第八話 No.6アンリ(黒田蓮)【破】
【前回のあらすじ】
団長怒らせるな危険。
零音「少し早いけどハッピーハロウィン」
作者「ハロウィンイラスト描こうとしましたが間に合わなくて、かといって何もしないのもアレなので挿絵とかおまけイラストを後書きに付けておきました」
一度だけ、溺れた事があった。
冷たい水に感情や慈悲などは無く、ただ俺の上に重くのしかかって下へ下へと沈めてゆく。
底無しの闇を漂っている俺の身体は鉛でも乗っているのかというくらいに身体が重く……全身を倦怠感が支配していて、目を開けているのすら億劫だ。
息ができなくて、とても苦しくて、咳き込む度に肺からゴボゴボと空気の塊が飛び出してゆく。
何も見えない、何も聴こえない冷たい水の中で為す術もなく延々と沈んでゆく感覚はとても恐ろしく、苦しかった。
意識が途切れかけたその時、水面が揺らめいた。
――刹那、視界を過ぎった二つの赤い光。
水面越しに僅かに射す光に向かって、藁にも縋る思いで手を伸ばせば温かいものが俺の手を掴み、俺を抱き抱えて上へと引き上げた。
水面に向かって上ってゆくに連れ、あれ程真っ暗で冷え冷えとしていて水中は徐々に明るく、温かくなってゆくように感じた。
高く飛沫を上げて、水中から飛び出した途端身体が酸素を必死で取り込もうと激しく喘いだ。
咽せて咳き込む俺の背中を優しく撫ぜ、塁兎はゆっくり微笑んでこう言った。
『もう、大丈夫だよ』
*
*
*
――あの後は色々と大変だった。
何故か傍観していただけの俺まで署に連れて行かれたと思えば警察に散々事情を根掘り葉掘り聞かれるし、未だに怒りが冷めていない塁兎が理不尽に鬼灯に当たり散らしているのを何度も目の当たりにした。
彼女はそんな塁兎を遠くから心配そうに見つめていた……のではなく、八つ当たりされているのに大層嬉しそうな鬼灯に穢らわしいゴミでも見るような蔑みの視線を送っていた。
そんなこんなで全て片づいたのは午後五時過ぎ。
彼女はカラオケに行きたがったが、時間も時間なので今日はもう帰ろうと諭すと多少なりとも騒動に俺達を巻き込んだ事に罪悪感を感じていたのか、案外すんなり諦めてくれた。
「全く、昨日はとんだ厄日でしたよ……」
「へえ……大変だったんだね」
昨日の経緯を親友に語り終わると、同情の籠った視線を向けられた。
――現在、昼休みin教室です。
持参したアイスを味わいながら、俺は次の授業までの時間を藍に愚痴を零す事で潰していた。
アイスボックスを毎日持ち歩くのは中々に骨が折れるし、本来学校には飲食物は持ち込み禁止なのだがアイスは最早俺の精神安定剤なので妥協はしない。
校則なんて破る為にあるようなものですよ。
「ですよね! 鬼灯にストーカーされてた事にも驚きですけど!」
「だから依存されないように気をつけて適度に距離感を計らないとって言ったでしょ。……鬼灯さんは危険だよ」
藍は俺ではなく、俺越しに何処か遠くを見るような目で呟いた。
臆病で照れ屋な藍にこんな顔をさせるなんて、あの餓鬼藍に何をした……
――藍の言いたい事は分からなくもない。
塁兎に対する信奉っぷりを数年間目の当たりにしてきた身としては彼の「塁兎に逆らう奴は親でも殺す」といった感じの献身を通り越した信仰心は異常だとは思う。
塁兎自身はあまり気に留めていないようだが、あれは友情でも恋愛感情でもなく……依存と執着。
でも塁兎を独り占めしたいという感じではなく、あくまで塁兎の幸せを最優先している所はまだマシといった所か。
「へえ、レンたんって子供に好かれてるのね!」
「……どちらかと言えば嫌われてる心当たりしかありませんが」
何か勘違いしているはぐさんの言葉を真顔で首を振る事によって俺は否定した。
――鬼灯は塁兎の彼女への想いを誰よりもよく知っており、そして誰よりも応援している。
だから彼女の想い人である俺の存在が邪魔で、うっとおしくて仕方ないのだろう。
確かに俺が彼女と話していると、塁兎と鬼灯二人から恨めしげな視線が飛んでくるし。あれは心臓に悪い。
――あれ、何だろうこの複雑すぎる四角関係。
面倒臭い……俺は彼女の事は友達としか思っていないし、それ以上でもそれ以下でもないのだが。
そもそも恋愛自体に興味がないのに、勝手に俺を巻き込まないで頂きたい。迷惑も甚だしい。
「……してはぐさん」
「な、何……? レンたん」
真剣な眼差しで顔を覗き込むと、はぐさんは頬を少しだけ赤らめて返事した。
金髪グラマー美少女のするその笑顔は魅力的で、恋愛に興味がないとはいえど年頃の男の子である俺でも少しグラっときた。
くっ、侮れない女子力だ……じゃなくて。
俺にはもっとツッコミを入れるべき事があるだろう……
昨日経緯上「友達」になった彼女だが、クラスが違うのに何故此処にいるのかとか、何故学校は飲食物持ち込み禁止なのにポテトチップスを詰めたタッパーを持っているのかとか(俺も人の事は言えませんが)、何故皆はぐさんと俺が並んでいるのを見ては生暖かい視線を送ってきているのかとか、ツッコミたい事は山程あるが、先ず……
「あの……『レンたん』とは……?」
「君に付けたあだ名よ。良いあだ名でしょう?」
――いやいやいや!?
