第一章〜それは始まりのようで〜
黒い靄の中に、黒と赤の物体が一つと大体年齢は13歳程だろうか____少女が1人。
ただ、低い唸り声をあげて、何かを少女に伝えようとしている。
少女は背負っていたリュックから、ある1冊の本を取り出した。しかし、それは本というより図鑑のような大きさであり、その証拠に少女は本を片手で持つことが出来ていない。
少女はその本を両手で持ちながら親指で器用に開く。そして、
「お前の望みは、なんだ?」
そう、問うのであった。それは明らかに少女の目の前の黒と赤の物体に向けた言葉で、物体はその少女の声に反応する。そして、また低い唸り声をあげ始める。
その唸り声に反応して、本から鈍い光が発せられた。しかし、その光は黒い靄の中ではとても明るく、低い唸り声をあげた物体の姿形でさえはっきりさせていく。その物体は大型犬のようだった。血を流し、体全体を赤く染めた大型犬。少女がその姿を確認し、本に目を落とした瞬間に、本から赤い文字が少女と物体の間に浮かび上がった。
「分かった、それがお前の望みか」
少女は大型犬に目を向け____いや、実際には少しずれているのだが____少しだけ微笑む。それで、周りが少し明るくなった。
「聞き届けた、お前の望みを。……安らかに眠れ、そいつは、私が見届けよう。死ぬまでな」
大型犬は、その言葉を聞いた瞬間に、安心したように息を吐き、光を放ちながら消えていった。ただ、自分を愛していてくれた飼い主を想い、消えていったのだ。……綺麗だと、少女は感じる。未だに誰かを想う事も、消える事もできない中途半端な自分と違い、綺麗だと。
自分ならきっと、飼い主の事を死んだ後も想い続けるなんて事、出来ないなと、少女は悲しい笑みを浮かべた後、手に持ったままだった本をリュックにしまう。それから、背を向けて歩き出した。
大型犬の幽霊の、最後の望みを叶えに行くために……"三川彼方"を探しに行くために。
もうそこには、黒い靄も、鈍い光も、何も残っていなかった。何も無かったかのように、静寂がそこに戻ったのだ。
*
切実に教えて欲しい事がある。生きている意味とか、そういう小難しい事じゃなく、とても単純な事。
「(これ、どういう状況だよ?!)」
いつもの帰り道、友達と別れてから本を読みながら歩いていた。それが僕の悪運を引き起こした引き金となってしまったのかは分からないが、まあ普通に人にぶつかった。
素直に謝ろうとした瞬間に僕がぶつかったと思われる少女はじっと僕を見つめて「三川彼方……。見つけた……」そう呟いた。
まあそれが恐ろしいのなんの。
「あー、えっと……どちら様ですか?」
僕は頭を掻きながら居心地の悪そうにしてみながらそう言った。しかし少女は表情一つ変えることなく、僕の問に答えることもなく、僕の顔を見つめている。なんなんだ、これは。何より少女の容姿が人間離れしすぎていて更に居心地の悪さが増すのだ。
顔は至って普通の、少し整っている程度。髪色は黒……だが全く光を反射しておらず、長さもまちまちだ。目の色は赤。それも血のように赤黒く、この世の絶望を映したような____
そこで少女が口を開く。
「この間、お前の飼い犬に会った」
そう、一言だけ。そして、その一言に僕が言えたのも一言だけだった。
「はぁ?」
いきなりそんな事を言われて「あぁ、そうなんだ」なんて言えるわけが無い。そもそもうちの飼い犬は丁度二週間前に死んでいるので、この世に存在するわけがないのだ。
「生憎僕に今飼い犬はいな……」
いないよ、そう言おうとして、ある一つの事が浮かんだ。家の飼い犬____もといバースがこの世にいる理由で最も可能性の高いもの。
「もしかして君も……いや、君は幽霊が見えるのか?」
バースが、死んで成仏していなかった可能性。そんな非現実的な話を、僕自身信じたいとは思わない。普通ならバカバカしいと笑われて終わりだろうが、もう僕は少女には幽霊が見えていると断定している。
この間を少女が何のくらい前として使っているかは分からないが、まさか二週間以上前をこの間とは言わないだろう。少女は僕の問いには答えず、
