2 少年A 2
我が家の玄関を開けると、リビングからチカチカと光が漏れている。
「……ただいま」
………………
相変わらず、返事の返ってこない我が家。いい加減諦められればいいのに、いつも『ただいま』と言ってしまう自分がいる。リビングを覗くこともせず、そのまま二階の自分の部屋へ向かう。
部屋に入って脱いだ制服をハンガーにかけて、壁際にあるフックに吊るす。床に荷物を放り投げる。後で片付ければいいだろう。とりあえずはシャワーを浴びて、体の汚れを落とすことを優先しよう。
階段を降りたところで、さっきまで閉まっていたリビングの扉が開いている。
「あんた帰ってきてたの?」
リビングの扉前を通り抜けようとしたとき、テレビを見ながら化粧を落としている母親が珍しく声をかけてきた。
「ああ、さっき帰ってきた……」
答えるのも億劫だ。気まぐれに声をかけるのはやめてくれ。
「ふ~ん? 気付かなかったわ」
俺になど興味がないといった声で母親は返した。
改めて気づかなかったという必要はあったのか?
それなら何故リビングの扉開けたんだよ。わざとらしい。
「風呂入る」
言ったものの、返ってくる言葉は無いだろう。
「…………」
案の定、母親から何も言葉は返ってこなかった。
もう、この生活には随分と慣れてしまった。それでも心へのダメージは慣れるものではない。
俺の両親は共に公務員。親父はいわゆるエリートらしく、この家を購入後、単身赴任の繰り返しだ。母親もエリートだったらしいが、結婚と出産で出世競争から外れたようだ。それでも、それなりの地位にはあるらしい。
俺は今まで着ていた下着や、Tシャツを脱ぎ、カゴに入れシャワーを浴びた。シャワーを浴びた後、脱いだ衣類を洗濯機に入れ、スイッチを入れる。洗濯機が回り始めたのを確認すると、キッチンに向かった。
リビングにはまだ母親がいるが、俺には目もくれない。まあいい、いつものことだ。俺も声をかけることがない。親子の会話など俺たちの間にあるほうが珍しいのだから。
冷蔵庫の中から、適当に食材を選んで、今日の晩飯を作りはじめる。俺が料理を作りはじめても母親は見向きもしない。それでいい。そうやって俺を無視していてくれ。
適当な晩飯を食った後、使った器具や食器を片付けていたら、洗濯終了のメロディーが聞こえてきた。
母親は、俺が飯を作っている間に、いつのまにかリビングからいなくなっていた。多分、今日は自分の部屋から俺の前に戻って来ることは無いだろう。
食事が終わって、後片付けをして自分の部屋へ戻った。時計を見ると、ちょうど長針と短針が重なり合う零時。学校の課題をやった後、少しだけネットの海を泳いでから眠りにつく。こんな毎日を高校に入ってから繰り返していた。
こんな毎日から俺は逃げたかった。
俺は親に捨てられた。正確に言えば、捨てられてはいない。形の上では一緒に住んでいる。衣食住と学校は与えられている。ただし、それ以外の接触は基本ない。
衣食住と学校が与えられているなら、十分じゃないかという人もいるだろう。親に干渉されたくないっていう甘えた奴は、逆に幸せだと思う。一緒にいるのに、扱いがほぼ空気よりましだ。まだ母親は、さっきみたいに俺に声をかけるときもある。単身赴任の父親には声すらもかけられないが。
今の俺は、親の立場や、面子のためだけに飼われていると最近思うようになった。
今の生活のきっかけとなったのは、俺が高校受験に失敗したからだ。
勉強は嫌いじゃなかったから、中学で上位でいられた。運動神経も悪くなかったから、人並に十分できた。親が指定した高校に大きなミスさえしなければ、十分に合格できたはずだった。
だけど、俺は親の指定する高校に合格できなかった。
☆
人の人生は些細なことで大きく狂う。
俺は受験の日、バスと電車で受験会場に向かった。受験する学校は県内でも有数な進学校でT大の合格者も毎年排出している。自分でも十分合格する自信があったが、いよいよ本番だと思うと、緊張するのは仕方がなかった。頭の中でリラックスしよう、落ち着こうと言い聞かせていた。
ホームに降りると駅は混雑していて、サラリーマンが戦場に赴くかのように無表情でいた。サラリーマン達は、それぞれに何かを抱えて、無表情のまま群れをなしている。当時の俺には、何故かその無表情が怖かった。
この駅は路線の集合している駅のため、普段から混雑している。試験会場でもある学校の駅までの路線に乗り換え、人混みの多さに嫌気をさしながら我慢して乗っていた。次の駅に着いた時、また乗車してくる人が増えた。我慢、我慢と踏ん張っていると、鼻腔に強烈な匂いが流れてくる。周りを見ると、周りの人達も顔をしかめていた。
――香水だ。
……どこのブランド香水か銘柄なんて知らないが、やたらと鼻について臭かった。誰がその香水を身にまとっているのか、俺には分からなかったが余りにも臭い。
俺はだんだんとその匂いに耐えられなくなり、息が苦しくなってきた。鼻で息をすることを止め、口で呼吸しながら我慢していたが、慣れない電車と人混みに段々と気分が悪くなり、目的地に着いた時にトイレで吐いた。途中、何度も何度も吐き気が治まらず、試験会場に着いたのも時間ぎりぎりだった。
試験が始まり、俺は集中出来なかった。体に染み付いた匂いのせいだった。移り香が微かに服に残っていて、その匂いが鼻につく度にまた吐きそうになった。
試験官の先生から何度か『大丈夫か?』と聞かれたのも、他の人から見ても顔が蒼白だったのだろう。
そして試験は終わり、結果は不合格だった。
たった、あれだけの事が俺の人生を大きく変えた。
両親は不合格と聞いて俺を罵倒し、言い訳は見苦しいと聞いて貰えなかった。その後、俺は希望もしていなかった公立高に進学することになった。親の面子を守るためだけに、高校生という名のマントが被らされた。
その後、父親は俺が傍にいるのに俺を見なくなってしまった。言葉をかけてくることも無い。まるで透明人間のように、そこに俺がいないように扱われた。母親は俺の事を駄目な人間だ、失敗した人間だと言い、そのうち俺を相手にしなくなっていった。
家に居たくない、早く家から出たい、それが俺の願いだ。進学するにしても期待できない、資金がいる。ここから飛び出すためには、何かを持たなければと考えた答えが知識と経験だ。
バイトをすれば社会を目の当たりにできる。社会勉強にはなるはずだ。それに金を貯めておけば、困った時には助かるはず。ここから抜け出そう。この環境から抜け出すことを目標にしよう。
まずはバイト探しからだ。
こうして高校入学後、俺のバイト生活が始まった。
お読みいただきましてありがとうございます。
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