398 文化祭7
世界が白い。
天と地の境界線も見えない白い空間にいた。
なんか久しぶりな感覚だ。
多分、これは俺が見ている夢なんだろう。
最近、夢を見ることが少なくなっていたから、特にそう思うのかもしれない。
もしかしたら、すぐに記憶から消えているだけかもしれないが。
白い世界に楕円の黒い影が浮かび上がる。
距離感が掴みづらいが、それなりに距離はあるように感じる。
急に黒い影が天へと向かって伸び始め、樹木のように広がり、造形を成していく。
できあがったものは太秦村で見た時代劇の町並みに似ていた。
響や関ヶ原と一緒に回ったところにそっくりだ。
また、新たな細い影が下から湧き出てきて、今度は人の形をなす。
最初は少なかった影の数も、段々と数が増え、動き出す。
まるで影絵の世界にでも紛れ込んだかのようだ。
町行く人や、すれ違う人の表情は、濃淡もなく真っ黒な影のままで分からない。
だが、笑っている感じや、忙しそうにしている感じが、影の動きから伝わる。
不意に手を握られた。
驚き、振り返ると、なんとなく響のような影が俺を見ている。
なんだろうか、表情はよく分からないのに、好意的に思えた。
その影は俺の手を握ったまま、横に並ぶ。
どうやら行動をともにするつもりのようだ。
影絵の世界を二人並んで散歩する。
少しして橋らしき物が見えてきた。
どうやら、俺達は堀の近くを歩いていたらしい。
橋の上に二つの人影が見える。
小さな体つきのツインテールの子、その子の後ろに隠れるようにしてサイドポニーの子がいる。
アリカと愛にそっくりな感じに見える。
その二つの影は俺達に向かって手を振っていて、まるで呼びかけているように見えた。
何だろう。アリカもどきが戦闘民族みたいにオーラを放ち始めたんだが。
やばい、さっきまで静かだった影絵の世界がおかしくなり始めてる。
愛もどきがアリカもどきを担ぎ上げると俺達に向かって投げてくる。
ロケットみたいに突っ込んでくるアリカもどき。
響もどきがネリチャギで撃墜し、橋にアリカもどきが突き刺さった。
残された愛もどきは、自分にオーラをまとわせると、超スピードで突っ込んできて、響もどきを掌底打で吹き飛ばした。飛ばされた響もどきは頭から家の壁に突き刺さって、残された下半身がバネみたいにびよびよと震えている。
愛もどきは振り向くと、なんだかぶりっ子みたいに両手を自分の顎あたりに添えて近づいてくる。
どうやら俺と一緒に行動したいらしい。アリカもどきはどうでもいいらしく、気にしてなさそうだ。
いいのか、アリカもどきは橋に刺さったままだぞ。
いいらしい。
刺さったままのアリカもどきと響もどきを置いて、俺達は歩みを進めた。
愛もどきは本物の愛のように俺の腕へ巻き付いている。
愛もどきといっしょに歩いていると、突然吹き出しが現れ始めた。
中には文字がない、ただの空白の吹き出しだ。
どうやら愛もどきが何かを話しているのだろうけど、文字もないし、音もないので全くわからない。
俺も会話を心がけてみると、俺からも吹き出しが出た。
しかし、やはり中には文字がなく、音も出ないのは変わらなかった。
それでも二人の会話は続いているようで、交互に吹き出しが現れた。
目の前に現れるので歩くのに結構邪魔なんだが、愛もどきは気にしていないようだ。
愛もどきが突然、背後へ振り返る。
その時に出た吹き出しは、今までの丸っこい吹き出しとは違って、棘が生えたような形をしていた。
どうやら漫画のような表現ぽいので、感情的とか驚きとかを表現しているのかもしれない。
遠くからアリカもどきと響もどきが全力疾走で追いかけてくるのが見えた。
スポーツ選手みたいな走り方で、二人競り合いながら、俺達に向かっている。
愛もどきは俺をかばいながら、棘のある吹き出しで何やら伝えようとしているようだ。
俺に深々と頭を下げると、背中を向けた。
そして、自身にオーラを纏い、追いかけてくる二人の影へと突っ込んでいく。
二人の影から伸びる拳と相対する愛もどきの拳が激突。
その瞬間、世界は光に包まれて、静寂な白い世界に舞い戻った。
この夢は何を意味しているのだろうか。
関ヶ原と響の戦いの記憶が、こんな夢を見させたのか。
「現実逃避は駄目だよ」
美咲の声がする。
「まだ始めたばかりだよ」
何の話だ。
「おらおら、さっさとやったんさい!」
だから何の話だ?
「いやあ、間違ってるね」
何が間違ってるんだ?
振り向くと伊達メガネをかけたスーツ姿の美咲が参考書を片手に覗き込んでいる。
これも夢なのか?
