263 変わる距離2
様子を見に来た店長に助けられ、美咲のベアハッグから逃れられた。
首じゃないから落ちる心配はなかったけれど、苦しいものは苦しい。
「本当に二人は仲がいいね~」
と、店長はいつもの薄ら笑いを浮かべて言うけれど、ベアハッグされてた俺の姿を見ましたよね?
店長はカウンターの上に置いてある答案用紙に目を移す。
「――おや? これは……明人君のかい?」
「そうです。今日4科目返ってきたんで、美咲さんに見せてたんですよ」
店長は順番に答案用紙を見ていき、ふんふんと頷く。
「いい感じだね~。これだったら明人君は心配ないかな~。でも、油断したら駄目だよ? 勉強が足りないなと感じるときは休んでいいんだからね?」
「はい。ありがとうございます。その時は遠慮なく休ませてもらいます」
店長はうんうんと頷く。
「さっき、オーナーから駅に着いたって連絡があったから、もう少ししたら来ると思うよ~。春那君も一緒だよ」
その言葉を聞いて美咲は嬉しそうな顔をする。
「来たらこっちにも顔を出してもらうね~。じゃあ、こっちよろしく~」
そう言って店長は裏屋へと戻っていった。
仕事でオーナーの付き添いとはいえ、春那さんも大変だよな。
あの美貌にあのスタイルの良さだったら、本社の男に誘われたりしたんじゃないだろうか。
春那さんは肉食系だから、逆に食ってきてる可能性もあるけれど。
「明人君、どしたの? また考え事?」
美咲が首を傾げて聞いてくる。
「んー、春那さん東京に行ってた間、何してたのかなって。電話だとそういう話しなかったし」
「……仕事に決まってるでしょ?」
何で美咲は眉間にしわを寄せてるんだ?
おかしなことは言っていないと思うんだけど。
「どういう仕事してたか、ちょっと聞いてみたい」
秘書見習いって話だけれど、どんなことしてるか分からないんだよな。
興味本位で聞いてみたい。
「ふ~ん。春ちゃんのことは興味あるんだ? ふ~ん」
何かむすっとしてる気がするけれど、美咲は何を怒ってるんだ?
「美咲は春那さんから何か聞いてないの?」
「……春ちゃん、具体的な話はあまり言わないもん。気疲れはあるとは言ってたけど」
あの春那さんが気疲れねえ。
社会人ともなると、俺には分からないそういうのもあるんだろうな。
「明人君って、春ちゃんの前だと輪をかけておとなしくなるよね?」
そりゃあ、あんな美人でスタイルが良くて、男から見ても格好いい大人の女性って感じのする春那さんを前にしたら誰だっておとなしくなるだろ。俺の場合は、襲われたくないから敢えておとなしくしているところもあるんだけど。
「他意はないぞ? 色々な意味で気後れはあるけど」
「エロエロな意味で?」
「言ってねえ!」
何でそこを聞き間違えるんだ。
☆
それからしばらくして、オーナーと春那さんがてんやわん屋に到着し、裏屋で話が終わったあと、表屋に顔を出してくれた。オーナーは少し疲れた様子だけれど、それでも俺たちのことが気になったらしい。
珍しくスーツ姿だけど逆に怖いな。本当にその筋の人に見える。
オーナーの後ろには春那さんがいて、にこやかな顔をしている。
春那さんの姿を見るや美咲は抱きつきに向かう。犬みたいだな。もし尻尾が生えてたら相当ふりふりしていることだろう。
「……帰ったぞ」
「オーナー、おかえりなさい。どうでした?」
「……しぼられた」
「御剣さん、やっぱり怒ってたらしいんだよね~」
「……今度ここに来る」
「――え?」
薄笑いの表情のまま、店長が青ざめる。
「そんな話さっきしなかったじゃないですか。本当ですか!?」
本当に珍しい。あの店長が焦ってる。
「……あいつが決めた」
「オーナー、日程が分かったら、その日お休み貰っていいですか?」
「……お前も諦めろ」
がっくりとうなだれる店長だった。
御剣さんって、店長がここまで恐れるほどの人なのか。
鬼だ、悪魔だって言ってたしな。
どんよりとした空気のオーナーと店長とは関係なしに、かたや春那さんの方はきゃっきゃうふふと、美咲が春那さんに抱きついてすりすりと頬ずりし、春那さんはよしよしと美咲の頭を撫でている。
なんだ、この空気の違いは。
俺もどちらかというと、きゃっきゃうふふの空気に混ざりたい。
そんな願いが通じたのか。
「明人君、ちょっと来て」
美咲が手招きして俺を呼ぶ。
助かる。こっちの空気から逃げたかったんだ。
俺が寄って行くと、春那さんが頭を下げる。
「明人君、美咲のこと面倒見てもらってすまなかったね」
