354 春那狂騒曲4
「おかえり」
バイトが終わり、家に帰ると春那さんが満面の笑みで出迎えてくれた。
「ただいまです」
「ご飯できてるよ」
料理の置かれたダイニングテーブルには、今日も美味しそうな料理が並ぶ。
今日は生姜焼きか。何故か今日も山芋のすりおろしとガーリックフライが添えられている。
随分と精が付きそうな料理だった。
まあ、好きだからいいんだけど。
がつがつと食べていると、春那さんが横に座った。
「今日も明人君の部屋で寝ていいかな?」
「何でですか」
「手枷足枷着けててもいいから!」
「何で必死なんですか」
「横に誰かがいると安心するんだよ」
「何を構ってちゃんみたいなこと言ってるんですか」
「構ってちゃんだし!」
この二日間、春那さんのスイッチは入っていないものの、何をきっかけにスイッチが入るか分かったものじゃない。
丁重にお断りした。
食後に入浴すると、春那さんが性懲りもなく風呂への乱入を企てていた。浴室のガラス戸に爪でガリガリと音を立てて入れろとせがむ。そのあとも春那さんは、あの手この手で一緒に風呂に入ろうとしてくるが、それに乗るわけにはいかない。
慰安旅行のときみたいな大きな風呂じゃないんだ。
二人で入ったら距離が近すぎるし、逃げ場もないし、スイッチが入ったら最後だ。例え二人きりの時には入らないかもしれないとしてもだ。
ようやく春那さんが諦めて、姿が消えたのを確認してから、風呂を出る。おかげで今日ものぼせそうになった。
リビングに行くと春那さんの姿はなく、どうやら自分の部屋に戻ったらしい。
髪の毛を乾かし、歯磨きしたあと自分の部屋に行くと、春那さんが俺の部屋に自分の布団を敷いて待っていた。何で俺のベッドの上でくつろいでるんだ、この人は。
「……この手できたか」
「先手を打ってみた」
春那さんは俺の顔を見て、ベッドの上で嬉しそうにゴロゴロ転がる。
「じゃあ、俺はリビングで寝ますので」
入ってきたドアからそのまま出ようとすると。
「何もしないから! これもあるし」
そう言って、手枷と足枷を俺に見せつける。
実は着けたいだけじゃないだろうか。
いつもの格好いい春那さんは何処に行ったんだろう。
この構ってちゃんぶりは、まるで美咲と同じだ。
俺がどうしようか考えていると、春那さんは自ら足枷を身に着ける。それから俺に手枷を差し出してきた。
「何なら後ろ手でもいいよ?」
ものすごく期待した目で見てきたので、差し出された手枷を前から着けてあげた。
「ああ、期待させておいて、この仕打ち!」
喜ぶな。
何かどうでもよくなってきた。
この美咲ばりに面倒臭い生き物を、さっさと寝かしてしまおう。
掛け布団を開けてあげると、春那さんはコロンと転がり込む。
頼むから、期待した目でじっと見つめないで欲しい。
付き合ってたらきりがない。俺もさっさと寝てしまおう。
掛け布団を乱暴に被せて蓋をする。
「電気消しますよ?」
そう言うと、布団の中から春那さんのくぐもった返事がした。
「ちょっと待って」
「消さない方がいいですか?」
春那さん顔だけ布団から出す。
「……明人君、済まないが手枷を外してもらっていいかい?」
「駄目です」
「外してもらわないと困るんだが」
自分で着けさせておいて何を言ってるんだろう。
「外した方が困ります」
「こちらにも事情があってだね」
何の事情があるんだ。
どうせとんでもないことを企んでいるに違いない。
その手には乗らないぞ。
「駄目です」
「外してくれないとーー漏れる」
「は?」
「急にトイレに行きたくなった。そういえば、夕方から一度もトイレに行ってない。この感じ、かなり限界が近い」
「はよ言わんかい!」
俺は急いで布団を剥がし、春那さんの手枷を外す。
「明人君、あまり振動を与えないでくれ。刺激で漏らしそうだ。そのまま足枷もお願いしたい。お腹を圧迫させたくない」
「さっさと足伸ばして!」
「力を抜くとまずい」
慌ててるせいか、足枷を取るのに時間がかかる。
足枷が外れた途端、春那さんは身を縮める。
「ああ、社会人になったのに粗相をするのか」
「諦めるな!」
足枷が取れたのに、春那さんの動きが鈍い。
「春那さん?」
「わざとじゃない。刺激が危ないんだ」
俺は春那さんの進行方向を先回りして、部屋の扉を開ける。
ゆっくりと起き上がり足を進める春那さん。もう歩く刺激も危ないらしい。
「明人君、トイレのドアも頼む。あっ、喋るのも危なくなってきた」
「もう喋らなくていいから!」
トイレの前で待っていると、緊張した表情でそろりそろりと足を進め、春那さんが来た。どうやら階段は慎重に降りないと相当危険だったようだ。
ようやく春那さんをトイレに放り込み、俺は自分の部屋へ戻る。少しして、穏やかな笑みを浮かべた春那さんが戻って来た。
「今までの人生で一番危なかった」
「スッキリしたでしょ?」
「今までの人生で一番幸せな放尿だった」
「そんな事は言わんでいい!」
戻ってきた春那さんに手枷と足枷を着ける。Mなのは分かったから、嬉しそうにしない。
転がった春那さんに布団を被せて、部屋の電気を消したあと、俺も自分のベッドに転がり込む。
布団の中から顔だけ出して、春那さんが俺をじっと見詰めている。
「こんなにいい女が横で無防備に寝てるのに……」
背中を向けて、聞こえない振りしよう。
しばらく無言が続く。
「……んっ」
何だ、今の声? やけに艶かしい声がしたけれど……。
「……あっ……んっ」
おい、もしかして一人でやってんじゃないだろうな?