「明人君、さっきから白目向いてるよ!?」
「へ?」
俺の目の前にいるのは、スーツ姿の伊達メガネをかけた美咲。
さっきの夢の中の美咲と同じだ。
いや違うな。さっきのもこれも現実だ。
ああ、思い出した。
美咲に試験勉強やらされていたんだ。
どうやら、頭が回らなくなって、疲れて意識が飛んだらしい。
途中で雰囲気を出そうって言い出して、美咲が着替えてきたのは覚えてる。
小道具で伊達メガネまで用意するとは思わなかったが。
美咲が身に着けているスーツは大学に入ったときに親御さんに買ってもらったスーツだそうで、よく似合ってるし、新鮮だとも感じたが、それも束の間で、教師役を演じ始めたときは対応に困った。
そりゃあ、あとは寝るだけのはずが、3時間ぶっ通しで試験勉強やらされたら眠気に負ける。
一応、学校行って、バイトして、体は疲れてるからな。
「体は正直だよね」
人の頭の中読むんじゃねえよ。それにその言い回しはやめなさい。
自分のペースなら徹夜くらい平気だけど、美咲のはハイペース過ぎて頭が追いつかん。
「んじゃ、そろそろ夜食に甘い物いっとこうか」
そうだな。糖分が足りていないかもしれないかな。
チョコレートとかあると嬉しいけど、家に甘いものってあったっけ?
「じゃん、新作です!」
美咲が冷蔵庫から持ち出してきたもの、オレンジ色のタッパーに入ったぷよぷよした物体。
ああ、もう——そのタッパー嫌な記憶しかないんだけど。
中身は抹茶のような緑と熟したトマトのような鮮やかな赤。
きれいに色が分かれてる。
このぷるぷるした感じはやっぱりアレだよな
「これ……」
「羊羹です! 見て、作ってる最中に勝手に二色に分かれたの。すごいと思わない?」
へー、そうなんだ。手を加えたわけじゃないのに勝手に分離したんだ?
何を混ぜたんだ、一体!?
「また勝手に作ったのか、そんな時間がどこにあった?」
「え、朝に言ったじゃん。今日は午後のコマあるからバイト遅れるって」
そういえば、家を出る時間について、今日は言ってなかった。
いつもなら出る時間とか言うのに俺の言葉に被せてきただけだった。
「つまり、大学は朝からじゃなかったと?」
「うん、最初は家でゆっくりしてたんだけど、春ちゃんが出勤して誰もいなくなって、今がチャンスだと気がついて。今度こそ美味しいと思うの。春ちゃんとか文さんは騙さないと口に入れてくれないし、晃ちゃんがいない今、明人君だけが頼りなの」
いや、騙してまで食べさせるのやめようよ。
俺、二人が気絶してるところ何度も見てるんだぞ。
文さんと春那さんも警戒して俺にしれっと回すようになったし。
「さあ、食べて感想をちょうだい」
最後まで面倒見るって言った手前、責任取って食べましたよ。
何ていうんだろうな。一口食べた瞬間に俺の周りに宇宙が見えた気がしたよ。
ただし、感想なんて言えるわけもなく、俺が意識を取り戻したのは土曜日の夕方だった。
美咲の姿は見えないが、自分の部屋でなにかしているんだろう。
飲み物を求めて冷蔵庫を開けたとき、忌まわしきオレンジ色のタッパーが目に入る。
次の燃えるゴミの日に出すまで封印だな。
目に入ると嫌な記憶が出るから上の段に入れておこう。
「あれ? 奥になんかあるな……」
あいつ、俺が意識を失っていた間にまたやりやがったな。
冷蔵庫に昨日の夜にはなかった緑色のタッパーが増えてるじゃねえか。
「美咲、おまえまたやりやがったな!?」
美咲の部屋に押し入ると、そこに美咲はいなかった。
玄関に美咲の靴があったから家の中にいるのは確実だ。
どこに隠れているか知らないが、見つけ出して説教だ!
☆
浴槽に身を潜めていた美咲に説教したあと、家のことを片付ける。
俺が意識を失っている間にできることはしてくれたようだが、まだ少し残っている。
昨日の夜にアリカからメッセージが届いていたが、スマホを部屋においていたせいで見れてなかった。他愛もない内容だったが、返信で謝っておこう。
返信すると、バイトが終わって家にいたようで、昨日見せてくれた写真を送ってくれた。改めてみると、ものすごい脱力してるよな。完全に諦めてる顔だし。また後で寝る前にでも連絡しよう。
さて、そろそろ晩御飯の用意をするか。
ちょっと遅くなってしまった。文さんが飢えてしまう。
美咲が言うには、朝方に文さんが帰ってきたそうだが、俺はまだ姿を見ていない。部屋の前でも酒の匂いがプンプンしていたので、実際浴びるように飲んだのだろう。
一緒に暮らしてから、飲み会で朝帰りは初めてだし、体を壊さないのならたまにはいいだろう。もう、今日は酒が抜けなくて出てこないか、腹が減りすぎて動けないかのどっちかだな。
美咲に様子を見てきてもらうことにした。
おい美咲、ちょっと待て。そのオレンジのタッパーは封印しとけ。
持っていかんでいい。
今なら行けるじゃねえ。とどめを刺しに行くな。