176 失ったものと得たもの9
美咲と晃が家に無事入るのを見届けた後、いつもの癖で美咲の部屋を見上げる。
カーテンがしゃっと開いて美咲が窓辺に立ち、俺に小さく手を振っている。
美咲の口がパクパクと動いている。
『ご・め・ん・ね。お・や・す・み』
多分こう言っていたのだと思う。
俺は返事の変わりに手で大きな丸を作って、それからいつものように手を振った。
美咲が微笑んだので伝わっただろう。
それから帰路へと足を進めた。
今日は月が明るく大きく見える。
月光に照らされて、街灯が無い所でもいつもより明るい。
空には少しだけ雲の塊があって緩やかに東へと運ばれている。
今までの帰路は家に帰ることへの精神的な負担があったから重く感じられた。
一人になる時間は嫌な事を考えてしまうから嫌いだ。
考え事をしてしまうのは、もう習慣になっているからすぐに直ることが無いだろう。
両親はこれから離婚に向けて話し合うことになっている。
父親は知り合いの弁護士に話を持っていくとも言っていた。
正直、母親が親権放棄したのはショックだったけれど、そのことを知った以上は母親とは暮らせない。
母親なりに考えて答えを出したのだから、俺も答えを持つべきだろう。
もう親でも子でもないと。
母親は死んだと思えばいい。
間違った考え方かもしれないけれど未練を持つよりましだろう。
これから父親との関係を戻していかなければならない。
今日は父親と一緒に午前中行動したけれど、お互いちょっとしたことでぎこちない時もあった。
お互い気を遣っているところもある。まだ他人行儀な部分もあると思える。
そんなことを考えていると、自分の家が見えてきた。
母親の車は駐車場には無く、父親の言うとおり戻ってこないつもりなのだろうか。
もし顔を合わせてしまったら、俺はどういう態度を示せばいいのだろう。
止めよう。
今はそんなたられば話を考えても仕方がない。
玄関前に立ってひとつ深呼吸する。
まだ少し不安がくすぶっている。
実は今までのが俺の願望が見せてる夢なのではないか。
そんな非現実的なことまで考えてしまう。
まだ自分に自信が無い証拠だ。
玄関の鍵を開けて、いつものように「ただいま」と言葉にした。
リビングの扉が開き、父親が現れる。
何故か心臓がドクンと音を立てた。
現実であってくれ、と切ない願いが胸をよぎる。
「――おかえり。明人」
父親は俺の姿をちゃんと見て言った。
もう俺は透明人間じゃない。
「どうしたんだい? ぼーっとして」
「なんでもない。ただいま」
父親は不思議そうな顔しているけれど、俺にはなぜかそういう仕草も嬉しかった。
いつもならすぐに自分の部屋に逃げ込んでいたが、今日はそのままリビングに入った。
俺は冷蔵庫を開けて今日の晩飯になりそうな物を探す。
豚肉とキャベツ、ネギにもやしがあったので、肉野菜炒めを作ることにした。
父親はダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、俺に問いかけてくる。
「聞いてはいたけど、バイトが終わって帰ってくるのは随分と遅いんだな」
「そういうところ選んでたから」
包丁でキャベツをざくざくと切りながら答える。
「……なんだか料理も手慣れた感じだね」
「うん。帰ってくるの遅いから自分でやってたし」
「……そうか。私がいない間、ずっとそうしてたのか」
「気にしないでいいよ。もう終わったことだし。逆に言えば、これから先安心できるだろ? 父さんも食べる?」
「ああ、少しだけ貰おうか」
父親が単身赴任先に帰ったら、俺は家事を全てしなくてはならない。
ただ幸運なことに、この一年間で家事は自分の分は自分で行ってきた。
追加すると言うなら、買い出しに行くといったくらいだ。
バイトからの帰り道に遅くまで営業しているスーパーもある。
活用すれば問題ないだろう。
料理が出来て、父親と一緒に摘んでいく。
父親が野菜炒めを口に入れると、驚いた顔をする。
「……美味いな。塩胡椒の加減もいい。きっちりしてる」
「どうせなら美味しいの食べたいじゃん。何、味悪いと思った?」
「いやいや、そうじゃないけど。うん。まあ……安心したってところかな」
その後はあまり話さず、俺が食べ終わるのを父親が待っていた。
食事、入浴、洗濯とキッチンの片付けを済ませる。
父親は何も言わずリビングで静かに待っていた。
家事が粗方終わったところで、父親と今後について話をまとめる。
俺には学校もあるし、父親は明日赴任先へと帰ってしまうからだ。
「部屋も綺麗だったし、家事をここまで出来るなんて正直驚いた。私より家事が出来るかもな」
肩をすくめて父親は自嘲気味に笑って言った。
「まあ一年もやってれば身に着くよ」
「留守は任せれるよ。……ところで藤原美咲さんは、明人の彼女なのかい?」
「へ、ち、違うよ」
突然なにを聞いて来るんだ。
むせそうになったじゃないか。
「何だ。違うのか。てっきりそうなのかと思ったよ」
逆にびっくりしたような顔で聞き返してくる。
「いやいやいや、全然違うし、バイト先の先輩だし。俺、彼女とかいないし」
「そうか。そういうことにしておくよ」
「父さんちょっと待て。何か勘違いしてないか?」
そういう大人の対応っぽいのしてるけど、分かってないだろ。
☆
翌日、朝食を作っているときに父親が起きてきた。
「おはよう明人。今日もちゃんと作っているのか」
少し寝癖がついていて、父親にしては珍しいと思った。
「おはよう。朝食は大事だろ?」
「違いない」
笑ってテーブルに座った父親は寝癖に気付いたのか、手櫛で直そうとしている。
「はいこれ、父さんの分。味噌汁はインスタントで勘弁ね」
自分の分と父親の分をそれぞれテーブルに並べる。
「ああ、ありがとう」
静かな朝食の時間は終わり、俺はキッチンの後片付けをしていた。
父親はコーヒーを飲みながら天気予報やニュースで確認。移動を気にしているのだろう。
片付けも終わり、学校に行く準備も出来たので玄関へと向かう。
玄関まで父親が見送りに来てくれた。ちょっと照れ臭い。
「気をつけてな」
「うん。父さんも気をつけて。ちゃんと家の鍵閉めといてよ」
「ああ、わかった」
今度帰ってくるのはきっと夏休みに入ってからだろう。
今日の夜にはまた一人になるけれど、せっかく和解できた父親に余計な心配を掛けないためにも、勉強もバイトも頑張ってやっていこう。
そう決意して、いつものように自転車の籠に鞄を放り込み、自転車に跨り一路学校を目指した。
ペダルの重さが、いつもよりやけに軽く感じられた。
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