356 春那狂想曲6
文さんが春那さんを出会いは、二人が所属していたサークル「日本文化研究会」での飲み会に、成人した春那さんが初参加した時のこと。飲め飲めと迫ってくる輩を逆に潰す酒豪ぶりを見せた春那さんに、文さんが飲み比べを誘おうと声を掛けたのが始まりらしい。だが、その時に見せた春那さんの表情は「また面倒くさいのが来た」と好意的じゃないのが明らかだったらしい。
「年功序列や礼儀は分かっているようだったけど、何か違和感を感じた。表面上は取り繕っていて、その実誰のことも気にしていない。やけに携帯ばかりを気にしていた。多分バイト中の男から連絡を待っていたんだろうね」
男からの連絡が来た途端、それまで見せなかった嬉しそうな表情を見せ、今度は時間を気にするようになっていた。そして男が迎えに来ると、そそくさと男と一緒に帰るのが、男と別れるまでの春那さんのパターンだったそうだ。男を中心に考えていた春那さんが何故サークルに入ったかというと、これも男から言われたかららしい。男女比、会合の数、活動状況それらを分析した上で「日本文化研究会」が男との生活に支障がなく、安全だと、春那さんは判断したらしい。
「会合に参加も男の都合次第。まあ会合参加は任意だし、良かったんだが……そのうち付き合いの悪さか対応の悪さからか、周りからの評判も悪くなってきてね。よく他の女の子から何とかできないかと聞かされたものだよ。まああれだけの美貌だ、余計に目立ったんだろね」
他の女子からの嫉妬や妬みもあったようだ。
文さんは大学構内でたまに春那さんを見かけても、他の誰かといるところを見たことがなかったと言った。
「……信じられない。地元にいたときは、姉さんの周りにはいつも人がいて賑やかだったのに」
「……後から春那に聞いたことだけど、仕切ることは好きだからいいのだけれど、一人になれないことや弱い自分を見せられないことが苦痛だったんだって。本音で言えばふざけたこと言ったり、誰かに頼りたかったとも言っていたね。周りの期待に応えるようにしか行動できなかったんだろう。そしてこのことは家族にすら同じことが言えたんだそうだ」
春那さんは今までの生き方を捨て、思うままに生きていこうとしたのかもしれない。周りの期待や評判、そういった息苦しいものを気にすることなく生きていこうとしたのかもしれない。
寄り添える相手が、弱い自分をさらけ出せる相手が見つかったからだろう。T大を蹴ってまで、追いかけた男ーー武藤仁がいればそれで良かったのだろう。
「私は心配になって、おじさんに相談して春那をてんやわん屋に引き入れた。それがその年の夏のことだ」
半ば強引に引き込んだらしいが、最終的に春那さんも合意した。春那さんが文さんの誘いに乗ったのも、自分もバイトすれば生活も潤うし、男がバイトしている間の時間潰しになるからと答えたようだ。
文さんの目的としては、少しでも周りを刺激せず、人間関係をうまく立ち回れるようにすることだった。
てんやわん屋で過ごしていくようになってから、文さんの思惑通り、春那さんは人付き合いをするようになっていった。大学でも、サークルでも、ちゃんと男との生活をキープしながら、人間関係も良い方向へと進められるようになっていったという。
「私は次の春に卒業してしまって、最後まで面倒を見れなかったのが気がかりだったんだが……その嫌な予感は当たってしまった。何があったか春那の男が家から出て行った。春那も理由は聞いていない。それから春那は空っぽになった。まさしく空っぽだった。バイトを無断欠勤し連絡が取れないと店長から聞いて、私があの子の家に駆けつけた。そしたら部屋で倒れてた。数日何も食べてなかったらしい」
春那さんの倒れた姿を発見した文さんは、すぐに救急車を呼び、病院へ搬送してもらった。
春那さんの意識が戻ったところで、家族に連絡しようとしたところ、頑なに拒否されたらしい。
幸いすぐに退院はできたけれど、退院してからもてんやわん屋のメンバーでずっと見守っていた。
「当時は危なくて一人にさせられなかった。目を離したら自殺するんじゃないかと思った。それくらいあの時の春那は思い詰めていたように見えたんだ。当時の私も研修医の身分で春那につきっきりはできなかったから、まだ学生だった由美や奈津美にも協力してもらっていた。本来なら家族に引き渡したほうがいいのだけれど、本人が頑なに拒否したからね。強引にすれば逆に危ないと私たちは判断したんだ」
春那さんが落ち着くまで2ヶ月を要した。
文さん、由美さん、奈津美さんを中心に日替わり交代で春那さんと一緒にいたそうだ。
3月に入ったころ、由美さんが当番の日、春那さんが他の二人を呼んで欲しいと訴えた。呼ばれた文さんと奈津美さんが揃ったところで春那さんは深々と頭を下げて、迷惑をお掛けしましたと謝った。
「本人はもう大丈夫だって言うけど、私は心配だった。でも事情を聞いて納得はした」
文さんは晃と美咲の顔をじっと見つめて微笑を浮かべる。
「妹の大事な友達を――美咲ちゃんを預かることになったから、今の姿を妹に知られたくないって。あの子の意地というか、姉としてのプライドなんだろうね」
自分はまだダメージ引きずっているのに馬鹿だよねと、文さんは笑って言った。
大学4年生となった春那さんと大学1年生となった美咲が一緒に暮らし始めた後、文さんも研修医としてますます環境が厳しくなり自由が取れず、店長らに頼っていたらしい。
「まあ結果は知っての通りうまくいって、私も安心はしてたんだが……一つ問題が残っていた」
「問題?」
美咲が首をかしげながら問い返す。
