デアフェレーション・
ペイン」と言って、神経そのものが
がんに侵されるという、想像を絶する
痛みもある。しかもがんの痛みは、
歯痛の比ではない。
末期がんのケア(心の癒しを含む看護・
介護)で「クオリティ・オブ・ライフ
(生命と生活の質を高める事)」を実現
する為には、まず患者自身の身体の痛み
を取り除かなければならない。
1986年、WHO(世界保健機関)は、
すべてのがん患者を「20世紀中に
痛みから解放するための宣言」を発表
した。がんの痛みをなくす為の、具体的
な方法論である。
第一段階。痛みが軽い場合は、アス
ピリンやアミノフェンなどの鎮痛薬を
用いる。それでも痛みを緩和出来ない
場合、第二段階として弱アヘン系
コディンという鎮痛薬に切り替える。
それでも駄目な場合は、第三段階と
して「モルヒネ」が登場する。
この三段階疼痛対策を、「WHO
方式」と呼ぶ。これは全世界の末期
がん患者に対して実施され、十分な
効果をあげている。これを受けて
厚生省(現・厚生労働省)と日本医師会
は、「がん末期医療に関するケアの
マニュアル」を発表した。しかし
一部の病院やホスピスで成果をあげた
他は、一般的治療法として定着するまで
には至らなかった。
末期ケアは、一部の医療現場で真剣
に論じられてはいたが、患者にこれと
いった治療をほどこさない「末期ケア」
のあり方に、反発する医師も多数存在
した。一分でも一秒でも生命を長く
維持するのが医師としての務めで
あり、その放棄は敗北であると。まして
モルヒネは麻薬だから、投与するなど
とは言語道断というわけである。患者
や家族サイドにも、「モルヒネを使えば
あと一日か二日の命だ」という誤解を
生む土壌があった。
その問題のモルヒネだが・・・ケシ
の実からアヘンが採れる。そのアヘン
を単離したのがモルヒネである。言う
までもなく麻薬であるが、モルヒネに
は中枢神経系(脳し脊髄)に対する鎮痛
作用がある。これを正しく使用すれば、
がんの激痛を止めるだけでなく、咳や
息苦しさも同時に和らげることが
できる。麻薬と言えば中毒(禁断症状)
と誰もがイメージするが、WHOが
1969年に発表した薬物依存の報告
の中で、モルヒネを正しく使用した
場合の中毒症状を否定している。その後
イギリス・アメリカ・日本などのホスピス
で使用され、中毒に陥った臨床例は一例
もない。
がんの痛みから解放された結果、夜
ぐっすり眠れるようになり、食欲が増進
し、全身の倦怠感がなくなる。そういう
状態になってはじめて、読書や音楽鑑賞、
趣味や仕事といった、本来の生活の質を
取り戻す事が出来る。
1992(平成4)年10月の、第12回
日本臨床麻酔学会の席上、武田文和
埼玉県立がんセンター副院長(WHO専門会議
メンバー)は、医師は患者の痛みを過小評価
する傾向があると訴えた。
「看護婦は患者と長時間付き合い、患者の
痛みをよく知っている。しかし立場上、
医師にモルヒネの使用を勧めるというわけ
にもいかない。看護婦は医師よりも早くから
熱心にがん患者の痛みに関心を持ち、勉強
している。医師は看護婦の報告と判断に、
もっと耳を貸す必要がある」と。
WHOは「痛み」の治療に対する関心の
低さを、世界共通の問題と指摘している。
「医学教育が疾患治療の方法論に
偏り、患者の痛みの訴えに耳を傾けること
を教えていないことが原因である。」
しかし、相手の立場になって考えると
いう人間としの基本的資質を、教育の場で
教わらなければ理解出来ないような者が、
医師として他者の生命を左右する事の
ほうがもっと問題かもしれない。医療
現場だけの問題ではない。他者の肉体的・
精神的「痛み」を理解する心は、知識偏重
の教育からは育つはずもない。相手の立場
になってものを考えるためには、「推察力」
や「想像力」が欠かせない。それらは皆
右脳が司る「感性」の領域である。
ところで、現在ホスピスを中心とする
医療現場で使用されているモルヒネだが、
錠剤と粉末の二種類がある。粉末の塩酸
モルヒネは効果が4時間。苦いので水に
溶き、シロップやワインで味をつけて
飲む。この「プロンプトン・カクテル」
は、ハチミツやレモン水、お酒など、
何でもよいのが特徴。自分の好みに
応じてよい。
錠剤の硫酸モルヒネ徐放錠は、効果が
12時間。一日二回の服用。スイスで開発
され、世界30ヶ国で承認・市販されて
いる。この薬は日本での商品名「MS
コンチン」。シオノギ製薬から流通して
いる。1988(昭和63)年に厚生省から
承認され、翌年から市販された。
モルヒネ使用に対する医師の誤解の
一つに、「副作用は避けられない」と
いうものがある。確かに全能の、副作用
の全く無い薬は存在しないかもしれない。
しかし副作用対策を十分に行えば、副作用
の為に投与を中止しなければならなかった
臨床例は稀にしかない。
便秘には、酸化マグネシウムを第一選択
