閑話 混沌のハロウィン
――早い事だが、十月も今日で終わりだ。
つい先日まで陽炎でも立ち揺らめきそうな程熱気が立ち込めている中、紫外線対策の為に長袖を着て出歩いていたものだから暑いのなんのだったのに、窓の外を仰いでみるとまたはらり、乾き切った木の葉が風に落とされた。
水や寒い所が苦手である俺は、外の冷たい風を避けてぬくぬくと自宅で読書していた。
足元には数匹の黒猫がひなたぼっこしている。
世界各地の様々な時代の、様々な種類の本達に囲まれた書斎の一角。
猫達に癒されつつ紅茶片手に優雅な読書タイムを敢行している時に、不意にけたたましいベルの音が鳴り響いた。
漸く主人公の探偵が犯人を言おうとしているシーンまで行き着いたというのに、邪魔をするなんてとんだ無礼者ですね。
心の中で毒づき、居留守を決め込もうとしたが、よくよく考えてみればこんな田舎のしかも山中にある洋館に訪ねてくる者など片手で数えられる人数しかいない。
――その人物の誰もが、居留守が後でバレればかなり面ど……厄介なな方々ばかりであった。
絶え間無く鳴り響くベルに転寝していた猫の一匹が煩わしそうにつぶらな黄色い瞳で俺の顔を見つめてくる。
「分かってますよ、繰露……」
今まで読み進めていた頁に栞を挟んで閉じ、カップをソーサーに戻すと、本棚と猫の迷宮を抜けて玄関へ向かった。
「はいはい、どちら様です?」
扉を解錠して苛立ち混じりに言うと自分で思ったよりも低い声が出て少し驚く。
童顔と低身長といつまでも声変わりしないのがコンプレックスなのに、俺ってこんな声も出せたんですね。
軽く感動すら抱くも、次の瞬間には異様な来客に全て掻き消されてしまった。
「トリ……ト……」
鮮やかなオレンジ色をした南瓜が二体、扉の前に佇んでいた。
魔法使いのような黒いローブに身を包んだ彼らの片方は自分と同じくらいの背の高さで、もう片方は頭一つ分ともう少し小さい。
謎の怪物の襲来に思わず固まった俺に構わず、小さい方のカボチャが一歩進み出てくる。
「トリ……ダ……バゴ……」
「……」
南瓜に彫られた大きく裂けた口から声が漏れるが、その声はくぐもっていて何を言っているか分からない。
ドアノブに手を掛けたまま石のように固まっている俺に痺れを切らしたのかもう片方もゆっくりと近づいてくる。
そして二体は俺ににじり寄りながら、口を揃えてこう言った。
「「トリニダード……トバゴ……」」
「……はっ?」
――え、なん……トリニダード・トバゴ……?
戸惑う間も与えずに、二体は俺の服の裾を掴む。
「「トリニダード・トバゴぉおお……!」」
「う、うわぁああ!? 引っ張らないでください、伸びる! もう、何なんですかぁああ!?」
*
*
*
「はい、どうぞ」
「わぁい!」
「ドーナツっ!」
シンプルな白い皿の上に乗せられたカラフルな装飾がされたドーナツに感嘆の声を上げる僕達に、紅茶を淹れてくれる蓮は溜息を吐いた。
鬼灯に「十月三十一日は仮装して訪問するとお菓子貰える」と言われて衣装を手作りまでして来たのだが、渡す側からしたら何かしら思う所があるのだろう。
「全く、吃驚しましたよ。突然自宅にカリブ海南部に位置するイギリス連邦加盟国を連呼する南瓜の化け物が押し掛けて来たんですから」
「あんたも鈍いんだよ。普通十月三十一日と南瓜の被り物の時点で気づくものだよ」
「なんでよりにもよってその仮装をチョイスしたんですか。それに正しくは『トリック・オア・トリート』です!」
いつも通り言い争いを始めた二人を無視して、僕はさっさとドーナツを口に運んだ。
「ん、チョコドーナツ美味しい!」
「塁兎は人の話を聞きましょうか? 何故こんな世にも奇妙な間違え方をしたんですか? ねえ?」
どんな間違え方をしたと問われても、トリニダード・トバゴもトリックアートも似てるんだから仕方な……あれ? まだ何か間違ってる気がする。
僕が首を傾げつつ、口の中の物を飲み込むと不意に膝に重みを感じる。
反射的に視線を落とすと、膝の上で黄色い瞳の黒猫が毛繕いしていた。
床で寛いでいた猫の一匹が、椅子を伝って登ってきたのだろうか?
