第二十五話 お風呂なう
【前回までのあらすじ】
女は怖い。
今回の唐突な合宿(仮)を決行を決めたのは、バイト先の店長に臨時バイトに入ってくれた礼にと店長の知り合いが経営する旅館の団体宿泊無料券を貰ったのがそもそもの切っ掛けだった。
塁兎達の泊まっている旅館は建物も古く規模が小さいが、大浴場と露天風呂が売りなだけあって中々広い。
大浴場には団員以外の客の姿もちらほらと見かけたものだが、露天風呂は今の時間帯は誰も居ないようで貸し切り状態だ。
夕方を過ぎると東北地方の空気は冷え込み、都会暮らしに慣れていたせいか少し肌寒かったので、その辺に桶とタオルを置いて塁兎はさっさと湯に浸かる事にした。
「ふぅ……」
熱い湯が全身に染み渡る。バレーボールに緊急参戦させられたり、女子達にきゃいきゃいと囲まれたりと肉体的にも精神的にも疲れていた塁兎はゆっくりと浴槽に寄りかかり、息を吐いた。
「こんなに振り回される感覚は久しぶりだな」
いつも自分の行く先には智妃が居て、智妃という道標があったからこそ前に進めていたのに、その智妃を失った塁兎は進む事も戻る事も出来ずにずっと立ち止まっていた。
どうせずっと一緒にいるだなんて不可能だ。傷付くくらいなら、誰とも関わらないで世界を閉ざして仕舞えば良い。
ずっと自分の殻に閉じ籠って、色めいた過去にばかり縋って死んだように日々を過ごしてきた。
特に塁兎は大事な人達を同時に失うのはこれで二回目だったので、精神的なダメージが大きく、閉じ籠っている間に口調や素行は大分荒くなってしまっていた。
結局小六の夏から一度も登校しないまま義務教育時代は終わった。
しかし保護者である博士に「高校くらいは真面目に通え」と釘を刺され、博士が経営する私立高校へ通う事を強要された塁兎達は仕方なく都内へ越してきた。
『君もF組なの? 私も同じなんだ! あ、私は霧島由梨愛っていうの! 是非、ゆりあんって呼んでね!』
――そこで出会ったのが彼女だった。
智妃が成長したら恐らくこうなっていたであろうという塁兎のイメージそのものの姿をした少女は底抜けに明るく、感情と本能のままに動く自由人。そして周りに好かれていた。
鬼灯とはクラスが離れてしまい、誰とも交友関係を持たず孤立していた塁兎にも彼女は毎日他のクラスメイトと同じ様に接してきて。
『おはよう塁兎君!』
『塁兎君、体育祭何出るの? 私は学年対抗リレーのアンカーだよ!』
『ねぇ聞いた!? うちのクラス、文化祭メイド&執事喫茶やるんだって! 塁兎君は勿論メイドだよね!? あっ鬼灯君も呼んどいてね! 問答無用に似合うだろうから!』
何度無視されてもめげない彼女の姿勢に、最終的に折れたのは塁兎の方だった。
そして半年前に魔界の第四幹部と第三幹部が博士の研究所を襲撃してきた。
サイボーグ達の協力を仰ぎ、何とか追い返したもののいつまた襲撃してくるか油断ができない状況だったので、かつて父が高校時代に友人達と共に作った対魔界の秘密組織を基に今のノワール曲馬団を結成した。
拠点は鬼灯の実家が所持している屋敷を借り、戦力を集める為に彼方此方を巡って強い者を引き入れている内にいつの間にか団員数は十人にまで達していた。
こんなに多くの人数と共同生活をするだなんて初めてで、しかも戦力に拘ったせいで皆一様に灰汁が強い精鋭達を他人の感情の機微に疎い自分が果たして纏め切れるのか実は今でも不安だが、一人じゃない。
鬼灯や由梨愛、零音達がフォローしてくれて、何とかやって来れているのが現状だ。
「何だか、いつも頼りっ放しで情けな……」
言いかけて、塁兎は言葉を止める。
――彼の目と鼻の先。入浴剤で白く染まった水面にプクプクと気泡が湧き上がってきている。
