362 夏の終わりに追い込みを2
課題の追い込みは遅々ながらも進んでいく。
これも監視役がいるからだろう。
もしいなければ、とっくの昔にこいつらは諦めていたに違いない。
「駄目だ。もうやる気が出ねえ」
「千葉ちゃん諦めちゃ駄目だよ!」
「柳瀬、もう手が、手が痛い!」
「川上あと3割だ。まだ間に合う。それよか手を動かせ」
「えっくすじじょうまいなすえっくすぷらす6……響さんこういうのって何の役に立つんですか? 社会の役に立つんですか? 愛が覚えて世界が平和になるんですか?」
「愛さん現実逃避をしては駄目よ? それと数学はちゃんと社会の役に立っているのよ?」
夕食も終わり、ラストスパートへ向けているのは太一と川上、愛だった。
柳瀬も夕食前に無事終わり、今では川上の一部を手伝っている。
俺や響、それと長谷川、柳瀬自身のものをランダムに書き写しているようだ。
問題は一人学年の違う写しの効かない愛だった。
今は数学のワークを進めているのだが、夕食までと違い、響が先に問題を解いてノートに書きだし、それを愛が書き写す作業に変わっている。問題を一問解くのに時間のかかる愛のペースでは絶対に間に合わないからだ。
そんな修羅場のような光景に、一人の幼女もどきが幸せそうな顔を浮かべて帰ってきた。
「ふ~っ、お風呂上がったよ~。ここのお風呂広くて快適♪」
順番で風呂に入っていたアリカだった。
ジャージ姿の髪を下ろしたアリカ。見慣れない姿に思わず目がとまる。
うーん、湯上り幼女か。あまりないジャンルのような気がする。
相変わらず、俺をお父さんのような気持ちにさせるやつだ。
ほら、風邪をひく前にさっさと髪を乾かしなさい、と言いたくなる。
そんな俺の心など知らず、キョトンとした顔で首を傾げるアリカ。
「何?」
「お前、髪下ろしたらやっぱり長いな。いつもと違う感じがする」
「当たり前じゃん。普段結ってても腰まであるんだから」
「ところで、気を付けた方がいいぞ?」
「何に? ひっ! ぴぎゃああああああああああああああ」
そう言った途端、後ろから美咲に襲われるアリカだった。
ごめんな、先に言えばよかったな。後ろから怪しい目をした美咲がついてきてたんだ。
アリカを後ろから抱きしめて、アリカの首筋の匂いをくんくんと嗅ぐ美咲。
どう見ても変態だぞ?
「んあああああっ! アリカちゃんから石鹸の香りが。いいよっ! すごくいいよ!」
「いやあああっ! 明人助けてぇっ!」
助けてやりたいのは山々なんだが、その状態の美咲に関わるの嫌なんだよな。
しかし助けないと怒りのアリカさんが降臨して俺を潰すことだろう。
何この選択肢のない状況。もっと選択肢が欲しいなあ。
今回は一発アリカを助けて貸しを作っておこう。
「こら美咲!」
ぐいっとアリカの背中に手を割り込ませて、アリカを奪うように、美咲の進行を食い止める。
美咲がひるんだ隙にアリカをうまく引きはがすことに成功。
アリカをぐいっと引っ張り込む。
よし、我ながらうまくいった。
「アリカは風呂から出たばっかりなんだから、止めてやれ」
「アリカちゃんを返して――あっ!?」
「………………あ、あの、明人? 助けてくれたのはありがたいし、勢いだってのも分かるんだけど……。その、いつまでもこうされてると、恥ずかしいんだけど?」
顔を赤くしたアリカが俺の胸元から小さい声でか細く言った。
気が付けば美咲から引きはがした後、アリカをかばうように抱え込んでいた。
しっかりと胸元で優しく包み込むように、しっかりと両手で頭と背中を抱え込んで。
「うわっ、悪い!」
慌ててアリカから距離を取る。
あれ? なんだかこの部屋急に寒くなったような気がする。
エアコン効きすぎか?
