172 失ったものと得たもの5
アリカが表屋に来ているが、着ている服はつなぎだ。
この場合、今日のアリカは裏屋で働くということだ。
表屋で店子をするなら、エプロン姿で来るはずだからだ。
こいつ、用事があって来たんじゃないのか?
「なあアリカ。お前別の用事あって来たんじゃないの?」
俺の言葉に名刺を見ていたアリカは一瞬きょとんとしたあと、急に顔が青ざめた。
「――あああああっ、そうだった。やばい! 今、何分?」
きょろきょろと時計を探すアリカに、店内にかかっている時計を指さす。
壁に掛かった時計の針は十二時二〇分を指していた。
時間を見た途端、頬を引きつらせるアリカ。
「と、とりあえず伝言。今日は裏屋前島さんとあたしだけだから。それと今度の土曜日は無しだって」
アリカは用件だけ言うと、慌てて椅子から立ち上がり、裏屋へと走り去っていった。
あいつ……完全に忘れてたな。けっこう間抜けだな。
しかし、今度の土曜日は無しか。
愛とのデートどうしよう……。
どこに行くか考えないと。
☆
店がオープンしてから小一時間経つが、相変わらずの閑古鳥。
美咲から改めて晃の件で謝られる。
気にしないでいいと答えたが、美咲は気にしてるようだった。
実際、晃のことなど意識から吹っ飛んでいたから気にしないで貰いたい。
美咲に教習所に申し込みを父親と一緒に行ってきたことを話す。
俺の態度をじーっと見て、美咲は不思議そうに首を傾げて聞いてくる。
「……ねえ、明人君。明人君なーんか変わった感じがするんだけど? 気のせい?」
何かと察知するのが早い美咲には、俺の態度に違和感を感じたのだろうか。
答えるのに一瞬躊躇した。
自分の置かれている環境を説明するには、最初から話した方がいい。
何度か言おうとして失敗したけれど、あの時とは状況が違う。
しかし、どこまで話す?
俺が考え込んでしまうと、
「あ! 言いにくいことならいいよ?」
美咲が慌てたように気を遣ってくれた。
「いや、いいんだ。――えとさ」
結局、俺は美咲に全てを話すことにした。
高校受験を失敗したことから始まった家庭内孤立。
高校に入ってからの今までの間、父からは透明人間のように扱われ、母からは侮蔑の対象にされていたこと。
それが嫌で家から離れるためにバイトをして逃げていたこと。
いつか家を出て行けるように金を貯めていたこと。
ただ、父親との関係は双方の誤解があった。
父親自体が俺に避けられていると思い悩んでいたこと。
その誤解が解けたこと。
そして、両親の離婚。
これは言おうかどうか少し悩んだ。
俺のことが原因ではないと父親は言っていたけれど、因果関係がないとは言い切れない。
でも、この先のことを考えると、美咲に黙っておくのもおかしい気がして、打ち明けることにした。
「――――それで両親が離婚する話になってさ。父さんが俺の親権を持つことになってる」
洗いざらいぶちまけた。
美咲は目を丸くしっぱなしだった。
「……明人君、よくそんな状況でぐれなかったね?」
「俺もそう思う。勇気が無かったんだろな。でも、父さんと和解できたから――え?」
ふわっと頭を包まれる。
立ち上がった美咲が俺の頭をぎゅっと抱きしめたからだ。
「よく頑張ってたね。偉いよ明人君」
不意打ちに俺は硬直した。
美咲の柔らかい胸に包まれている。
とても、いい匂いがした。
春那さんとは違う。優しい香がした。
何だか春のお日様のようなぽかぽかとした温かい感じ。
「あ、あの美咲。ちょっと恥ずかしいんだけど?」
ぱっと俺から離れる美咲。
「ご、ごめん。つい」
美咲って思ってたより大きいな。
……もうちょっと堪能すればよかった。
「そっかー。明人君も色々抱えてたんだね」
「今まで言えずでごめん」
「ううん。言いづらいことだもん。仕方ないよ。でも、お父様と和解できて本当に良かったね」
「ああ。でも仕事で単身赴任中だからさ。生活はあんまり今と変わらないかも」
でも、確実に今までより足取りは軽くなるだろう。
それからしばらく雑談が続いた。
主な話題は、みんなでアップロードしたアルバムの話。
「あれ? 明人君これ今日のアップだよ?」
携帯を覗いていた美咲がアルバムに写った一枚の写真を見せながら言った。
見てみると太一と綾乃が海賊旗の前で麦藁帽子姿で並んで写っている。
「そういえば、太一が綾乃ちゃんの付き添いで今日アニメのイベント行くって言ってたから、そこで撮ったんだろうね」
綾乃の楽しそうな顔の横で太一が助けろって顔してるけど、何かあったのだろうか?
