第六話 No.5アラクネ・マーヴェリック
今回は視点変更多いです。
通話を切った途端頬に水滴が落ちた気がして、上を見上げると顔にぱたぱたと数滴の雫が落ちる。
雲一つなく澄んだシアンブルーの空はいつの間にか分厚い灰色の雲に覆われていて、コンクリートの地面に黒い染みを作ってゆく。
――そういえば、天気予報で今日は午後から雨が降るとか言っていたような。
天気予報は少し外れたな。まだ午前中じゃないか……
そんな事を呑気に思い出している合間にも、雨足は徐々に強くなってコンクリートには忽ち小さな水溜まりが次々出来上がる。
「……これは一旦、捜索は中断だな」
ぶかぶかな袖の中を弄り、傘かそれの代わりになるものが無いか探してみるがペンケース、学校の教科書、ノート、携帯、財布、昼飯用のベーコンレタスのサンドイッチ……それしか袖の中にエントリーされていなかった。
む? いつも袖の中にどうやって物を収納してるのか、だと?
すまんがそれは企業秘密だ。
雨足は更に加速し、住宅街にシャワーのようにざあざあと降り注ぐ。
これは酷くなりそうだ。このままだとパーカーが濡れる……何処か雨宿りできる所はないだろうか。
周りを見回してみると、右手方向に雨宿りくらいには使えそうな古いトタンの屋根付きの自転車置き場が見えたので、其方に向かって足早に歩を進める。
「……ふう」
少し濡れてしまったパーカーを脱いで、軽く叩いてみる。
この分なら放っておいても直に乾くだろう。
予想通り、此処に来てすぐ後あっという間に土砂降りになった。
もしこの自転車置き場が無かったら今頃パーカーは……いや、考えるのは止そう。事実パーカーは無事だったしな。
まあ何があってもこれだけは死守するが。
再びパーカーを羽織り、袖を通す。袖部分に付いている飾りのベルトを締めるのは毎回面倒だが、黙々と作業を続ける。
日差しは雲で抑えられたが湿気のせいか晴れていた時よりも蒸し暑く感じる。
特にする事もなく、ぼんやりと空を眺めながら壁に凭れかかっていると何の前触れもなく、唐突に強烈な睡魔が襲いかかってくる。
……朝から動き回ったんだ。少しくらいなら、眠っても良いだろう。
誰に不明瞭な意識は既に途切れそうで、俺はずるずると地面に吸い寄せられるようにその場に座り込むと重い瞼を閉じて意識を手放した。
* * *
藍君が目を覚ましたのは、日が大分高く昇った頃だった。
「おはよう、藍君」
状況が掴めないのか、地面に横たわったまま焦点の定まらない目でキョロキョロ辺りを見回す藍君に僕はにっこり微笑みかけた。
「鬼灯、さん……?」
藍君は少しの間きょとんとしていたが、時間が経つに連れ頭がハッキリしてきたのか顔色を青に変える。
「うわあぁぁあすいません! 勝手にぶっ倒れてすいませんでしたぁぁあ!」
ガバッと効果音が聞こえそうなくらいの勢いで身体を起こしたと思えば、そのまま勢いよく土下座を決める。
「ちょ、落ち着いてってば! 頭上げて……」
「オレ妖鳴鬼の反動で倒れたんですよね!? うわあぁぁあ本当ご迷惑をお掛けして申し訳ありません! うわあぁぁあ!」
何度も地面に頭を擦り付け、発狂せんばかりの大声で叫びながらの尋常じゃない謝りっぷりに軽く引きつつ、宥めようとするが藍君は聞く耳を持たない。
どうやって落ち着かせようか思索していると、不意に自分達以外の気配を強く感じた。
「……落ち着いて、僕は怒ってないから。深呼吸して」
「すー……はー……」
