236 愛台風襲来1
土曜日の午前9時、ピンポーンと呼び出しチャイムが鳴った。
約束の時間通りに愛が着いたようだ。
俺が玄関へ出迎えると、愛はとびっきりの笑顔で待っていた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
この表情がいつまでもつのか、俺は心苦しいものを感じた。
手には大きなバスケットと小さな鞄。
バスケットには俺が頼んだ買い物も入っているのだろう。
「これレシートとお釣りです」
「ありがとう。ごめんね買い物まで頼んじゃって」
リビングへと愛を招き入れると、そこにいた美咲を見た途端、愛は笑顔を思いっきり引きつらせた。
「明人さん、何で美咲さんがいるのでしょうか?」
こうやって聞かれるのは想定内だ。
「いや、俺も試験勉強を美咲さんから教わってるからさ。俺がお願いしたんだよ」
愛は明らかに落胆した表情を浮かべ、ぶつぶつと独り言を言い出した。
「……何でよりによって美咲さんなの?」
ごめん。ちょっと色々な訳があるんだ。
一人の人間を保護するためなんだ。どうか、堪えてほしい。
☆
何はともあれ、勉強会開始。
リビングの長テーブルで俺と愛が並んで座り、反対側に美咲が座る。
愛は溜息を吐きながらも、響の作ってくれた問題を進めていく。
美咲は響の作った問題を見ながら、「懐かしい~」とか「こんなの習ったっけ?」とか言ってる。
勉強を始めて30分、愛の集中力がそろそろ限界だ。
なんだか急にそわそわしだす。
「あの、明人さん。失礼ですが少しキッチンを使わせてもらっていいですか? 仕込みを少ししておきたいので」
「うん。どうぞ」
愛は台所に行くと、色々チェックし始める。
「明人さん、すいませーん。調味料はどちらにしまっているのでしょうか?」
「ああ、そっちにいくよ」
愛に調味料の場所を説明、ついでに調理器具の収納場所も教える。
「ああ、圧力鍋もあるんですね。これは手間が省けます」
そういえば、圧力鍋って家にあるけど使ったことないな。
ついでに使い方を教えてもらっとこう。
愛が下ごしらえしている間に俺はまた勉強を再開。
ひたすら問題を解いていく。終わったところで美咲が採点して、間違ったところはやり直す。
「暗記物は間違わなくなってきたね。これなら90点台も狙えるかな」
採点して満足そうな顔をする美咲。
美咲って暗記物は強い。頭は良いんだよな。
教えるのが無理とか言ってた数学もなんだかんだで俺より覚えてた。
そもそも美咲は目にしたことを覚える能力は高い。
店にあるものをほぼ網羅するほどの記憶力だ。
なのに、何で家事ができないんだろう。何が欠如してるんだ?
採点する美咲を見ながら、ぼやーっとそんなことを考える。
「……明人君から蔑まされている気がする」
俺の視線に気づいた美咲がぼやく。
人の不思議について考えていただけだ。気にするな。
美咲って、結構ネガティブ思考だなー。
パタンと、冷蔵庫の閉まる音が聞こえて、愛が戻ってきた。
どうやら下ごしらえが終わったようだ。
手際よく短時間でこなしているのを見ると、日頃の賜物なのだろう。
勉強を再開するも30分ごとに訪れる愛の集中力の途切れ。
今後はこれが課題になるかもしれない。
「愛は人生でこれほど勉強したことがないです」
休憩中に愛がぼやく。
清和高校の偏差値はそれほど高くはないけれど、よくうちの高校に受かったよね。
もしかして、噂に聞く見込み入学だったのかな。
だが、人間やればレベルが上がるもので、勉強会を始めたときと比較にならないほどだ。
勉強会を継続していくことが愛にとってはいいのかもしれない。
☆
昼になり愛が食事を作り出した。
愛は勉強のときと違って、水を得た魚のように活き活きとしていた。
普段の愛からは信じられないほどテキパキとした動きだ。
野菜を並べて順番に包丁で切っているが、ストトトトトと快音が響く。
どんどん形が整えられていって、まるで魔法のようだ。
何より料理をする姿が本当に楽しそうだ。
「愛ちゃんすごいなー。何であんな風にできるんだろう」
「俺も真似できないよ。本当に料理好きなんだね」
俺と美咲は邪魔しないようにおとなしく出来上がるのを待っている。
たまに料理をしている愛と目が合うと、にっこりと笑い返してくれる。
「今日は何かな?」
「明人さんが肉を希望されてたので、主食は鳥の照り焼きです。美味しく作っちゃいますからね~。期待してていいですよ~♪」