として用いる。悪心・嘔吐には、制吐剤
プロルペラジンを、眠気にはメチルフェニト
を用いる。モルヒネによる混乱・幻覚は、
1〜2パーセントと稀な副作用だが、使用量
の減少から中止へ。中止後の混乱には、
向精神薬のハロペリドールを第一選択とする。
(WHO方式・経口モルヒネ長期反復投与時
の副作用対策のコツ・大阪淀川キリスト教
病院ホスピス・恒藤暁 )
モルヒネ使用に対して厚生省が重い腰を
上げたのは、1995(平成7)年3月に
なってからの事だった。モルヒネ使用に
対する十分な安全性のデータが得られたと
して、使用推進へのゴーサインを出した
のである。
がんに関わる医療現場では、がん告知や
クオリティ・オブ・ライフの問題に関して、
確実な意識改革が進行している。治療
(キュア)中心の医療から、介護と
共存する医療へ。特に精神的なケアが
重要視されてきた。そうした現場の発想
から生まれたのが、「トータル・ペイン
(総合的な痛み)」という発想であり、
「痛み学」と名付けられた領域である。
痛み学とは、医学・薬学・心理学・
社会学・宗教学などの、人間の肉体的・
精神的痛みに関わる専門家が集まり、
痛みをトータルにとらえようとする
研究分野である。
患者は、目前に「死」がせまっている
事を知っている。誰でも死に対しては強い
恐怖心を持つ。患者は「眠るのが恐い
んです」と訴える。これも切実な精神的
痛みと言える。患者も家族も、愛する人
との別れが刻一刻とせまってくることを
感じる。明日かもしれない。明後日かも
しれない。先の見えない不安の中で、
死という厳粛な現実と向き合う。何も
してあげられないという無力感に襲われる
かもしれない。悲しみがじわじわと家族を
しめつける。
残された命をどう生きるのか。死んで
ゆく家族をどう見守るのか。患者も
家族も、それぞれに切実な痛みを抱え
ている。全人生と全人格が否応なく
さらされ、問われる。自分の人生とは
一体何だったのか。生きるとは何なの
か。家族とは、愛するとは、魂とは、
祈りとは、生命とは、死後生とは・・
ホスピスの現場では、医師や看護婦の
他に、さまざまなスタッフが患者と家族
のケアに協力している。ソーシャルワーカー
(社会福祉士)、カウンセラー(臨床心理士)、
ケース・ワーカー(介護福祉士)など、
コ・メディカル・スタッフと呼ばれる、
心のケアの専門家である。さらに各種
宗教者やボランティアが加わる。
誰もが皆、迷い、悩み、試行錯誤
しながら仕事をしている。精神的にも
肉体的にも過酷な現場と言える。だが
案外、ホスピスの現場は生き生きして
いる。
「これが本当の看護よ」
という声が聞かれる。患者と看護婦が
一対一で、長い時間をかけて心の交流が
はかられるからだ。きついけれど、人間と
して充実するというのが、ホスピス・ナース
たちの真情なのだろう。
このホスピス・ナースには、いくつかの
資質が要求される。相手を尊重する柔軟性
がある事。ユーモアのセンスがある事。
自分の信条を一方的に相手に押し付ける
ような、生真面目な信者タイプの人は
向かない。ホスピスの現場では、すでに
宗教の枠を超えた、普遍的心情が形成
されているようだ。
今、日本人の約8割は病院で死亡して
いる。しかし「家で死を迎えたい」
「病院では死にたくない」「家族に
見守られて死んでいきたい」と、誰もが
心ひそかに切望している。どんな立派な
病院・病室をつくったとしても、住み
慣れた家にはかなわない。家には何よりも
「思い出」がある。それが人情というもの
である。
末期ケアについて、特にがんや難病の
場合、病院を切り離す事が出来ないのは
確かである。在宅が無理ならば、せめて
ホスピスをという患者と家族の声は、
日増しに高まっている。
在宅ケアについては、いくつかの問題点
が指摘されている。まず、往診が医療制度
の中で必ずしも優遇されていない為に
起こる、経済的問題である。しかも末期
ケアの場合、特に在宅専門の看護婦や
介護の福祉スタッフが重要になるが、
現実には人材不足である。
がんの場合には、モルヒネの問題も
ある。現在多数の医師が麻薬免許を
持っているが、管理は厳しい。都市型
病院で治療を受け、薬剤師から処方箋
を受け取って地方の自宅に帰った場合、
自宅周辺に処方箋を調合出来る薬局が
あるかどうか。非常に少ないというのが
現実である。
死とは、誰にとっても避けられない
現実である。「痛み」と「死」を見つ
める事からしか、本当の意味での「生」
は成立しない。誰もが安らかな死を
願っている。
古代ローマの哲人皇帝・マルクス・
アウレリウスは語る。
「・・だからこのほんのわずかの時間を
自然に従って歩み、安らかに旅路を
終えるがよい。あたかもよく熟れた
オリーブの実が、自分を産んだ地を誉め
たたえ、自分を実らせた樹に感謝を
ささげながら落ちてゆくように。
(自省録・第4章48節・岩波書店) 」