351 春那狂騒曲1
火曜日。
今日は美咲たちが実家に帰省する日。
日課となった春那さんとのランニングを終える。今日も天気が良くて清々しい。
着替えようと美咲の部屋の前を通ると中から晃の声が聞こえた。
「美咲~朝だよ~起きて~」
どうやら美咲を起こすのにファーストアタックを仕掛けているようだ。
今日は少し遅めだな。
コンコンと扉をノック。
「明人君? 入ってきていいよ」
晃の返事を聞いて部屋へと入ると、今日は美咲が卵状態にならず、比較的まともな寝相でベッドで丸まっていた。
「おはようございます。今日はどっちです?」
「今日は拒否じゃなくて無反応」
「あ~マジっすか?」
美咲の起床パターンは大きく二つに分かれる。
一つは比較的早く反応するが、起こした相手が晃だと気づいた場合、意地になって起きようとしない拒否。美咲の中で起こすのは俺だと決まっているようで、晃だと絶対に起きようとせず二度寝する。ちなみに卵もこちらから発展することが多い。
そしてもう一つのパターンは無反応、卵より性質が悪い。何をやっても起きやしないのだ。
突いても、頭をわしゃわしゃしても、こちょばしても、声を掛けても反応が返ってこない。
時間だけを無駄に消費する。
普段はあまり発生しないのだが、たまにこのパターンが発生する。
このパターンの時は、晃は俺が呼びに来るまで挑戦し続けるのが大抵だ。
最近の晃は拒否だった場合は諦めるのが早くなった。すぐさま俺を呼びに来て交代する。
そのあとは美咲が起きる時間を見計らって、部屋へと戻ってきて俺の次にハグしようとする。
毎日繰り返しているのだからそうなるよな。
晃が美咲に近づいて瞼をくいっと指で広げる。
「うん、やっぱりか」
今ので何が分かるんだ?
「何を見たんです?」
「眼球運動。レムかノンレムか見てみたの」
それって睡眠状態のことだよな。
確か深い方がノンレムで、眠りの浅い方がレム。この状態の時に夢を見ると聞いたことがある。
ちょっと興味がわく内容だったので晃に続きを聞いてみた。
「寝てる時って眼球運動してることがあって、眼球を動かす信号が脳から出てる状態がレムなんだって。百聞は一見に如かず――見てごらん」
晃はまた、くいっと美咲の瞼を持ち上げる。
美咲の焦点のあっていない眼球が見え、確かに動いているようには見えない。
「レムだったら?」
「眼球がびこびこ動いたりして気持ち悪いよ。何でこんな動きしてるんだろうって思うくらい、上下左右に動いてる時あるし」
「ちなみに誰で調べた?」
「美咲に決まってるじゃない」
今度、俺も試そう。
面白い話は聞けたけれど、起こしても無反応な時の美咲は厄介だ。
このパターンで起こした時に、ほとんどと言っていいほどあることが起こる。
美咲のひどい寝ぼけだ。
延々と起こし続けているうちに、美咲も目が開くのだが、起きた時はものすごくぼーっとしている。
理解不能な謎の言葉を発したり、いきなり俺の手を掴んでもみもみし始めたり、謎の行動をとる。
晃曰く、美咲が無茶苦茶可愛いと思えるパターンの一つでもあるらしい。
徐々に覚醒していくのだけれど、その間の行動は美咲自身もあまり覚えていないらしい。
今日の美咲は、反応したと思ったらむくっと起き上がり、何故か自分のパジャマのボタンを外そうとし始めた。サービスタイムきたと思ったら、晃に首根っこを掴まれ部屋から追い出された。
ずるい!
自分だけ見ようと思ってるだろ!