「俺ってどう考えても『たん』とか呼ばれるキャラじゃないですよね?! 何がどうしてそうなったんですか!!?」
ツッコミ所が多すぎる。『レン』だけなら分からなくもないが、『たん』って!? 『たん』!?
「そんな事より、レンたんって好きな食べ物あるのかしら? 私はマヨネーズLOVEよ!」
引きつった笑顔で文句をぶつけるが、はぐさんはポケットから取り出した手帳とペンを握って質問を質問で覆い隠す。
貴女の好きな食べ物がマヨネーズとか至極どうでもいいですから! そこは真面目に答えてくださいよ!
そのあだ名のせいでクラスメイト達からの生暖かい視線やら殺気の籠った嫉妬の視線やらが突き刺さってるんですって!
「練乳です! それより俺の質問に真面目に答えてくださいよ」
「練乳……ちょっと意外ね。じゃあ苦手な食べ物と苦手な教科は? あ、それから好きな色、それから血液型に生年月日に家族構成……」
「絶対この子話聞いてない……! 苦手な食べ物はピーマン、苦手教科は水泳。好きな色は黒、血液型はA型……後は分かりませんっ!」
俺の言い分に一切聞く耳を持たずに、すらすらと質問を並べてくる彼女によく質問の種が尽きないものだな、呆れを通り越して感心さえしつつ答えられる質問だけ答えきると、はぐさんはペンを走らせる手を止めて不思議そうに首を傾げる。この状況で一番首を傾げたいのは俺だ。
「え? 分からないって……どういう事?」
――先程の言葉、一度に色々な質問をされすぎて覚え切れなかったという訳ではない。俺は記憶力は良いし。
「どういう事って……そのままの意味ですよ」
近くの席にいる二人にだけ聞こえるようボリュームを落として、俺はいつもの笑顔を貼り付け、できるだけ柔らかな声で言った。
「俺、十歳より前の記憶がないんです」
その言葉を受けた二人が固まった。
――四年前。
山の麓の池というより沼のような、大きく深い蓮池で溺れていて。気がついた時には既に自分が何処の誰で、こんな所で何をしていたのか……さっぱり思い出せなかった。
偶然通りかかった塁兎に助けられ、拾われて「黒田蓮」という名前を貰い、身体の大きさから十歳くらいと推定された俺は今鬼灯に用意してもらった山中の屋敷で暮らしている。
「所謂記憶喪失ってやつですね。お恥ずかしい話ですが」
咄嗟に笑顔を作って誤魔化そうとしたが、楽しげな雑音が溢れる教室内で俺の周りだけ空気が凍りついている。
双子は両方とも先程までの和やかさが嘘のように顔面蒼白で、地雷を踏んだ、とでもいうように顔を見合わせている。
――できるだけ驚かせないように言ったつもりが、まるで効果がなかったようだ。
記憶喪失を告白した時に流れる、このお葬式のような沈痛な静寂はやはり好きになれない。
自分がこの空気を作っておいて何を言うんだと思われるかもしれないが、人に気を遣われるのはどうにもむず痒くて居心地が悪い。
「……さぁ、もう止めた止めた!」
大きく手を叩くと、お葬式のように重苦しい表情で俯いていた二人は椅子の上で軽く飛び上がった。
「もう、大袈裟ですって! そんなに気を遣わないでください、気にしてませんから!」
「う、うん……」
「レンたんがそう言うなら……」
俺は大丈夫、という意思表示に親指を立ててみせると二人の表情が幾分か和らいだ。
――ま、気にしてないなんて嘘なんですけどね。
気を遣われるのが居心地悪いのでそう言っただけであって、気にしていないというのは真っ赤な嘘だ。
周囲には無理せずゆっくり思い出してゆけばいい、と言われたが何年経っても本当の名前も、誕生日も、家族も、何一つとして思い出せやしない。
そしてその事に強く不安と焦燥を抱いているのは紛れもない事実だ。
何故自分は記憶を失わなければならかなかったのか。
塁兎に発見された時、外傷はなかったから精神的な問題かもしれないと言われたが、記憶を全て失う程のショックを与えられたのか?