土下座する藍君の両肩を掴み、無理矢理自分の方を向かせると戸惑った顔が見えたが深呼吸を促すと持ち前の素直さからか従順に応じてくれた。
「ごめんなさい……取り乱しました」
「それよりも藍君、何者かの気配を感じるのだが」
「え? あ、はい……先程からオレ達の後ろにいますよね」
藍君が平静を取り戻したのを見計らい、声を潜めて喋りかけると疑問符を浮かべつつ藍君が「それが何です?」と言わんばかりにそう返す。
気づいてたのかこら。
藍君は気配や妖気の流れなどに敏感だから察知していてもおかしくないけれど、あの少年が去った後の廃工場に僕ら二人以外の気配がある事にもう少し危機感を持っても良いのではないだろうか。
――それとも、この気配が危惧しなくても大丈夫なモノの気配だと察しているからそこまで落ち着いていられるのか。
「お化けさーん? 出てきてくださいなっ♪」
何はともあれ、呼んでみないと分からないか。
先程少年を呼んだのと同じ要領で背後に呼びかける。藍君が「デジャヴ!?」と叫んだが敢えて触れず、背後の様子を見守る。
「よーんだぁー?」
コツ、とヒールがコンクリートを打ち鳴らす音と緊張感なく間延びした少女の声が工場内に反響する。
ここでも藍君が「ええぇ……来ちゃったよ……」と言いたげな顔をしていたが、僕は目先の少女に目を凝らした。
「どーもぉ! 荒魔亜たんです!」
童話の中の女王様のような真紅のドレス、少し逆毛にしてボリュームを出しアップに纏めたお団子頭、人外な白さの肌……
廃工場では存分に異彩を放つ容姿の少女は塁兎と同じ色の瞳を瞬かせながら此方へと歩いてくる。
少女と呼ぶべきか幼女と呼ぶべきか迷う容姿の彼女の仕草は一つ一つが上品で、ただ歩いているだけなのに見惚れてしまいそうだ。
「主食はカ○ト○ーマ○ムとラーメンと血で趣味はお絵描きと読書、金魚の鑑賞、ストライクゾーンは五歳〜五十歳女性も可、好きな異性のタイプは道化師ですっ!」
――歩きながらこんな自己紹介をしていなければ。
「……何ですかこの子」
疑心に満ちた視線を少女に送り、訝しげに眉を寄せる藍君の反応は実に正しい。
「彼女はノワール曲馬団No.5……吸血姫アラクネ・マーヴェリックさ」
「えぇ!?」
「むぅー! 荒魔亜って呼んでよぉ!」
僕も引き攣っているであろう笑顔を貼り付け、その少女のフルネームを述べると少女は不服げに頬を膨らませる。
No.5と言った途端藍君は酷く驚愕し、目を見張ったと思うと荒魔亜嬢を凝視しだす。
この子はアラクネ・マーヴェリック。本人は自らの長い名前を嫌い、略称の「荒魔亜」と呼ばないとこのように怒るのだ。
「はいはい荒魔亜君ね荒魔亜君」
「めっちゃテキトー!」
「こ、この子が伝説のNo.5……?」
僕らが下らない掛け合いをしていると藍君が恐らく無意識に、また戸惑った声をぽつりと発する。
いつの間に彼女は伝説になったのだろうか。
「あ、『何でこんな子供が?』ってのは顔してるぅー!」
「えっ!? あ、いやぁ……その……」
藍君の反応に荒魔亜君は馬鹿にされていると勘違いしたらしく、僕に向けていた膨れっ面を藍君に向ける。
塁兎の目を合わせただけで普通の人は失神するであろう睨み顔と比べてしまうと特に脅威は感じられないが、臆病な藍君には充分な迫力だったらしく上ずった声を上げて目を逸らした。
その反応を肯定と取ったのか、荒魔亜君は顔を真っ赤に染める。
「馬鹿にしないでよぉ! こう見えても荒魔亜は五百歳超えてるし既婚者なんだから!」
「嘘ぉぉぉおおおぉ!?」
