170 失ったものと得たもの3
俺が泣き止んだ後、父親とキッチンに移動した。
今思うととても恥ずかしい姿を見せてしまった。
父親がコーヒーを入れてくれて、二人とも口を開かずに向かい合って座ったままだ。
「……なんだか緊張するよ」
父親はコーヒーを一口含むと、静かに言った。
それは俺も同じだった。
コーヒーカップの縁を意味も無く撫でたりして、どう切り出せばいいのか悩んでいた。
俺は俺で親を勝手に恨んで、父親は父親で分かっていても距離を縮められず悩んでいた。
父親との距離は元に戻せたかもしれない。ただ、時間が経過しすぎた。
俺は父親に面と向かって何を話せばいいか分からずにいる。
言いたいことや、話したいことが、おぼろげながらもあるのに言葉にならない。
「……そうだな。私が家を空けてからの明人の話を聞かせてくれないか?」
そう言われて俺は、たどたどしくだけど、普段のことを話し始めた。
今までやってきたバイトのこと。
4月から始めたてんやわん屋でのバイトのこと。
新しくできた友人達のこと。この二日間新しい友人達と一緒に遊びに行っていたこと。
蓄積したものが吐き出されるように止まらなかった。
友人達の話をしたときに父親がほっとしたような顔つきで言った。
「そうか。楽しかったんだな?」
「うん。楽しかった。また機会作って行きたい」
父親はうんうんと頷き、たまに質問を投げかけてきた。
俺自身はまだ少しぎこちない気がしたけれど、父親は気にした様子を見せず俺の話を聞いていた。
それからバイク免許を取得しようと考えていることを言ってみた。
申し込むにも保護者の同意が必要だったから、ちゃんと話しておこうと思った。
父親は少しだけ考えて、学校に迷惑をかけないようにだけ約束させられて承諾してくれた。
「実は私もバイクの免許は持っているんだ。長いこと乗っていないけどね」
そう言って父親は俺がバイクに興味があることに「似たもの親子だな」と笑った。
同意書に署名して貰おうと教習所から貰ったパンフレットを部屋から持ってきて見せた。
父親はざっと中身に目を通すと、顔を上げた。
「どうせなら明日にでも手続きしに行こうか。私は明後日には帰ってしまうからね」
明日の午前中にさっそく申し込みに付き添ってくれるとまで言ってくれた。
そして、改めて今後のことについて話し合った。
母親はもう家に戻ってこないらしい。すでに自分が住む場所を用意してあるようなのだ。
逆にその方が俺の心は安定するかもしれない。
親権すら拒否された母親とどう接していいかもわからないし、いなくなってくれた方がすっきりする。
ただ、自分でもこの考えは間違っていると分かっていた。
分かっているけど、今はそうしたかった。
父親は明後日には単身赴任先に帰らないといけない。
それまでにある程度、俺の今後について話をしておきたかったようなのだ。
俺がこの家に残っていい条件は大学に進学すること。
それとたまに状況報告を入れること。この二つだけだった。
生活に関しては今までも一人でやっていたので心配しないで欲しいと訴えた。
「バイトは続けるのか?」
「俺は続けたい。今までだってちゃんとやってきたし。それにそこのバイトがきっかけで新しい友達もできたんだ」
俺の言葉を聞いて父親は、「そうか。わかった」と小さく頷いた。
俺の基本的な生活は結果として今までと変わらないものになりそうだ。
ただ、今までは母親という保護者がいた。今後は保護者が不在な状態になる。
そのことが父親的には不安材料らしい。
「今までは千秋君がいたから気にしていなかったけれど。学校の先生以外で誰か信頼できる大人はいるかい?」
そう言われて真っ先に思い浮かんだのは、何故かてんやわん屋の店長だった。
その次に浮かんだのは太一の母親である涼子さんだった。
「バイト先の店長と友達のお母さんかな。何で?」
「学校の先生には私から説明しておく。問題は学校以外なんだ。頼れる人がいれば不在の間、何かあったときにお願いしておきたい。何かあったときに連絡が取れるようにしておきたいんだ。できれば顔を合わせてお願いしたいと思ってね」
急に過保護のような事を言われても俺も困る。
ちょっと嬉しいんだけどさ。でも照れくさい。
「え、ちょっとそれ恥ずかしいんだけど」
「駄目かい?」
「駄目じゃないけど。……店長は明日まで休みなんだよ。太一のところも太一が明日出かけるし。父さんは明後日帰るんだろ? 」
「それは悪いタイミングだね。できれば誰かと顔を会わせたかったんだが」
残念そうな顔をする父親の顔をみて、急にある人物の顔が俺の頭に浮かんだ。
「成人でいいなら……あと一人いる」
☆
「父さん。あれが俺のバイト先『てんやわん屋』だよ」
「家まで結構距離があるね」
俺はてんやわん屋が見えたところで横に並ぶ父親に説明した。
俺が思い浮かんだのは美咲だった。
なんだかんだと言いながら、学校以外で長い時間を一緒にいるのは美咲だったから。
大学生だけど仮にも成人だし、何とかなるだろうと安易に考えてしまった。
父親と一緒なので、いつもの従業員用からではなく正面入り口に回る。
カウンターにはすでに美咲がいるのが見えた。
美咲も俺に気づいたようで入り口に近寄ってくる。
俺が一歩店に入って挨拶と父親を紹介をしようとした途端、もの凄い勢いで美咲に手を取られ、ぎゅっと握られた。
「明人君。本当に昨日はごめんね。嫌な思いしなかった?」
ぐいぐいと顔を近づけてくる美咲。
顔が近い。顔が近い。
「ええ? あああ、大丈夫。全然気にしていないから」
「本当に? 晃ちゃんには、ちゃんと言っといたからね」
申し訳無さそうな顔で俺の手をぎゅっと握り締めたままだ。
父親の前だから、とても恥ずかしい。
「うん。大丈夫だから。それより話が」
「そんなのあとあと! 私は心痛めてるんだよ。明人君のナイーブな心を傷つけてしまったんじゃないかって。一生かけて償わないといけないかって」
おいおい、何もそこまで言わなくっても。
「あのさ。それより話聞いて?」
「――――あれ? 明人君そちらの方どなた?」
ようやく父親の存在に気付いた美咲が目をぱちくりとする。
父親も目を丸くして、俺達二人のやり取りを呆然と見ていた。
とりあえず簡単に紹介。
「――――俺の親父です。単身赴任先から休暇で帰って来たんです。俺のバイト先が見たいというので連れて来ました」
俺の言葉を聞いて、美咲の顔が青ざめていく。
と、同時に顔に凄い勢いで汗が浮かんでいく。
「へ? い、今なんて? ……親父って、明人君のお父様?」
美咲は錆びついた機械みたいにギギギとぎこちなく父親に顔を向けた。
「うん。父」
俺の言葉に美咲の表情が埴輪みたいな顔になる。
俺、人が埴輪みたいな顔になるのって、初めて見たよ。
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