時は無限のつながりで終わりを思いもしない
「そろそろ動き出しますよ」
牛山健二がぼくを起こしてくれた。
もやがかかったように頭が重い。
反復を重ねるたびに、デジャヴのような、乗り物酔いのような感覚が強くなっている気がする。これで7回目。
すでに30回以上も繰り返しているミズキは、体調に変化がないのか心配になる。
ぼくは牛山健二と世間話をしなが西館の4階へと向かう。しばらくすると、待機列や会場内から拍手と歓声が起こった。午前10時だ。この日ばかりはハメを外さないと損だとばかりに、誰もがはしゃいでいる。外階段をのぼり、コスプレ広場を横目に見ながら少しずつ歩いていく。
「押さないでくださーい」
「列を乱さないように、前の人とのあいだを詰めてくださーい」
「危険物を持っていたら、いますぐ海に投げ捨ててくださーい」
ウケを狙った準備会スタッフの掛け声に、周囲からクスクスと笑い声が漏れる。入口が近づくにつれて準備会スタッフの語気が強くなり、ピリピリした緊張がさざ波のように前列から後列へと伝染していく。ぼくたちはまるで牧羊犬に追い立てられる牛みたいだ。
西館に入ると、紙袋を抱えた小男が小走りに駆けてきた。
「走らないでくださーい!」
すぐさまスタッフの怒号が小男に飛ぶ。小男が紙袋の中身を通路にぶちまけ、そして通行人による回収劇が繰り広げられた。ぼくが待ち合わせ広場で待機していると、遅れてミズキが現れた。ブルース・リーが着るような赤いカンフー・ジャケットをオーバーサイズでダボっと着ていて、袖まくりしている。髪は低い位置でひとつに結んでいた。
「……それは、コスプレ?」
「えっと……らんま? 高橋留美子先生が『うる星』の次に描く、らしいんだけど。知らない?」
「あー……。ぼくが小さいころには、もう『らんま』の次のやつだった、ような……」
「そう……」
いったいミズキは何人と衣装交換が可能なのだろうか? 30回以上の反復経験のおかげもあるが、そもそも彼女自身のコミュニケーション能力が抜群に高いような気がする。
ぼくたちは4階内部を通過して、吹き抜けになっているエントランスホールへと移動した。
「それで……、ぼくが寝たあとはどうなった?」
「そう、それなのよ! ちょっと聞いてよ!」
「聞いてますよ」
「消えたのよ!」
「消えた?」
「ちょっと目を離したすきに、跡形もなく消えたのよ!」
「へー。そっか、消えるのか」
「目を離したと言っても、まばたきをするくらいの一瞬だからね」
「消えたまんま?」
「そう。いちおう1時間くらいは待ってたけど。短かった?」
「いや、じゅうぶんだよ」
反復者ではない普通の人からは、どう見えるんだろう。
消えたあとも、ぼくたちに関する記憶は、その日が終わるまでは継続するのだろうか。
新しい疑問は湧いてきたが、それにはこの時代の人間を巻き込む必要がある。
さて、どうしたものか。
話しながらミズキは歩き始め、西館の1階まで降りてきていた。
「あのさ、ミズキはあんまり歩き回らないほうがいいと思うんだけど」
「え? どうして?」
「そのぉ……、会う可能性があるだろ」
「誰に?」
「自分だよ」
「えっ?」
「1998年のミズキ、だよ」
「わたし?」
「ぼくは生まれてないから心配ないけど、ミズキは可能性としてはあるだろ」
「それって……問題あるのかしら?」
「タイムパラドックスだよ。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』観たでしょ? 『2』だったかな? ともかく、13年後の自分に会ったら面倒くさいことになると思うぞ」
「そっかぁ。……でも大丈夫じゃないかなぁ」
「どうして?」
ぼくの質問に答えるかわりに、ミズキは西2ホールの中を指さして、別の質問を返してきた。
「あなたの時代にも、ああいうのあるの?」
「ああいうの、って?」
「だからほら、その……」
「なんだよ」
「『キャプテン翼』とかアニメの男の子同士が、そのー、友達というよりは、もうちょっと親密な感じになっちゃうというか……」
「ああ、BLね」
