チート・デイ
最悪だ。
どこからどう考えても、最悪。
それが、ぼくが導き出した答えだった。
きょうは最高の日になるはずだったのに。
最悪の日は、夜明けから最悪の顔で訪れるわけではない。いつもと同じ顔をして、不意に胸ぐらをつかんでくるからタチが悪い。
2016年12月29日。
暮れも押し迫った今日から3日間、国際展示場ではコミックマーケットが開催される。ぼくはコミケの待機列の只中にいた。年が明けたら大学入試センター試験の会場で、誕生日を迎えることになる。そんな“素晴らしい”未来が待っているんだから、一日くらい息抜きをしたっていいはずだ。
ダイエットだってチート・デイ(なんでも食べていい日)をもうけることで、ストレスが解消できて痩せやすくなると聞いた。コミケには、ないものはない。出会えるかどうかは別として、どんな同人誌だって存在する。人生初のコミケは、受験生のぼくにとってチート・デイになるはずだった。
まだ状況を把握できていない。いま自分に起きている出来事をいったん整理してみよう。
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始発電車で国際展示場に着いた時間には、まだ付近は薄暗かった。もやがかっていて、早朝というよりはまだ夜が尾を引きずっているようだった。ぼくはコミケの開場を待つ待機列に並んだものの、夜通しで英語の長文読解に取り組んでいたせいで、まぶたが重くなり、体育座りのまま眠ってしまった。
「そろそろ動き出しますよ」
起こしてくれたのは、隣に座っていた男だった。
目を覚ましたぼくは、はじめ自分がどこにいるのかわからなかった。
反射的にジーンズの後ろポケットに手を回すと、キンキンに冷えたスマホと財布が指先に触れる。眠っていた姿勢のせいか、それとも師走の寒さのせいなのか、両脚が痺れていて感覚が鈍い。ぼくは立ち上がり、大きく伸びをした。
そうだ、有明だ。
吸い込んだ空気に潮の香りが混じる。
目の前には逆三角形の建物がそびえ建っていた。国際展示場の会議棟はまるでRPGのラスボスが潜んでいるダンジョンみたいで、この建物を見ると「コミケに来た」との実感が湧いてくる。
マスクがあごの下までずり落ちていたので、引っ張り上げて鼻と口を覆う。見上げると真冬の青空が広がっており、青いキャンバスに刷毛で白いペンキを乱暴に塗りつけたように、まだらの雲が横切っていた。
スマホの電源を入れると日付と時刻が表示された。
9:25 12月29日木曜日
バッテリー残量、56%。
ツイッターのアプリを立ち上げてタイムラインを更新しようとしたが、アイコンがぐるぐると回転したまま、タイムラインを新規に取得できない。よく見ると画面左上には「圏外」の二文字が表示されていた。
「おかしいな」
思わず口に出していた、と思う。隣の男は怪訝な面持ちで僕の手元を見上げていた。
ぼくはバックパックを拾い上げ、スマホ用の携帯充電バッテリーを取り出す。結束バンドで結んだケーブルにスマホを接続し、そのままバックパックの中に放り込んだ。夏に『ポケモンGO』のブームがあってから、携帯充電バッテリーを持ち歩くのがクセになっていた。『ポケモンGO』のアプリはもう削除してしまったけれど。バックパックの中には今回のコミケのカタログが入っているので、ずしりと手応えがある。
開場待ちの待機列は、果てが見えないほど長く続いていた。
人、人、人。
左右の目に収まりきらないほど大勢の人間が、整然と並んでいる。
それにしてもオタクのファッションは、どうしてこうも似ているのだろう。
髪も、服も、バッグも、すべて黒だ。ぼくの目の前には一面の黒が広がっていた。
良く言えば、流行に左右されない。
十年一日なんて言葉があるけれど、十年前も、この先十年も、この光景はまったく変わらないんじゃないか。時代を隠して待機列の映像を見せられたら、年代の特定は難しいと思う。
ぼくは黒いダウンジャケットの上着に手を突っ込んで……つまりぼくも“黒い集団”のひとりなわけだ。
「それでは皆さん、そろそろ動きまーす」
「そのままゆっくりと進んでくださーーい!」
コミケの準備会スタッフの声が、あたりに響き渡った。この行進は西館4階の企業ブースへと向かう。ぼくのお目当ては、企業ブースの会場限定グッズだ。今年の流行でいえば、キャラクターのアクリルスタンドキーホルダーが買いたい。企業ブースに行ったあとは、あらかじめチェックしていたサークルを回る。
不意に、待機列や会場内から拍手と歓声が起こった。
開場時間、午前10時だ。