ふと我に返り何を考えているんだと自省にたどり着く。
美咲相手にそういうこと考えたら駄目だ。
暫く待っていると、タオルで顔を押さえた晃が部屋から出てきた。
タオルには血が着いていて、どうやら鼻血が出てるらしい。
「へへ、へへっ、美咲の生おっぱい見れた」
とても嬉しそうな変態だった。
しかし、今の話を聞く限り、美咲がパジャマを脱ぐのを止めずに見ていたということか。
あとで春那さんに密告して説教してもらおう。
晃と入れ替わりで部屋に入ると、ちゃんとパジャマを整えられた美咲が俺に両手を伸ばして座っている。ゆらゆらした状態で意識はまだ完全に覚醒していないようだ。
「美咲、起きたか?」
「……うん、明人君……ハグ」
ここからいつものパターンで、抱き着いてきて額をぐりぐりと俺の胸に擦り付ける。
まだ少しばかり寝ぼけているようで動きは緩慢だ。
「明人君もハグ……よしよしも」
「はいはい」
恒例のハグも終わり、ようやく美咲を起こし終え、順番を待っていた晃に美咲を渡す。
晃は鼻にティッシュを詰めてるけど、ちゃんと鼻血は止まってんのか?
晃と美咲のハグも終わり、揃ってリビングに行くと、テーブルに突っ伏して飢えに耐えていた文さんがいた。意外と時間がかかってしまったようだ。遅れてすいません。
みんなで揃って朝食を済ませ予定を言い合う。文さんと美咲、晃は故郷へと3日間帰る。
3人は文さんの車で一緒に家を出て、美咲と晃は文さんの道程にある駅で降ろしてもらう予定だ。そこから電車で実家まで移動するらしい。この方法だと、かなり時間と距離を短縮できるらしく、晃と美咲も交通費が浮いたと喜んでいた。帰りも時間を合わせて、文さんが美咲たちを拾って帰ってくる予定だそうだ。
少し残念なのは、文さんが帰省するのにルーとクロも連れていくことだった。
文さんの両親も猫好きで連れて帰る約束をしているそうだ。
猫がいない生活は寂しくなるな。
帰省準備が整い、皆の荷物を文さんの車に乗せて、駐車場で春那さんと一緒に見送り。
運転席の文さんからちょいちょいと俺だけ呼ばれる。
「明人君、分かってると思うけど。危険を察知したら逃げるんだよ。何のことか分かってるよね?」
「分かってますって。万が一あの人のスイッチが入りそうになったら、外に避難するか、部屋の鍵を締めて閉じこもりますよ」
文さんに言われたものの、春那さんと二人きりの時って意外とスイッチ入らないんだよな。
俺も警戒しているけれど、春那さんも自制しているのだと思う。
周りにいる文さんや美咲が止めると分かってるからこそ、性の衝動を開放しているような気がするのだ。
最近では春那さんなりのストレス発散なのじゃないだろうかとさえ思う。
後ろでは美咲が「しばしのお別れ」と言いながら、春那さんに抱き着いている。
春那さんもぎゅうっと抱き返すが、途中から美咲の手が宙を彷徨いだした。
どうやら凶器は健在のようで、美咲は軽く窒息しているらしい。
何をやってるんだか。
開放されてぜーはー言ってた美咲が晃と後部座席に乗車
中から手を振ってきたので、俺と春那さんも手を振り返す。
「じゃあ、木曜日の夜には帰ってくるからね」
美咲と晃を乗せて、文さんの車が出発した。遠くになるにつれ段々と車が小さくなっていく。
春那さんと二人で車が見えなくなるまで見送っていた。
「行っちゃったね」
「まあ明後日には帰ってきますから。春那さんも休暇なんでしょ。どこか行く予定でもあるんですか」
「予定? 美咲が帰ってくるまで明人君を堪能する予定」
「ん?」
俺の耳がおかしくなったらしい。
「待ったよ。今日という日をずっと待ってたよ」
「春那さん?」
「明人君と二人きりになる日を、誰にも絶対邪魔されない日が来るのをずっと待ってたんだ」
「春那さん、ちょっと待とうか」
「美咲の手前ずっと遠慮してたんだ。皆が帰ってくるまで明人君を独占させてもらう」
「春那さん、もしかして既にスイッチ入ってる?」
「入ってない!」
顔をブルブルと振って答える春那さん。可愛く言えばいいってもんじゃねえ。
だが、いつもみたいに目がトロンとしているわけでもない。
目の前にいるのは正常な状態の春那さんだ、いや、この感じは慰安旅行の時と同じ感じか?。
もしかして、ふざけてからかってるのか?
