アングレカム
なんか距離の近い白羅と弥生
「おい、国島」
うだるような暑さが過ぎ去り、涼しくなってきたある日の午後。桜の木にもたれかかり、穏やかなそよ風に耳を澄ませて目をつむっていると、聞き慣れた声が飛び込んできた。
毎日嫌と言うほど聞いている声に、白羅は瞼をあげることを渋った。この声の主が、どんな顔をしているか、容易に想像がつく。
「仕方が無い。瞼引きちぎるか」
「エグいこといってんじゃねぇ、モヤシ」
物騒な発言に白羅はさすがに目を開けた。すると、自分の顔を覗きこんでくる弥生と目が合った。予想通り、眉間に皺を寄せて不機嫌そうな顔をしている。
「サボりってそんなに楽しいのかね、国島くん」
アーモンド型の目を細めて、弥生はいつもより低い声で囁く。
「俺は楽しいからサボってんじゃねぇ。眠てえからサボってるだけだ」
「開き直るな、おバカ」
軽く溜め息をつきながら、弥生は白羅の隣に座り込んだ。白羅はぎょっとした。
「んだよ、お前」
「は? 何が」
弥生は立てた膝に肘をついて首を傾げる。
「いつもみてぇに怒鳴り散らさねぇのかよ。気味悪ぃ」
いつもなら白羅がサボっている姿を見つけた途端に、「国島ァァァッ!」と怒り狂いながら襲いかかってくる弥生が、ほとんど小言を言うこともないなど、皆無に等しい。何か企んでいるのではないかと白羅は身を震わせた。
しかし、弥生は「気味悪ぃ」という言葉に顔をしかめることもなく、視線を青く澄む空に移した。
「べつに、もう授業終わっちまったし、怒鳴ってもどうにもならないからな。それに、俺にだって怒るのが面倒な時くらいある」
そう言って、弥生はうーんと伸びをした。そよ風が柔らかな稲穂色の髪を揺らす。
とってつけたような弥生の答えに、白羅は何かひっかかるものを感じた。
「……そーかよ」
しかし、何となくそれ以上問いただすのが躊躇われ、疑念を抱えたまま口を噤んだ。
そして、どちらとも話を続けず、沈黙が流れた。
放課後になり、部活動が始まったのか、生徒たちの賑やかな声が遠くから響き始めた。ホイッスルの音や走り込みのかけ声が、木の葉が風に揺られてこすれあう音と混ざり合って、静かなBGMのように聞こえる。その音が二人の沈黙を際立たせて、白羅はなぜか居たたまれない気分になった。
いつもなら弥生と二人きりの沈黙など気にもならないのに、今の妙に大人しい弥生との間の静けさには、背筋がむずかゆくなった。
(何で俺がコイツ相手に、こんな気持ちにならなきゃいけねぇんだよ)
得体の知れないむずかゆさを消そうと頭を掻きながら、ちらりと隣の弥生を盗み見た。
弥生は、珍しくぼんやりした目で空を眺めていた。肘をついて、鳥すら飛んでない空を見つめていた。その赤褐色の瞳に、僅かに憂いのようなものが滲んでいるように、白羅には見えた。
白羅はうっと息をのんだ。憂いに揺れる瞳が、伏せられる睫毛が、淡く光って見えた。触れてはならないもののように感じた。だから、目をそらした。木陰でも優しく輝いて見える瞳に見つめられたら、自分ではどうにもできない感情があふれてしまう気がした。
ふっと小さく溜め息をついた。もう暑い夏は過ぎたはずなのに、首筋に薄く汗が滲んでいた。時折吹く風がそれを冷やす。
白羅があれやこれやと考えているあいだ、弥生はずっとだんまりを決め込んでいた。いつもなら「腹減った。なんかおごれ」だの、「何か面白い話してみろ」だの、暇さえあれば面倒なことを言ってくるのに、まるで地蔵のように一言も喋らない。
もしかして寝たのか、と白羅はそっと振り向いた。
その途端、右肩に何かが当たった。というより、乗った。暖かい感触に右肩を見てみると、弥生が頭を乗せるようにして、肩に寄りかかっていた。
(――は?)