あの時、俺の身に一体何が……
――不安は腐る程あるが、関係ないこの子達にその気持ちをぶつける訳にはいかない。
「ほらほら、折角の昼休みなのですから重苦しい空気は止めて明るくいきましょう?」
「「そ、そうだね!」」
明るい声の調子と笑顔で二人の肩を叩くと、双子は同時に小さく笑みを作った。
そう、これでいい。
すっかりいつも通り……とはいかないが、また談笑し始めた二人に笑顔を向け、俺は二袋目のアイスを開けた。
――のが数分前の出来事である。
「マヨマヨドヴァドヴァ♪マヨマヨドヴァドヴァ♪」
出会って二日目にして初めて見る、向日葵を連想させる眩しい笑顔で不気味な歌を大熱唱するはぐさん。
その手には、市販のマヨネーズのパッケージが握られている。
「あれは……やり過ぎじゃないですか……?」
「え? はぐはいつもあのくらいかけてるよ」
持参のタッパーにぎっちり詰め込んだポテトチップスに持参のマヨネーズを惜しげもなく大量にぶち撒けるという、見ているだけで胃がもたれそうな奇行に俺が即座にツッコミを入れると、藍がしれっと「それが何?」というニュアンスを含ませて返答する。
「マヨラー……だと……」
「もう、蓮は大袈裟だなぁ。そんな愕然とした顔で目玉が落ちそうなくらい目を見張る程じゃないよ?」
うん、「こんなの日常茶飯事だよ」と言外に告げるのはやめて頂きたい。
藍は見慣れてるせいで正確な判断能力が鈍っているのだろうが、ポテトチップスが見えなくなるくらいぶち撒けられたマヨネーズの量はどう考えても尋常ではない。
俺の感覚が間違っていない証拠に、ちらほらと俺に向いていた野次馬達の視線はほぼ全てはぐさん一人へと集められている。
はぐさんの意外な嗜好に閉口させられた俺は、大人しく棒アイスにしゃぶりついた。
口に入れた途端アイスは蕩け、口内にふわりと練乳のまろやかな甘みが広がる。
うん。やはり「黒瀬さん家自家製練乳アイス」はこんな時でも格別です。
この「黒瀬さん家自家製練乳アイス」は近所のアイスクリーム専門店の看板商品で、棒アイスの癖にやたら粘っこくて垂れるのが難点だが、味は満点だ。
ああ……良い……この冷え切ったまろやかな純白が混沌の腐海に陥りかけていた俺を天国へ誘ってくれる……練乳デリシャス……!
これを作った黒瀬さん、マジでリスペクトします……結婚してください……!