「春那さん、冗談はともかく家に入ろう」
「うん」
春那さんは満面な笑みを浮かべて頷いた。
家に入ってくつろごうとすると、何故か俺の近くに春那さんが寄ってくる。
美咲みたいにべったりとまではいかないが、すぐ手の届く範囲にいようとする。
テーブルに座ったら、真正面に座って俺の顔をじっと見てくる。
ソファーに座ったら、俺の隣に座る。まるでかまってちゃん状態の美咲みたいな行動だ。
そんな春那さんに一言。
「何ですか。さっきから一体」
「明人君を堪能中。何ならハグするかい?」
「いや、いいです」
俺はどうやら春那さんという人物を見誤っていたらしい。
美咲が甘えたなので春那さんも大変だなと思い込んでいたが、実は同類だったとは。
美咲と気が合うのは、そのせいからかもしれない。
晃がいない時の美咲は、事あることに俺にくっついてきていた。
美咲には慣れているけれど、春那さんにはまだ免疫がない。
くっつかれるだけで確実にドキドキしてしまう。
これは試されてるのか、いつもみたいにからかっているのか、とてもじゃないが慣れる自信がない。
✫
バイトに行く時間になり、バイクで出発。
幸いなことに春那さんのスイッチは入らず、美咲みたいに密着してくることはなかったけれど、微妙な距離感を保たれて精神的に疲れた。
今日から3日間、美咲の代わりに俺が昼からの勤務になる。
夕方までは一人だが、途中でアリカが助っ人で入る予定。
アリカは3時頃まで学校で文化祭に向けて作業しているので夕方から勤務だ。
店長と二人で開店準備を済ませ、一人で店番。
閑古鳥の鳴く店で掃除をしたり、棚を片づけてみたりしてみたけれど、あまり時間稼ぎにならなかった。
あまりに客が来なさ過ぎて、念のために持ってきた夏休みの課題を進めることにした。
小一時間ほど課題を進めるが、客が来ないことに不安を覚える。
チラチラと出入り口に顔を向けてみても人影は見当たらない。
「本当に客が来ないな。覗きにすら来ないなんて……この店本当に潰れないのか?」
バイトを始めてから3時間が経過。
ようやく一人目の客が来店した。
見た目は若く、社会人だろうと思えるような顔つきの男だった。
その男は冷蔵庫と洗濯機、小型のテレビを購入し、配達と設置についても注文していった。
その男性客が帰ると、店内には静寂な空気がまた戻ってきた。
たまに店長が来てくれるとはいえ、これは寂しいぞ。
早くアリカこないかな。
美咲はいつもこんな感じで俺を待っていたのだろうか。
夕方になり、しばらくしてアリカが到着。
遅いよ。もっと早く来いよ。寂しかったじゃねえか。
「明人おまたせ~。一人で退屈だったでしょ?」
エプロン姿で現れたアリカは、なんだか随分とご機嫌だった。
今日も外見を幼さ全開できやがったな?