声が耳について離れない。
これはヤバい、これはヤバいぞ。
見るに見れないし、どうしよう。
「ーー明人君、ムラムラしてきた?」
「……してません。変な声出すの止めてください」
「ちぇ~」
これはいつものからかっている感じだな。
振り返って見てみると、春那さんが小さく身をフリフリしていた。そういう可愛い仕草は止めてください。
「せっかく私とHができるチャンスなのに」
「自分にはまだ早いんで」
「意気地無し。……じゃあ、明人君のおかずにしてもらおうかな」
春那さんはそう言うと、手枷のついた手で器用にパジャマのボタンを一つ外す。春那さんの最強武器である双丘が大きな谷間を作っていて、これでもかと主張していた。
これは見てはいけない。
くるりと振り返り、春那さんに背中を向ける。
すると、ずりずりと何かの擦る音とともに、近づく音が聞こえる。
「明人君、相手してよ。寂しいじゃないか」
「パジャマのボタン直してください」
「明人君は真面目だな。ところで今更なんだけど、明人君を待っている間に携帯がブブブブ鳴りまくってた。マナーモードにしてる?」
「そういう事は早く言ってくださいよ!」
ムクッと起き上がり、鞄の中の携帯を取り出す。
ずらりと受信と着信履歴が並んでいる。
相手はアリカがメール一件で、その他が美咲から多数送られていた。
アリカはおそらく既に寝ているだろうが、特に切羽詰まった内容ではなかったので、軽く返事を送っておく。
問題は美咲だ。最後の着信から既に一時間近く経過している。
おそらく、昨夜春那さんが俺の部屋で寝たから心配したのだろう。
メールを見てみると。
『春ちゃんのペースに巻き込まれないように』
とか。
『油断したら狩られる』
とか。
『実は喜んでない?』
とか。
『これ見たら連絡して』
とか、俺を心配した美咲からのメールだった。
読んでいくと、段々待ちきれなくなったのか、途中から俺への文句が始まっていき、最後のメールで、『……お仕置き確定』と書かれていた。
今は0時を回ったところで、美咲なら起きている可能性が高い。
見た以上は連絡した方がいいだろう。
美咲に電話をかけてみると、ワンコールしたと思ったら、すぐに出た。
「……明人君遅い」
明らかに不機嫌な声で美咲は言った。
「美咲、ごめん。今、携帯見た」
「……音鳴らなかったの?」
「マナーモードにしてた」
「そっか。んで、春ちゃんは?」
「……今、部屋にいる。ここで寝たいって言い出して」
美咲には嘘を言わないと約束してるので正直に話す。
「明人君、何やってんの?」
「何もしてないって」
「今すぐ春ちゃんを縛り付けて簀巻きに」
「春那さんが自分で手枷と足枷持ってきてたから、それは着けてる」
「……もっかい聞くけど、何やってんの?」
「だから、何もしてないって。同じ部屋で寝てるだけだ」
俺が美咲と話していると、頭の上から春那さんの腕が下りてきて、俺をすっぽり包み込む。
「捕まえた」
手枷は着いたまま、後ろから俺をぎゅうっと抱きしめてくる。春那さんの最強武器が背中に当たっている。そのせいで俺は身動きが取れなくなってしまった。
「今の春ちゃんの声だよね!?」
「捕まった。背中から抱きつかれた」
「春ちゃん駄目! ストップ、ストップ!」
電話越しの美咲の叫び声は、春那さんにも届いたようだ。
「美咲、大丈夫だって。ちょっとつまみ食いするだけだから」
「それが駄目って言ってんでしよ!」
「美咲はケチだな。分かったよ、もう何もしないから」
そう言いながらも、春那さんはまだ俺をホールドしたままだ。
このあと俺は美咲から散々文句を言われ、美咲が帰ってきたらお仕置きされることも確定し、ようやく電話を終えた。
美咲との電話を切るが、春那さんに抱きしめられたままだ。
「……春那さん、このままじゃあ寝れないんですけど」
俺がそう言うと、春那さんは無言のまま、ぐいぐいと俺を引っ張って布団の上まで移動した。更にぐいっと引っ張り込まれ、布団に引きずり込まれる。
「春那さん!?」
「大丈夫、スイッチは入ってないよ。その……ちょっとだけ人肌が恋しいんだ。本当に何もしないから……駄目?」
春那さんにしては珍しいお願い口調。
後ろから抱きつかれているので、表情は見えない。
顔だけ捻って見てみると、普段とは違う春那さんの物欲しそうな表情が見えた。
「……本当に何もしないですよね?」
「誓う。誓うから」
さすがに正面向き合うことは無理なので、春那さんの腕に抱かれるように横になる。これが冬ならまだ良かったのに、ちょっと暑いぞ。
