32 看板娘と密約7
「ねえ、明人君。裏屋どうだった?」
美咲さんは口を開いたかと思うと、真剣な表情で俺を見つめてきた。
「そうですねー。まだやってないから一概には言えないですけど、面白そうだとは思いましたよ」
「……そうなんだ」
少し気落ちした表情で俯きながら小さく呟く。
「どうしたんです?」
「私のときは、こういうの無かったから羨ましいのもあるんだけど……」
「けど? 他にもあるんですか?」
「うー、あー、なんて言うか、その、私も一緒に行きたかったって言うか……」
ああ、なるほど、一人でお留守番状態だったのが寂しかったのか。
「そうですねー。美咲さんも一緒に行ってたら、俺ももっと楽しかったでしょうね」
「……ふえ?」
俺の一言に、何故か美咲さんは硬直した。
「どうしたんですか? 顔赤いですよ?」
「あー、何でもない、何でもない」
美咲さんは手をぶんぶんと振って誤魔化したけど、俺変な言い方したっけ?
「そういえば、明人君、明日来ないんだよね」
「明日はお昼から夜の九時までファミレスでバイトですね。まあ、これで最後なんですけど」
「明日は退屈しそうだな……」
「店長はアリカにも手伝わせるって言ってたから、話し相手になるんじゃないですか?」
そう言うと美咲さんの足がぴたっと止まった。俺をじろりと睨んできて口を尖らせる。
「え? なんか今、俺悪いこと言いました?」
「また言った……」
「へ? な、何が?」
「アリカちゃんのこと、また『アリカ』って呼び捨てで言った……。これで三回目」
「はい?」
え、そこなの? 三回目? 意識して無いから覚えてないけど、いつの話のときだ?
「明人君は普段、アリカちゃんのこと『あいつ』とか『お前』って呼んでる。私には『さん』付けなのに、何でアリカちゃんは呼び捨てで言うの?」
「えーと、一応、美咲さんはバイトの先輩で年上だし、あいつは同じ高二だからなんですけど?」
美咲さんは頬を膨らまして不貞腐れた顔になり、俺の袖をぎゅっと握り、
「私も呼び捨てがいい」
「それ無理があるから!」
俺は歩みを止めていた足を動かして、この話題を止めようと試みた。しかし、美咲さんは、俺の袖から手を離さないように追随し、この話題を止めなかった。
「やだ。私も呼び捨てがいい!」
「目上の人にそれはよくないと思います」
「本人がいいって言ってるんだから、いいじゃない」
「だから…………」
どうしようか、この駄々っ子動物の対処に困ったぞ。
このままだと家に着くまでずっと続きそうだ。うーん、どうしたものか……。
「んじゃ、ここはちょっとお互い妥協しましょうか」
俺はあることを思いつき、提案してみることにした。
「妥協?」
美咲さんはきょとんとした顔でおれを見つめてくる。
「例えば、今みたいに二人だけの時は美咲さんの希望通り『美咲』って呼びますけど、他に誰かいるときは今まで通りの呼び方で呼ぶってのはどうですか?」
美咲と言った時に嬉しかったのか、美咲さんの顔が一瞬綻んだ。
「これが俺にできる最大の譲歩ですからね?」
「……分かった。普段も突っ込みの時みたいに敬語じゃなくていいんだよ?」
「そこは臨機応変ってことで。タメ口すぎるのはよくないと思いますから」
「……うん。分かった。明人君が譲歩してくれたから、そこは我慢する。じゃあ成立ね。では早速、はい」
俺の袖口をつかんでいた手を離し、俺に差し出してくる。
成立の握手でもしたいのか?
俺が手を握り返そうとすると、
「違う違う。名前呼んで? はいどうぞ」
「う、いきなりですか? ちょっと時間下さいよ」
「さっき一回言ったじゃない。呼んで」
えーい、やけだ。あ、『みみさき』にならないように言わないとな。
「……美咲。これでいい?」
「うん! んふふ、やった、やった。」
満面の笑みを浮かべて、ぴょんぴょんと飛んで喜んでいる。
「人前では今まで通りですからね。それは覚えといて下さいよ?」
「うん、分かった。明人君との約束は守るよ」
「あれ? 美咲さ、いや、美咲は明人って呼ばないの?」
「えー無理無理! そんなの恥ずかしくて無理!」
「おい、ちょっと待て! それおかしくないか?」
「おかしくないもーん」
そう言って俺の横から逃げるように小走りに駆け出す。少し距離が開いたところでくるりと振り返り、月と電灯の光に照らされてか、やけに眩しい笑顔を俺に向ける。
「明人君は本当にいい子だねー。私が想像してた通りの子だよー」
そんな笑顔で言われたら何も言えないじゃないか。
家の前に着くまでの"美咲"は、ご機嫌で、機会があるごとに名前を呼ばされた。
今日は部屋の明かりが点いておらず、春那さんはまだ帰ってきていないようだ。
週末だというのに忙しいのだろうか。
「まだ、春那さん帰ってないみたいですね」
「そんなに遅くならないと思うよ。いつもありがとね。おやすみなさい」
「お礼はいらないって言ったでしょ。おやすみなさい」
いつもなら、ここで直ぐに家に入る美咲なのに、今日は何故か動かない。
「どうしました?」
「最後にもう一回名前呼んでほしい……」
照れくさそうに俯いて呟いた。もう何度か言わされた後だったので、仕方ないなと思いつつ、少し慣れつつあった俺は、この駄々っ子動物のおねだりに応じることにした。
「おやすみ、美咲」
言った途端、美咲はくわっと目を見開いて俺を睨みつけると、
「今、みみさきって言った?」
「言ってねぇし! そこ普通繋げないだろ!」
台無しだよ。すんごい残念だよ。すんごい格好よく決めたつもりだったのに。どんだけトラウマ持ってんだよ?
「ごめんごめん。もう一回お願い」
「もうやだ」
「えー、もう一回だけ! 変な受け取り方しないから」
不意に、俺は明日会えない事を思い出した。どうせなら……。
「……明日ファミレスのバイト九時くらいに終わるんで、その後、店に行きますから」
「へ? 何で?」
美咲は目を丸くして驚いた。
「帰り道、一人だと危ないから送ります」
「えー、いいよ。明人君遠回りになっちゃうでしょ?」
「仕事の後、挨拶してから行けばちょうどいい時間位だし、俺がそうしたいから行くつもりですけど、美咲さ、美咲は嫌?」
「嫌じゃない……どっちかって言うと嬉しい」
俯きながらぼそぼそと呟く。
「んじゃ決定。それじゃあ美咲、また明日。おやすみなさい」
「うん。おやすみなさい」
美咲は満面の笑みを浮かべたまま、部屋へ向かった。いつものように少し時間を空けて美咲の部屋の窓を見ると、美咲が小さく手を振っていた。俺は手を振って答え自分の家への帰路へと足を進めた。
一人になって、急に恥ずかしくなってきた。自分で決めたとはいえ、年上の女性を呼び捨てだなんて、でも、美咲の喜んだ顔を思い浮かべると、なんだかどうでもよくなってくる。すごく嬉しそうだった。
こんな俺でも喜んでくれる人がいると思うと、それだけで救われるような気がした。
いつも帰路の時は、陰鬱な空気が俺を包んできていたけど、今日はなんだか温かい何かが俺を包んでいて、その温かいものが何か分からないまま、帰路を進んでいく。
ずっとこのまま包まれていたいと思うほど、それは優しく温かいものだった。
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