「躾が必要だわ」
「そうだね」
うーん。ここしばらく見なかったが、風神と龍神を背負った狩人が現れたか。
俺はどっちみちやられる運命だったんだな。
まあ、せめてもの救いは雷神がいないことだな。
さて、覚悟を決めるか。
「ずるいっ! 香ちゃん明人さんにはぐされた! 愛もお願いします~」
躾と称するお仕置きが終わって、床に倒れた俺に向かって愛が這い寄ってくる。
なんか今の動き、蛇みたいで怖かったんだけど。
愛は俺の背中にべったりと貼りつき、アリカに剥がされるまで続いた。
☆
「あとどれくらいなんだ?」
「千葉ちゃんは1割切ったよ」
「川上は?」
「川上はあと2割くらい」
「愛は?」
「残り3割ってところよ」
もうそろそろ日付が変わるんだが、まだ終わらない。
やたらと脱線したり、休憩時間が増えたりと、段々ペースが落ちているのも要因だろう。
監視役や手伝い役が答えてるあたり、もう当の本人らは生ける屍のような状態で答える気力もないらしい。長時間の勉強に慣れていないから、なおさらなのだろう。
太一は書き写す作業だけなのだが、あとは気力の問題だ。
愛の分は俺と響で教科を分けて、先に問題を解いておく。それを書き写す作業。
愛は字の間違いが多く、その訂正作業には、愛と字の似ているアリカが加わった。
川上の分は柳瀬も写し作業に加わっている。柳瀬はばれないように川上の字に似せて書き写しているので、普段よりも書くスピードが遅くなっている。
そんな俺たちの様子を肴にちびちびと酒を飲む文さん。
美咲と晃も俺たちの様子を懐かしそうに眺めていた。
「いやいや、これも学生ならではのイベントって感じだねえ」
「昔の美咲を思い出すね。美咲もギリギリまでやらない口だったもんね」
「晃ちゃん、しーっ。それは言ってはいけない」
聞こえてるぞ。
俺は美咲たちの話を聞き流し、気力体力ともに消耗している3人に声をかけた。
「頑張れ。今日だけだ。今日が終わっても、まだ少しだけ夏休みがある。そこは遊んでもいいんだぞ」
「ってことは、今やめてもいいんじゃね?」
「そんなことしたらお前ら絶対しないだろ!」
「鬼だ。鬼がいる」
「明人さんはSなんです。そうやって愛を虐めて楽しんでるんです。奇遇ですね。愛はMなんです。でもこの宿題ぷれいは愛に向いてないので遠慮させてください」
うん、愛はもう壊れているな。
アリカと響が俺に嫌な視線を送ってきているが、気にしないでおこう。
黙々と作業が進む中、仕事を終えた春那さんが帰ってきた。
「ただいま~って、まだやってるのかい?」
人数が人数なだけに春那さんも驚く。
お邪魔してま~すと、みんなも声を出すが、もうそこに元気さはなかった。
まあ、そこの辺はみんなの様子を見て春那さんも分かってくれてるみたいだ。
「春那さんお帰りなさい。今日は本当に遅かったですね」
「うん。遅くから会食があったからね。気疲れしたよ。と、いうわけで」
春那さんはすたすたと俺の真後ろに歩いてくると、俺を背中からぎゅうっと抱きしめてきた。
「明人君に癒してもらう」
うん、相変わらずの最強武器ですね。背中にすげえ弾力を感じます。
春那さんは俺の背中に顔を擦りあてながらぼやく。
「明人君聞いてくれ。今日の相手は最悪だったんだ。私のことをいやらしい目でずっと見てくるんだ。最初は気のせいだと思ってたんだけど、会食のとき露骨に見てきて気分が悪くなった」
「そ、そうですか。それは嫌な気持ちになりましたね」
「それで私は明人君が見てると思うようにしたんだ」
「ちょっとそれは違うと思うんですけど?」
「そう思うと、なんだか色々なところが熱くなってきてね。どうしてくれる?」
どうもしねえよ。
「そういうのは武藤さんにぶつけてください」
「仁は遠くにいるから慰めてもらえないんだ。仁から許可をもらってる明人君に慰めてもらう」
「確かに許可は貰ってますけど!」
「しばらく我慢したまえ。…………ふう、ちょっと満足した♪」
べったりと背中に張り付いてしばらくすりすりしたあと、春那さんは俺から離れていった。
俺にはこの後すぐに起きる地獄絵図が想像できた。
残された俺にアリカと響、愛の3人が詰め寄る。
「「「今の話は何?(ですか?)」」」
「ちょっと明人、今のなんなのよ?」
「明人君、全く話が見えないんだけど?」
「なんで春那さんまで明人さんのこと?」
「さあ、明人君。お仕置きの時間だよ?」
いつの間にか美咲まで混ざってた。
やはり俺の地獄はリピートする習性があるらしい。
嫌な習性だ。
「柳瀬記録!」
「了解、記録を開始する」
お前ら実はまだまだ元気だろ。それよか助けろ。
☆
「……んあっ?」
煌々と明かりがついたリビングで目を覚ます。
やべえっ、いつのまにか寝てた!