どう見ても同い年齢に見えねえぞ。
「明人、嬉しそうな顔してるけど――何かあった?」
「え?」
いかん。待ちに待ったアリカが来たから表情に出たっぽい。
さすがに寂しかったからとは言いたくない。
とりあえず誤魔化す。
「いや、特にはないんだけど」
「あ、そうか――バイク乗ってきたからでしょ? あの裏に置いてあったバイクが明人のだよね?」
アリカは大きく左右に振って、少し興奮気味に聞いてくる。
ところで、頭を振った勢いでツインテールからヒュンヒュン音がしてるんだけど、鞭をイメージしてしまうので怖いから止めてください。
「見た? そうそう、あれが俺のバイク」
「マジで羨ましいんだけど!」
それからアリカは帰りに少し運転させろだ、自分は免許を取って一年経ってるから後ろに乗せれるとか、俺のバイクに乗りたいアピールが続いた。
アリカは免許を持っているので乗せるのは構わないんだが、家に返すのが遅くなっても親が心配するだろう。特にアリカのお父さんは心配性だ。やはり娘が可愛いのだろう。どうしたものか。
ふと、ある考えが浮かぶ。
「――そうか。今日はお前と一緒に帰ればいいんだ」
「へ?」
「一緒に帰って、帰り道にバイク交換して少し乗ってみればいいじゃん。また途中で交換してそれから家まで送って、家に着くのを見届けてから俺が帰るっていうのがいいな。あー……それだと愛に顔出さねえとうるさいかな……お父さんも挨拶しないと何か言いそうな気もするしな」
目の前のアリカが顔から耳から肌が見えてる部分が全部真っ赤っかになって、指先をちょんちょんとしている。どうやら男慣れしていないせいか、一緒に帰るってところで恥ずかしさが出たのだろう。
「アリカはどう思う?」
聞くけれどアリカは目をキョドキョドさせて落ち着きがない。
必死になって自分のツインテールをぎゅっと握りしめている。
チラチラと俺を見ようとするけれど、視線が合いそうになると目を伏せる。
逡巡してアリカは上目遣いにか細い声を上げる。
「明人はそれでも……いいの?」
「お前がいいならそうするつもりだ。ところで、顔から何から真っ赤っかだぞ?」
「みっ、見るな!」
「うーん、お前可愛いな。今なら美咲の気持ちが分かる気がする」
「あ、あんた最近ちょっと言動がおかしいわよ!」
あまりからかい過ぎると、怒りのアリカさんが降臨するのでほどほどにしておく。
それからアリカが落ち着いたところで、文化祭の準備状況を聞いてみた。
途端にアリカは少しばかりしょぼくれた顔をした。
「クラスの方は人数がいるから何とかなってるけど、ロボ研の方が……」
どうやら、二人しかいないのでスケジュール通りには進んでいないらしい。
色を識別できるセンサーを搭載した自走ロボットというのが、アリカのいるロボ研が挑戦しているものだ。
特定の色――たとえば赤を感知したなら止まる、青なら進むといったものらしい。
アリカは嫌なことでも思い出したのか、苦い物でも食ったような顔をする。
「自走は問題なく終わってるんだけど、肝心要の色の識別でこっちが想定した動作をしてくれないのよ」
「失敗してたってことか。その場合どうするんだ?」
「設計からやり直し。自走モーターに流れる電気の制御ができてないんだろうって、前島さんには言われたわ。部長にそれを言ったら、リレー回路周りを再構築中よ」
「リレー回路?」
「電気を受け取ったらスイッチを切り替えて電気の流れる方向を切り替えるものよ。バトンリレーとか線路の切り替えとかをイメージしてもらえばいいわ。バトンを受け取ったら走ったり、違う道に電車が行ったりするでしょ。組み合わせると色々複雑なパターンの動作が可能になるの」
なんだか簡単そうで難しそうな話だった。
「回路の図設計とか本当に頭痛がするわよ。あたしは苦手だもん。うちの部長は回路の設計図書くの大好きで、いつもニヤニヤしながら書いてるけど、あたしには理解できない」
部長は同じ学年だがクラスは違うらしく、部活だけの付き合いだとアリカは言う。
「同じ学年の他の女子とは?」
「部長とあたし以外に二年生は二人女子がいるけど、その子たちと全くと言っていいほど交流ないのよね。上級生と下級生相手の方がまだ会話が多いわ。あたしの性格がきついせいだろうなって自分で思うけど」
「そうか? 俺も最初はそう思ったけど、今じゃ全くそう思わないぞ?」
「それはあんたがあたしに慣れたからでしょ」
自分で言うのもなんだが、俺が慣れるんだから他の人も慣れると思うぞ?
お読みいただきましてありがとうございます。
次回もよろしくお願いします。