「ところで蓮」
「ビバ練乳…………ハッ!?」
アイスが余りにも美味し過ぎて、危ない世界へ片足を踏み入れかけていた俺は親友藍によって現世という名の教室へ呼び戻される。
「な、何でしょうか?」
そして自分が相当恥ずかしい事を脳内で連呼していた事を思い出し、焼け野原になりそうな顔を即席の笑顔で覆い隠す。
藍はレッツ・練乳フィーバー症候群を発症していた俺に呆れるでもなく、引くでもなく、おずおずといった様子で口を開いた。
「あのさ……アイスの溢し方が中学生と思えないんだけど……」
「えっ……」
――藍の指摘通り、棒アイスを持つ手は溶けたアイスでベタベタになっていて、机にも白い水溜まりが出来上がっている。
「おや、まぁ……」
「今気付いたの!? 結構な量だよね、これ! オレ記憶喪失の件の少し前からずっと気になってしょうがなかったのに!」
「それは誠に申し訳ありませんでした。俺アイス食べるの苦手ですからね……」
できるだけ申し訳なさそうな表情を作ってみせると、藍は呆れ顔で肩を竦める。
ちなみに「苦手なら何故食べているのか」と問われれば、俺は感発入れずに「練乳が好きだからです」と即答するだろう。ビバ練乳。
「もう……ティッシュ持ってるの?」
藍はその答えを予想していたからか、そうは聞かず駄々をこねる子供を叱る母のように尋ねてくる。
「ええ、持ってませんね!」
「何で自信満々なの……」
反省するどころか開き直って意気揚々と答える俺に藍は眉間にしわを寄せながらも、さり気なくポケットからティッシュを取り出し手際良く机を拭いてくれる辺りに彼の優しさを感じる。
「机はこれで大丈夫だけど、顔と手もベトベトだよ?」
「え」
顔は鏡が無いので確認しようがないが、俺の右手にはアイスが溶けた事により生まれた白い液体がべっとりとこびりついている。
これは気づきませんでしたね。どれハンカチ……は持っていない。ティッシュなんて論外です。オワタです。
藍から借りようと藍へ目を向けると、彼の所持しているティッシュは全て俺の机を拭くのに動員されてしまっていた。溢し過ぎだろ俺。
仕方ない、ならばはぐさんに借りようと彼女へ目を向けると……先程まではぐさんが座っていた席には目を剥き般若の形相でマヨポテチ飯をガツガツと喰らっている狂人がいた。
「あれ……? こんな人居ましたっけ……?」
見覚えのある金糸の髪をボサボサに振り乱し、一心不乱にタッパーに食らいつくその人は制服を着ているし、何処か見覚えがあるけれど、あまり認めたくない……
「違いますよね、この方がはぐさんに似てるだなんて本人に失礼過ぎますよね」
「――非常に残念な事ですが、それは紛れもない神山はぐだよ」
一人呟き、一人頷いていると藍が俺の肩に手を置いて哀愁を漂わせながら告げた。
――俺は決してふざけている訳ではない。
それ程までに目前の彼女は原型を留めていないのだ。
黄金の髪、抜群のスタイルは変わらないのだが、白目の部分を真っ赤にして大口を開けるその姿は人の皮を被った悪魔のようにも見える。
それにびっしりと生えている歯は普段より尖って見えるし。
「えっとね……はぐはマヨポテチ食べてる時は人が変わるんだよね……こうなったはぐに下手に構うと噛まれるから注意ね」
「狂犬!? 狂犬なんですか!?」
生憎ティッシュ一つの為に狂犬化したはぐさんに声をかけられる程俺は肝が据わっていない。
周囲も変貌したはぐさんにドン引いている人やら、憂いを帯びた表情で此方を見守る人やらで溢れていて、相変わらず俺達はクラスメイトの視線に晒されている。
しかし、ティッシュを手に入れられないとなると困ったものだ。
ベトベトの手を放置する訳にもいかないし……
――仕方ない、非常に不本意な事この上ないが意地を張っている猶予は最早残されてはいない。
苦肉の策だが、幸いまだ乾き切っていないし、ここは……
俺は一つ大きな溜息を吐き、ゆっくりと指を口に持ってゆく。
「……え? ちょ……」
ふわりと口内に広がる甘みは先程同様至高の味で、溶けたせいで粘っこさが増した液体が舌に絡みつく。
水音が教室に響く度双子含むクラスメイト達から熱っぽい視線が注がれているが、気にしないフリを決め込んだ。
いちいち気にしていたら顔面が焼け野原になるからだ。
「な……何してんの……!?」
濡れた指を粗方舐め終わった所に、最後列の席に座る俺の背後から不意に冷たい、けれど動揺を隠し切れていない声と冷気が流れ込んできた。
「おや君でしたか。ご機嫌よう」
冷気の時点で誰かは検討がついていたが、俺は敢えて振り返って直様驚いたように目を見張ってみせ、にこりと即席の作り笑いで微笑みかけた。
誰でも騙されるであろう、俺の完璧な猫被りを即座に見破った彼は不快そうに眉を寄せる。
「ほ、鬼灯さん!?」
「どうして此処に!?」
俺とは反対に、双子は今の今までその存在に気づかなかったらしく心の底から驚いている。
「其処の馬鹿に用向きがあってね……てかそれ何プレイ?」
唐突にランドセルを背負った中性的な小学生が乱入してきたので、野次馬からの視線もより一層集まってくるが、鬼灯は視線など気にも留めずに俺の舐めていた方の手を掴んで詰め寄ってくる。何の話でしょう。
「……何だ、ただのアイスか……にしても溢しすぎじゃないかい? そしてフェロモン垂れ流し乙」
暫く机と手を見回していた鬼灯だが、アイスの袋の存在に気がつくと露骨に肩を落として落胆する。
何故落胆しているのかは分からないが、今日はまた一段と感情の起伏が激しいな……ひょっとして機嫌が良いのか?
