287 明るい家族計画2
美咲の家で夕食をご馳走になって少ししてから帰宅した。
本居先生は随分と俺を引き留めようとしたが、そこは遠慮させてもらった。
まだ九時も回っていない。
本音で言うならもう少し美咲の家で時間を潰しておきたかった。
家に着いたあと、父親に電話してみた。
珍しくすぐに繋がり、母親との離婚が成立したことを知らされた。
坂本先生たちから聞いていたことだったけれど、やはりショックだった。
父親は本居先生の話にも触れたが、何を話したかあまり覚えていない。
電話を切ったあと、俺の悪い癖が表に出てくる。
美咲の家では賑やかだっただけにその反動がもろにきたようだ。
もういい加減に慣れなきゃ駄目だ。
母親の部屋を開けてみる。
いつからこうだったのか、母親の部屋には物が何もなかった。
置いてあったはずのベッドも、クローゼットの中もがらんどう。
最初から何もなかったかのように、カーテンだけが残されていた。
俺の知らない間に新しい住居へと引っ越ししていたのだろう。
そんなことも気が付かなかったなんて、俺はどうかしている。
母親がいてもいなくても同じだったじゃないか。
これまで誰もいないのと同じだったじゃないか。
なのに何でこんなに陰鬱な気分がのしかかるのか。
もしかして、俺はどこかで母親がここにいるという安堵感を得ていたのだろうか。
ここに帰ってくるのは、母親という存在があったからではないだろうか。
諦めたつもりだったのは、自分自身に嘘をついていたからかもしれない。
俺は諦めてなかったんだ。
いつか母親が前と同じように接してくれる日が来る。
そう、心の奥底で願い続けていたんだと思う。
だから、俺はこの家に帰ってきていたんだと。
俺の行動と態度は矛盾している。
その結果が、今の結果に繋がっている。
父親から母親が親権を放棄したと聞かされたとき、頭の中は疑問しか浮かばなかった。
何で?
子供を、俺を捨てるのか?
俺と過ごした時間は母親にとってどうでもよかったのか?
俺には母親が抱き上げてくれた思い出がある。
小学校の時にテストで満点を取ったときに喜んでくれた顔を覚えてる。
運動会の親子リレーで運動音痴な母親が俺と一緒に二人三脚でこけながら完走したことも覚えてる。
父親が単身赴任を繰り返していても、女一人で俺を一生懸命に育ててくれたことも知ってる。
休みで帰ってくる父親にまとわりついて母さんの頑張っていたことを話した記憶もある。
そんな思い出が母さんの中にもあると最後の最後まで捨てきれなかった。
俺は結局――忌み嫌われていたとしても母さんが大好きだった。
期待はされていたのだろう。
当時の俺の学力なら、不合格になるのは考えにくかった。
だからこそ、母親は俺にあの高校を薦めたのだと思う。
もし合格していたら、こんなことにはならなかったんじゃないか。
親の期待に応えていたら、離婚なんてことにならなかったんじゃないか。
俺が母親に捨てられるということもなかったんじゃないか。
全てのきっかけは俺の受験失敗なんじゃないかと。
やり直せるチャンスはあっただろう。
どうすればいいかも分からず、最後に拗ねて意地を張ったのは俺だ。
もしかしたら、母親も俺との関係を修復しようと試みていたのかもしれない。
気まぐれに声を掛けてきたのも、実はそう思って話しかけていたのかもしれない。
冷蔵庫の中に食料が買ってあったのも、今思えばその証拠だったのかもしれない。
父親と同じように誤解さえ解ければ、和解ができたんじゃないかと。
今更こんなこと考えても時間は戻らない。
両親の離婚は成立してしまったのだ。
母親はもう家に戻ってこないのだ。
弱い。本当に弱い。情けない。
こんな自分が嫌になる。――風呂でも入って気分転換しよう。
風呂から上がっても気分は晴れなかった。
それどころか、ますます自分を覆う嫌な空気に支配されそうだ。
一人の時間は嫌いだ。嫌なことばかり考えてしまう。
まだ10時前。今日は時間のたつのが遅い。
こういう時に限って学校の課題も何もない。
家のチャイムが鳴る。
こんな時間に訪問者だなんて一体、誰だ?
俺の脳裏に母親の姿が浮かぶ。
離婚が成立し、最後の挨拶にでも来たのかと。
玄関に急いで行って、扉を開けるとそこにいたのは美咲だった。
美咲は俺の顔を見るなり少し驚く。
「美咲?」
「明人君、あの、ごめんね。急に」
「どうしたの?」
美咲は苦笑いを浮かべながらうちの駐車場を指差す。
白い大きなワンボックスカーが春那さんの誘導で進入しているところだった。
「文さんが明人君の家に行くから案内しろって言い出して……」
「何で?」
「……うん。それより何か血相変えて出てきたけど、何かあったの?」
ああ、だから俺が出てきたときに驚いた顔をしたのか。
「え、いや」
誤魔化したけれど、美咲は気にしている。
母親だと思ってしまったなんて言えない。
車を駐車場に入れ、大きな籠を持った本居先生と小さなキャリーバックを持った春那さんが近づいてくる。
「やあ、明人君。急遽遊びにきたよー。ああ、安心してくれたまえ。ルーたんとクロちゃんも連れてきた」
「明人君すまないね。文先輩が今日は明人君の家に乱入するぞーって言い出して。この人言い出したら聞かないから」
「お邪魔させてもらってもいいかな? できれば一晩の宿もお願いしたい。ちなみに寝るところは心配しなくていい。床さえあれば私はどこでも寝れる。春那も同じタイプだから気にしなくていいよ」
呆気にとられた俺だが、「どうぞ」と促すと本居先生と春那さんは「お邪魔します」と言って入っていく。
「春ちゃん右がリビングね」
「はいはい。さすがに一緒に住んでただけあるね」
「美咲。これどういうことかな? 遊びに来るのは構わないんだけど、わざわざ泊まりに来るだなんて」
「何だか知らないけど、文さんが今日は明人君を一人にしちゃ駄目なんだって」
え?
本居先生は俺のことを気にして駆けつけてくれたのか?
だから俺が家に帰ろうとしたとき、あんなに引き留めてたのか?
やばい。頬に熱いものが流れるのを感じた。
「明人君、どうしたの? やっぱり、何かあったんでしょ?」
堪えてたものが止まらなくなる。
「……今日さ、親の離婚が……正式に成立したんだ。さっき父さんからその話を聞いた……。分かってたんだけどさ。そのために母親はこの家を出て行ったんだし、この日が来るのは分かってたんだけどさ。……でも、やっぱり嫌なんだ。父さんは俺のせいじゃないって言ったけど……俺が、……俺が拗ねて期待とか、家族を裏切った結果が、こんなことになったんじゃないかって」
美咲は優しく俺を包み込む。
「駄目だよ。自分を責めちゃ駄目。明人君が辛い気持ちなのは分かるよ。私にはこんなことしかしてあげられないけど。何て言っていいか分からないけど……今日は私がいるよ。だから安心して」
「――泣きなさい。たっぷり泣きなさい」
リビングに荷物を置いて出てきた本居先生が腕を組んで言い放つ。
「君は悲しいと思えるから泣くんでしょ? だったら泣きなさい。泣いて泣いて、涙が止まったら今度は君がどうしていくか考えなさい。その悲しみの中から拾える何かがある。君は悲しみを知ってまた成長する。君はちゃんと成長している。会って間もない私が言うのも何だけど、ここにいる二人がそれを証明している。君のために私の我儘に付き合うんだから」
「……はい。うぐっ、ううっ」
もう、抑えることができなかった。
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