210 校外学習その5
「はい、それでは講義を始めます」
五十嵐教授はホワイトボードにすらすらと「ゆとり教育」と書いた。
「近年、よく使われた言葉です。はい、えーと、そこの彼女」
五十嵐教授は西本に手を向けた。
西本は自分を指差し、周りをきょろきょろとする。
「そう、あなた。分かる範囲で答えてくれる?」
「えっと、詰め込み教育をやめるためにできた教育だと思います」
「はい、ありがとう。これができた理由のひとつでもありますね」
五十嵐教授はすらすらと西本が言った内容をホワイトボードに書き出す。
「じゃあ、そこの君」
五十嵐教授が指したの太一だった。
一瞬、俺かと思った。
「えーと、よくわからないです。でも、今は間違ってたから止めたって」
太一はちょっと考えて答えた。
「間違ってた……。どう間違ってたと?」
「全体的に学力が落ちたって、聞いた気がします」
「はい、ありがとう。ゆとり教育の失敗というか勘違いが起きた、と私は考えています。教育者として私なりに考えました」
五十嵐教授は語り始める。
五十嵐教授が関わってきた子供たちを幾度となく見てきて、感じたことのようだ。
子供たちは時間に追われている。
成績をあげるために学校以外でも塾に時間を費やす子が多い。
様々な経験をするための時間が失われていること。
家族との時間を失われていること。
人とのコミュニケーションを奪われていること。
確かに成績が良ければ、将来への展望が強い。
一流大学へ行けば一流企業や、上級公務員への就職も可能性が高くなる。
将来を考えれば努力すること自体は間違っていない。
だが、その代償として失うものが大きすぎるのではないか。
もっと、子供らしい生活を送るべきなのではないか。
「子供たちにもっと余裕を持って勉学に励んで欲しい。その願いからできた制度だと私は思っていました。でも、私が思っていたものとは違った制度でした。学ぶべき事を学ばず、逆に子供たちの可能性を閉ざしてしまいかねない制度だったのです。大人達は焦りました。そして見直されたのです」
五十嵐教授はゆっくりと俺達生徒の顔を見回して続ける。
「あなた方は個々に能力が違います。それが可能性です。活躍できる場というのがどこかにあるのです。営業かもしれません。製造業かもしれません。自分に何が出来るのか、学んだことから何を得て、何がなせるのか。教育という文字は、教え育てると書きます。我々、教育員は先人の築いた知識や情報を活用し、あなたたちを育てることが目的であり仕事です。可能性を閉ざすことではありません」
五十嵐教授は、ホワイトボードにすらすらと「勉強」と字を書いた。
「これ、嫌いな子がいますよね。勉強という字は勉めて強くなると書きます。勉めてというのは常用外なのですが、努めてと同じ意義になります。つまり、努力して自分を強くするのが勉強です。人生一生勉強という言葉を使われた方もいます。その言葉は正しい。私もまだ勉強不足だなと感じることが多々あるからです」
数人の生徒が食い入るように五十嵐教授に視線を送る。
教授の話に引き込まれているようだ。
「自分が弱いと思いますか? と、聞くと「弱い」と答える人はいます。でも、弱くなりたいですか? と、聞くと「強くなりたい」と答える人がほとんどです。では、どうすれば強くなれる? 基礎を身につけましょう。土台を固めましょう。どんな建物だって基礎や土台が強固な物であれば崩れにくくなります。無からは何も生まれません。先人の知恵を吸収し、さらに発展させ、そして社会に還元する。これが理想の姿だと私は思います」
「すいません。質問よろしいでしょうか?」
響が手を挙げた。
「はい、どうぞ」
「目標が閉ざされた人や、目標が見つからない人はどうすればいいんでしょうか?」
その言葉に俺はアリカと初めてあったときの事を思い出す。
俺にも無かった。目標や将来なんて先のことだと考えもしなかった。
今は父親との約束を果たすために進学が目標になっているけれど。
その先のことは、俺は未だに持っていない。
「それはとても難しい質問ですね」
五十嵐教授はにこりとして答える。
「でも、それはあなたたちの胸の中にあります。問うてみたことはありますか? 自分の中にある可能性を諦めていませんか? 叶えてみたい夢はありませんか? 夢を追いかけるには努力、勉強が必要です。これは覆せない事実です。行動なくして何かを得るというのは可能性は無きに等しい。自問自答するのです。何か出来ることは無いだろうか、実現するための方法を模索するのです。そのための教育が必要であるならば、我々のような教育者を活用すればいいのです。あなた方は求め、我々は答える。我々は目的である教育をすることができる。WINWINの関係だ」
「すいません。いいですか?」
手を挙げたのは三上だった。
「現実で言うなら、ほとんど夢って叶わないじゃないですか。そのために努力して勉強したって、無駄じゃないんですか?」
その質問に違う班の女子が食いついた。
「だから、叶えられるように勉強しないといけないんじゃないの?」
「叶うならするけどさ。結果的に駄目だったら、やってきたことは何だったのってなるんじゃないの?」
「やる前からやらないのと、やって駄目だったのじゃ違うと思う」
「いや、無理だってわかってたら、手を出さないのも選択肢だろ」
三上の隣の男子が、三上の意見の援護に回る。
「だって、叶う方法を知らないだけかもしれないじゃない」
別の班の女子からも反対意見が湧き出る。
無駄なことはやらない方がいい派と、無駄なことはない派に分かれていた。
五十嵐教授はますます笑みを深めてその様子を窺っていた。
お読みいただきましてありがとうございます。
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