「棒アイスは苦手なんですよね」
「自覚してるなら何で食べるのさ! 幾ら苦手だからってここまで溢しまくる奴もそうそういないだろうね!
棒アイス苦手ならバナナなり棒付きキャンディなりで練習しなよクズ!」
内心渦巻く疑問をおくびにも出さず、素直に告白した途端マシンガンの如く文句を浴びせてくる鬼灯。
だからこの子は何をそんなに必死になって喚いているんだろうか。
俺が何をどのように食べようとそれは俺の自由であって、彼に口出しされる謂れはない。
「何を怒ってらっしゃるのか理解でき兼ねますが……要件とやらは何でしょうか。学校に乱入してくるくらいの急用なのでしょう?」
俺の何が琴線に触れたかは不明だが、珍しく取り乱している彼をこれ以上激昂させるのは後の対処が面倒なので自然に話題を転換しようとした俺の意図を察した鬼灯は憎々しげに睨みつけるが、その睨みは悪巧みの時の顔に比べれば威圧される程の迫力はない。
眉一つ動かず薄く笑みを張っている俺の態度に不快そうに顔を歪めるも、目を閉じてなんとか感情を落ち着けようとしている所は称賛に値する。
「……そうだったね。この三タイプの機種の中から好きなの一個ずつ選んで。ついでに双子も」
暫くして落ち着いた彼の顔には赤みが僅かに残っていたが、あの状態からここまで平静を取り戻した鬼灯に内心拍手を送っていると、脇に抱えていた荷物を俺の机の上に降ろした。
降ろされた荷物はヘッドフォン、眼鏡、熊のぬいぐるみ……と一見どれも何の関連性もないようなアイテムばかりだ。
だが鬼灯は今「機種」と言ったので何らかの機械なのだろうが、三つを見比べれば見比べる程用途が分からない。
まあ元より天才が何を考えるかなんて、所詮秀才止まりな俺には解りかねますが。
「私ぬいぐるみにするわ!」
「オレは眼鏡。伊達眼鏡欲しかったんだ」
そうこうしている内にいつの間にか復帰したはぐさんと藍が速攻でそれぞれ気に入ったものを手に取った。
「鬼灯。此方は一体何なんです?」
「あんたは何だと思う?」
俺は最後に残されたヘッドフォンを必然的に手に取り、尋ねると笑顔ではぐらかされる。
明らかにからかわれているが、
黒く塗装され、黄色の差し色が入れられたシンプルなデザインのそれは何処からどう見ても通常のヘッドフォンと変わりない。
となると特殊な機能でも付いているのか?
「最新型のゲーム機の試作品さ。そのヘッドフォンも上に電源ボタンが付いているだろう?」
言われて確認してみれば確かにヘッドフォン上部にボタンらしきものがくっついてはいるが画面もコントローラーも見当たらない。
これでどう遊ぶのか?