その反応も正しい。
見た目は小学生か中学生くらいに見える少女が実は魔界の公爵夫人で年齢三桁なんて、普通は誰も予想だにしないだろう。
……僕も昔はそうだったし。
「それより荒魔亜君。何故ヴァンパイアである君が、わざわざ日中に人間界に来ているんだい?」
「魔界は今は夜! ヴァンパイアは目覚める時間だよぉ!」
「ああ〜……そうだった、向こうと此方には時差があったのだったね」
「そゆこと!」
流れるように明かされる衝撃事実の数々に許容量をオーバーしたのか、藍君は地上に上がった魚のように目を見開き口をパクパク開閉している。
暫くは会話も無理そうだね。
「でさぁ、荒魔亜妖気につられてここに来たんだけど……お仕事してたのぉ?」
「まあね。既に終わったよ」
「うー……ちょっと来るの遅かったかぁ……」
好奇心旺盛な幼子のように瞳を爛々と瞬かせ、尋ねてきた彼女の質問に返すとあからさますぎるくらいに肩を落とし、しょんぼりとする。
「まあまあ、良いじゃないか。それよりも折角人間界に来たのだから、今日はアジトに寄っていったらどうだい?」
「あじと……そこにお友達がいるの?」
そんな荒魔亜君を宥めようと、何となく発した言葉に荒魔亜君が目をきらんと光らせて食いつく。
ふふ、ちょろいものだよ。
「そう。愉快な仲間達が沢山いるよ。ね、藍君?」
「ふぇっ!? あ、ひゃ、ひゃいっ!」
有無を言わせぬ笑顔で呼びかけると、ブツブツと自問自答していた藍君はびくっと身体を震わせて返事する。驚きすぎだから。
「そぉなんだぁ! じゃあ荒魔亜往くぅー!」
――まあ帰ってもまだ誰も帰ってきていないだろうけれど。
満面の笑みでくるくると回り、純粋に喜ぶ荒魔亜君に少しの罪悪感を覚えたのであった。
取り敢えず帰ったら藍君を寝かせて、塁兎が帰ってきてお説教されるのを待つか。ウヘヘ。
* * *
何もかもを拒絶した、暗い電子の海で四肢を投げ出してぷかぷか浮かび、自身の涙が0と1に変換されて電網の藻屑となってゆくのをぼんやりと傍観する。
――「アンリらしくないよ」……か。
演技には自信があったが……こんな事で動揺して素が出てしまうなんて、俺もまだまだだな。
アンリという仮面を外し、ひょっこりと顔を覗かせた本来の俺はあんな小さな子供の気遣いすら真っ直ぐに受け取れない、捻くれた醜い奴だなんて事は嫌になるくらい分かり切っている。
……はぁーあ。万年思春期野郎って、まるで俺の為にあるような言葉だよな……何でこんな所で一人ウジウジ閉じこもっているんだ俺は。情けないにも限度があるだろう。
『ってあれ!? もうこんな時間!?』
大きく溜息を漏らし、渦巻く円波形の中心に刻まれた時刻表示に何となしに目をやった俺は結構な時間が経っていた事に驚きガバッと起き上がる。
考え事をしていると時間を忘れてしまう事はよくあるが、もう昼過ぎかよ!?
『馬鹿か俺! 何度でも言ってやる、馬鹿か!』
俺はそう叫んで頭を抱え、うがあぁっと足をばたつかせてその場にゴロゴロと転がり出す。
自分の行動を振り返ってみると痛い。これはかなり痛いぞ俺。
勝手に自責の念に駆られて、あんな小さい子の前で今までやってきた事を全部無駄になるかもしれない醜態を晒したってのに、更に場の収拾がつかないからって零音から逃げて数時間の間ずっと閉じ籠っていじけてたってのか!?
逃げてばかりじゃ、その場は何とかなっても先延ばしになるだけで根本は何も解決しないのに。
寧ろ事態は悪化するってのに……!
