プロローグ
屋敷の灯りは主の私室を残して全て消え、この屋敷で寝起きしている者は側仕えから下男下女に至るまで寝静まっていた。白い石でできた長い回廊には自分の足音だけが響いている。音をたてずに歩く術も身に着けておきながら敢えて音を響かせているのは、主への反抗心かもしれない。
今回の任務はとても乗り気にはなれそうになかった。主から命令を受けた時、私はつい聞き返してしまった。影である私が主の命令を聞き返すなど、口煩い姉に知られては毎日の食卓が穏やかなものではなくなってしまう。
主の部屋に近づくと、夜であるにも関わらず大勢の人の気配がした。今日もたくさんの影や魔術師が警備に駆り出されているようだった。あの気配の中で眠れる主の神経がわからない。まだ私の存在には気づいていないようだ。
と、月が雲に隠れた。漸く私に気づいたのか、空気がピンと張り詰める。丁寧に足音までたててあげていたのに、今まで気づけないなんて。この王国の人材不足は深刻だ。少し殺気なんてものを出してやると、面白いくらいに空気がざわついた。正体がバレるまで遊んでやるかなんて思っていると訪問者が私だと気づいたらしく、1人が主への報告に動いた。もう少し間抜けを揃えてもらえると私は楽しめるんだけども。
部屋の前には顔見知りの衛兵が立っていた。私が他の影で遊んだことに気づいていたのか咎めるような視線を送ってくるが、それを無視して取次ぎを促す。
「主様はまだ起きてらっしゃるかな?」
「うるさい到着だな」
本来であれば先触れを出し案内を伴わなければ入ることのできない部屋だが、衛兵を介して部屋の主に直接入室の許可をとる。こんな関係になってもう2年になる。できることならば、2年前のあの日に戻って全力で回避したい。
「入れ」
部屋の中から声が聞こえた。衛兵を介すことなく入室の許可を伝えるほど、主は待ち侘びていたらしい。私のことをではない。私の持ち帰った情報を、だ。
「失礼します」
主はソファに腰掛けて読書をしていたようだった。灯りと本がテーブルの上に置いてある。ブロンドの短髪が灯りに照らされて眩しい。ここ2年間、休みの度に見てきた無愛想な顔だ。この無愛想な主の笑った顔は、1度しか見たことがない。
急かすように睨んでくる主を横目に、無駄に優雅にゆったりと主の元へと歩く。
「報告書をお持ちしました」
片膝をついて恭しく報告書を頭の上に差し出すと、主はそれを乱暴に引ったくった。蝋燭の灯りの下とは思えない速度で読みすすめていく。蝋燭の灯りに照らされた端正な主の顔は、どこか生き生きとしているように見えた。
この王国は先の動乱で多くの影や魔術師、王侯貴族を失っている。動乱後、それぞれの子ども達は幼い頃からより厳しい教育を受けていた。主がどこか歪んだのもその影響だろう。あの動乱がなければ、主と出会うこともこき使われることもなかっただろうか。思い描いていた気楽な人生が送れていたかもしれない。
「ふむ……」
主は計画が成功した時の事を考えると、顔が緩むのを抑えきれないようだ。普段主に憧れ騒いでいる女性たちですら逃げ出しそうな、悪い笑みを浮かべていた。見てはいけないものを見てしまった。
「アリシアは今どこにいる?」
「王都のランベール邸宅に」
主ご執心のアリシア嬢はこの夜が明けると数え7歳になる為、貴族の仲間入りとも言える髪上げの儀式の準備で現在王都に滞在している。直接この目で確認済みだ。主との血の繋がりを感じさせない無邪気な少女は、王都に滞在していても権力争いとは無縁な日々を送っていた。
生まれ育ちを考えると、主のように歪まずに真っ直ぐな笑みを浮かべられるのは奇跡に近い、というのに。
「アリシア・ランベールを監視しろ」
あぁ、アリシア嬢のあの笑顔はもう見れなくなってしまうのかもしれない。
少し勿体無いような気はしながらも、恭しく頭を下げ命令を受けた。