「こういうのっていいよね。今度会った時の話題にもできちゃいそう」
何があったか後で太一に聞いてみることにしよう。
お兄ちゃんは大変だな。
☆
相変わらずのんびりと時間は進む。
これも店が暇なせいだ。
時間は三時を回ったところ。
美咲が時計を見てぽんと手を叩く。
「ああっ。そうそう今日これ持ってきたんだった」
カウンターの下からトートバックを取り出す美咲。
そのトートバックには嫌な思い出が詰まってる。
グリーンとオレンジの容器は出さないで欲しい。
俺の思いは届かず、美咲の手に出されたのはオレンジ色の容器。
「何でそんな顔してんの?」
気にしないで下さい。ただのトラウマです。
「ほら今日はこどもの日でしょ? だから柏餅持ってきたの」
柏餅か。
確かに今日は五月五日でこどもの日。端午の節句。
しかし、全力で遠慮したい。
せっかく今日はいい気分なんだ。
「ちなみにこれ美咲が作ったの?」
「ううん。晃ちゃんが実家からお土産で持ってきたの。和菓子屋さんだし」
なんだ。そうならそうと早く言ってくれよ。
安心度一〇〇%の商品じゃないか。
「それじゃあ、さっそく」
オレンジの容器を受け取り蓋を開けると、そこには俺の知らない柏餅がいた。
オレンジの容器に入っていたのは、プルプルと震える器と同じ色したスライムもどき。
ベスか? 今度はベスなのか?
容器の中身に目が釘付けになると同時に、俺の足が震え始めた。
「……なあ、美咲。俺の知ってる柏餅じゃないんだけど?」
「え? ああ、間違えた! そっちは私の作った羊かんだった!」
また羊かん作ったのか。
てか、このネタ前にもやっただろう!
「こっちだった。はい。美味しいよ」
そう言ってグリーンの容器を手渡す美咲。
開けると葉っぱに包まれてツヤツヤとした柏餅。
確かに美味しそうだ。しかし、すでに俺の心は憂鬱だった。
アレを先に見た後で、出されてもね……。
とりあえず、牧島姉妹の実家で販売している土産という柏餅を一ついただく。
春那さんと晃の実家である和菓子屋さんが作った柏餅。
手にした餅の弾力もよい。
ぱくっと口に入れても餅切れもいい。
軽すぎずしつこすぎず、餡も甘すぎず。塩の塩梅がちょうどいいのかな。
これなら二、三個食べても平気な感じ。
さすがプロが作っただけはある。
「あ、うまい。これ数食べれる感じ」
「でしょう。春ちゃんのところは名店だからねー。んじゃあ次これ! ――って、何でカウンターから離れるの?」
「い、いや、気にしないでくれ」
――――間に合わなかった。
言われる前に逃げようと思っていたのに。
「今日はねー、晃ちゃんにも見てもらってたんだよ。ささ、どうぞ!」
いやいや、待て待て。
美咲が羊かんを作ったのはこれで三回目だ。
三度目の正直って言葉もある。
色はともかく味はまともかもしれない。
美咲だって学習してるんだ。
前回作った豚カツは美味しかったじゃないか。
しかし、念のために、一応、万が一に備えて聞いておこう。
「ちなみにこれ。春那さんか晃さん味見した?」
「二人とも拒否った!」
父さん……どうやら、本日二回目の何かあったときが起きそうです。
多分、生きてると思うけど、ちょっと冒険してきます。
お読みいただきましてありがとうございます。
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