『あー、さっきの事思い出すとやっぱり零音と顔を合わせたくないんだぜ……』
気まずいのは勿論、絶対事態の説明とか求められるだろうし……今の俺に零音が納得するような言い訳は何一つ思い浮かばない。
――逃げてはいけない。頭では分かってはいるが本能が拒絶する。
同じ団に所属して同じ家に住んでいる以上どっちみち顔を合わせないなんて不可能なのに、零音と会いたくない。
『……あ、そういえばさっき霧島嬢からメール来てたっけ』
現実から目を逸らすように、さっき考えに耽っている時にこの端末へ届いたメールの存在を思い出す。
届いた時間を確認すると、俺が逃げてすぐ後だ。もしかして急に消えたから心配かけたのか……?
そう考えると改めて罪悪感が重くのしかかり、メールを開きづらくなるが逃げてばかりでは駄目だと自らを奮い立たせ、メールボックスを開く。
[件名]団長命令の伝達だよー!
こんちゃっ! キュートな疾風の電脳黒猫たんっっっ!
らぶりぃゆりあんぬだぉ☆
とっつぜんですがぁ、今から零音たんを襲撃した緑服のショタんぬを皆で探すおぉぉう!
とりま詳しい事はこっちに来てから教えるちょ☆
さぁ、スーパーウルトラサイコメトラー美少女ゆりあんちゃんの携帯に早く来てね!!
――うっ、こっちも零音関連かよ……
これは「現実から逃避する事は許されない」というゴッドのお告げなのか……!?
そんな阿呆臭い考えが浮かんでしまう程に、この時の俺は余裕がなかった。
――相手はあの年齢の割に怜悧な子供だ。
幾ら聡い子でも子供だからと侮って下手に誤魔化そうとしても益々疑われるだけだろう。
かと言って素直に打ち明けても信じてもらえる保証なんてない。
信じてもらえたとしても、何故こんな大事な話を今まで打ち明けなかったのか責められる。
それにこの話は正直あまり広めていいものではない。
『教えるか否かは零音次第、って所か』
俺は胡座をかいて座り込み、本日何度目になるか分からない溜息を吐いた。
『はぁ……』
「あっ、アンリ……」
本日一番大きな溜息が俺の口から飛び出したのとほぼ同時に眼前からパッと差し込んだ眩い光が薄暗がりの電子空間を照らし、銀に近い柔らかそうな白髪に大きな銀の瞳を瞬かせる少年の顔がどアップに表示される。
『えっ?』
「えっ?」
俺が頭上に疑問符のエフェクトを浮かべると、零音も鸚鵡返しに首を傾げる。
え、何で俺の目の前に零音が……?
『……あ』
――俺はそこで、やっと大事な事を忘れていたのに気がついた。
そういえばここ……零音の携帯の中だったわ。
* * *
何か柔らかいようで、少し固いようなものが顔を叩く感触に、意識は呼び戻される。
薄っすら瞼を開くと、視界一杯に黒が広がっていた。
「……何だこれ」
顔にぴったり張り付く黒をべりっと引き剥がし、よく見てみるとそれはどうもぬいぐるみらしかった。
良い具合にデフォルメ化された熊のぬいぐるみの丸っこいフォルムとつぶらな赤い瞳は可愛らしいのだが、胴体が首の下から下腹部にかけて裂けていて、赤い糸で縫い合わせてあるのはとても趣味が良いとは言えない。
――そしてぬいぐるみを掴んだ時、何だか「めしゃっ」とかいうぬいぐるみから聞こえてはいけない効果音が微かに聞こえた気がするのだが。
てか待て、このぬいぐるみって某都市伝説に使う奴に酷似しているような気が……
「誰かの悪戯か……?」
「……」
食い入るようにぬいぐるみを見つめていると、ぬいぐるみは手足をバタつかせながら俺の手から逃れようとする。
――もう一度言おう、『ぬいぐるみ』が手足をバタつかせている。
「は?」
目の前で起こっている事態に頭がついていかず、ぬいぐるみを取り落とすとぬいぐるみはすたっと華麗に地面に着地を決めると踵を返して走り出す。
その短足からは想像もつかないスピードで歩き出したと思えば、走る途中何度もちらちらと俺の方へと振り向いている。
