262 変わる距離1
HRが終る。さっさと準備してバイトに行くことにしよう。
今日は、店長にテストの報告もしたいところだ。
太一に声を掛けてから教室を出ようとすると、長谷川が太一のところへ移動するのが見えた。
何やら長谷川の方から太一に話を持ち掛けていて、川上と柳瀬が好機に満ちた目で二人の様子を見ている。
ややこしいことにならなければいいけれど。
太一らの話の邪魔をするのも悪いので、軽く挨拶だけ済ませよう。
「太一、またな」
「今日はすぐバイトか?」
「ああ、その予定」
「美咲さんによろしく」
「あいよ。長谷川もな」
「木崎君、気をつけてね」
長谷川は小さくバイバイと手を振り、俺も手を上げて返す。
教室を出て中央階段に着いたところで、響が待ち構えていた。
「あれ、響。生徒会は?」
「まだ時間があるから下駄箱まで見送ろうと思って」
「そんなのいいのに」
「あら、好きな人とちょっとでも一緒にいたいと思うのは駄目かしら?」
さらっと言ってのける響を無下に断る理由もなかった。
響は俺の横に来ると、当たり前のように俺の腕を取る。
言っても無駄なんだろうなと諦める俺も俺だが。
通りすがりの女子生徒もちらっと見るだけですぐに視線を戻す。
どうやら、周りもこの状況に慣れつつあるのだろう。
朝といい、放課後といい、響と愛が俺にくっついてる状況を何人もの生徒に見られている。
それがいいことなのか、悪いことなのかといえば、受け手の問題であっては響としては別問題だ。
確実に言えるのは、俺にとっては問題であちこちで敵を作っているだろうということだ。
可愛い女子を二人もはべらしている現実。
男子からしたら「ふざけるな」になるだろうし、女子からしたら「遊び人」に見えるだろう。
響が俺の環境を変えてくれようとして、川上らに工作依頼をしてくれているのは嬉しいけれど、この状況がある限り改善はされないだろうと俺は思っている。
言ったところで、腕を外すことをしないのが響だろうから。
「今日はすぐにバイトなのかしら?」
「ああ。今日はすぐに行く予定」
「愛さんの勉強会は終わりなの?」
「水曜あたりにやろうかなって考えてるんだけどさ。愛ちゃんの部活ないし」
俺の言葉に響は少し沈黙し視線を逸らす。
「……じゃあ、水曜日は警戒しておかなくちゃいけないわね」
「何の警戒だよ?」
「明人君が愛さんの色香に惑わされる可能性があるってことよ」
「あああああああああああっ!? ずるいっ。また響さん抜け駆けしてる!」
響が答えると同時に下の階から上がってきた愛が大声で叫ぶ。
「愛さんが言ったんじゃない。早い者勝ちだと」
「ぐぬぬぬ……。もういいです」
愛は響の反対側に回ると、俺の腕を取りしっかりと抱きしめる。
柔らかさと弾力のあるものに腕が包まれる感触が伝わる。
「愛さん。男性の腕にそう胸を押し当てるものではないわ」
ああ。また始まった。
「明人さんも喜んでるからいいんです」
「明人君、そうなの?」
俺に振るのは勘弁してください。
てか、最近このパターン毎回じゃない?