そんな疑問を察したのか、鬼灯はにやりと碧眼を三日月型に歪ませて嫣然と微笑んだ。
「今言っただろう? それは最新型のゲーム機と。ヘッドディスプレイ型ではなく、睡眠導入型のVRさ」
「……は? VR……?」
「VRも知らないのかい? 全く、これだから愚民は。しょうがないこの僕が説明してあげようじゃないか!」
聞きなれない単語に俺が首を傾げると、鬼灯が得意気に「どやぁ」と効果音ではなく実際に口で言いながら説明を始めた。
あ、何だか嫌な予感がします。
「VRはバーチャルリアリティーの略称だよ。今までのVRは一人称視点のディスプレイを見ながら手元では別のコントローラーを操作しなければならないという難点があったけれど、塁兎と共同開発したこの睡眠導入型はそれが改善されているし値段も工夫して手頃なものに設定したんだ」
「な、成る程……?」
「更に塁兎が担当した自立型AI、リアリティ重視のグラフィック、それから大型サーバーの物量的演算能力によって可能な限りのリアルな仮想現実空間を――」
「はい! 充分分かりましたから! 長文乙!」
「乙って君ねぇ……君の為に説明してあげてるのに何さその態度は」
「いや別に頼んでませんし。それに貴重な最新型ゲームの話を発売前にこんな人目の多い所でして良いのですか?」
段々熱っぽくなってゆく説明もとい演説を両手を振って制止し、それでもまだ何か言いたげな鬼灯をばっさり切り捨てる。
現にクラスメイトの殆どが此方に聞き耳を立てているし、あからさまに興味を持っている者も不特定多数此方に視線を送っている。
素晴らしい野次馬精神だ。
「うっ……!? そ、それはそうだけどさ。でもいざとなったら金の力で口止めすればいいし……」
鬼灯はようやっと周りの視線に気がつくと、俯いて言い淀む。
弱々しい声で何やら小学生らしからぬ物騒な言葉を口にしたが、そっと蓋をして聞かなかった事にした。
「……コホン。だから三人共早くそれ着けてよ。サンプルデータの為に!」
「普通に嫌ですよ?」
「何でさ」
鬼灯に促されるまま興味津々に着けようとした双子を片手で軽やかに制し、笑顔で断ると鬼灯が不満を露わにして問い返してくる。
「何でも何も、話から察するにこれって俺達が実験体第一号ですよね?」
「名誉じゃないか。おめでとう」
「目を泳がせながら言われても! それにそんな名誉は至極どうでも良いのですが!」
俺の持っているヘッドフォンを取り上げて、強制的に装着させようとする鬼灯と攻防しながら問答を繰り返す。
俺は今座っている上に、立って並んだとしても鬼灯は中学生の俺とあまり身長が変わらない。
尚且つ運動音痴な癖に腕力は怪物級という世にも不思議な体質をしているので、流石の俺でも若干苦戦を強いられている。
――鬼灯は面倒だ。
昨日の件も含め何かと俺に突っかかってくるし、塁兎や彼女に対する態度を見る限りちょっとアホで気さくなショタなのだが俺の前では生意気で冷徹。
更に俺を追い込む事を悦としているのだから堪ったものではない。
俺と接するのが不快ならいちいちつっかからないで頂きたいものです。
――という訳で俺の意見としてはさっさとここから去って頂きたいのです。
「っどうせ今日も授業を抜け出してここまできたのでしょう? 塁兎達も心配しているでしょうし早くお戻りになっては?」
さり気なく塁兎の名前を出した途端、鬼灯はヘッドフォンを掴んだまま静止した。
「そうだ……今頃塁兎探してる……!」
――鬼灯の扱い方はコツさえ掴めば簡単だ。「塁兎」という魔法の呪文がありますからね。
「そうそう、分かったらお子様はとっとと帰りやがれですよ」
俺としては優しい笑顔を心掛けたのだが、その笑顔を向けられた鬼灯と隣にいるので必然的に俺の顔を見た藍とはぐさん、三人の顔がみるみる青くなってゆく。
「失礼な。俺はそんなに酷い顔してますか?」
「「いや、えっと……」」
「ゲス顔だね」
「「鬼灯さぁぁあんっ!?」」
言い淀む双子を遮ってバッサリ言った鬼灯に、双子が同時に素っ頓狂な声を上げた。
「ふふふ、失礼なマセガキですねー。……失せろ」
笑顔のまま、目だけでじろりと脅し半分に睨みを効かせると鬼灯は青い顔のまま一歩身を引いた。
悲鳴を上げなかっただけでも勲章ものだろう。
藍に至っては「ひぃいい!」と泣き喚きながら椅子から転げ落ちてますし。
俺の睨み顔そんなに怖いですかね……塁兎には負けると思うのですが。
まあ、多少想像と異なるがこのまま行けば帰ってくれるだろう。何せ塁兎中心思考の鬼灯ですからね。きっと大丈――
「うぐ……でも、取り敢えず実験の為に今着けてよ!」
