死んだツールに、豊穣なる面白い理想郷を、生死の錯誤に求めても、結局はまたツールでしかなくなるというループの人間話
気づく、ということは何も正しいかもしれないし、過ちでもある。だけど、人は信じているものが破られた時に、新たな何かを発掘する作業に心をときめかせる。ああ、また新たな道具が見つかった。この武器を使って、また僕は生きる手段を構築することができたんだ、と企む。
人は、生きるという真理に突き動かされる死にナイフを突き出された怯える狂気で、だから人は自分よりも生きようとする材料を多く持っている幸運を、攻撃するし、ときには自覚なしに攻撃することだってあるのだが、じゃあ、持っている側は攻撃指定内って言える?すべてが、闘争であるというが、じゃあ俺たちはなんでお金を使って、互いに協力関係を結んでいるのだろう。結論、我々はゆがんでいる。歪んだツールにまみれて、答えだけが目の前に常にあるのに、見えないふりをして、ツールも透明化してあなたがたはすべてを綺麗なものだと信じ込んでいるが、私だって信じていたし、同時に、それは錯覚でもある。私の気づき、ツールという考えは、ただの、錯覚でしかない。
すべては錯覚である。同時に、真実である。
あなたが信じたものは信じられるが、別の人から見ればそれは錯覚でしかない。同じものをみても、角度がちがければ違って見える。球体であっても、背景が少し地がければ、それは違う映像となる。僕らは、いつだって、別々の視点からものごとを見る。頭の中でも、景色の中でも、目の前のことでも、すべてぼくたちは気が狂ったようにいろとろどりの豊かさのなかで 複雑性という、真っ白な何もない空間から進化したこの世界を、面白い、多様性のあると歌うし、時にはもうそんな幸せも忘れて全部が退化しているとも歌うらしく、結局世界は多様化しているから、ひとつのものでひとつのもののみかたしかないということはないのが、こんなに恐ろしいことだとは思わなかった。
我々は共感しても、それはレッテルというツールを利用しているにスギナイ。あなたが人を嫌うのは、感情の不安をさけるためのレッテルにスギナい。ともいえる。
だから、そう、我々は名前をつける。あなたに、すべてに。
世界の不安を捨てるために。それはあくまでぼくみかただ。すべてが名前がある理由なんて、みんな人によって違うんだ。ぼくは、ただそれがツールである、レッテルであると判断することになった。そうなった。気づいた。そういう日だった、というだけだ。
それは実に記念すべき誕生日だ。我々は毎日生まれ変わっている。細胞とか、そういう意味でなく、日々、違う自分であると気がつかない。当たり前だ。
だけど、けっきょくわれわれはなにも正しくなく、間違ってもいないので、違う自分であっても問題はない。常に、変わらないと理解してもいいのだ。成長しても、しなくても、それはあなたの人生だから、あなたが決めればいい。
そんな冷静な言葉で紡げるほど、単純な、わかりやすい話であったならどれだけお前たちを殺すべきではなかったか。我々は、あなた方は、殺されてしまうのだ。この閉鎖された世界で、常に、世界によって私たちは駆逐される定めにある。そのしの恐怖から逃れることは、まさしく幸福である。生きるという縋らなくてはならない真理を放棄することが可能だからだ。私たちは、常に怯えなくてはならない。
もう、死にたくなくても、結局死に怯える限りは、生きなくてはならない。
つまり、ツールが必要になるんだよ。
生きるための交換条件をするために、誰かに与え、与えられなくてはならない。コミュニケーション、仕事、学習、すべてにおいて僕たちはその交換条件によって生活をなりたたせ、生という真理を達成し、死という恐怖を遠ざけて、延命する。永遠に。
結局死ぬんだぜ。でもさあ、死ぬのが怖くないなら、真理なんて達成するひつようはない。つまり、頑張るひつようははじめからなくなるんだ。努力も、成長も、なにもかもがね。ツールっていうのは、ひつようなくなるんだよ。