「びーえる?」
「ボーイズ・ラブ。フツーにあるよ。男でも読む人はいるし」
「それは……すごい時代ね……」
ミズキは話をはぐらかそうとしている。
ぼくは、何かを言いかけて、やめた。
しばらく黙ったまま、彼女のあとをついて歩いた。ぼくとミズキのあいだの沈黙を、館内のざわめきが埋めていく。西2ホール内を適当にふらついたあと、東館へと向かう通路に出て、ぼくのほうを向き直した。
「その……、ノアはやっぱり、未来に帰りたいのよね?」
「そりゃあ、まあね。ミズキはちがうの?」
「わたしは、その、このままでもいっかなぁ、なんて、思ったりして……」
「……なんで?」
「だってこの時代、居心地がいいんだもん」
「でもさ」
「わたし、そもそも元の時代に帰りたいなんて、一言も言ってないわよ」
その回答は、まったく予想もしていなかった。息が詰まるようだ。
「わたしね、今回のコミケットが最後のつもりだったの」
「1985年の12月が?」
「そう。だって3年になったら実習が入ってきて、あまり遊ぶ時間が取れなくなるもの。就職活動だってあるし」
「……思い出作り、みたいな?」
「そう、それよ! 最初で最後だから、寒いけど、いちばん好きなラムちゃんのコスプレをやろう、って決めたの。わたしもみんなとコスプレして花いちもんめ、やってみたかったんだもん」
「花いちもんめ……ってのはわからないけど、就職してからだってコミケには来れるだろ?」
「そりゃあ、あなたの時代はそうかもしれないけど。わたしの時代はそうもいかないのよ。アニメとかマンガとかコスプレとか、みんな卒業しなきゃいけないものなんだから」
「しなきゃいけない、って。そんなことないでしょうよ」
「そんなことあるのよ。いつまでも子供っぽい趣味を続けてたら、周りから変な目で見られちゃうもの。実家にいるときだって、わたし親に隠れてアニメを見てたんだから」
「それは……」
「それに、わたしの時代のコミケットにはコスプレ用の更衣室なんかないし、コスプレする子だって多くないし。セーラームーンみたいに可愛い衣装だってないもの。98年まで待ってたら、わたし33歳よ? 30過ぎて、あんな可愛い衣装は着られないわ」
「いや、頑張ればイケるって」
「いい加減なこと言うわね」
すまん。たしかにいまのは無責任だった。
ミズキは上唇をとがらせて、完全におむずかりモードになっている。まいったな。
「そりゃあ、あなたには輝かしい未来が待ってますから、帰りたいでしょうけど!」
「いや、でもね。1985年にやらなきゃいけないこと、あるだろ」
「そんなものないわよ。景気だって悪いままだし、このままだったら看護婦の国家試験に受かっても地元に帰ることになりそうだし……」
「地元には帰りたくないの?」
「地元の同級生には、もう結婚した子もいるのよ。でもわたしは、東京で知り合いもできて、友達もできて、やりたいこともあって、それで地元に帰っちゃったら、わざわざ上京してきた意味がないじゃない」
「そりゃ、まぁ」
「『うる星やつら』のアニメだってもうすぐ終わっちゃうみたいだし。……わたし、アニメとかマンガとか、卒業したくない。せっかく見つけた自分の趣味だもの。でも、やりたいことができるのは、ここにいるあいだだけなの」
ぼくが2016年の常識でミズキに何か言おうものなら、火に油を注ぐようなものだ。どうにかして彼女をなだめないと。たしかに「1985年の冬コミ」が最後なら、「1998年の冬コミ」で自分に遭遇する可能性はないだろう。だからって、いつまでもここに留まっているわけにはいかない。
その瞬間、ぼくの腕に激痛が走った。
「痛っ」
「きゃっ! ちょっと、なに!?」
後ろから腕をネジあげられて身動きが取れなくなり、ぼくは通路に両膝をついてしまった。かろうじて首をまげて後ろを見ると、背の高い準備会スタッフの男がぼくを取り押さえていた。男は表情ひとつ変えないまま、冷淡にぼくに言い放った。
「お前、どこから入ってきたんだ」
いや、えーっと、どちらさまですか?
腕がガッツリとキマって、かなりヤバイんですけど。