どこかでドッと笑い声がしたかと思えば、また別の場所では喝采が起きる。年齢に関係なく、オジサンやオバサンも十代の若者に戻ったように、みんなはしゃいでいる。まるでお祭りのようで、ずっとここにいたいと思わせるような雰囲気だ。
外階段をのぼると、屋上展示場はコスプレ広場になっていた。ぼくたちはコスプレイヤーを横目に見ながら、西館4階の入口をめざす。
「押さないでくださーい」
「列を乱さないように、前の人とのあいだを詰めてくださーい」
「もし危険物を持っている方がいれば、いますぐ海に投げ捨ててくださーい」
ウケを狙った準備会スタッフの掛け声に、周囲からクスクスと笑い声が漏れる。
西館に入ると、釣り人のようなベストを着た小男が、入口付近を小走りに横切っていく。すでに買い物を済ませたのか、大きな紙袋を抱えている。
「走らないでくださーい!」
すぐさまスタッフの怒号が小男に飛ぶ。その怒気に気おされたのか、小男は全身をビクンとすくませると、はずみで紙袋を落とした。紙袋からは企業ブースで購入した“戦利品”が床一面に飛び散る。ステッカー、ボールペン、クリアファイル、携帯ストラップ、そして……、パステルグリーンの髪色の美少女キャラがニッコリと微笑みながらパンツを見せつけているタペストリー。
不憫にも、彼は自分の性癖を公衆の面前で披露してしまった。
ロリコン乙。
いや、笑いごとじゃないぞ。わが身に置き換えると、軽く死ねる。
小男が地蔵のように立ち尽くしていると、周囲の通行人が我先にと“戦利品”を拾い集めて紙袋へ回収し、小男に手渡した。まるで示し合わせていたかのような連係プレイだ。小男が顔を真っ赤にしてお礼を言いそびれているうちに、通行人たちはあっという間に四散していった。ついさきほど起きた“悲劇”など、最初からなかったかのように。
この一部始終を、少し離れた場所から眺めている少女がいた。
長くてまっすぐな黒い髪は、肩のあたりで軽く内向きにパーマがかかっている。頬にやわらかみのある輪郭、ゆるいアーチ形の眉の下には、丸くて大きな垂れ目。上唇を少しだけ突き出すのがクセらしい。
頭につけたカチューシャには、黄色地に黒の縞模様が入ったツノがついている。
そして虎柄のビキニ。あれは……
「お。ラムちゃんだ」
「かわいいなぁ」
「水着で寒くないのかな?」
「鍛え方が違うんだろうな」
周囲の会話が漏れ聞こえてきた。そうだ、『うる星やつら』のラムちゃんのコスプレだ。もう30年以上も前の作品なのに、平成11年生まれのぼくでさえ知っている。いってみればコミケのアイコンだ。実物のラムちゃんはロングヘアーで猫っぽい釣り目だったはずだけど、彼女にはよく似合っている。
ぼくと同じ高校生だろうか。浜風が彼女の前髪を巻き上げて額を露わにした。実際の年齢より幼く見えているのかもしれない。何かスポーツでもやっていそうな健康的な体つきで、ビキニ姿だからどうしても胸に目がいく。今年の冬は例年より暖かいと聞いたけど、本当に寒くないのだろうか。
彼女の視線の行方を追っていたら、ぼくと目が合ってしまった。その瞬間、彼女は真ん丸な目を三日月のように細めてニッコリと微笑んだ。たぬき顔特有の、人懐っこそうな愛嬌が顔全体からあふれ出る。
少女はそのまま広場のほうへと向かって行った。時間が止まったみたいに、彼女の笑顔が頭から離れない。
このときまでは「きょうは最高の日になる」という予感で胸がいっぱいだった。
ところが会場内に足を踏みた瞬間に、その予感は打ち砕かれた。
おかしい。
あれだけ頭の中に叩き込んでおいた会場地図と実際のブース配置が、まったく一致しない。
きゃらON!、シーズナルプランツ、アクアプラス、INDOR、EXIT TUNES、ココラボ、GEE!STOREのブースは、いったいどこにあるんだ?
アップルパイ、新声社、聖バレンタイン学園、ディレクティービーアニメシアターX……って、聞いたことがない企業ばかりだぞ。
そもそも企業ブースの入口付近に、こんなに大きく待ち合わせスペースがあるなんて!
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企業ブース内を一巡して、ひとしきり狼狽したぼくは、コンテナ型の巨大ゴミ箱の横にたたずみ、いままで起きた出来事を整理していた。やっと思考が現実に追いついてきたぞ。
そのとき、ぼくの隣のゴミ箱にコミケのカタログが投げ捨てられた。
ぼくが持っているカタログとは、まったくの別物だ。
その表紙には「1998 55」と印刷されている。
ええっと、つまり、これってどういうこと?




