364 腐海からの使者2
「お、お姉ちゃん!?」
「ちょっと待ってね。今大事な仕事中だから」
伊織さんは目を輝かせて手にしたスマホで撮った画像を食い入るように確認。
画像を見て物足りなかったのか、ギラギラした目を俺たちに顔を向ける。
「そうね。壁ドンも欲しいわ。明人君が壁ドンして、そこの君を口説くような感じで」
なんか注文が来た!
「もう、お姉ちゃん何やってるの!?」
「みーちゃん、これは神聖な儀式なの。うら若い高校生の生壁ドンが実現されるのよ。黙って見ていなさい。ささ、君たちも早く」
伊織さんの勢いに抗うこともできず、太一は言われるがまま壁にぴったりと張り付き、俺は太一の行く手を防ぐように壁に手をかける。
「すっ、素晴らしいわ。ハァハァ、生壁ドン最高! あ、もうちょっと顔を近づけて、顎に手をかけるとかいいかも。さあ早く!」
俺は伊織さんのさらなる注文に応えて、太一の顎にそっと手を添えて持ち上げる。
言われた状態が完成して、伊織さんは興奮したように大声を上げる。
「きたこれええええっ!!!」
「お姉ちゃんいいかげんにしてえっ!!!」
泣きそうな顔で叫ぶ美咲だった。
☆
とりあえず太一を帰したあと、我に返った伊織さんと対面。
「すいません。つい病気が出てしまいまして。あ、これお土産です」
深々と頭を下げたあと、土産物を差し出す伊織さん。
どうやらこの間、美咲の実家に行った時に、仕事が落ち着いたら遊びに来ると言っていたことは本気だったようだ。
「来るなら来るって連絡くらいしてよ」
「だって、驚かせたかったんだもん。それにみーちゃんはまだ休み中でしょ?」
「そうだけど、心の準備とか色々あるの」
「みーちゃんもそういうこと言うようになったのね。お姉ちゃん嬉しい」
伊織さんは、何事にも物怖じしないタイプのような感じだ。
美咲から聞いていたイメージとは随分と違う感じがする。
優しくて聡明でおとなしい性格だと聞いていたんだが。
やはり美咲の姉だけあって癖のある性格をしているような気がする。
「ちなみにさっきの男の子は明人君のお友達?」
「太一のことですか? そうですよ」
「ふーん、太一君。総受けって顔してたわ。明人君はリバでいけそうだけど」
ごめんなさい、言ってる意味が分かりません。
「……お姉ちゃん、そこから離れて。明人君にはその話通じないから」
「あ、ごめんなさい。つい職業柄、病気が。ところで晃ちゃんはなんで白目向いて寝っ転がってるの?」
「不幸な事故があった」
美咲、不幸な事故じゃない。人災だ。
つんつんと気絶した晃を突いて、反応を窺う伊織さん。
反応しない晃をどうでもよくなったのか、俺に顔を向け姿勢を正す。
「それでは明人君、しばらくご厄介になりますね」
「はい?」
「お姉ちゃん?」
「お姉ちゃん考えたの。作品は実体験が大事だと。今度高校生の子を主役にした作品を構想してるんだけど、今どきの高校生ってお姉ちゃん分からなくて。明人君とか高校生の現場を参考にさせてもらおうかと思って、いわば取材です」
「いつまでいる気なの?」
「一か月ほどを考えてるんだけど……駄目?」
「駄目! 絶対駄目!!」
姉妹だけあって、やはり美咲とよく似ている。
違うところを挙げるなら、美咲と比べると少し大人びた顔つきで、右眼尻に小さな涙ぼくろ。
春那さんに匹敵しそうな豊かな胸といったところだ。
姉妹で何が違うんだろう?