じゃあ、それでどうするんだ。
すべてを放棄して、あなたはどうするんだ。
きっと答えはひとつしかない。
我々は、我々から唯一残る手段をもってして、唯一のこたつべてをすこで前例して、全霊して、全身全力を尽くさなければならないということになる。
それは、つまり、永遠に束縛されるということになる。幸せな人生、不幸な人生、よかったね、わるかったね、終わったね、救われたね、ああそんなことをいいながら果てることが例えば有意義であるとするならば、そう思っていた僕としては、結局のところ面白いというものに縛られるということは、本当に不幸なこと、無意味なことなのではないか?面白いって、面白いって、本当に、それは、そんな言葉で表現するからいけないの、もりこもっていえばいい?盛り込も・・・・・・
じゃあ、あなた方はどうすればいいと思うだろうか。
人には人の生きる道があるが、別に全員がそれを自覚していない場合も多いし、どうでもいいと思っているし、平和に生きているだろう。地獄でもあるだろう。
重ねていうが、私は私の人生、行き方、するべきこと、の苦しみによって自身が恐ろしい変化をし、おぞましいことに気がついてしまったことで、絶望しているだけだ。
それはつまり、全員に共通のことなんかじゃないんだ。私の問題は私の問題なのだ。それがすべてを理解したということだった。私の理解を、私が行い。それによってただ、膨大な面白いという必要性しか残らなくなり、ああ、捕まってしまったんだな、と自由ではなくなったような確信を得ただけだ。
それはおおきな変化をもたらすだろう。よいのか、わるいのかはわからない。
ただいえることは、何もかもすべてが終了するというわけでもないということで、面白いというものに束縛されても、結局はそれによって作れるものがないわけじゃないとかk水んしているといういみでは、それはそれで希望であるのだ。
じゃあ、文句はないんじゃないの・
いや、そうだね、そうかもしれないね、私たちは、ただ、生きなくてはならないなんてこともなくなったなら、死ぬことに恐怖も感じないというなら、そう、これはこれで、あらたな・・・…・
矛盾が発生している。私は、死を実は恐れている。痛みを、恐れている。死ぬことはさほど怖くないかもしれない。だがそれにともなう苦痛や、そして死んだあとの世界がわrかあないということに恐怖している。そして、人生がおwるということが結局絶望的なのだと思っている。
救われるのだとおもったときもあった。だが、そうではない。
私は、ツールの世界に戻り、それでいてその世界に、きっと、本心から付き合うこともできない。頑張ってそのツールを利用して、生きよう、とは思えない。報酬をたくさんえてだれよりもシを遠ざけて幸せになろう、って本気でそう思った瞬間もあった。だけどいまはそんなことも通過して、死にたくないのに死にたい。生きたくないのに、生きたい。つまり、どうもありたくない。ただ、無為でいたいと思った。
何も深く考えず、表面的な面白さにすがり、ただただ何も思わず、ひたすらに面白いと思っただけのものを、経験則だけで構築してそれを楽しんで、楽しんで
もう終わりにしましょう。
語ることはすべて語ったのだ。
結局これも、一日だけの結果かもしれないんだ。寝ればなおるってね。
それは、寝てみないとwからない。起きてみても、絶望しているかもしれない。
つまり、こんなに決意じみたものを書いても、気づいたふりをしても、それはけっきょkう僕にとては、ただの、面白いのためにツールでしかないんだ。
つまり、すべてはただの、ただの、真実であり、嘘である、といえる。
それが永遠に続くだけなんだよ。
それが、僕の人生だ。あなたの人生は、どうあるのか、それはあなたが考えればいい。私のような人生だと思ったなら、答え合わせをしてみるといい。多分、違う形をしているだろう。絶対に、共通の存在なんてないんだ。
それがつまらないか面白いかも、お前が決めればいい。