まるで「ついてこい」と言わんばかりのその行動に俺は呆然とする。
「俺は寝ぼけているのか……?」
袖で目を擦り、改めて同じ場所を凝視するがやはりぬいぐるみが此方をちらちら振り返りつつ少しずつ前に進んでいる。
後一歩でも進めば屋根のある自転車置き場から出て雨の降りしきる道路なのだが、そんな事気にも留めていないようで相変わらず俺に視線を配りつつ雨の中へ駆け出した。
やはり、あのぬいぐるみは俺についてきて欲しいようだ。いや何故にだよ。
「……もうどうにでもなれ」
俺はゆっくり立ち上がるとぬいぐるみを追って土砂降りの街を走り出した。
――パーカー濡れるけど、この際スペアは大量にあるからいいとしよう。
ぬいぐるみを追って角を曲がった先にあったのは、寂れた公園だった。
風が吹く度不協和音を響かせる錆びたブランコに、鉄棒や水分を含んで泥になっている砂場などの王道遊具の他に、公園の中央にファンシーにデフォルメ化されたピンクの象の形をした、トンネルが複雑に入り組んでいる滑り台が設置されてあった。
滑り台の頂上はアーチ状になっていて、軽い雨くらいなら凌げそうだ。
――そして、同じように考えた人物は俺以外にもいたようだ。
「……こんな所で何をしている?」
アーチの下で膝を抱えて座り込み、階段をぽてぽてと登ってきたぬいぐるみに気づき抱き上げた少年を見上げながらに問うと、少年はびくりと身体を震わせて顔を上げ、少年と俺の目が合った。
うっすら六芒星が見える深紅の瞳の瞳孔部分は逆十字型をしていて、若葉色のセーターは水分を吸い込んで重くなっている。
後ろで三つ編みに結わえ、前に流している長い赤毛からもぽたぽたと雫が滴っていた。
――燃えるように真っ赤な髪、緑っぽい服を着た、零音くらいの子供……
目の前の少年は鬼灯が言っていた上級魔族の特徴と尽く一致するが、魔族だと確信するにはまだ早い。
この少年から魔気や妖気といった類いのものは感じ取れないし。
「…………与謝野と隠れんぼしようと思って」
「この雨の中でか?」
たっぷり時間を掛けて答えた少年に「与謝野とは誰だ。まさか与謝野晶子か」という疑問が湧き上がるが聞いても答えなさそうなのと某都市伝説が浮かんだので口にはせず、かといって会話をここで終わらせる訳にもいかないのでできるだけ当たり障りのない質問を返した。
「だって暇だし……」
「ああ。鬼門が開くまで後数時間はかかるしな」
早く会話を終わらせたいらしい少年はぶっきらぼうに言って俺から顔を逸らそうとしたが、間髪入れず返した俺の言葉に目を丸くした。
「え、何……お前鬼門が開く時間分かんのか?!」
――かかった。
途端に食ってかかってきた少年の反応に、俺は無言でほくそ笑んだ。
俺の笑顔を見て、少年がハッとして口元を押さえるがもう遅い。
というかこの餓鬼ちょろすぎやしないか。
「大方零音を襲撃してすぐ魔界に逃げ帰り体制を立て直そうとしたが、鬼門が閉まっていたので仕方なく鬼門に程近いこの住宅街で開くまでの時間を潰していたのだろう。違うか?」
「……」
少年は俺をじろりと睨みつけるが、反論はしない……いや、したくてもできないのだろう。
暫く二人睨み合っていたが、先に目を逸らしたのは少年だった。
「……気持ち悪いくらい何でもお見通しだな」
「このくらい分かるだろうが」
少年は大事そうに抱えていたぬいぐるみを強く握り締める。
表情に変化は見られないが、腕の中で歪にひしゃげたぬいぐるみからその怒りは十二分に伝わってきた。
「ふん、馬鹿なのに頭良いって矛盾してんだろ。糞ムカつく……」
「……何?」
まるで昔から俺の事を知っているような物言いが引っかかり、俺はつい問い返してしまった。
「はっ。口調変えて大人ぶってるようだが結局お前は昔と同じ、周りの見えてねえ糞餓鬼だな。
そんなんじゃまた同じ過ちを繰り返し兼ねねえぞ?」
昔……? 過ち……?