喉を撫でてやると、黒猫は嬉しそうにゴロゴロ鳴いて僕の腕を伝って肩に飛び乗り、擦り寄ってくる。
「ねえゴミクズ野郎ー」
「何ですマセガキ」
「うっせはげ。バナナある?」
人懐っこい黒猫を愛でている僕の隣でドーナツを片手に持ち、しげしげと見つめていた鬼灯が声を掛け様に暴言を吐くが蓮も爽やかな笑顔で暴言を返す。
その後の鬼灯の質問に、蓮の笑みが一層深いものになってゆくが嫌な予感を感じるのは何故だろうか。
「ふふふ。人の家に勝手に上がり込み、俺が隣町の人気スイーツ店に三時間並んで買った数量限定のドーナツを図々しく貰っておきながらその上バナナまで強請る気ですがこのマセガキは」
――案の定嫌な予感は的中した。
「道理で美味しい筈だよ! そんな貴重なお菓子何でくれたの!?」
ちょっと家に余っていたお菓子を貰えれば良い方だと考えていた僕は驚き、黒猫を肩に乗せている事も忘れガタンと大きな音を立てて立ち上がるが黒猫は爪を立ててしがみつき、振り落とされずに済んだ。
猫さん落ちなくて良かったけど痛い。爪やめて。
「可愛い良い子にはそれなりのお菓子を与えますよ。そっちのマセガキは勝手に便乗したようですが」
「静かに怒っている……」
蓮が浮かべているのは依然優しげな微笑だが、陽の光に反射して輝く金の瞳には静かなる怒りが沸々と煮えたぎっている。
罪悪感がこみ上げてくるが、後悔先に立たず。ドーナツは既に胃の中だ。
「塁兎には全く何も怒ってませんのでお気になさらず。あ、バナナなら其処にありますよ」
「早く寄越したまえよ」
「はいはい」
蓮が指した本棚の上には、バナナの他にも様々なフルーツが入ったバスケットがある。
何故書斎に食べ物を置いているのかは謎だが、蓮は珍しく鬼灯に言われるがまま本棚に近づいてバスケットへ手を伸ばす。
――何だかんだ言って、怒りつつもバナナをあげる蓮は優し……
「フンヌゥ!」
「ウビャッ!?」
――刹那、ストレートでぶん投げられたバナナは見事鬼灯の顔面へ的中した。
その瞬間鬼灯はバランスを崩し、奇声を発して椅子ごとひっくり返った。
「ははは、ざまぁみろよです!」
「何するんだこの人格破綻者! サイコパス! 思春期野郎! ドS!」
「何とでも言えば良いのです! ふふ、ふふふ……あははははは!」
「キチガイ! 塵芥!」
起き上がった鬼灯は鼻を押さえながら蓮に罵詈雑言の限りを尽くすが蓮は狂ったように笑い転げている。
――前言撤回。蓮はやはり怖い。
僕の肩に乗った黒猫も終始呆れた視線を二人に送りつけている。
「ふぅ、流石に苦しくなってきました……君は俺の腹筋をどうしたいんです?」
「できれば切り取りたいかな……」
数分後、お腹を押さえて笑うだけ笑い転げた蓮の目には薄っすら涙が浮かんでいた。笑い過ぎだろう。
対する鬼灯が眉間をひくつかせながら吐き捨てると、蓮は鬼灯にゴミでも見るような目を向ける。
「うわぁ……冷凍庫に保存するんですか? 気持ち悪っ」
「しないよ! ゴミ箱に捨てるに決まってるだろう!?」
「お、落ち着いてってば!」
再度白熱してきた不毛な争いに流石に仲裁に入ると、鬼灯は漸く僕の方へ振り向いた。
「塁兎が言うなら許す! 嗚呼僕と塁兎ってなんて優しいんだろう!」
――満面の笑みで親指を立てながら。
……この時、僕に見えないように鬼灯が蓮に向かって中指を立てていた事なんて僕は何も知らない。何も見ていない。
「何で上から目線なの……踏むよ……」
「是非ハイヒールの踵で踏み潰してください」
調子の良い鬼灯に呆れ、こめかみを押さえると鬼灯はそう口走りながら土下座をかました。
その様子に一層呆れる。男子小学生がハイヒールなんて持っている訳ないじゃないか。
「ハイヒールありますよ?」
腹筋崩壊から完全復帰した蓮が何処からともなく突き出したのは、童話に出てきそうなガラス製の靴だった。
「おい何故男子中学生がシンデレラの靴持ってるんだよ……」
「夏休みの工作で作ったんです。勿論鬼灯に履かせる用に」
「もう死んじゃえば良いのになぁ」
男子中学生らしからぬ乙女チックなアイテムに今度は鬼灯が蓮に引いた顔を向ける番だが、蓮は弁解するどころか寧ろ鬼灯の反応を楽しんでいるようにさえ見受けられる。
君ら仲良いな。と呟きかけたが二人に全力で否定されるのは目に見えているので言葉を飲み込んだ。
「茶番はともかく、鬼灯は何でバナナ欲しがったの? まだドーナツも食べてないのに」
「やっと突っ込んでくれたね。それでは質問にお答えしよう」
あれだけ欲しがった癖に、皮を剥いた状態のまま未だ一口も口につけられていないバナナを指差して怪訝な顔で問うと鬼灯はにやりと悪戯っぽく笑んで、バナナを持つ方とは正反対の手にドーナツを持つ。