「いやいや、面倒だったことはなかったですよ。朝以外は」
こら美咲、目を逸らすな。
「美咲を起こす時は、布団だけ剥がして放置してたらいいよ。身をくるむものがなくなったら勝手に起きてくるから」
そういうことは早めに教えてください。
毎日格闘してたぞ。
「お土産もあるんだけれど、このあとは私も帰るだけだから、後で家に寄ってくれるかい?」
「わざわざありがとうございます。帰りに寄らせてもらいます」
美咲が春那さんの前で何だか偉そうに胸を張る。
「春ちゃん、私ご飯が炊けるようになったんだよ。あと、洗濯もちゃんとできるようになったんだよ」
春那さんはよしよしと美咲の頭を撫でる。
「そうかそうか。じゃあ、次の休みに美咲にも料理を手伝ってもらおうかな」
それは止めた方がいいと思います。
美咲の手にかかると、何故か魔食に化学変化するので危険です。
料理も教えようと試みましたが、出来上がったら魔食になってるんです。
美咲ができるのは、あくまでご飯を炊くことだけだと認識してください。
☆
帰りがけ、約束通りに美咲の家へと寄ることになった。
「ただいまって――春ちゃん、またパジャマで!」
「お風呂入ったあとだし、また着替えるの面倒なんだよ」
せめて、ノーブラは止めてください。
目のやり場に困るんだよ。
とりあえず上がっていくようにいわれ、上がらせてもらう。
東京駅の土産屋で見かけて買ってきた土産のバウムクーヘンを受け取る。
ありがたく頂戴します。
居間にあるテーブルの上には、料理が並べられていて、俺の分も用意されていた。
「どうせ家帰ったら作るんだろ? 美咲を預かってもらったお礼だ。食べていきなよ」
「すいません。ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」
食事をしながら、互いに近況報告をしあう。
本社では相当緊張したらしく、大変な思いをしたらしい。
食事に誘われることもあったらしいが、それどころではなかったようだ。
「食事に行く余裕なんてまったくないよ。オーナーのスケジュールの管理だけでもう大変だった。御剣さんみたいに冷静な対応ができるようになりたいね」
「春ちゃんでも大変なんだ?」
ふーんと美咲は驚きながら話を聞いていた。
ついで話として、東京に行っていた間に晃に会って来たらしい。
「ちゃんと生活しているか不安だったけど、意外とちゃんとしていた」
「晃ちゃんならその心配いらないよ。なんでもできるし」
「……不安が増大したこともあるけどね……」
少し遠い目をして言う春那さん。
「何かあったんですか?」
聞くと、美咲にちらっとだけ視線を移して答える。
「……うん。まあ、あいつの部屋に……写真がそこら中に飾ってあっただけだから」
少し考えて言葉を出したところと、今の態度からするに何となく理解した。
その写真に何が写っているか、おそらく「美咲」が写っていたのだろう。
「……病気レベルだったんですね?」
俺が聞いてみると、春那さんは静かに頷いた。
どうやら俺の予想が春那さんが言いたかったことと一致したらしい。
美咲はきょとんとして分かっていない様子。
当の本人に危機感がないのはどうかと思うけれど。
☆
我が家に辿り着き、玄関を開ける。
「ただいま」
……
シーンと静まり返った我が家。
美咲がいた間は「おかえり」と出迎えてくれていたけれど、もういない。
また一人なのだと、これが現実なのだと身をもって知らされる。
食事を美咲の家でしてこれたのは幸いだった。
一人で黙々と食べるのは寂しいものがあっただろうから。
気分を変えなければ。これからはまた一人なんだから。
シャワー浴びてさっさと寝てしまおう。
部屋に荷物を置いて、着替えを用意。
浴室前の洗面所で美咲の忘れ物を発見。
美咲の使っていた歯ブラシがそのままだった。
「まあ、消耗品だし忘れるか……」
処分するにしても、一応美咲に聞いてからにしよう。
歯ブラシはそのまま置いといて、浴室へと向かう。
ガラっと浴室を開けた途端、俺の視界に映る色っぽい女性物の下着。
黒のTバックの紐パン、それと同色の肩紐のついていないタイプのブラが干してある。感じからして上下セットだ。
そういや、美咲はいつも下着の乾燥に浴室乾燥を利用してたっけ。
「……美咲。よりによって……こんなの忘れていくなよ……」
お読みいただきましてありがとうございます。
次回もよろしくお願いします。