心の中で、白羅は声を上げた。思わず弥生を凝視してしまう。弥生は、睫毛を伏せさせて目を閉じていた。そよ風に、稲穂色の柔らかな髪がふわりと踊り、白羅の頬を撫でた。
頬に髪が触れた途端、白羅は全身からどっと汗が滲んだのを感じた。
(はぁあああああああ!!?)
今度は心の中で絶叫した。一気に体が熱を持ち、謎の緊張感に硬直する。体は硬直しているのに、心臓だけが異常な早さの鼓動を刻む。
(な……何してんだ、コイツ……!?)
純粋な疑問が頭の中を駆け巡る。やかましく鳴り響く鼓動を落ち着かせようと奥歯を噛みしめた。
弥生は眠っているように体の力を抜いて、白羅に全てを預けるように寄り添っていた。細い肩が、静かな呼吸に小さく上下している。白い頬の上で、柔らかな木漏れ日が揺れていた。
その一つ一つに、いちいち鼓動が早くなる。じわじわと熱が溢れ、体の中で渦巻く。なぜこの毒舌冷血我儘王子は、無防備に体を預けてきているのか。なぜ自分はこんなにも緊張しているのか。考えようと思っても、体の奥底から沸いてくる熱が頭にまでまわり、まともな思考ができない。ぼんやりと、これは深く考えない方が良いことかも知れない、とだけ思った。
とりあえず何とか自分を落ち着かせようと、弥生にばれないように無音で深呼吸をする。
すると、深く息を吸い込んだとたん、肩に乗った弥生の頭から、甘い香りがした。花のような、せっけんのような、やさしい甘い香りだった。
一瞬、白羅の中の時が止まった。あれだけうるさかった鼓動すらも、止まってしまったように感じた。
思わず、白羅は蚊を叩きつぶすような勢いで鼻と口を塞いだ。
(……っんでそんな匂いさせてんだよ、ふざけんなボケ……!!)
首筋から顔にかけてがぐわりと熱くなる。心臓がよりひどく脈を打つ。息を止めているせいではないだろう。
白羅はぐっと唾を飲み込み、もう一度弥生を見た。長い前髪が伏せられた睫毛にひっかかっている。その前髪をはらって、星のような小さな光を秘めた瞳を見たいと思った。薄く色づいた頬に、触れたいと思った。
そうして、もうこれ以上、目の前で眠るこの幼馴染を見つめていてはいけないと思った。
「おい、雪村。起きろ」
かなり出し抜けに、乱暴に呼びかける。口が渇いていたのか、掠れた声が出た。
「……寝てない」
すると、弥生が目も開けずに、割とはっきりとした声で応えた。肩に声の振動が伝わってくる。
眠たいわけでもないのにコレかよ、と白羅は溜め息をつきたい気分になった。
「なら、なんなんだよこれ。なんのつもりだ」
思わず尋ねてしまう。あまりにも余裕がなくて無粋な言動に、自分で嫌になった。
しかし、弥生は特に動じる様子もなく、鼻から深く息を吸った。
「ちょっと疲れた……」
淡い声で独り言のように、そう呟いた。そして、細く息をはいた。何気ない、小さな溜め息だった。
しかし、そのただの吐息に、白羅は言葉を失った。何も言えなくなった。静かな息づかいに、肩に当たる暖かな頬の感触に、胸が詰まった。それは、さっきまでの熱が沸き上がるような感覚ではなく、優しく心臓を握られるような、息が一瞬止まるような感覚だった。その感覚が、「切なさ」なんていうセンチメンタルな感情であると気づき、白羅は余計に自分が嫌になった。
「あの日」以来、弥生のちょっとした瞬間に、いちいち反応してしまう。授業中に黒板を見ている横顔や、昼休みに割とでかい弁当を食べている姿、眠そうな欠伸、時にはまばたきにさえ、白羅の心臓は小さく小さく悲鳴を上げた。
弥生の体温や、息づかいを感じるたび、コイツはちゃんと生きているとほっとしてしまう自分がいる。安心するのと同時に、いちいち弥生の体温を、生きている証を感じられなくなった「あの日」を思い出す。もう二度と会えはしないと思いながら過ごした日々を、思い出してしまう。心臓を冷たい手に引き裂かれるような痛みが、苦しみが蘇る。