「えっ」
鬼灯は完全に油断し切っていた俺の手からヘッドフォンを抜き取り、抵抗する間も与えず頭に着けてボタンを押した。
――キィイイイ……ィン……
刹那、頭の中に響いてくるような甲高い音が鳴ったと思えば抵抗しようも伸ばした腕は言う事を聞かず、だらりと宙にぶら下がった。
唐突に襲ってきた抗えない睡魔に、軈て全身の制御が効かなくなって鬼灯の方へ倒れ込むと、床にダイブする寸前に鬼灯が俺を抱きとめる。
――一度ボタンを押されたら、逃げられないシステムみたいですね。
これログインするまでの時間に誰かに襲われたら抵抗できないパターンですよ……
早くも眠気に限界を感じて、俺はVRの欠陥を指摘しつつ目を閉じた。
*
*
*
『おはようございます、プレイヤーさん』
今眠気に負けて閉ざした筈の意識はいやに明瞭で、女性の声と思しき電子音が頭の中に響いた。
覚醒した意識の中で、目玉をキョロキョロ動かして辺りを確認してみるがただ真っ暗な空間が延々と続いているだけで、身体を動かそうとしても思うように動いてはくれない。
何かに押さえつけられているという感じでもないし、これは一体……
『それは後でお話致します。まずはご挨拶からに致しましょう』
脳内で並べた疑問を汲み取ったかのような対応にドキリとする。
『SAOことサイバーアクセラレータオンラインの世界へようこそ。私はSAOの制御プログラムの人工知能メアと申します』
「は、はぁ……」
メアと名乗った人工知能は感情の込められていない、頭の中に直接鳴っているような声で眈々と祝いの言葉を並べた。
『先程の疑問ですが、簡潔にお答えすると今の貴方は精神だけの状態なので身体がありません』
「やはりそうでしたか……ではどうすれば良いのでしょうか?」
薄々予想がついていた答えに苦笑いで納得しつつ、俺は続きを促す。
『はい。アバターを作って頂く事になりますが、そう難しいものではありません。貴方の現実世界の容姿をモデルにして、貴方が脳内で想像した通りにカスタマイズするだけです』
あくまでも現実の姿をベースに、ですか……
容姿に自信が無いと言えば嘘になりますし、その点に関しては何ら問題はありませんね。
――さて、どんなアバターにしましょうか……
ネトゲで一番楽しい作業はアバターを作り、自分好みに着せ替える事だと普段から豪語する俺にとって心躍る作業だ。
教室の状況とか、午後の授業が気にならないと言えば嘘になるが、今更引き返せないだろう。
こうなったら思いっきり自分好みのアバターちゃんを作って楽しく電脳仮想空間で過ごすとしましょう。
『その心意気です。頑張ってください』
「あ、ありがとうございます」
メアさんって声は思いっきり無感情な機械ですが、人工知能というくらいなら人格とかもあるんでしょうか……と、いけないいけない。アバターを考えなくては。
んーと、まずは身長ですね。鬼灯にすら負ける低身長がコンプレックスな俺としては身長は少しだけ、バレない程度で良いから高くしておきたいですね。
「五センチプラスで」
『了解しました』
髪型は現実世界のままにして……あ、髪色はどうしよう。藍のような赤褐色も良いですし、鬼灯のような光の角度によって銀にも金にも見える白髪も綺麗だ。
しかし、やはり一番印象に残っているのははぐさんの髪色。
陽の光に透ける細い金糸の髪は眩く煌めいていて、見る者を魅了する魔力すら感じさせる。
「……金髪でお願いします」
『了解しました。その他はどう致しますか?』
うーん、目色は……今の黒と金のオッドアイも気に入っていますが塁兎の血を散らしたような紅蓮も綺麗ですし、よく晴れている日の空を写したような鬼灯の目色も少し憧れますね。
神山姉弟の紫紺の瞳もまた妖しげな魅了があって捨てがたい……
「……角度によって目の色が変わる、とかは駄目ですか?」
一色だけなんて選べるものか。
人という生き物は自由を与えられると何でもできそうな気がしますが、実際自由になってみると何もできない。
「つまり俺の周りには綺麗な目色の人が多過ぎるんです! こんな選り取り見取りの環境で過ごしてたら彼方此方目移りしてしまって一色に絞るなんて無理なんですよ! だから光の角度で変幻自在に色が変わる瞳をください!」
言っている事がかなり自分勝手なのは分かっている。
大体「想像通りになる」なんて言っても限界があるだろうし、そんな角度によってコロコロ目色が変わる目なんてアニメの中でも中々見ない。
だが、例え無理でもそう希望してしまうのは人の性であって――
『了解しました』
