カサンドラ
先に待ち合わせ場所に着いたのは、ぼくのほうだった。
ベンチに座り、前回の「12月29日」の出来事を思い返していた。
どうにかして外の世界と接続して、未来の知識を役立ててもらうことはできないものか。妙案が思い浮かばない。そもそも未来の予言なんて、誰が信じてくれるのか。新聞社もテレビ局もラジオ局も、その手の自称“予言者”には慣れっこだろう。
まるでギリシア神話に出てくるカサンドラだ。
トロイアの王女カサンドラは、アポロンから愛されて予言の力を手に入れた。だけど、彼女はその能力で、自分がアポロンから捨てられる未来を見てしまう。カサンドラはアポロンを遠ざけようとするが、かえってアポロンの怒りを買い、誰からも予言を信じてもらえなくなる呪いをかけられる。そのためカサンドラは、“トロイの木馬”でトロイアが滅ぼされる未来を予言していながら、誰にも信じてもらえず、ついにトロイアは滅ぶのであった。小さいころに絵本で読んだカサンドラの物語が、あまりに不条理で、ぼくはずいぶんとこの女神に同情したものだ。
そんなことを考えていると、ようやくミズキがやってきた。
彼女はスタジャンにジーンズという、カジュアルな格好で現れた。これが彼女の私服なんだろう。襟首と袖口と裾に二本のラインが入ったスポーティなタイプで、オーバーサイズをダボっと着ていて、萌え袖になっている。髪型は変わらずに、ゆるく内向きにパーマのかかったボブだ。
本来ぼくが生きている2016年の時代では、80年代のファッションがリバイバルブームなので、外見だけで判断するなら、ミズキは2016年の人間とほとんど区別がつかない。
メイクをしていないせいか、前に会った時よりも、さらに顔立ちが幼く見える。
ミズキは国際展示場の会議棟を指さしながら、ぼくに話しかけてきた。
「あの建物すごい形ね。アニメの悪役が住んでいるアジトみたい」
「よ、ミズキ」
「だからなんで呼び捨てなのよ」
ミズキはそのままぼくの横に腰かけてきた。
「51歳じゃないなら同年代だろ」
「でも年下よ。あなた高校生でしょ?」
「そう、センター試験の日に18歳」
「あ、高3のこの時期だから、もう進路は決めたの?」
「センター試験、って知らない? 国公立の受験用に受ける試験なんだけど」
「それって共通一次のこと? だめじゃない、こんなところにいちゃ。勉強しないと」
「わかってるよ。今日だけは特別なんだって」
「まぁ、気持ちはわからなくはないけど。きょうは息抜き?」
「それな」
「その“それな”って言い方、やめなさいよ。感じ悪いわよ」
ミズキは上唇をとがらせて、少しムッとした表情を見せた。いまこの場所で落ち合ったことで、ぼくも反復者であると信じてくれたようだ。信じた、というよりは“観念した”というほうが正しいかもしれない。
「わたしは1965年生まれで、あなたは1999年生まれなんでしょ。ということは、34年も離れていることになるのよね?」
「そうなるね」
「わたしに置き換えたら、1931年生まれの人と会うわけか。1931年って、えっと、昭和6年! ねぇ受験生クン、昭和6年は何があった年?」
「満州事変だな」
「……それじゃ話が噛み合わないわけよね」
「でもここでは同年代だけどな」
「そうね。じゃあわたしもあなたのこと、ノアって呼ぶわ」
少しミズキと打ち解けてきたようだ。
「それで、どうするの?」
「いつこの時代に来てしまったのか、ミズキが覚えている範囲で教えてほしい」
先にぼくが自分の“タイムスリップ”した経緯を説明した。といっても、待機列で寝ていたらいつの間にか1998年に紛れてしまった、というだけの話だけど。それと「1998年12月29日」を迎えるのは、これで6回目である点も付け加えておいた。口に出して説明してはじめて気づいたけれど、6日目ということは、もう1週間近くも「1998年12月29日」にいることになる。
「わたしね、コミケットのために国際見本市に行ったの」
「国際見本市? 国際展示場じゃなくて?」
「ううん。場所だって有明じゃなくて晴海だったもん」
「晴海……、あ、ごめん続けて」
「この時代みたいに、まだ更衣室なんかなかったのよ。それで、ラムちゃんの衣装に着替えようと思って、いまみたいにベンチに座って、お手洗いが空くのを待っていたの」
「うん」
「そのときウトウトしちゃって。コスプレするのは初めてだったから、前の日から緊張して、全然眠れなかったせいかしら」
「そうかもね」
「目を覚ましたら更衣室の中にいたの。そこが西館4階の奥の女子更衣室だ、ってわかったのは、あとになってのことだけど。おかしいわよね、ラベンダーの香りを嗅いだわけでもないのに」
「ああ、『時かけ』ね」
「あら! 原田知世チャンはわかるのね」
ぼくが観たのは仲里依紗だったけど、そこはどうでもいい。
時間移動だけじゃなくて、ミズキの身には場所移動も起こっていたようだ。
「それで、いつもどうやって朝に戻っているの?」
「電車に乗るといつもすぐ朝になるわ。国電……じゃなくて、この時代だとJRって言うんだっけ?」
「ミズキの時代は鉄道も民営化前なの?」
「してないわよ。ちょうど1カ月くらい前に、民営化に反対する人たちがゲリラ事件を起こしたばかりだもん。国電同時多発ゲリラ事件、っていったかしら。夕方まで首都圏の電車が止まってて、わたし学校に行けなかったんだから」
「あれ。免許証の住所は神戸じゃなかった?」
「住所変更の手続きをしてないだけよ。わたし、こっちで看護系の短大に通ってるから」
「そういうことか」
「浅草駅なんか、火炎瓶が投げられてたんだから」
ミズキの話は興味深くて、ついつい寄り道してしまう。そろそろ本題に入らなければ。本題……、つまり“この世界”に対する情報交換であり、知識の共有化だ。さて、どう切り出したものか。
「それで……コスプレの衣装を隣の子と交換したんだよね?」
「そう! 彩ちゃんっていい子なの。わたし、何度も話しているうちに、あの子のこと大好きになっちゃったわ」
「その様子だと、もう何度も反復を経験してるんだろ?」
「そ、れほどでもないんじゃないかなっ? えっと……さ、さんじゅっ、三十回……くらい?」
驚いた。衣装交換の手口から、すでに数多くの反復を経験しているだろうと思っていたが、ぼくの予想をはるかに上回る回数だった。30回だって? それって、この「1998年12月29日」だけでもう1カ月が経過しているじゃないか!