愛里姉妹は顔つきから体まで全然似ていない。藤原姉妹と牧島姉妹は顔つきが似ているけれど、どらちかが胸が大きい。
美咲はアリカや晃と比べるとまだ胸のある方だが、春那さんや伊織さんを見てるからか、自分の胸は小さいとよく言っている。抱き着かれた感触からいうと十分いいもの持っていると思うんだが。
「まあ部屋は余ってるんで、文さんの許可があれば気の済むまでいてもらっていいですけど、伊織さん自身大丈夫なんですか? お仕事とか」
「取材もお仕事ですから。ところで明人君の学校って体育祭っていつなのかしら? 可能であれば取材させてもらいたいの」
「それなら2週間後ですよ。取材は俺がどうこう言える立場じゃないんで、先生とかに聞かないと答えられないですけど」
「そこは私が直談判するから明人君は気にしなくていいわ。できればこの辺りの高校もいくつか教えてもらいたいの」
この辺りの高校か……公立なら俺が通う清和台のほかに澤工、堂島、北久田がまだ近い距離にある。私立は女子高の美王女子高、六王寺、ちょっと距離があるけど俺が落ちた大松陰くらいか。昔、澤工が男子校だったけれど今は共学だ。
情報提供すると、伊織さんはメモにどんどんと書き足していく。
「うーん、順番に回ってもやっぱり一か月くらいはかかるかしら。男子校がないのが残念だわ」
メモを見て唸る伊織さんだった。
それから文さんと春那さんに伊織さんが来た報告と滞在の了承を得る。
文さんは大喜びし、春那さんからも特に問題なしと回答を得た。
伊織さんには空き部屋となっている母親が使っていた部屋を使ってもらうことにした。
☆
数日後、伊織さんの仕事用の荷物が届いていた。
といっても、ノートパソコンと資料集と思しきファイル類。
それからここで過ごす用であろう衣服の類だった。
伊織さんの普段の行動はというと、午前中は晃とともに家事を手伝い、昼頃から街に出かけ色々回っているらしい。夕方には戻ってきて、メモを片手にパソコンで何かを打ち込む。その繰り返しだった。
俺との絡みがあるのは、俺が学校やバイトから帰ってくるときだ。
「おかえりなさい!」
玄関で両手を広げて待ち構える伊織さん。
「ただいまです」
「ほれほれ、ほれほれ」
伊織さんは指先だけをクイクイっと曲げて早く来いと促す。
「……はい」
俺は伊織さんの広げた両手の間に身を入れるべく前に進む。
射程範囲内に入ると、伊織さんは俺をぎゅうと抱きしめてきた。
俺の後ろでは順番待ちする美咲の姿。
初日は美咲の目の前でいきなりやられたものだから、美咲からお仕置きが来ると身構えた。
だが美咲は姉の習慣を知っていたので、お仕置きしてくることもなく、俺のあとで次は自分だと姉の腕に飛び込んで行っていた。
話を聞くと文さんも春那さんもやられたらしい。
「いきなり抱き着かれたからびっくりしたよ」
と、文さんは言い。
「私は美咲から聞いたことがあったから」
と、春那さんは動じず。
「私は昔からされてるから」
と、晃もなんとも思わない感じで言った。
伊織さんは自分で認めるほどのハグ魔だった。
文さんに対しても、春那さんに対しても、誰に対しても平等にハグする。
伊織さんが言うには家族だけでなく、自分を知る友人たちもその対象だそうだ。
そんな伊織さんに聞いてみた。
「じゃあ、美咲と違ってお父さんにもするんですか?」
「お父さんにはしない」
言い切るなよ。お父さんが可哀想過ぎるだろ。
お父さんが何をしたんだよ。
まあそれはともかく、美咲のハグする習慣は伊織さんのせいだな。
スキンシップという点で距離感を考えず、美咲が俺に近づくのもこの人の影響だろう。
今の家には美咲が二人いる感じに近い。
二人に挟まれた日には、肩身が狭いどころか、身の置き所すら困ることが多いからだ。
春那さんが同じ距離にいた場合はやたらと反応する癖に、伊織さんだと美咲は反応しない。
伊織さんが俺にくっついてきても全く気にしていないのだ。
逆に美咲に聞いてみると、「そういやそうだよね」と、自分でも不思議がっていた。
伊織さんが来て助かっているのは他でもない晃だった。
居候なのだから家事を手伝えと春那さんに言われていて、貴重な美咲との時間を使って家事を手伝っている。その家事の大半を伊織さんが消化してくれるのだ。おかげで美咲との時間が増えてホクホクらしい。
伊織さんも晃のことを美咲同様、妹みたいに可愛がっているので、役に立てて嬉しいと自ら言っている。
確かに美咲が言うように、伊織さんは性格、人柄も良く、家事全般をこなし、病気さえ出なければハイスペックな人だった。
美咲は「その病気が致命的なんだよ」と言っていたが。
とはいうものの、初日以外に伊織さんの病気を見る機会も少なく、今を過ごしている。