……誤解しないで欲しい、塁兎は断じて屁などこいていない。
だとするとこれは……
「ぷっはぁーーっ!」
「うわぁあ!?」
息を飲んで気泡を見詰めていると、突如高く水柱が上がった。
塁兎は慌てて飛び退き、桶の中に仕込んでいた短剣を構えて臨戦態勢に入る。
塁兎はいつ敵の奇襲があってもいいようにと、就寝中や入浴中であっても常に武器……それも刃物類を決して手放さない様にしているのだ。
この平和な現代日本においてなんて物騒な高校生だろうか。
さて水柱が上がって、短剣を構えるまでのコンマは僅か一秒半。
固唾を飲んで水柱の上がった方角を睨んでいると、収まった水飛沫からアルパカや羊の毛よりも遥かに手触りが良さそうな、ふわふわの巨大な綿菓子が出てきた。
「あれ? 塁兎固まってどうしたんだい?」
――鬼灯である。
「鬼灯貴様……浴槽に潜るな。髪は湯につかないように縛れ。他の利用客に迷惑だろうが」
アンリを除く男子組全員で入浴に来た筈なのに大浴場に彼の姿が見えなかった時点で、大方の予想はついていた。
「塁兎は真面目だねぇ」
「お前が不真面目過ぎるだけだろうが……」
脅かされた塁兎は諌めようとしたのだが、純粋に疑問に思って問うてくる鬼灯の罪悪感の欠片も無い態度にすっかり毒気を抜かれ、取り敢えずヘアゴムだけを渡すと鬼灯はへらへらと笑ってそれを受け取った。
「しかし、何故潜っていたんだ?」
「何故って、定番の『どのくらい潜ってられるかごっこ』に決まっているじゃないか! 今回は二分が限界だったけど、次はもっと記録を伸ばす所存なのだよ!」
成る程、確かに鬼灯の手には防水式のストップウォッチが握られており、きっかり百二十秒で止められている。
……って待て待て。お前は何歳だよ。は? 十七歳高校二年生? 七歳小学二年生の間違いじゃないのか?
「ガキかお前は。此処は公共の大浴場であってお前の遊び場じゃないんだから余り羽目を外すなよ。年長者がそれでは示しが付かんだろう」
「HAHAHA、塁兎はお母さんみたいだね〜」
「直す気はあるのか……?」
叱られても軽薄な調子を崩さない彼に言及しても無駄だと悟った塁兎はズキズキと痛む頭にそっと手を添えた。
「……む?」
「どうしたの?」
何かを思い出したように、徐に顔を上げ塁兎に鬼灯が目を白黒させる。
一点を注視している塁兎に釣られて鬼灯も其方へ顔を向けると、内と外との気温差で結露しかけた窓硝子の向こう側に見えるがらんどうとした室内浴場を藍が独り占めしているのが見えた。
「零音とテオはどうした?」
塁兎は同じく其処に見える筈の二人の子供が何処にも見当たらない事を不審に思っているようだった。
「彼らならついさっき出たよ? 二人共元々長風呂するタイプじゃないしね」
「……そうか」
塁兎の口元が僅かに弛緩する。
美少年、それも普段滅多に笑わないタイプの破顔は中々に破壊力がある。
それに加えて現在は入浴中な訳で。湿気でぺたりと頰やうなじに張り付く髪の毛がやけに扇情的に見えて、鬼灯は眩暈がする思いでそれを眺めていた。
沸々と湧き上がってくる宜しくない感情にそっと蓋をして、見なかったフリをする。
此処にいるのが塁兎だけなのがまだ幸いと言うべきか。
もしこの場にアンリも居たとしたら色々と我慢できなくなっていただろう。何がとは言わないが。
――触れてみたい。
その腕を指で突くと、少し強いくらいの弾力が返って来る。
――それはそうか、塁兎だって男なのだから。これで感触まで柔らかかったらもう完全に女の子だ。
「何だ?」
「ううん……」
鬼灯の衝動的な行動に驚いた様子もなく、抑揚の削れた瞳がその身長差から少し高い所にある鬼灯の顔を測るように見上げる。其処には警戒心の欠片もない。