弥生は時折、他の人間には見えない遙か遠くのどこかを見据えているような目をすることがある。そんな弥生を見ていると、目の前にいるはずの彼が、触れれば溶けて消えてしまう、雪のような存在に思えてきてしまう。感傷的になりすぎているのだとは分かっている。むしろ、一度死んでしまったはずなのに世の理屈をひっくり返して生き返ったくらいなのだから、もうちょっとやそっとのことでは居なくなりやしない。そのくらい、見た目によらず図太い奴なのだと、何度も自分に言い聞かせた。
しかし、それでも、感情の読めない弥生の横顔を見ていると、どうしようもなく胸が苦しくなる。肩を貸せるくらい傍にいるのに、手の届かないところに行ってしまうのではないかと感じる。他愛のない一言を言えば、何気ない一言が返ってくることが、当たり前でなくなる日が来るかもしれないと思う。
普段、弥生といつものように話したり喧嘩したりしているときは、こんな面倒でかなしい感情を持てあますことはない。彼が黙り込んでしまったり、眠ったりしているときに、この名前をつけるには複雑すぎる思いが静かにあふれ出す。自分では抑えられない。この気持ちを弥生に打ち明けてしまえれば、ぶつけてしまえれば、少しは楽になるのかも知れない。それが出来ないから、この気持ちに襲われるたび、弥生の体温を、鼓動を確かめたくなる。
白羅は、抑えきれない衝動に手を伸ばした。
そして、思わず弥生の肩を抱きよせた。
「ん……」
今度こそ眠りかけていたのか、弥生がぼんやりした声をもらす。やってしまった、と白羅は少し後悔した。肩に乗った弥生の頭が僅かに動く。こちらを見上げたのだと分かった。
「……おい」
「……うるせぇ。黙って寝てろ」
見上げてくる弥生の顔を見ないように、前を真っ直ぐ見たまま、ぶっきらぼうに言い捨てた。まるで聞き分けの悪い子供のようだ。
抱いた弥生の肩が、男にしては薄くて柔くて、その感覚を確かめるように手に力を込めた。すると、弥生が小さく息を吐いた。それは溜め息にも聞こえたし、笑ったようにも聞こえた。
「白羅」
「っ……なんだよ……」
なぜこんな時だけ、名前で呼んでくるのか。白羅は唇を噛みしめて俯いた。
「いいよ」
「は……」
突拍子のない言葉に、弥生の顔を見た。
弥生は、もうこちらを見上げていなかった。また目を閉じて、眠っているようにすましていた。まるで、何も見ていないと言うようだった。そして、目を閉じたまま、言った。
「誰も見てないから、今なら、いいよ」
すました表情を変えずに、小さく、しかしはっきりと言った。
「………」
弥生の言葉に、白羅は彼の顔を見つめたまま動けなくなった。弥生の言う「いいよ」の一言が、何に対する許しなのか、判断できなかった。ただ、白羅にはその一言が、許しというよりは受容のように聞こえた。都合の良い解釈かも知れないなどと考える余裕はなかった。
衝動的に弥生の肩を強く抱き寄せる。自分の腕の中に引き込み、ゆっくりと額を弥生の頭に当てた。弥生は目を閉じて体の力を抜いたまま、白羅にされるがままになる。甘い花の香りが鼻をかすめた。
白羅は低く短く息を吐き、弥生の頬に手を添えた。その手を、指で肌をなぞるようにするりと下ろした。白い首筋を撫で、頸動脈の血の流れを確かめる。とくとくと鼓動が手に響く。そのあたたかい震えが、愛おしかった。首筋から顎のラインを撫でると、弥生がくすぐったそうに小さく身動いだ。
白羅は胸の奥からじんわりと優しい熱が滲み出てくるのが分かった。稲穂色に光る髪の間に指を差し入れ、髪を梳くように撫でる。横髪をすくい上げると、弥生の左耳の赤い石のピアスがきらりと覗いた。白い肌に映えて、ひどく美しく見えた。このまま、この優しい熱を手放さないでいられたら。心の隅で呟き、白羅は弥生のうなじに手を添え、ゆっくりと顔を寄せた。
頬と頬が触れ合いそうになったその時、
「白羅」
弥生が小さな声で囁いた。
「……なんだよ」
白羅は離れずにそのまま弥生の耳元で聞き返す。
弥生はふっと息を吐くと、口ごもりながら呟いた。
「ちょっと……これ以上は……」
「……!!」