一緒に横になった春那さんは言葉通り、それ以上なにもしてこなかった。
今の俺の状況はというと、春那さんが腕枕してくれているんだが、春那さんの最強武器が後頭部に当たっている。これはこれで気持ちいいんだが、意識から排除できなくて、俺自身寝れそうな気がしない。あと、やっぱり少し暑い。
しばらく無言の時が続く。
「明人君起きてる?」
「この状況で寝れたら自分で大したもんだと思います」
「ふふ、明人君は正直だね。昔は前の男とこうやってくっついて寝てたんだ」
「春那さんって、実は美咲張りに甘えた?」
「地は甘えたなんだよーー私は晃が生まれてから、親に甘えることができなくてね。それは他の人にも同じようになってしまった。前の男は私が唯一甘えることができる相手だったんだよ」
「その人との馴れ初め聞いてもいいですか?」
「寝物語になればいいけどね」
春那さんは小さく息を吐いて語り始めた。
「私は学生時代にクラス委員を六年間務めててね」
「それ中学から高校まで全部?」
「うん、私の場合は自分で立候補してたから。私は仕切るのが好きだったんだよ。それで高校二年生の時に前の男が、男子側の委員になったんだ。あいつの場合、本人の希望でも何でもなくて、委員を決めるときに風邪引いていなかったから、あいつにしちゃえってクラスの男子が決めたのが理由だったけど」
「それ最悪ですね。その人、不満凄かったんじゃないですか?」
「ああ、それはもう酷かったよ。あまりに文句ばかり言うから殴りそうになったこともあるよ。それで同じクラスだった二年と三年一緒にクラス委員をしてたんだ」
「最初は仲悪かったんですか?」
「そうだね、でもそれはあいつが悪い。普段は愛想の欠片もない奴で、何考えてるのか全然分からなかった」
春那さんの口調から察するに、相当無愛想だったようだ。
「自分で言うのも照れ臭いけど、当時の私は異常にモテててね。男女問わずの人気者だったんだよ」
「美咲と晃さんから聞きました」
「だけど、あいつは私のこと全く見向きもしなかった。まあ邪なことを考えてる奴より全然ましだったけど」
中学時代と高校一年生の時は、男子は春那さんに近づく目的で男子のクラス委員になったらしく、事ある毎に口説こうとしてきたらしい。
「それで二年の文化祭のときに、クラスの女子がやらかしちゃってね。危うくクラス崩壊するところだったんだ。詳しくは私も知らないんだけど、好きな相手に振られたらしくて、腹いせにクラスのイベントをおじゃんにしかけた」
「何とかなったんですか?」
「あいつがーー仁があちこち駆けずり回って、何とか無事に終えることができたよ。私でももう無理だと諦めかけてたのに、仁は諦めずに行動したんだ。私はその時に仁のことが好きになったんだ」
春那さんの付き合っていた相手は、仁っていう名前なのか。
「いつから付き合い出したんです?」
「三年のクリスマスからだよ」
「あれ、思ってたよりも時間が過ぎてますね」
「ふふ、まだ私も恋愛に慣れてなかったし、ひたすら隠してたから」
「どっちから言ったんですか?」
「私だよ。もう我慢ができなくてね。……仁は直接言わないと通じない鈍感な奴だったから、はっきり仁が好きだって言った」
「その仁って人、驚いたんじゃないですか?」
「驚いてたよ。でも、そのあとに、普段無愛想なあいつが笑って手を差し出してくれたんだ。よろしくって」
気のせいか、俺の背中への密着度が増えている気がする。
「受験が終わって、仁を追いかけて清和大学に行くことにしたんだ。両親には好きにしろって言われた」
うん、これはやはり気のせいじゃないな。
じわじわとだが密着度が増えている。夏なので暑いから、勘弁してもらっていいですか。
「一緒に暮らし始めて、ほとんど毎日セックスしてた。相性も良かったみたいで、私も満足してた。私ができないときも仁が望むことはしてあげてた」
「そこら辺、オブラートに包んでもらっていいですか?」
「ずっと、仁の傍にいるもんだと、その時は思ってたんだ……」
後ろから、春那さんが俺の肩に頭を置く。
「……明人君、無性にしたくなってきたんだが駄目?」
「……却下で」
「思い出しちゃって、いい感じに濡れてるんだけど」
「わー、わー! 聞こえなーい!」
「ちえっ、何もしない約束だし、悶々しながら我慢するよ」
「……」
相手にすると危険な気がしたので、無言を貫く。
春那さんが頭を離したあと、しばらくして春那さんの寝息が聞こえてきた。
後頭部に当たる枕は最高にいいけれど、俺はとても寝れる気がしなかった。
お読みいただきましてありがとうございます。
次回もよろしくお願いします。