手を止めずに答える愛は、笑みを深めて言った。
☆
出来上がった料理がテーブルの上に並ぶ。
色、艶と見栄えに文句の付けどころのない鳥の照り焼き。
添え物の温野菜とポテトサラダにオニオンスープ。
愛と美咲の量はほぼ一緒な感じで、俺は照り焼きが2枚と添え物も量が多め。
「作りやすい量になったので、結果的に美咲さんがいてよかったです」
いただきますと合掌して、さっそく味合わせてもらう。
皮はパリッとしていて、中は柔らかい。たれの味と肉の味がお互いいい関係を築いている。
温野菜には何だろうか、野菜自身の味の他に少し何かを加えている。
塩胡椒だけじゃない。旨味のある……コンソメぽいような。
「明人さん、照り焼きにこれなんかいかがでしょう」
小さな容器を出してきた愛は俺の前に差し出す。
「これは?」
「試してみてください。よければ美咲さんも」
何かを練り込んだものっぽいけど、少し照り焼きに乗せて口にする。
ピリッとした感触と鼻腔にくる柚子の香。柚子胡椒か。
あれ、これ美味い。喧嘩しそうで喧嘩しない。どちらかというと後味がさっぱりする。
「いかがでしょうか?」
「すっげえ美味い」
「それは良かったです。あまりつけ過ぎちゃうと喧嘩しちゃいますけど。あとこれもどうです。山椒です」
「照り焼きに山椒か。そういう発想なかったな」
「鰻のかば焼きとかに山椒って合うでしょ。照り焼きにも合うんです」
物は試しと山椒をかけて食べてみる。いや、これも美味いわ。
照り焼きにワンアクセント入れるだけで違う味わいが増えるなんて。
「これ調理部の先輩から教わったんです。家族にも好評なんですよ」
へえ、真面目な部活なんだな。こういうのはどんどん愛に吸収させてほしいものだ。
弁当という形で俺に恩恵がくることだろう。
しかし、愛のようにここまでちゃんとした照り焼きを作る自信はない。
今度は教えてもらおうかな。
美咲は「美味しいね」と言って味わっているけれど、味音痴疑惑の美咲にコメントはそれ以上求めないほうがいいだろう。
「――ごちそうさまでした。満腹だ、大満足」
「それはそれは、おそまつさまでした」
そう言いながら食器を片付け始める愛。
「ああ、片付けは俺がするよ」
「いえいえ、片付けまでやって料理ですから。片付けの時、残しかたとかで体調とか苦手なものとか分かるんですよ? 次は気づかれないように入れたりするんです。香ちゃんには内緒ですけど、嫌いなもの入ってるのに気付かず食べてます」
愛は唇に手を当てながら笑って言った。
プロだ。プロがここにいる。
「わ、私も手伝う。それくらいならできるから」
片付け始めた愛の横に行って美咲が言った。
「ありがとうございます。じゃあ、愛が洗っていきますので洗った食器を拭いてくれますか」
「愛ちゃんすごいねー。私、全然料理できないから」
「簡単なことから始めたらいいんですよ。やっぱり数をこなさないと、どうしようもないことってありますから」
何だか、和気藹々と話が弾む二人だった。
テレビでも見て待っていよう。
こんなにゆったりと家で過ごすのなんて久しぶりだ。
なんだか心地よいというか、気分がいい。
☆
――顔に何かが当たってる感触がする。
あれ、俺は何をしていたんだっけ?
「あ、起きちゃった」
「残念です」
目の前に美咲と愛の二人の顔がすぐそばにある。
「あれ、俺いつの間にか寝てた? ――おい!?」
おい、ちょっと待て。二人ともその手に持ってるペンは何だ?
「何した?」
「いや~、格好のカモが気持ちよさそうに寝てたから、……つい、悪戯を。ぷぷ」
「きすしようとしたら、美咲さんに止められてですね。仕方ないので美咲さんと一緒に悪戯を。くふっ」
それぞれに突っ込みたい。
まず美咲。今、絶好のカモって言ったよな。
次に愛。一番最初何しようとしたって?
そういう危険な発想は止めてくれ。
そのあとで起きる地獄絵図が予想できるだけに頼むから止めてくれ。
しかし、二人して笑うのをこらえてる様子。
俺の顔って、どういう状態なんだ?
「鏡ある?」
すでに用意していたのか愛が俺の顔の前に鏡を差し出した。
額には肉、鼻の下にちょび髭、ほっぺたには渦巻き。片目を閉じると瞼に目が書かれてた。
ここまでされて起きない俺はどんだけ鈍感なんだ。
お読みいただきましてありがとうございます。
次回もよろしくお願いします。