「お前を見届けてくれと、それが飼い犬の望みだった」
そう言った。それなら僕の名前を知っていたのは分かる。が、
「見届けてくれって、何それ、死ぬまでって事か?」
僕は笑いながら言った。しかし、少女の表情は変わらない。まるで人形のように、ピクリとも動かなかった。もしや、本当に少女は人形何じゃないかと疑ってしまう。
と、そこで漸く少女が口を開いた。それは恐らく、先ほどの僕の問に対しての答えだろう。
「さあ、別に、お前が死ぬまででも、お前が成仏しないのなら幽霊になってもだな。そこら辺は知らない、今考えても意味があるとは思えないしな。まあ……」
そういう事らしい。つまり、僕が成仏しなかったら、死んでもずっと彼女の監視下に置かれると、そういう訳だ。少女が僕を探していた理由は分かったが、納得出来たわけではない。死ぬまで、いや、死んだ後も少女に監視されるだなんて御免だ。今僕が考えているのはただ一つ。幽霊になりたくない、だった。
そこで、一つ疑問ができた。ごく単純な疑問が。
「それを僕が拒否した場合どうなるんだ?」
だって、それを鵜呑みにしてデメリットが出るのは僕以外にいない。少女は少し考え込んでから、初めて表情を変えた。笑ったのだ。それも、ニヤリと、悪戯を思いついた子供のように。
「最悪呪われるな」
その言葉にギョッとした僕は思わず顔を歪めてしまう。その反応が面白かったのか、少女は腹を抱えて笑い出した。これまでの会話を思い出す限りで、感情にあまり起伏がない方だと思っていたが、見当違いだったようだ。……人形のようだと言ったが、撤回しよう。ただの悪戯好きな性悪なガキだ、こいつ。
「はー、笑った笑った。まあ、冗談だ。あいつはもう成仏したからそんな事は有り得ない。あったら面白いけどな。だからといってお前に拒否権が出来たわけでもないが」
少女に対して若干イライラし始めた時だった。辺りが暗くなり始める____いや、黒くなり始める。体感温度が低くなり、半袖だった僕の腕に鳥肌が立つ。寒気もして、少しだけ身震いをする。
「なんだよ……これっ……?!」
そう呟いてから少女を見ると、少女は辺りを見渡してから、リュックから本らしい物を取り出す。本とは言っても、大きすぎて少女は片手で持つことが出来ていない。両手で持つのも精一杯のようだ。何のために本を取り出したか、僕には見当がつかず、眉をひそめた。
「おい、三川彼方」
少女は僕を見て、そう名前を呼んだ。
「ん……何?」
「これは幽霊が現れる前兆だ。望みを叶えてほしい幽霊がな。まあ、イビルゴーストの可能性もあるから、まずはそっちを説明する」
そう言って、少女は説明を始めた。どうやら、イビルゴーストというのは普通の幽霊と違うらしい。それどころか人に危害を加えられる。だから、少女がイビルゴーストを成仏させるまでの間、イビルゴーストが少女に危害を加えないように守ってほしいとの事だった。
「それ、どうやってやんの?」
普通に考えれば幽霊は実態のない、魂のようなものだと思う。そうすると幽霊と接触する事は不可能に感じられる。だから少女にイビルゴーストとやらが危害を加えられることも無いように思えるのだ。
少女は僕の考えを読んだかのように、説明をまた再開した。
「それはお前の才能があるからだ。三川彼方。お前は、幽霊が見えるんだろう?」
僕を静かに見据えてそう少女は言い放つ。バレていないと思っていたわけではないが、やはりそう面と向かって言われると、幽霊が見えるというのがコンプレックスの僕は多少傷つく訳で、つい苦笑いをこぼした。
「それだけじゃない。お前は幽霊と話すことも、接触する事も出来る。知らなかったようだが、事実だ。認めたくはないだろうが、認めてくれ。以上だ」
少女は早口で言うと黒い靄が現れた方向を向いて、手に持っていた本を開く。すると、本の中から鈍い光が放たれる。
いつの間にか周りは黒い靄で埋め尽くされていて、その鈍い光が頼りになる。