賑やかなの通り越して騒がしすぎるんだけど。
☆
響と愛の喧騒に巻き込まれふらふらになりながらバイトに着いた俺は、今日返してもらった試験の答案用紙を見せてみた。カウンターに並べると、美咲はそれぞれの点数を見ていく。
「いい感じだねー。これなら上位には食い込めるよね」
「美咲のおかげだ。ありがとう」
「そんなことないよ。明人君の努力の結果だよ」
美咲は首をぶんぶんと振って答える。
「ちょっと心配してたんだよね。……ほら、私のお世話してたから、勉強不足になったんじゃないかって」
「寝泊まりしてただけなんだから、世話の内に入らないよ。ところで荷物は運んだの? 今日、春那さん帰ってくる予定だろ」
「うん。家を出るときに持ってきた荷物は持って出たよ。あ、そうだ。これ渡さなきゃ」
美咲がポケットから出したのは、ふてぶてしい顔したウサギのキーホルダーと鍵二つ。
二つの内一つは渡してあった合鍵で、もう一つは自分の部屋の鍵だろう。
ウサギの表情が気になるけれど……美咲の趣味はよく分からんな。
キーホルダーから俺の家の合鍵を外すと、「はい」と渡してきた。
「ちゃんと鍵締めはしておいたから。ありがとうね。お世話になりました」
合鍵を受け取ったとき、少し寂しさを感じた。
また一人になるのか、と。
今になって思えば、美咲を預かったのは失敗だったかもしれない。
春那さんが帰ってくれば、当然美咲は元の場所へと帰るわけで。
俺はほんのひと時の楽しさや喜びを味わってしまった。
知ってしまった。思い出してしまった。誰かと一緒にいる家の温もりを。
そして、また元どおり。あの家で一人を味わうことになる。
そして、嫌でも母親のことを思い出してしまうだろう。
どうしてこう失うときはあっさりしているのだろう。
しばらくは、美咲がいなくなった生活に戸惑うかもしれない。
考えるだけで気分が悪くなりそうだ。
そんなことを考えていると、美咲がひょいと顔を覗き込む。
「明人君? 変な顔してるよ?」
「え? ど、どんな?」
「何かちょっと嫌そうな――も、もしかして私が家からいなくなるのが寂しいとか!?」
何か嬉しそうに言ってるけど、美咲の言ってることは当たってるがそんなこと言えない。
「起こさなくていいからせいせいする」
そう言うと美咲はむっとした顔をする。
「――冗談でもいいから寂しいって言ってくれてもいいのに。私は……ちょっと寂しい」
「え?」
「……私は楽しかったから。毎日毎日が楽しかった。明人君と一緒に買い物行ったりテレビ見たり、家事教えてもらったり、お話したりで楽しかったから……。今日からもうあの生活がないと思うと寂しい……」
美咲もそう思ってくれてたんだ。
意地を張ってる俺の方が馬鹿らしい。
「……ごめん。せいせいするなんて嘘だ。本当は美咲がいなくなるのは寂しい。今日からまた一人かって考えてた」
「……明人君」
「……でもまあ、これが元の形だからしょうがないよな。それにここに来れば美咲がいるんだし」
すると、美咲は俺の手を取ってぎゅっと握った。
「明人君、仮にも私は年上だからたっぷり甘えていいんだからね!」
「全然、年上っぽくないけどな。年下に世話されてたくせに」
思わず苦笑いして返すと、美咲は目を泳がせる。
「そ、それとこれとは別問題ということで……」
美咲はくすっと笑った。
「そっか。明人君も寂しいって思ってくれてたんだね。嬉しいな。……明人君にちょっとお願いがあるんだけど」
「何、急に?」
「ハグしていい?」
いつもみたいにハグしなさいじゃなくて、自分からハグしていいって?
「な、何で?」
「なんというか、その……今……無性に明人君にハグしたいなって……駄目?」
ちろっと上目使いで見る美咲。
何だか気のせいか目もうるうるしているような……。
このパターンは駄目だ。
俺の脳裏にいつかのキス未遂が蘇る。
「いや、ちょっと待て。さすがにバイト中だし、いつお客が来るか分からないし、裏から誰か来たら困るし」
「……駄目?」
首を傾げて言う美咲の仕草にドキンとする。
「えと、その……どうしても?」
「どうしても」
いやいや、ちょっと考えろ。
美咲に抱きつかれるのはこれが初めてじゃない。
今まで何度もあったし、俺の家でもあったことだ。
それでも宣言されてからとなると、いらぬ緊張が出てしまうわけで。
てか、そのうるうるした目を何とかしてもらえないでしょうか。
「……じゃ、じゃあ。はい」
軽く両手を横に広げ、迎え入れる態勢を取ると、美咲が飛びつくように抱きつく。
俺は広げた両手を閉じることもできずされるがままだ。
「んー、明人君の匂いがする」
「汗臭くない?」
「全然、大丈夫。臭くなんかないよ。逆にいい匂いなんだけど……」
気のせいか、美咲の腕に段々と力がこもっているような……
聞きたくない低い音域の声で美咲は続けた。
「……でも、明人君の体から、響ちゃんと愛ちゃんの匂いがするのはなんでかな?」
ドキドキッ!?
「い、いやだなー。そんなことあるわけないじゃん?」
「……明人君。やけに心臓の音も早くなってるよ。動揺してるよね? 気のせいかなー? 相当くっつかないとこんだけの匂いって移らないと思うんだよねー」
ああ、これもう黒美咲の声だ。もう嫌な予感しかしない。
「と、い・う・こ・と・で、お仕置きだあああああっ!」
「ぐああああああっ!?」
ハグはハグでもベアハッグは嫌だな。
誰か助けてください。
お読みいただきましてありがとうございます。
次回もよろしくお願いします。