38 温もり2
あと、小一時間もしたら夕食ラッシュが始まるだろう。それに備えての準備もしておかなければならない。
まず分かれて、客席の上に置いてある紙ナプキンや塩、コショウなどの調味料の補充をする。
このファミレスでもサラダバーやドリンクバーといった定番商品があるので、手が空いた者はこちらの準備に移る。ラッシュ時にもなると、これの補充、交換作業もままならない事が多々ある。痛まないように冷蔵保温されているサラダバーも、品質確保のために時間で交換しなくてはならず、六時間毎に交換するのがこの店のルールだ。ラッシュ時に補充はともかく交換作業するのは、はっきり言って自殺行為なので、この店ではラッシュ前の時間を利用して準備する。
また客がいる中での作業は決して慌しく見せてはならないと教育されているので、あたかも自然にこなす必要もある。ドタバタと店員が準備してたら、俺が客でも落ち着かないと思うから、その教育は理解できた。
従業員もこの時間帯に入れ替えが発生する。昼食ラッシュを共に切り抜けたバイトの人が帰り、見たこともないバイト員が二人入ってきていた。
はっきり言って、これが一番怖い。
この時の組み合わせで、経験によって処理能力に差が出るのは仕方がない事だが、対処方法など無く、自分が泥を被る覚悟をしておく事くらいしかできないのだ。
大体の準備が出来上がった頃、客足が少しずつ増え始めていた。
客の中には混み合うのを嫌って、早めに夕食を摂りに来る人も多い。
店内をざっと見回して問題の無いことを確認して、レジ付近にいる店長の所へ向かう。
「店長、店内オールオーケーです。客入り案内貰います」
「はーい、サンキューです。ふふっ、木崎君そのまま正社員やれそうね」
「一年もやってたら覚えますって。あ、お客入りますね」
入り口から、三人連れの家族が入ってきた。俺はそのまま客席に案内し、水を運んだ後、当店のお奨めを紹介して席を後にした。
いざ、開戦の幕が切られんとばかりに、客足は増えていく。時間と共に埋まっていく客席、あちらこちらから呼び出しのベルが鳴る。夜の従業員数は一名増えている状態だが、あまり機能していない。おそらくまだ不慣れな者がいるのだろう。対応が何かにつけて遅い。こうなってくると戦況は怪しくなってくる。店長が少し不安げに店内を見ている。
「二十一番キャリー入ります。十五番席オーダープリーズ」
俺がワゴンで料理を運びながら、初めて見る眼鏡を掛けたバイト員――岡田に声を掛けたがスルーされた。
ああ、駄目だ。余裕がないのか耳に入っていない。
自分の経験則から言うと、ここで慌てると二次災害が勃発しやすくなる。
まず自分の手持ちをやっつけることを優先させる、これが大事だ。
二十一番席に料理を運び、注文の抜けが無いか確認――問題なし。さあ、次だ。
すぐさま十五番席に向かい、すぐさま非礼を侘びる。
「大変お待たせして申し訳ありません。ご注文お伺いします」
その時、厨房の前から『ガッシャーン』と何かをひっくり返したのであろう音が響く。客は何事といった感じで、その方向に視線を集中するが、こういった時にも慌ててはならない。
「お騒がせして申し訳ありません。すぐに係の者が処理いたしますので。ご注文の続きお伺いします」
問題が起きても一つでも接客処理してから次のことを進める。これが俺がここで教わったことの一つだ。問題に囚われて物事の流れを遮断するほうが、後々響くことになるからだ。
ひたすら忙しい時間はあっという間に流れ、怒涛のラッシュが落ち着きを見せ始めたのは、俺が休憩に入る時間のほんの五分ほど前だった。概ね三時間に亘る戦いに正直疲れていた。店長もレジ以外に店内を駆け巡り、フォローやカバーなどの対応に追われて大変そうだった。
「木崎君、お疲れ様。もう大丈夫そうだから休憩に入って」
店長が俺のところに来て指示してきた。
「はい。ありがとうございます。俺、早めに戻るんで、店長も少し休んでくださいよ」
俺が言うと優しげな目で俺を見つめて微笑んだ。
「ふふっ。ありがとう、木崎君は本当に気が利くね。ささ、休んで休んで」
店長の言葉に従って、更衣室に入り休憩する。
『はあ』
ため息が一つこぼれ出る。この休憩が終わったら、ここでのバイトも少しだ。
この一年慣れるまでは苦労したけど、いい経験はできたかなと自分で思う。
今までの事を思い浮かべていると『コンコン』と更衣室のドアがノックされた。
「木崎君、休憩中ごめんね。今、大丈夫かな?」
店長の中村さんだった。
「はい、どうぞ」
俺が返事すると、中村さんは手に封筒を持って入ってきて、俺に手渡した。
「今までのお給料は振込みなんだけど、これは今までよく頑張ってくれた、ちょっとしたお手当てよ。ちゃんと社則に従っているから問題ないわ。受け取ってね」
封筒には『慰労金』と書かれていた。
「え、いいんですか?」
「いいわよ。ちゃんと本部にも相談して決めた事だもの。あなたへの評価ってかなり高かったのよ。あなたが高校生じゃなかったらって、何度思った事か。やる気も仕事もバイトどころか正社員並みだったもの。正直辞めてほしくないけど、次の所でも、同じようにがんばってね」
中村さんに言われて、ちょっと泣きそうになってしまった。自分のやってきた事への評価が高く認められていた事への嬉しさからくるものだった。
「ありがとうございます。俺、そう言ってもらえて嬉しいです」
中村さんはニコッと笑顔を向けると、
「仕事に戻るわね。まだゆっくりしててね」
そう言って更衣室を後にした。
俺は受け取った封筒を何故か開封する事ができなかった。中身なんか幾らでも良かった。ただ、嬉しかった。俺という個人の働きを認めてくれたのが嬉しかった。
鞄を取り出し、封筒をしまい最後のお勤めへと、張り切って更衣室を出る。
「あら、もっと休んでていいのに。もういいの?」
中村さんは目を丸くして俺を見てきたが、
「店長も休んでくださいよ。店長潰れたらこの店やばいんですから」
そう言うと、中村さんは「本当に木崎君は生真面目ね」と笑って休憩に入っていった。
しばらくして店長が戻ってきたが、残された時間が少ない時というのは、あっという間に過ぎるもので、それから少しして今日の勤務時間は終わった。
「木崎君。時間だわ。上がっていいわよ。今までありがとう」
「こちらこそお世話になりました。今度は客として来させてもらいます。忙しくない時間狙って」
「ふふ。そうしてちょうだい。うちのファミレスごひいきにしてね。あ、後ユニフォームは、ロッカーの中に入れたままでいいからね。まとめてクリーニングに出しちゃうから」
「はい、わかりました」
更衣室に着替えに行く前に、厨房にも顔を出して世話になった挨拶をすると、見知った顔の人たちから『お疲れさん、元気でな』と励ましの声を貰った。
更衣室で着替え終わり、ロッカーに鍵をさしてから自分のネームプレートを外す。
更衣室から出て、最後にもう一度中村さんに挨拶する。
「ありがとうございました」
「こちらこそありがとう。またお店に来てね」
「はい。では失礼します」
店を出るときに時計をちらりと見ると、九時三十分になろうとした所だった。
ここからてんやわん屋まで二十分ほどだから、ちょうどいい感じになりそうだ。
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