「あっ、あっさりOKなんですね」
本当に自由自在なんだ……
『それではプレイヤーさんの希望とマスターの希望を足して、アバターを作ります』
メアさんの言葉を引き金に、身体が内側から強く脈打つような感覚を覚える。
……んっ? 今マスターの希望を足すとか聴こえたような……
『完成まで残り三秒です』
「早っ!?」
メアさんの発言の一部を拾い上げると、即座にメアさんの言葉が付け足された。
それにツッコミを入れると、全身を熱が駆け巡ってゆく感覚と共に闇一色だった視覚に黄金が飛び込んできた。
『……お待たせ致しました、完成です。此方鏡になりますのでどうぞ』
メアさんの言葉と同時に眼前に四角い箱が現れる。
その中に写る淡く薄黄色に発光する世界、体に所々ブロックノイズが走っている金髪の少年が赤い双眸を瞬かせて俺を見つめ返していた。
少年がその身に纏うゲームによくある初期装備のようなシンプルな服は全体的にダボついていて、腰の辺りから黒くしなやかな毛がふさふさと生えた長い尻尾がうねっており、さらさらの金糸の髪の隙間から生える大きな黒猫の耳。
「……んっ!?」
瞠目して上擦った声を上げると、鏡の中の少年……俺のアバターも同じように瞠目する。
『これにてアバターは完成です。次にユーザーネームですが……』
「ちょ、ちょっと待ってください!? 何ですかこのケモミミは!?」
流れるように話を進めようとするメアさんを遮り、俺は手足をバタつかせて何処にいるかも分からぬ彼女に喚き立てる。
『マスターからの希望です。可愛いですね。それではユーザーネームを』
「スルーやめてくださいー!?」
俺の感情など180度スルーしてユーザーネームを決める方向へ話を流そうとする彼女に盛大に叫び散らした。
何ですか猫耳って。何ですか可愛いって。
中学二年生にもなってゲームで猫耳アバターとか色んな意味で痛すぎるでしょう。
まずリア友には恥ずかしくて見せられないし、バレたらアカウント消して死ぬ他道は無い。
猫っぽい気まぐれな性格とかは言われますけれど、だからと言ってゲーム内で金髪猫耳ショタなんてやったら今まで築き上げた毒舌ゲスイケメンというキャラが一瞬にして崩壊してしまう……
「それに男に『可愛い』は褒め言葉じゃありませんからね? 寧ろ貶してますから!」
『ユーザーネームを十二文字以内で入力してください。ユーザーネームを十二文字以内で入力してください』
「あぁっ業務的な言葉しか喋らなくなった!?」
取り敢えずユーザーネーム入力しないと真面な会話すらしてくれないようですね……さっさとユーザーネーム入力しますか。
「えーと……ベチョモンドゥルも良いですし、山田トムも捨て難いですけど…………猫々闇里でお願いします!」
『おい実はノリノリだろ』
「断じて違いますね!」
逡巡の結果、絞り出された名前を口にすると口調の変わったメアさんがツッコんでくる。
『では最後にステータスの確認をして、その後チュートリアルという形になります』
――あ、アバターはもう変えられないパターンですか?
『では、ステータスを念じてみてください』
「は、はい」
無茶ぶりに即反応してしまう自分の条件反射がこれ程憎くなる日が来ようとは。
――えーと、念じるっていっても……ステータス来い! 的なので良いんですかね……
「ステータス来いっ!」
ビシッとポーズを決めつつ大声で叫ぶと、目の前にステータスが浮かび上がった。
これで良いんですね。
「えーと、どれどれ……」
【名前】猫々闇里
【レベル】1
【種族】電脳黒猫
【職業】疾風のツッコミ師
【装備】初心者Tシャツ、初心者ズボン、稲光電磁砲、
【攻撃力】100
【防御力】82
【魔力】180
【素早さ】526
【魅力】300(誰もが二度見する可愛い猫耳ショタァ)
【スキル】なし
「色々ツッコミたいですね」
何ですか種族『電脳黒猫』って。そのまま過ぎて何とも言えませんよ。
職業疾風のツッコミ師ってなんですか。VRMMOで漫才をやれと?
それに装備。一個だけ無駄に格好良いのがありますけれども!?
それにレベルは1なのに初期ステータスほぼ三桁台とかチートか。生まれながらのチートですか。
「そして魅力。『300(誰もが二度見する可愛い猫耳ショタァ)』って何ですか!? そんなに猫耳弄りたいですか!?」
『是非モフらせてください』
「何眈々とセクハラ発言してるんですか。そっちの意味の弄るではなくてですね……!」
――確かに『ツッコミ師』という職業は俺によく合っているのかもしれない。
ツッコミ不在の状況では俺がツッコミにならざるを得ないし。