趣味の漫画の時は、伊織さんが悪魔みたいに豹変するというのも信じられなかった。
☆
バイトが終わって美咲と一緒に食事中、伊織さんが俺に聞いてきた。
「明人君は、今学校でどんなことやってるの?」
「体育祭が近いんで体育の授業は全部団体演技の練習ですね。それ以外は普段の授業と変わらないんですけど」
我が校の体育祭では、各学年ごとに団体演技なるものがある。団体ダンスや組体操的なものがそれに当たる。この辺りは小学校から高校まで運動会や体育祭で団体演技が行われているので、慣れ親しんだものでもあるが、進学するにつれて演技するレベルが上がっていくので覚えるのは少し大変だ。
体育祭までの体育は各学年ごとに時間割り調整されて同じ時間に行われる。
ほぼ毎日体育がある状況だ。
「ええ、それ見たい! 体育祭って見に行けるの?」
「大丈夫ですよ。保護者の席も設けてますから」
「うら若い男子高生が密着してくんずほぐれずだなんて――『あいつの手が俺の背中に』とか『あいつなんで俺以外の奴に身体預けてるんだよ』とか嫉妬してる姿ありそう!」
伊織さん……美咲がぴくって反応してますよ。
「ねねね、肩組んだりとかしてる子とかいるの?」
「え? ああ、同じ運動部のやつとかそういうのしてるのたまに見るかな。仲のいい奴らいますから」
「おおおおおおおっ! 想像するだけで萌える!」
「お姉ちゃん、今ご飯中だから!」
我慢の限界が来たのか、美咲が叫ぶ。
だが、そんな美咲の態度も、「みーちゃん怒っちゃ嫌」と、軽く流す伊織さんだった。
「そういやあ、伊織さんってお付き合いされてる方とかいるんですか?」
「え、ま、まあ一応います」
照れ照れしながら答える伊織さん。
「え、お姉ちゃん彼氏できたの?」
「う、うん。まあ、去年の暮れからだけど、そういえばみーちゃんに話してなかったっけ。あんまり私と顔を合わせてなかったもんね。みーちゃんしばらく帰ってきてなかったし」
「え? ア、ソーダネ」
美咲は視線を逸らせながら答える。
顔を合わせないようにしていたのがばれるのを恐れたのだろう。
「すいません、俺、恋愛感情ってものがよく分からないんですけど。お付き合いに至った経緯を教えてもらっていいですか?」
「コイバナきたああああっ!」
伊織さんってリアクション豊かだなぁ。
伊織さんのお相手はお世話になっている出版社の人で、今の担当さんにくっついてきたことがきっかけだったそうだ。なんでも知り合った当時は入社して間もない新人だったらしい。今は遠距離恋愛という形でお互い行き来して関係を保っているらしい。
「今も苦労してるみたいだけど、私が出版社に出向くときはデートもしてるよ」
「どっちからですか?」
「私」
「え、お姉ちゃんから?」
「なんだろう。担当さんとご飯行くときに彼がついて来ること多かったのね。新人の彼を教育担当していたのが私の担当さんだったの。それで食事は行くけど担当さんは旦那さんがいるからけっこう早く帰っちゃうの。残った二人でよく飲みに行ったりすることが多かったのよ。お互い夢を言ったりね。彼はすごい草食でそういうの全然出さない人だったから安心できたし」
「ほほう」
「それで?」
知らない間に文さんと春那さんも混ざっていた。
「そういうのが二年くらい続いたのかな。向こうは忙しいから毎日とは言えないけど、週に一回は連絡してくれてて、何回かデートっぽいのして、去年の出版社で行われた年末パーティーで私のこと好きなのか聞いてみた。むちゃくちゃ照れた顔で『好き。できれば結婚したい』って言ってくれたの」
「それってプロポーズじゃ?」
「あ、違う違う。まあそこから正式にお付き合いを始めたんだけど、彼が言うには、まだ自信がないからもう少し修行したいんだって。お互いまだ若いから先でもいいし、これで趣味も続けられる」
趣味という言葉に美咲がビクビクと反応した。
「みーちゃんも手伝ってくれると嬉しいな」
「エ、ア、ソーダネ。テツダエタライイナー。アハハハハ」
あれ? なんだかこれって美咲にとって藪蛇だったんじゃ……。
「……お姉ちゃん一つ聞いていい?」
「なーに?」
「その人お姉ちゃんの趣味してる現場見たことあるの?」
「今年の夏は彼も手伝ってくれたわよ。彼も鬼だから私たちが寝そうになったら容赦なかったわ。鬼のように締める人がいると間に合うものなのね。みんないつもと気合が違ったわ」
「あ、同類以上にやばい人なんだ?」
「彼の担当してる作家さんたちって、〆切ギリギリの人が多いんだって。苦労してるみたい。付き合う前も付き合ってからも『遊んでて〆切遅れたら殺すぞ』ってよく言われてるわ」
付き合って大丈夫なんですか、その人?
お読みいただきましてありがとうございます。
次回もよろしくお願いします。