……時間が経てば人は変わりそうなものだが、人の奥底に根付いたものはそう簡単には変わらない。
口調や態度は大分ぶっきらぼうになってしまったが、やはり根は純粋なままなのだと確信させられる。
「ねえ、初めて会った時の事覚えてるかい?」
「ああ。お前が俺にチェス挑んで十連敗してマジ泣きした時だな」
「っ……そんな事もあったね」
痛い所を突かれ、一瞬言葉に詰まった。塁兎がそれを見逃してくれる訳も無く、してやったりと悪戯っぽく笑う。
待て、これではいつもと立ち位置が逆だ。何とかして形勢を立て直さねば。
「お前って案外泣き虫で悔しがり屋だよな。蓮に口論で負けた日の夜とか、学校の成績やコンクールで俺に負けた時とか必ず自室に籠もって泣いてたもんな」
打開策を模索している間に、さらなる爆弾が投下された。
「え、し、知ってたのかい?」
完全に虚を衝かれ、冷や汗を垂らしながら両肩を掴んでくる鬼灯に塁兎は呆れた顔をする。
「本気で気づかれてないとでも思ってたのか? お前が一時期俺を疎んじてた事もずっと前から解ってたぞ」
「ファッ!?」
集中攻撃! 鬼灯大破! 轟沈!
混乱の余り謎のナレーションが脳内に流れる。罵詈雑言を浴びせられるのは大歓迎だが、自分の本心を見抜かれ言及されるのはどうも苦手だ。
……完璧に隠してきた筈だったのに。周りだけじゃない、自分自身すら欺いてこの可愛い幼馴染へ感じていた醜い感情を見えないフリをしていたのに。
「人一倍感情の機微に疎い俺には何も気付かれていないとでも思ってたのか? 馬鹿か。流石にこれだけ長く居て何も気が付かない程俺は愚鈍ではない」
「……はい」
軍配は完全に塁兎に上がったのだった。
* * *
元々風呂が短い零音とテオドールは他の団員達が上がってくるまでの間暇潰しにぱっ、ぱっと部屋に備え付けてあったテレビのチャンネルを回していると、生放送の歌番組が始まる所だった。
二人共音楽が特別好きという訳でも無いし、好きなアーティストもいないのでそれだけなら気に留める事もなく、すぐにチャンネルを変えようとボタンに指を伸ばしたのだが。
『続いてのゲストさんは九月からの新アニメ緋咲奇譚で主題歌と主人公緋咲キンタロー役を務める大人気声優、桃瀬アイカちゃんです!』
グラサンの司会者が軽快な喋りで極最近聞いたばかりの名前を紡いだのを聞いて零音はリモコンを弄り回す手をぴたりと留めた。
あれ。この子って確か昨日テオドールを家に招き入れていた子じゃないか?
霞みがかっていた記憶を掘り返し、横目でテオドールを伺うと彼もハッとして固まっていた。この反応からして間違いないだろう。
人懐っこい笑顔でMCと二言三言言葉を交わす彼女は昨日見た通り実年齢よりもかなり幼く見える無邪気さが愛らしい少女だったが、プロに完璧なメイクを施され更に仕事モードに入った彼女は随分としっかりしていて、大人びて見えた。
『それでは桃瀬アイカちゃんメドレー、どうぞ!』
司会者の前振りに合わせてテンポの良いメロディが流れる。多少聞き覚えがあるその音楽は近頃街中でよく流れている人気曲だとすくに分かった。
「零音君、ちょっと」
テレビのごちゃごちゃと喧しい雑音しか拾わなかった耳に唐突に掛けられた声が誰のものか判別する間も与えず、脇の下に手を差し入れられてひょいと持ち上げられる。
唐突な行動に驚き、相手の方へ顔を向けようと身を捩ると褐色の癖っ毛が頬に当たった。
「何? 籃兄」
ぶっきらぼうがデフォルトな零音の態度に籃は然して気にした風もなく、宙ぶらりん状態だった零音を膝の上に降ろす。
返事を催促しようと口を開く前に籃は零音の頭をタオルで包んだ。
「わっ……ぷっ!?」
わしわしと乱暴な手つきで拭われ、タオルが水分を吸って湿ってゆく。