時計を見ると午前2時。
文さんや春那さん、美咲、晃もすでにリビングにいない。
ああ、そうだ。先に寝るって言ってそれぞれ戻っていったんだった。
周りを見渡すと死屍累々。
起きているものは誰もおらず、それぞれが座卓に突っ伏している。
ちょっと違ったのは長谷川で、太一の背中にもたれこむような形で寝ていた。
太一のワークブックを見てみる。
かろうじて読める字だが、最後のページまで進んでいる。
あと少しというところで力尽きたのだろう。
布団は美咲たちが用意してくれているから、起こして部屋で寝るように言うか。
このままここで寝てて風邪を引かせても悪いしな。
運ぶにしても相手は女の子。
勝手に身体を触るわけにもいかない。
とりあえず横の響を起こしてみる。
軽く揺すると、響はパチッと目を開けた。
起き上がるときょろきょろと周りの様子を窺う。
「……みんな寝ちゃったのね」
「寝てるところ悪かったな。みんなを寝床まで移動させたいんだが、女子の方起こしてくれるか?」
「明人君が運んでくれてもよかったのよ? 明人君だったら誰も文句言わないわよ」
「お前らはともかく、流石に川上とか柳瀬はまずいだろう」
「じゃあ、さっそく私をその部屋まで運んでもらえるかしら?」
座ったまま響は両手を広げて言った。
「お姫様抱っことやらにとても興味があるの。なんだったら明人君の部屋に直行して、そのまま朝までイチャイチャしてもいいのだけれど。いい考えだわ。そうしましょう」
寝起きの響は軽く壊れているらしい。
「馬鹿なこと言ってないで起こして回ってくれ」
「冗談じゃないのに」
太一を起こす。
「うぅ、俺、もう駄目」
太一は苦しそうな顔をしながら答えた。
「とりあえず起きろ。寝床に移るぞ。お前の背中で長谷川寝てるから気を付けろよ」
「あ? 重いと思ったらこいつがもたれてたのか。まったく、しょうがねえな」
太一は器用に長谷川を支えながら体をずらす。
「こいつ寝たら起きねえから、俺が運ぶわ」
太一はそう言うと長谷川をひょいとお姫様抱っこ風に抱え上げる。
川上と柳瀬も響に起こされ、まだものすごく眠たそうな顔をしている。
「お、お前ら起きたか? ちょうどいいや、ついてこい。扉は開けてくれ」
太一は寝ぼけた感じの川上と柳瀬を引き連れて、長谷川を抱えたまま二階へと上がっていった。
太一の足取りはしっかりしているし、大丈夫そうだな。
くるりと振り返ると、床に響と愛が転がっていた。
二人とも目はパッチリ開いていて、特に愛は期待したような目で俺を見ていた。
響は相変わらずの無表情だけれど。
「……お前ら、何してんの?」
「愛も長谷川先輩みたいにお姫様抱っこで運んでほしいです」
「太一君はあんなにあっさりやってのけたわ。さっきの続きじゃないけどお願いしたいわ」
「起きてるなら自分で歩け」
「愛は頑張りました。ご褒美が欲しいです」
「と、いうわけで。確かに愛さんは頑張ってたので権利を先を譲ってあげるわ」
「お前らな……しょうがねえなあ」
お姫様抱っこの要領で愛を抱え上げる。
女の子ってのはどうしてこう柔らかいのか。
「あの、明人さん、愛は重くないですか?」
「全然、逆に軽い」
ほっとしたような顔をする愛。
「一応、俺の首に手は回しといてくれよな。まあ、落としはしないけど、念のためな」
「はいっ。愛は幸せさんですぅ」
通路を抜けて、階段は狭いけれどまあ問題なく通過。
部屋の前で愛を下ろす。
「あんなに軽々と持つなんて明人さんって思ったより力強いですよね。やっぱり男の子です」
「前のバイトで鍛えられてたからなあ、重労働もしてたからね。ところで課題は終われたの?」
「あと1ページ残っちゃいました」
「じゃあ、起きたらやろうか。この後ちゃんと寝るんだよ」
「明人さんに抱かれたので興奮して寝れるか分かりません」
ハアハアと息を荒げに答える愛だった。
「じゃあ、響を連れてくるから」
「はいっ、ありがとうございました」
部屋に入ろうとする愛がノブに手をかけようとすると、扉が先に開いて長谷川を連れて行った太一が出てきた。
「あれ、愛ちゃん起きたんだ?」
「長谷川は?」
「ちゃんと寝かしたよ。川上と柳瀬も速攻で布団に潜り込んでたわ」
「太一さん、太一さん。やっぱり太一さんって長谷川先輩のこと気になってたりするんですか?」