「だって、せっかくコスプレできるんだもん。いろいろやってみたいじゃない」
「いや、責めているわけじゃないよ。それは全然。ただ、ぼくより反復の回数が多いから、何か気づいている点もあるんじゃないかな、って」
「気づいている点……なにかしら? 電車に乗ったら朝に戻る、とか?」
「そう、そういうこと」
「目を覚ましたときに病院のベッドに縛られてるんじゃないか、って不安になったけど、わたし以外にも同じ日を繰り返している人がいるなら、ちょっとは安心ね」
「……それは、笑えない冗談だな」
「そうだ。わたし晴海会場に行こうとしたことがあったけど、橋の途中で朝に戻っちゃった」
「ああ。晴海会場は、もうこの時代にはなくなってるはずだよ」
「え! なくなってるの!? がーん、ショックだわ」
「この会場付近から出ようとしても朝に戻るし、0時になっても朝に戻る」
「いろいろ調べてるのね」
「あとは……朝に戻ると、お金とか体力とか、全部元通りになるな」
「髪の毛もよ。わたし衣装にあわせて髪を少しカットしたこともあったけど、それも元に戻ったの」
「へえ! それは試してないから、わからなかったな」
「便利よね! 前髪を切りすぎちゃった日とか、普通だったら前の日に戻りたいなぁ、って思うじゃない。この世界ではそれができちゃうんだもの」
「伸ばすことは無理だろうけどな」
「ねえ、ノアはどんな髪型が好きなの?」
「え、ぼく? うーん、そうだなぁ、黒髪でストレートでロングで……、あ、メガネかけてて、古本屋の店長とかやっていそうな感じ?」
「なにそれ、ばっかみたい。そんな子、いるわけないじゃない」
「いないよ。だからってショートカットの子をキャスティングすることはないだろ。剛力って」
「なんのこと?」
「ごめん、忘れて。えっと、話を戻すと……、髪を切っても元に戻るってことは、怪我をしても大丈夫、ということなのかな?」
「それはわからないけど……。ねえ、あぶないことしちゃだめよ」
いくら怪我が治る可能性があるからって、自分から負傷するようなことはしない。痛いのはイヤだ。でも、知っておいて損はない情報だ。
「それで、ちょっと試したいことがあるんだ」
「……なに?」
「そんなに身構えるようなことじゃないよ。目の前で寝たらどうなるのかを知りたいんだ」
「寝る? 眠るの?」
「そう。ぼくらは眠ると朝に戻るだろ? だから、眠った後のぼくらは、ほかの人からどう見えているのかが気になるんだ。それを確認できるのは同じ反復者同士だけだろ?」
「会ったばかりの人の前で眠るなんて、わたしできないわよ! あなたのこと、信頼してない、ってわけじゃないけど……」
「うん、だからぼくが眠る」
「え?」
「ぼくが眠ったら、その後どうなったのかを次の朝に教えてほしい」
「……わかったわ」
ぼくはベンチで横になる。
が、眠れない。
「……どうしたの?」
「や。誰かに見られていると、なかなか寝つけないもんだね」
ミズキは安心したのか、くすりと笑ってみせた。
「ついてきて」
そう言うと、彼女は目の前のドラッグストアへと向かっていった。ぼくはベンチから体を起こして、ミズキのあとをついていく。
「そっか。睡眠導入剤か」
「そんなもの町の薬屋さんで売ってるわけないでしょ」
「売ってないの? テレビでCMやってるよ。たしか薬剤師がいなくても買えたはずだけど」
「それはノアの時代でしょ。……これでいいわ」
彼女は抗アレルギー薬と、ペットボトルのミネラルウォーターを手に取った。
「これなら睡眠導入剤と成分は一緒よ」
「なんでそんなに詳しいの?」
「看護系の短大に通ってるって言ったでしょ」
「こういうこと勉強するの?」
「そうじゃないけど、ほら、いろいろ周りから聞くのよ」
薬を飲んでから30分ほど他愛もない会話をしているうちに、猛烈な眠気が襲ってきた。普段あまり薬を飲まないせいか、効きが早い。
「あ、起きたらどこで落ち合う?」
「じゃあ、最初に会った西館4階の待ち合わせ広場で」
「わか……った……」
意識が遠のいていくなかで、頭を撫でられた気がする。