86 ご機嫌と不機嫌1
二〇分ほどかかって、てんやわん屋にたどり着いた。
自転車をいつもの場所に止め、横の入り口から鍵を開けて入る。
店内に人気がないが、おそらく美咲は先に来ているはずだ。
更衣室を開けて中に入ると、美咲がちょうどエプロンを身に着け出ようとしたところだった。
「あら、明人君。思ったより早かったねー。バスとそんなに変わんないんだ?」
美咲の雰囲気から察するに、バスに乗る前まとっていた黒い炎は消えている。
どうやら忘れたか、気分転換になるような事があったようだ。
「急いだわけじゃないんですけどね」
俺も言いながらエプロンをカバンから出して身にまとう。
鞄をロッカーに入れて、準備完了。
「それじゃあ、開店準備しますか」
「はいはい。さあ今日もお客さんこないのかなー?」
それを言ったら駄目だろ美咲。
二人して手分けして準備すると、ちょうどいい時間になった。
さあ、てんやわん屋のオープンだ。
☆
――美咲の予言どおり、二時間たっても客が来ません。
二人してだるそうにレジカウンターの椅子に座って店内を眺める。
最初の小一時間は午前中の話で盛り上がれたが、そろそろ別のことがしたくなる。
美咲がふと何かを思い出したような顔をして、更衣室に向かった。
戻って来た美咲の手には携帯電話。携帯を操作して何かを調べている。
「あ、あった。これだ」
お目当てのものが見つかったらしく、画面をじっくりと見ていた。
「明人君、ほらこれ」
映し出されていたのは水神浜水族館の画面だった。
画面上にはリニューアルオープンの文字もある。
「これ、響の言ってたやつか」
その水族館は清和駅から電車を乗り継いで一時間ほどかかる場所にある。
以前行ったときは、水槽の中を浮かぶクラゲがとても綺麗でずっと眺めていた。
「行ってみたいな」
美咲は何かを言いたそうにしていた。
何故だか俺にはそれが分かった。
「美咲、言いたい事があったら言った方がいいよ? 俺に遠慮は要らないよ」
美咲は少し驚いたような顔をしたけれど、こくっと頷くと美咲は話を切り出した。
「あのね。私、前に話したとき、いつか一緒に水族館行こうねって言ったでしょ?」
美咲の家の前で別れ際に美咲が言ったのは覚えてる。
俺は何も言わず頷いた。
「今日、水族館の話が出たとき、今回は嫌だったの」
「え、なんで?」
聞くと、美咲は顔を赤くして俯いた。
「だ、だって、水族館は…………と一緒に行きたかったんだもん」
途中美咲の口元がごにょごにょとして、よく聞き取れない。
「え、なんだって?」
「明人君と二人で水族館行きたかったの!」
俺が聞き返すと、パッと顔を上げて顔を真っ赤にしながら言い切った。
真っ赤な顔をしたまま、じーっと俺を見つめる美咲。
やべえ、美咲が超可愛い。
いつもより潤いを帯びたその瞳に俺は吸い込まれそうになっていた。
何この沈黙?
あ、あれ?
なんで俺、少しずつ美咲に近付いてるんだ?
美咲は俺を見つめたまま少しだけ俺に近付いた。
身体がいうこときかない。
美咲の顔が段々と近付いてくる。
いや違う、俺の方が近付いてるんだ。
美咲のぷるっとした唇が目に映る。とても柔らかそうな唇だ。
え? 何で美咲、目閉じるんだよ?
このままだと……。
至近距離に美咲の顔が見える。
もう吐息と吐息が触れそうな距離まで近付いていた。
『パパッパ、パパッパ、パ♪ ビヨビヨビヨ♪』
なんでマリオの音楽が⁉
しかも土管に入っただろ?
我に返った俺は慌てて美咲から距離を取る。
今のマリオの音楽は美咲の携帯の着信音だった。
まだ鳴り続いている。
あぶねー、今のマジでやばかった。
心臓が凄いバクバクいってる。顔も熱い。
美咲は顔を真っ赤にしたまま、慌てて携帯を操作したが、
「あ、……間違って通話切っちゃった……」
携帯を見つめた後、ちらりと俺を見る美咲。
美咲の目はまだ潤いを帯びているように見えた。
駄目だ。今、まともに美咲の顔が見れない。
目線を合わせられない。
『パパッパ、パパッパ、パ♪ ビヨビヨビヨ♪』
また美咲の携帯が鳴る。
しかし、緊張感のない着信音だな。
「はい、もしもし藤原です。あれ、晃ちゃん? どしたの?」
今度は切らずに携帯の着信ボタンを押したようだ。
今、晃ちゃんと言ったけど、例の人か?
美咲は椅子から立つと、俺にごめんねとばかり手で拝んで更衣室に向かっていった。
美咲の姿が更衣室に消える。
美咲の姿が消えたところでカウンターに突っ伏した。
「……やばかった。今、マジでキスするところだった」
なんで俺キスしそうになったんだ?
俺なにやってんだよ?
数分たち、美咲は電話が終わったようで、更衣室から出てきてレジカウンターに戻ってきた。
ちょこちょことレジに入ると、ちらりと俺を見て静かに横の椅子に座る。
「……」
お互いに沈黙が流れる。
うわー、どうしよう、この雰囲気。
携帯が鳴るのがあと五秒遅かったらキスしてたぞ。
どうしよう、どうしよう。
なに動揺してんだ俺。
「……あの、さっきの電話、晃ちゃんとかいってたけど?」
動揺を抑えつつ美咲に聞いてみた。
美咲は身体を一瞬ビクッとさせたが、俺の方をむいて笑った。
「うん、この間、話した晃ちゃんからだったの。おかしいんだよ、私に不吉なことが起きてると思って電話かけてきたんだって。これ春ちゃんにばれたら、また晃ちゃん怒られちゃうな」
どんだけ美咲好きなんだよ。そこまでいったら怖いよ。
もしかして不吉なことってキスのことか?
晃って人、どんな超六感持ってんだよ。
「ああ、そうなんだ。まあ、電話くれて助かったけどね」
俺がそう言うと、美咲はムッとした顔をして俯いた。
なぜ怒る?
『助かったってどういう意味よ?』
美咲がぼそっと呟いたのが聞こえた。
「――ふふふふふふふふふふふふ」
突如笑い出した美咲の顔がぐるんとこっちに向く。
その笑顔には見覚えがあった。顔は笑っているのに笑ってない気がするときの美咲の顔だ。
妙に冷え冷えとする空気はなんだろう。体感温度まで下がった気がする。
「ところで明人君。君は響ちゃんにも色目使ってるのかな?」
「はい? そんなわけないでしょう。てか、俺誰にも色目使ってないけど?」
「ふふふふ。明人君には、お仕置きが必要なのだよ……」
そう言って立ち上がると、ゾンビのようにユラユラと近付いてきた。
「いや、ちょっとまて美咲。意味が分からないぞ?」
「お仕置きだああああああああああああ!」
「ちょっとまて! うきゅー」
……また美咲に首を絞められた。
そのうち本当に落とされそうな気がする。
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