「どれだけ惚れ込んでいたのか知らないけれど、あの子まだ吹っ切れてないんだ。吹っ切れたなんてあの子の嘘だよ。だから未だに男を作ろうとしないんだ」
吹っ切れていない。それは先ほど見せた春那さんの動揺が証拠だろう。
一年半という時間を経過してもなお、まだ春那さんの心を縛り付けているのだろう。
「ついでだからぶっちゃけていい?」
文さんは少しだけ気まずそうな顔を浮かべる。
「ぶっちゃけるって何をです?」
「明人君に一緒に暮らそうって話をしたときに、私が春那に耳打ちしたの覚えてる?」
それなら覚えてる。
春那さんも文さんからのいきなりの提案に戸惑いを見せていたのに、文さんに耳打ちされた途端、手の平を返したように賛同したのだ。
「あの時に言ったのって、明人君を使ってリハビリすればいいって言ったんだよね」
「はい? どういう意味です?」
「男の傷は男で埋めるのが一番だと思ったから、明人君に甘えることから始めればって」
「なんで俺なのか理由が分からないんですけど」
「えーと、理由の一つとしてスイッチの存在」
「スイッチ?」
春那さんが欲情したときにいきなり入るスイッチ。
入ったときに襲われ、文さんや美咲に助けられるまで、俺は必死に抵抗し続ける。
「前にも言ったと思うけど、スイッチが入るの明人君だけなんだよ」
文さんの言葉に何故か美咲が睨んでくるので少し怖い。
「俺だけってことないでしょ。たまたま春那さんの近くに男がいないだけで」
「それだよ。だから春那は君を選んだ」
「えっ?」
「春那は仕事以外で男と触れていないんだ。仕事中の春那は気持ちを切り替えているからスイッチは絶対に入らない。てんやわん屋のイベントに来てるときは仕事モードの春那だ。だから太一君とかに対する接し方も至極まともなものになる。だが、明人君は違う。今まで春那のプライベート空間に男は入れなかったのに、君は美咲ちゃんを通じてすんなり入り込んじゃったんだよ。そして、そのことに春那自身も最初は気付いていなかった」
文さんは春那さんと久しぶりに会った時に俺の話を聞いて、珍しいこともあるもんだと思ったらしい。
「今の春那は軽い男性不信というか、男性恐怖症というか、必ず距離をとるんだよ。明人君は春那から距離を取られたことある?」
そう言われてみれば、そんなものを感じたことは一度もなく、それどころかこの3日間は特に手が届く距離にずっといた。
さらに考えてみれば、今まで一緒に生活していて、美咲がくっついてくることが多かったので、春那さんとの距離は気にしていなかったけれど、意外と常に近くにいたような気がする。
いや、いた。視界に必ずと言っていいほど春那さんの姿があった。
俺と美咲を温かく見守っているのだろうと思っていたけれど――。
「――この3日間でスイッチ入った?」
文さんからの追加質問に俺は首を横に振った。
「やっぱりか。あの子のスイッチって私たちがいるときだけ入ると予測してたんだけど、当たってたか」
「どうしてそう思ったんですか?」
「本当のあの子が臆病なのを知ってるからだよ。根は甘えただから、本当は美咲ちゃんと同じように明人君に甘えたいはずなんだ。それができないからスイッチが入った振りして明人君に絡んでる。多分だけど一番最初にスイッチが入ったときも美咲ちゃんが起きたことを察知したからだと思う」
臆病、甘えた――まったくもって春那さんに似合わない言葉。
だが、この3日間を振り返ると納得できるものだった。
文さんは晃に視線を移す。
「ついでにいうと、最初に晃君を預かろうとしたのも、ちょっとした実験だった」
「実験ですか?」
先ほどの美咲と同じように首を傾げながら問い返す晃。
「晃君がいると春那は姉属性が前面に出てくる。その状態でスイッチが入るかどうか試したかった。まあでもすぐに晃君は春那がスイッチ入った姿を目撃できたよね? 春那の本音がプライドを上回った証拠だと私は確信した」
晃のいる目の前でスイッチが入り、俺は襲われ美咲が助けてくれたのだが、その時の晃はショックを受けた顔をしていた。あとで美咲から「春ちゃんは肉食系だからたまにああなる」という説明を受け、晃は渋々ながらも自分を納得させていた。
「結論を言うと、あの子は男に振られたショックからまだ立ち直ってなくて、そのことが原因で男に対してどういう態度を取っていいか分かってない。弟みたいな立場ではあるけれど、明人君を使ってリハビリしてるのが今の現状なんだ。……まあ、色々とやり方には問題があるようだけれど。君たちから見たら完璧そうな春那にも普通に悩みくらいあるってことだ」
文さんは一息にそう言い切ると、手の平をパンと合わせて音を鳴らせた。
「さて、君たちが知らない春那の話はここまでだ。この話を聞いたからといって春那に対する態度を変えず、今まで通り暮らせばいい。こんなことで変わると思わないから話したのだから」
俺が家族のことで問題を抱えていたように、春那さんには春那さんの抱えている問題がある。
対処が分からなかった俺の場合は、問題を直視せず、人のつながりから逃げていた。
俺の場合は両親の離婚というきっかけで、父親との和解に繋がり変わった。
「さて、これからどうするかだけど。明人君何か言いたいことある?」
これは俺が恋愛を分からないからなんだろうか。
それとも、俺の家族を苦しめたことに対する腹立ちだろうか。
それとも、心にある疑問が晴れないせいか。
とてもイライラする。
そのイライラがきっと言わせたに違いない。
「俺、明日バイト休みなんで、武藤って人に会いに行ってきていいですか?」
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