弥生の言葉に、白羅は我に返り、勢いよく弥生を離した。弥生と目が合う。赤い瞳が見上げてくる。久しぶりにその淀みない瞳を見た気がした。よく見ると、瞳は潤み、白い頬が淡く赤く上気していた。
「な……!」
その弥生の顔を見た途端、白羅は自分がとても良くないことをしたように感じた。ただ生きている証を感じたかっただけのはずなのに。やり場のないあの熱が再び舞い戻ってくる。
「お……お前がいいって言ったんだろ……!」
少し後ずさりしながら、思わず小さい子供のような言い訳をしてしまう。
「いや、まさかここまでされるとは……」
弥生は額に手を当てて顔をそらす。そして、頬に浮かんだ熱を誤魔化すように、にやっと笑った。
「お前、意外とムッツリスケベなんだな」
「む……!!」
「スケベ」という発言に、白羅は絶句した。つまり、弥生にそう思わせてしまうようなことをしたのだ、自分は。
「誰がムッツリだボケ!」
「スケベは否定しないのか」
「ってめぇな……!」
いちいち人の揚げ足をとる弥生に、いつもの苛立ちが沸き上がる。さっきまでのしおらしく儚げな弥生はどこへ行ったのか。
「全く。油断も隙もあったもんじゃないな」
そう言って、弥生は熱を冷ますように細く長く息を吐いた。まるで寝首をかかれそうになったような言葉に、白羅はチッと舌を打った。
「んだよ。そもそもテメェが訳の分かんねぇことしたんだろうが」
「人のせいにするとか、ガキくっさいな。もうちょっと大人になれよ、国島くん」
にやりと笑って弥生は立ち上がった。
「よし。ちょっと疲れとれたし、帰るぞ、国島助平」
「おい、誰だそれ」
くそ、とぼやきながら白羅もゆっくり立ち上がり、前を歩いて行く弥生の後に続く。木陰から出ていく弥生のシャツが、日の光にぼんやりと輝いた。その曖昧な光に、白羅は見覚えがあった。そして、はっと立ち止まった。
「あの日」の、忘れられないほど赤い夕日が脳裏に浮かぶ。身を焦がしそうな光に溶けて消えて行く弥生の姿が、鮮明にフラッシュバックする。夕日より赤い瞳を涙で滲ませながら、「また会う日まで」と言った微笑みが胸を貫く。
あまりにもきれいで、ひどくて、かなしい別れだった。
「なあ」
光るシャツの後ろ姿に呼びかける。
「なんだ」
振り向きもせず、立ち止まりもせず、弥生は応える。
一人歩いて行く弥生を、今すぐ走って行って、手をひいて引き留めたい。「あの日」飲み込んでしまった言葉を、彼の瞳を見つめて叫んでしまいたい。
体の底から沸き上がる衝動を抑え込み、白羅はゆっくりと呟いた。
「……今日ので、終わりか」
白羅の短い言葉に、弥生はぴたりと立ち止まった。秋の始まりを知らせる、肌になじむ風が彼のシャツを揺らす、波立つ水面のように光が反射する。
弥生は、一瞬空を見上げるように頭をもたげ、はあ、と溜め息をついた。そうして振り返った。
「……だから、もう少し大人になってよ。バカだな」
そう言う弥生は、僅かに、ばつが悪そうに、笑っていた。
「――っ……」
穏やかな湖畔にひとつの雫がこぼれ落ちたような声に、少し不器用な優しさの滲む笑顔に、全ての音が吸い込まれてしまった気がした。風に踊る木の葉の音も、生徒達の笑い声も、たった今こぼしそうになった言葉も、想いも、全てが彼の笑みにとけていった。
白羅が言葉を絞り出す前に、弥生は踵を返した。そして、再び歩き始めた。
軽快に歩いて行く後ろ姿に、白羅は軽く頭を抱えた。本当に自分がガキすぎて笑える。そして、そんな自分を待っている弥生に、あの手に余る感情が、ゆっくりとやわらかくあふれ出した。
まだ「あの日」から、全然前に進めていない。どうなることが前に進むことなのかすら分からない。それでも、弥生が目の前で笑っていてくれるうちは、その前に進む方法を探っていける。弥生が相手だったからこそ生まれた、名前のないめんどうなこの感情を、放り出さないで、向き合っていける。
ふっと小さく笑うと、白羅は前を行く幼馴染のあとを追った。
END
いつか直す。