「そんなんじゃないよ。あいつには借りがいっぱいあるだけだって。明人、俺も眠いからお前の部屋に行ってるぞ。ひと眠りするわ。じゃあ、愛ちゃんおやすみ」
そう言って太一は俺の部屋へと入っていった。
「うーん。太一さんも素直じゃないですね」
ある意味、愛は鋭いと思う。
下に降りると、ペンを片手にアリカに近づこうとする響がいた。
「……お前……何やってんだ?」
「……自分で先を譲っておきながらモヤモヤしたから、アリカに八つ当たりをしようと」
間に合ってよかった。
「ほらこい。お前も運んでほしいんだろ?」
「ええ、よろしくね」
響も愛と同じようにお姫様抱っこで持ち上げる。
うん、響は引き締まっているからか、愛とは違った柔らかさだな。
「どうしたの? もしかして、私重いのかしら?」
「いや、そんなことは全然ないけど、やっぱりお前も女子なんだな。自分の体重が気になるのか?」
「最近、ちょっと増え気味なのよ。愛さんに付き合って色んな甘いもの食べてるから」
愛と同じように部屋の前まで運び、響を下ろす。
「お礼にキスをと思っていたけれど、愛さんが聞き耳を立ててるから止めておくわ」
扉からガタンと音がして、ガチャっと扉が開く。
どうやら本当に愛が聞き耳を立てていたようだ。
「ばれてましたか」
「あなたがしそうなことくらい分かるわよ。じゃあ、明人君アリカもよろしくね」
「ここで待ってますね。香ちゃんは寝たら起きない子なので、そのまま連れてきちゃっても大丈夫ですよ」
俺はリビングに戻り、座卓に突っ伏したアリカを抱える。
相変わらずちっこい身体だけあって軽い。
すぅすぅと小さな寝息を立てているアリカは愛の言う通り起きる気配は全くなかった。
……もしかして、これはチャンスなのではないか。
……今ならできそうな気がする。
俺はアリカを持ちかえて、手をアリカの脇に入れると高く持ち上げてみた。
完全に寝ているアリカは脱力しているが、成功した。
やった。やったぞ。アリカを高い高いできた。
俺は謎の感動に満ち溢れていた。
前にやったときはアリカの速攻でぼっこぼこにされたからな。
今日は寝ているから反撃もできまい。
さあ、俺の父性を満足させるのだ。
満足感に浸っていると、人の気配を感じて、顔だけその方向に向ける。
響と愛がリビングの入り口から俺の様子を覗いていた。
「「……」」
見られてた!
「……来ないから見にきたら、心配するだけ損だったわ」
「愛もです。明人さんがたまに分からなくなる時があります」
――ドタバタとしたやっつけ会だったけれども、無事に全員課題をやっつけられることになった。
お昼には全員それぞれ家へと帰宅していった。
これもいつか思い出になるだろう。
そんな感慨にも浸れた。
みんなを見送ったあと、家の中に戻る。
「明人君お疲れ様。終わったね」
一緒に見送ってくれた美咲が労いの言葉をくれた。
「うん。終わった。思ったより手こずったよ。美咲も色々ありがとな」
「私は大したことやってないから気にしないで。あ、でもこれだけは」
そう言うと、美咲は俺の前に来ると、両手を広げた。
「まだ今日のハグしてもらってない」
今日の美咲はいつもと違って俺に起こされることなく自ら起きてきた。
多分、川上と柳瀬がいたからだろう。
たったそれだけのことで美咲は緊張してしまう。
朝のハグも求めてくることはなく、みんなが帰るまで待っていたようだ。
俺は両手を広げて美咲を受け入れる。
すると、美咲はすぐに俺の胸元に飛び込んで、ぎゅうと抱き着き、いつもみたいに胸元に擦りついてくる。
「美咲もしょうがねえな」
俺も美咲をハグしていつもみたいに頭を撫でる。
美咲は心地よさそうに額を胸にすりすりしていたが、不意に動きを止めた。
「………………ねえねえ。何で明人君の体から響ちゃんと愛ちゃんとアリカちゃんの匂いがするの?」
前から聞きたかったんだけど、何で美咲って匂いで人の識別できるの?
嗅覚が犬並みなの?
「何かしたよね?」
「大したことはしてない」
「やっぱりしたんだ? 全部吐け!」
瞬時に黒美咲に変わるの止めてもらっていいですか?
俺に抱き着く腕の力も尋常じゃないくらいに上がってきている。
ああ、もうこれ駄目だな。逃げられる状況じゃねえ。
この追い込まれ方は経験したくなかったな。
お読みいただきましてありがとうございます。
次回もよろしくお願いします。