「おい、俺はお前と会った事があったか?」
「はぁ? 何言ってんだお前……」
俺の返答に間が抜けた声を漏らす少年。此奴は何をそんなに驚いているのだろうか?
「……え、もしかしてガチで覚えてない系? 俺が誰か分かんねえのか?」
俺の内心の疑問を察したのか、其奴は声を潜めて問うてくる。
さっきから話が見えず、軽い苛立ちを覚えた俺は微かに目を細めながら答えた。
「誰も何も、初対面だろうが」
「な……」
その答えが予想外だったのか、少年は今までで一番大きく目を見開いた。
伏し目がちだったので分からなかったが、意外と目大きいな此奴。
「は? え……ちょい待ち、状況整理するから……」
「お、おう……?」
少年は混乱した様子で俯いたと思うと、頭を抱えてブツブツと何か呟き出した。
その拍子に少年の腕から解放された熊のぬいぐるみは俺の足元に落ちてくると、そのまま俺の足を登って胸元に飛び込んでくる。
――何だこのカオスな状況。
「うーん……若年性認知症……? いや、PTSDか……?」
失礼な。
ぬいぐるみを抱きながら少年が自問自答の旅から帰ってくるのを待つが、一向に帰ってくる気配はなかった。
* * *
今朝突然、話の途中に携帯の中に逃げ込んだアンリを不思議に思い、休み時間に何回か携帯の電源を入れて様子を見ていたのだが、その度に画面の奥で蹲って僕に気付こうともしないアンリの姿に何となく「構って欲しくないオーラ」を感じ、空気を読んでそのまま電源を切って放置していた。
そして昼休みの今。やはり気になって再度起動してみると今度はちゃんと目が合った。
「あ、アンリ?」
画面の奥でポカンとした表情のまま蹲って硬直しているアンリに呼びかけると、アンリはハッとして現実に帰ってくる。
『……どうしたんだぜ零音。昼休みか?』
今朝の涙は何処へやら、アンリは普段通りに笑ってみせた。
その表情にぎこちなさは多少残っていたが、まぁ及第点だろう。
「まあね。今朝あんなだったし心配で」
『おお、粗暴な塁兎と違いなんとお優しいんだぜ零音っちは!』
「零音っちって何だ、零音っちって」
『じゃあ白チビ』
「やめろ」
正直に述べると、いつものノリで簡単に躱された。
いつも以上にテンションが高く感じるのは気のせいではないだろう。やはり何かあったのだろうが、アンリはきっと簡単には答えてくれないだろうね。
いつもどこから来たのかとか、どういう仕組みで動いてるのかとか聞いても答えないし、それは今回も違わないようだ。
何で、自分の事を頑なに隠したがるんだろう……
初対面時は何かのソフトと思ったが、その割には人格が人間臭すぎる。
まるで本物の人間みたいに思考もするし、感情もあって、やってる事は馬鹿らしいけど結果的にはいつも危険(団員の暴走)を回避してくれているし。
今まで散々アンリをウザいとか思ってきたし、今もその評価は変わらないけれど……ふざけているように見えて、団員の中で一番大人でしっかりしているんじゃないだろうか。
しかし、しっかりしているなら何故あんなウザいキャラを演じる必要があるんだろう。
「……アンリって本当何なの」
『え?』
自然に口から零れていった言葉にアンリは目を丸くさせた……と思えば今度はぶかぶかの袖に隠れてほぼ見えない指を顎の下に持っていき、指を顎に当てて考え込む姿勢を見せた。
『ぬぅー、俺が何かって? 難しい質問だなぁ〜』
――うっわぁ、わざとらしい……本当何でそんなキャラなのお前。
普段個人情報に関して聞いてもさり気なくはぐらかすから、例えこの呟きが聞こえたとしても適当に誤魔化すと高を括っていた僕はアンリが次に発した言葉に戸惑いざるを得なかった。