――そして何を思ったか、バナナをドーナツの穴に突き刺した。
「ゴミ野郎はお前じゃないですかっ!」
「あべしっ!?」
直後鬼灯の鳩尾に華麗な右ストレートが決まった。
今まで十メートル程離れた本棚の前に立っていた筈の蓮は一瞬で鬼灯の前へ移動して、思いっきり殴りつけたようだが余りにも素晴らしい身のこなし方に拍手すら送りたくなった。
「ハロウィンくらい下ネタを自重なさい! R-15表記を無視して閲覧している十五歳未満の方々もいるのですよ!?」
「それは読んでる側の責任だから僕が責められる理由は無いだろう……ゴフッ。塁兎に殴られたかった……」
話している途中、鬼灯が血を吐き出すが蓮の表情は依然笑顔だ。初めと変わった事と言えば、蓮の背後に黒いオーラが見えるくらい。
「お前は馬鹿だ……です。第一小学生がバナナとドーナツの下ネタを知っている訳ねーだろですよ」
「僕はその小学生ですが……日本語崩壊させてまで敬語に拘らなくても良いんじゃないかい……」
「嫌です」
「なんで」
「……嫌なものは嫌なのです」
「なんで嫌なの?」
「嫌だからです」
怒りのあまり日本語がおかしくなってきた蓮に僕より先に鬼灯が指摘すると、そこから無限ループという名の問答が始まった。
「餓鬼かあんたは……嫌々言ってるだけじゃ分からないでしょ?」
「俺が嫌と決めたものは嫌であってそれ以上でもそれ以下でもなくて嫌なものは嫌以外の何物でもなく、かといってその理由を君に述べるのも何かよく分からないけれど嫌で自分の気持ちがよく分からない自分も嫌なんです」
「『嫌』という字がゲシュタルト崩壊してきたのだが」
いつになく頑なに「嫌」とだけ言い続ける蓮に鬼灯が段々苛ついてくるのが分かる。
対して蓮は口元だけ釣り上げた笑みのまま、その無感情な黒と金の瞳は何も映していない。
「蓮、言ってる事支離滅裂だよ? どうしたの?」
蓮が何を考えているのか、いつも以上に分からない僕はおずおずと尋ねた。
蓮は顔だけ僕に向けて、ただ笑った。
「……別に何も。お気になさらず」
*
*
*
「トリックオアトリートぉーお!」
『なーんだぜー!』
明るい声と共に霧島がリビングに猛追してきた事により、現世と夢の間をふわふわ漂っていた意識はハッキリと現世に引き戻された。
「ちょっ何寝てるの!? ほらほらハッピーハロウィンだよ!」
「……分かっている。もう起きてるから放せ」
ソファに沈んでいる俺を見て、まだ寝ていると勘違いして激しく揺さぶってくる霧島を払い除けて身を起こし、霧島が持っている携帯の時刻表示をちらと確認すると午後五時を少し回った時刻を示していた。
そして眠る前の記憶が徐々に鮮明になってゆく。
今日は文化祭の準備で学校が終わるのが早く、面倒な準備をこっそりサボって早々に家に帰って……その後の記憶が綺麗さっぱり抜けているので、そのまま数時間寝てしまったのだろう。
それにしても、オチが随分と意味不明な夢だったな……
「……で? お前らのその格好は何だ」
「見ての通り黒アリスだよ?」
『見ての通りおばけだぜ?』
携帯の中のアンリは顔が書かれた白いシーツを頭から羽織っていて、霧島の服装は見慣れたセーラー服ではなく、黒に白のエプロンドレス。
霧島が首を傾げると、頭の上で留められた大きな黒のリボンも揺れた。
「……それは分かるのだが、何故コスプレをしている?」
「ハロウィンだからだよ?」
『ハロウィンだからだぜ?』
無邪気な笑顔で素直に答える二人に、俺は眉を寄せる。
現実でもハロウィンかよ。しかも手作りジャック・オ・ランタンの俺と比べると霧島はかなり本格的だし……女子は良いな。着れる服が多くて。
「それより、そろそろお菓子貰えるかな? トリックオアトリートって言ってから大分経ってるけど」
「ああ……そうだったな」
『さぁ! さっさと持ってくるんだぜ!』
「液晶割るぞ」
『あれっ、何か俺には厳しくない!? なんだぜ!?』
何の拘りかは知らんが、いつもだぜだぜって語尾につけて五月蝿いな此奴。
あんな夢を見たせいか、口調が気になってしまうな……アンリと蓮は違うのに。
「クッキー持ってくるから待っていろ」
「『はーい!』」
確かキッチンに昨日作ったクッキーの残りがあった筈だし、それでも与えておけば満足するだろう。
俺は二人を残してキッチンへと向かった。
――ま、蓮もアンリも鬼灯に嫌われているように見えて波長が合ってそうな所は同じだがな。
良かったな鬼灯、俺以外に友達できて。
鬼灯「良くねえよ」
アンリ「口調www」
鬼灯「うっせえゴミ野郎」