209 校外学習その4
「すいません。トイレに行ってもよろしいですか?」
響は美咲に向かってそう言った。
三上の硬直を解いてやるつもりなのだろう。
「あ、そうか。入り口を出て右にあるから」
どうやら美咲もそのことに気が付いたようだ。
「すいません」
響が出て行こうと立ち上がる。
「ちょい待った。長谷川、着いて行ってやってくれないか?」
太一が響の隣に座る長谷川に声をかけた。
「へ? ああ、そっか。すいません、私も行っていいですか?」
長谷川は手を上げて、立ち上がる。
ああ、そうか。響は筋金入りの方向音痴だ。
本当に太一の気配りには頭が下がる。
方向音痴の響の場合、単独行動では出たが最後、この教室に戻ってこれなくなる可能性が高い。
普段いる学校ですら迷う奴だった。
しかし、長谷川が瞬時に理解したように見えたが、太一から聞いていたのだろうか。
「ああ、どうぞ。戻ってきたら、次の場所に移動します」
美咲はにっこりと笑って二人を見送った。
響と長谷川が教室から出て行くと、少しして固まっていた三上が席に座った。
どうやら、すぐに動けるようになったようだ。
本人も自分が何故固まったのか、不思議そうな顔をしていた。
とりあえず、お前は反省しとけ。
数分もせずに響と長谷川が戻ってくる。
二人を見た美咲は、みんなに向かって大きな声で告げた。
「それでは次の場所に移動します。着いて来てください」
それから、大学構内を見て回る。
法学部、経済学部、商学部、情報学部、電子工学部、自然科学部と、それぞれの時間はわずかであったが見て回った。
美咲が時計を見ながら、てきぱきと説明していく姿には感心した。
人懐っこい笑顔に生徒たちもだんだんと打ち解けていき、気軽に話しかける奴も出てきた。
美咲って、ガイドとか意外とむいてるんじゃないかなと思った。
美咲自身は心配していたけれど、上手くやれていると俺は思う。
それよりも、変化があったとすれば響だった。
今、響の周りには川上、柳瀬を筆頭に女の子が多数集まっている。
「ひめ――東条さんはやっぱり進学よね?」
「そうよ」
「T大とか?」
「こだわってないわ」
今まで距離をあけていた女子達。川上達が響に話しかけた事をきっかけに集まりだした。
最初二人だったのが、次第に人の輪を作り始める。
響の人気を目の当たりにした瞬間だった。メチャモテじゃないか。
質問に短い即答で返す響だったが、わずかながら口元が緩んでいるように見える。
これはあいつが望む世界だったんじゃないかなって思う。
もうちょっと笑えばいいのに。
お前ら知らないだろ。響は笑うともっと綺麗なんだぜ。
「――ほうほう。つまり、明人君は響ちゃんを狙っていると?」
俺の背後からどす黒い空気をまとった声が聞こえる。
間違えるわけがないこの声は美咲だ。
「だから、人の心読むんじゃねえよ!」
「当たってたと判断していいね? さあ、お仕置きを……」
手をわきわきとさせてにじり寄る美咲。
すでに目つきも怪しい。
今は止めろ。お互いのために止めろ。
「ちょっ、今は仕事に専念しろ。な?」
そう言うと、美咲は小さく舌打ちし、ゆらっとしながら戻っていった。
油断も隙もない。いつの間に近付いてきたんだ。
さっきまで他の男子と話してたじゃないか。
美咲が俺から離れると、すぐに他の生徒数人が美咲に近づいて、なにやら質問したようだ。
美咲は少し戸惑いながらも、答えている。
先ほど、教室で冗談を言った三上も美咲に頭を下げて謝っていた。
「いいの、いいの。気にしないでいいよ」
と、美咲は笑ってたけど、そんな簡単に許すなよ。
俺にやるみたいにお仕置きしてやれ。
――想像したらなんかむかついてきた。
考えるのはやめよう。
午前中の締めくくりとして、小さな教室に移動して受講するようだ。
現代における教育について、というテーマらしい。
小難しいことでも言われるんだろうか?
俺達は美咲に引率されて、とある教室に入った。
高校で使っている教室の半分ほどの広さしかない。
小さなホワイトボードが一つ、円卓に椅子、飾り気もない部屋だった。
「ここは、普段。私の通っている教室です。今日は、ここで皆さんに受講してもらいます」
美咲が部屋に全員が入ったのを見計らって言った。
美咲は椅子に座って待つように指示を出した。
くいっと袖を引っ張られる感触。
見ると、また横に響がいて、俺の袖を指先で摘んでいる。
どうやら近くに座れということなのだろうか。
奥から段々と席が埋まっていき、俺達の班は柳瀬、川上、長谷川、太一、俺の順番で座る。
その次に響たちの班が続いた。
しばらくすると、大講堂で見た五十嵐教授が教室に入ってきた。
五十嵐教授は美咲の用意した椅子に向かって移動した。
「藤原さんお疲れ様。――あれ、藤原さんだよね?」
美咲を見て怪訝そうな顔をする五十嵐教授。
何かいつもと違うものを感じたのだろう。
「リラックスしてできたみたいね。頼んでよかったわ」
美咲の肩に手をポンと置いてから、椅子の前に立った。
「起立!」
響がそのタイミングに合わせて号令をかける。
みんな、響の声に条件反射でがたがたと立ち上がる。
「礼――お願いします」
「「「「お願いします」」」」
響に続いて大きな声が上がる。
響の声が大きかっただけに、みんなも釣られたようだ。
「はい。礼儀正しく元気があってよろしいですね。こちらもよろしくね。改めまして、この大学で教授をしている五十嵐です。今日は皆さんに受講体験をしてもらいます。皆さんは席に座ってください。藤原さん、これを配って」
「着席」
また響が号令をかけるとそれぞれが席に座る。
響から、ふぅっと小さな息が盛れたのが聞こえた。
そういうことができる響を尊敬するわ。
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