そして、その黒い靄の中から黒と赤の異形が出てきた。目らしき物に光はなく、血のように赤い液体がその異形の体全体を伝っている。その赤い液体が地面にポタリと垂れる。しかし、その液体は地面についた瞬間に消えてなくなった。
「これがイビルゴーストだ。気を付けろよ、あと数秒で私達を殺しに来るぞ」
表情一つ変えずに少女が言った。だが、それは焦りまくった僕の耳にはきちんと届いておらず、この異形がイビルゴーストという事しかハッキリ伝わっていない。
少女の言った通り、イビルゴーストは唸り声をあげて、僕達の方へ進んでくる。その動きはとても速く、視界もいいとは言えない状況では、イビルゴーストの姿はぼやけて見える。
それでも、イビルゴーストが少女の首元を狙ったのだけはハッキリ見えた。僕は少女の背中の服を掴み、引っ張る。それからイビルゴーストの腹(腹なのかは定かじゃないが、恐らくそうだと思われる)に蹴りを入れた。
近づいて分かったが、少女は何か呪文のようなものを唱えている。なんと言っているのかは全くもって分からないのだが、それがこのイビルゴーストを成仏させるためのものだということはなんとなく分かった。
先ほどの僕の蹴りで吹き飛ばされたのか、イビルゴーストは僕達から十メートルくらい離れた場所で力無く横たわっている。そんなに強く蹴ったつもりは無かったのだが、イビルゴーストは動かないため、結果オーライといったところか。
「……よし、良くやった」
少女は不敵な笑みでそう言うと、イビルゴーストの方へ近づいていく。その時、一瞬僕の視線の先を見たのは何故だろうか。僕は首を傾げ、少女に声をかける。
「ねえ」
だが、少女にその声は届かなかったらしく、少女はイビルゴーストに向き合っている。
いつの間にか少女は鎌を持っていた。死神が使うような、黒い鎌だ。周りが黒い靄で埋め尽くされているというのに、その黒い鎌は靄の中で光り輝くように目立っている。
少女はその鎌を振り上げると、思い切りイビルゴーストに向かって振り下ろした。
グサリ。
肉を切り裂く音とともに、イビルゴーストの体が散っていく。あまりにも生々しくて、僕は顔を顰めた。が、それは一瞬で驚きに変わる。イビルゴーストの中から、人が出てきたのだ。細身の、高身長だと思われる男性。
足が震えるのが分かる。指先から、体全体が冷えていくような感覚に襲われた。
「……これが、イビルゴーストの本体みたいなものだ。お前には……酷だったな」
酷なんてものじゃない。恐怖が背中に這うように悪寒がして、罪悪感の塊が僕の頭を回る。
足から崩れ落ちた。口が乾いて、上手く言葉を発することが出来ないために、途切れ途切れに言う。
「僕は、人を殺す手伝いを……したのか?」
「それは違う!あいつはもう死んでいた。人に復讐を遂げるためにイビルゴーストになったあいつを成仏させる手伝いをしたんだ、お前は……」
少女は声を荒らげてそう言った。その声のお陰で僕は少しだけ冷静さを取り戻すことができ、まだ少しだけ震えている手を、少女に手の平を向けるように出し、言う。
「……いや、ごめん。冷静じゃなかった」
すると少女はほっとしたようで、安堵が表情に現れている。だが、すぐにいつもの表情に戻る。そして首を横に振ってから言った。
「私も説明が足りなかったな。……お前にはこれからもこの場面を何度も見てもらわなくちゃならないというのに」
違う。表情は戻ってなどいなかった。ニヤニヤと笑いながらそう言い放つ少女に、僕は脱力感を覚える。
「僕は了承してな……」
「そんな事はどうでもいい」
僕が言うことを最後まで聞かないで、少女はそう言った。僕はため息をついてから、右手を地面について立ち上がる。もう、足は震えていなかった。
「分かったよ。君の仰せのままに」
僕が半ばヤケになって言うと、少女はケラケラと笑って、
「宜しくな」
そう言った。
これが、全ての始まりだ。
この世の絶望も、僕の運命も、全てがこの瞬間に決まってしまった。
いや、既に決まっていた。僕はその運命のレール通りに、脱線せずに進んでいただけなのだ。
少女の悲しみを共に背負うと、決めたあの日から。