169 失ったものと得たもの2
父親――木崎和人の声を久々に聞いて、咄嗟に声が出せなくなった。
「――な、何?」
ドア越しにいる父親に向かって放つ声が一瞬つまる。
何を緊張しているんだ俺は。
「入ってもいいかな?」
まだドアは開けられておらず、静かな口調で語りかけてくる父親。
昔から変わらぬ物静かな口調。
怒鳴っている姿を見た記憶が無い。
「――うん。大丈夫」
心臓がドキドキと早打ちする。
軽い頭痛もしてくる。
声をかけると父親が静かに扉を開けて部屋に入ってきた。
父親は部屋の状態をくるりと見回して、安堵の表情を浮かべている。
普段から綺麗にしてるんだ。荒らしたりなんかするもんか。
そんな心配なんかいらない。
「……ちゃんと勉強は続けているんだな」
父親は机の上に置いていた課題を見て言った。
「それ……学校の課題」
「そうか。相変わらずだな。座っていいかな」
「……うん」
父親は俺に気を遣っているのか、事あるたびに確認してくる。
父親は話をするのに何だか躊躇しているようにも見えた。
一年以上会話をしていない俺もどうしていいか分からなかった。
「……そうだな。明人もいい年齢だから単刀直入に言う。――父さんと母さんは離婚することになった」
「え? 離婚?」
「そうだ。彼女は自分の人生を歩みたいと言ってね。私は協議離婚に応じるつもりだ」
俺のせいか? もしかして俺のせいなのか?
そう思ったことを顔に出してしまったのかもしれない。
父親は俺の顔を見るなり静かに切り出す。
「この件は明人が原因じゃない。それは断言する。離婚は私と千秋君の問題だ」
変わらぬ静かな口調。
なぜ、父親がこんなに冷静なのか、俺には分からない。
もしかして、俺に気を遣ってくれているのか?
「ただ、……嫌な話になってしまうが聞いて欲しい。彼女は親権を拒否した」
親権を拒否?
それって俺の事いらないって事?
母親なのに?
頭の中がぐるぐるとして吐き気がしてくる。
「落ち着いて聞いて欲しい。彼女は一人になりたいようなんだ。私が親権を請け負うつもりだ。親としての責任だからね。明人がそれで構わないか確認したかったんだ。もし明人が彼女の元がいいと言うなら、私が千秋君を説得するし、明人が社会人になるまで支援する」
「……それって父さんの面子のため?」
今まで溜まっていた鬱憤がそうさせたのか、口から攻撃的な言葉が出て自分でも驚いた。
「……今まで結果的に無視していたように感じだろうな。すまない。それについては謝る。でも、これは私の面子とかそういうちっぽけなものの為じゃない。明人の事を考えてのことだ」
「じゃあ、なんで今まで俺の事……無視してたんだよ?」
勝手に口から聞きたかったことが出てくる。
「……明人が受験を失敗して落込んだ時に私も悩んだ。まさか落ちるとも思っていなかったし、どう接していいか分からなかった。時間が経てば経つほど機会を失った。今となっては言い訳にしか過ぎないがね。明人自身から避けられている気もしてたんだ。私はそれに甘えていたのかもしれない。すまなかった。今更だけど本当にすまなかった」
父親は静かに頭を下げた。
父親も悩んでいた。
そんな当たり前のことに、俺は気付かずずっと恨んでいたことになる。
「……本当に母さんは親権を拒否したんだよね?」
「つらい宣告になるがその通りだ。嘘を言っても、明人が傷つくだけだから正直に言うことにした」
「それだったら俺がついていくって言えないじゃないか」
母親はそこまで俺を嫌っていたのか。
惨めなものだ。
母親から捨てられるだなんて。
「父さんが親権を持つのは分かった。……俺もそれでいい。そうなると俺はどうなる?」
「……そうか。次はその話だが、私の単身赴任の期間はまだ残っている。次はおそらく本省勤務になるだろう。ここには戻ってこれない」
「……転校しないと駄目なのかな?」
「明人がどうしたいかを教えて欲しい」
聞かれた途端、太一や美咲、アリカ、愛、響、綾乃やてんやわん屋の人たちの顔が浮かんだ。
なんだかんだとあったけど、俺が大事にしたい人達だ。
まだみんなと絡み始めたばっかりだ。
俺の何かが変われる気もするんだ。
このままみんなと離れるのが嫌だ。
できることならここに残りたい。
それが本音だった。
「俺は……今のまま……ここに残りたい」
言葉が上手く出せなかったけど、言い切ることは出来た。
父親は俺の言葉を聞いて小さく頷いた。
「そうか。大事なものがあるんだな。それでも構わない。ただ一つだけ条件をつけさせてくれ」
「……条件?」
「大学には進学すること。どこの大学とは言わない。明人がちゃんと考えた大学を目指しなさい」
「うん。……分かった」
「あと一ついいかな? これはお願いだ」
「……何?」
「たまにでいいから連絡くれないか? いい事でも悪い事でもいい。明人の状況を報告して欲しい。こんな私でも父親なんだ。それなりに心配しているんだよ」
微笑みながら言う父親の顔は俺が羨ましいと思っていた親の顔をしていた。
その顔を見た途端、俺の中で頑張っていた何かがもろく崩れた。
「今更、そ、そんなの。うっ、卑怯だ。うっ」
目から勝手にボロボロと涙が落ちる。
「今まで、うぐっ、散々、放っておいたくせに」
話す言葉も嗚咽が邪魔して話しにくい。
「……すまなかった。何度でも謝るよ」
「うううぅ~~~~~~~~」
もう抑えられなかった。
ただ父親の前でひたすら泣いた。
父親は静かに俺を見守っていた。
幼き頃のように。
そうだ。ずっと忘れていたけれど。
ずっと父親はそうしてきたんだ。
この日、俺はひとつの家族を失い、ひとつの家族を取り戻した。
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