『……知りたいか?』
「……え」
一瞬、冗談で言われているのだと思った。
しかし、いつもの太陽のように明るい笑顔なのは変わらないがその眼差しは真剣そのものなのを見て僕はアンリが本気なのを悟った。
「そりゃ、知りたいよ」
ここで目を逸らしたらもう二度と教えてくれないような空気をアンリから感じ、その目を真っ直ぐ見据える。
『……そうか。分かったぜ』
僕達二人は暫く睨み合っていたが、アンリがその言葉と共に視線を逸らした事により睨み合いは終わった。
『事前に言っとくけど、時期が来るまでは決して他言するなよ?』
「分かった」
『絶対だからな』
念を押すアンリに頷いて見せると、アンリは瞼を閉じる。
『さて、何から話そうか……』
――次に目を開いた時、その色彩は深い宵闇と輝く月のオッドアイに変わっていた。
*
*
*
暖かな陽光が閉ざした瞼越しにも伝わって来て、非常に心地良い。
「……レン、蓮!」
ぽかぽかした陽だまりの中、自然と襲ってきた強い眠気に身を任せ微睡んでいると、耳元で名前を呼ばれる。
何ですか、もう。俺は眠いんだから放っておいてくださいよ……
無視を決め込み、再び意識を沈めようとすると今度は身体に衝撃が走る。
「蓮ってば! 教室で寝ないでよ!」
そのまま身体を強く揺さぶられる。
流石の俺も身体を揺さぶられている状態で眠るなんて芸当はできず、ようやっと瞼を開いた。
「蓮、やっと起きた……!」
予想よりも至近距離にある親友の顔は俺がやっと起きた事への安堵で少し緩んで見えたが、それでも教室で堂々と転寝している俺に対する叱責の色も浮かんでいた。
「……おはようございます?」
「おはようじゃないよ、もう……! 今放課後だよ!」
「早いものですね」
其処で俺は漸く状況を確認する。
教室の人影は疎らで、残っている数人のクラスメイトは皆荷物を纏めて帰る所だったり、未だ友人とぺちゃくちゃ談笑していたりしていたが、その途中でちらちらと俺達の様子を伺っているのが確認できた。
藍は俺の机の前に立ち、俺の両肩を掴んでいる事から彼が起こしてくれたらしい。
そういえば眠気のせいで頭が回らなくて気づきませんでしたが、さっきの声は藍の声でしたね。
給食を食べた後の記憶がさっぱり抜けている事から、俺は午後の間眠ってしまっていたらしい。
明日先生に怒られるでしょうがは仕方ありません。お腹が一杯になると眠くなるのは人の本能だ。
「それでは帰りましょう」
机の横に掛けてある鞄を机上に移動させ、教材を詰めながらに藍に言うが返事は返ってこない。
「……藍?」
不審に思い、上目遣いに藍を見やると視線を泳がせて何か伝えたそうにもごもごと口を動かしている藍が目に入る。
藍の言いたい事が纏まるのを待っていると、数十秒は経ったであろう頃漸く藍が口を開いた。
「……あの、帰る前に屋上来て欲しいんだ」
「え、屋上って立ち入り禁止じゃないですか」
やはり視線を泳がせつつ、そう切り出してきた藍に即座に指摘すると藍はビクン! と身体を震わせた。
同時に額を一筋の汗が伝う。
「……それは……うぅ、えぇっと……取り敢えず来てってば!」
「ちょっ……藍!?」
藍は暫く瞳を潤ませて言葉にならない声を発していたが、顔を朱に染めると踵を返して駆け出した。
俺は瞬時に藍へ手を伸ばしたが、その時にはもう藍は教室の外へと飛び出して行った後だった。
後に残された俺は藍に向かって突き出した手を引っ込め、それを額に当てた。
「……何なんですか、一体」
藍「10月6日って確か俺の誕生日でしたね」
ゆりあん「え、ごめん忘れてた……」
藍「気にしないでください……慣れてますから」
ゆりあん「切ないっ!?」