ここまでの唐突な行動の連続に「何するんだよ」という意思を込めて籃の腕を引っ掻けば籃はぴたりと手を止める。
漸く自分の話を聞いてくれた事にほっとしながら籃の顔を伺うと、彼は駄々をこねる子供を諭すような顔でふるふると首を振った。
「ちゃんと拭かなきゃ駄目。風邪引いちゃうよ?」
露骨なまでの子供扱いに零音は眉を顰める。
あの悪意の代名詞であるドS黒猫はともかく、籃には微塵も悪気などないのは分かっているのにイラっとしてしまう。
だが彼らの零音への子供扱いは何らおかしくないのだ。
成人まで残り一年と数ヶ月を切った籃とアンリや、高校生の塁兎達から見れば漸く自身の年齢の半分に差し掛かるかどうかの零音などまだまだ彼等の中では護り育むべき対象に過ぎないのだから当たり前で、その当たり前を嫌に思う零音の方が異様なのだ。
零音自身もそれを理解している。
「……うん。ありがと」
「うぇっ!?」
渋々礼を述べると、籃が変な声を上げて視線を彷徨わせる。
はて、何処かおかしかったろうか? 一瞬首を傾げたが、すぐに籃が戸惑った理由に思い立った。
――ああ、普段の僕ならここで憎まれ口を叩くのがお決まりのパターンだったか。
だが、それは飽くまでも揶揄の意を込めて子供扱いしてきた者に対してだけだ。
それ以外には大抵塩対応……あれ、間違っても礼を言うようなタイプじゃないな、そりゃ怪しまれるか。取り敢えず弁解しておこう。
「いつもアンリとかに対して態度がキツいのは彼奴が性格悪いからだからね? 僕だってお礼を言う時は言うよ」
「そ、そうだよね! ごめんなさい!」
慌てて髪を拭う作業に戻った藍の手つきが先程よりも大分荒くなったのはきっと気の所為では無いと思うが、これ以上刺激するのも可哀想なので零音はされるがままになりながらテレビに耳を傾けた。
『――廻ってゆく運命をその手で狂わせて。交差する歯車、僕らの望む舞台。開演、幕が上がって♪ 瞬間、世界が揺らいで♪』
メドレーも終盤になりかけた頃、視界を覆った時と同じように唐突にぱっと白が消えた。
「お、終わったよ……」
「んー」
言葉にならない声で相槌を打つと、藍は濡れたタオルを仕舞う為に部屋を出て行き、数分と経たずにアンリが陽気に鼻歌を歌いながら入ってきた。
『ただいまなんだぜっだぜっ! にゃーにゃー!』
「お帰りー。出かけてたの?」
いつも腕が見えないくらい長い袖の服を着ているアンリもとうとう暑さに負けたのかレアな半袖姿で、心なしかテンションが普段より五割くらい増している気がする。
『アイス買ってきたから好きなの選んでいいぜ!』
アンリはその手に携えたコンビニの袋を零音とテオドールの目の前のテーブルに広げると、アイスキャンディー、カップのバニラアイス、ソフトクリーム、アイスモナカなど様々な種類のアイスが転がり落ちた。
そしてアンリはちゃっかりと練乳味のアイスキャンディを選んでいる。
――忘れてた……此奴天性のアイス好き……そして練乳信者だった。
五年ぶりに実体を手に入れて、大好物を再び食せるようになったのだからテンションが高くて当然か。妙に納得した。
『んー! やぁっぱ夏はアイスだよなぁ!』
心底幸せそうにアイスをしゃぶるアンリはそれはもう輝かんばかりの眩い笑顔をしていた。
君そんなに良い笑顔できたのかよ。
見た目はショタ、中身は十八歳の性悪黒猫の屈託の無い笑顔の眩しさに思わず目を細めながら、零音も手近にあったバニラアイスへと手を伸ばした。
しかし伸ばした指先が感じたのは冷たさでは無く、生温い感触。
指先を辿る様に視線を動かすと、それは同じくバニラアイスへと伸ばされたテオドールの手だった。
「Oh……」
外人のようなリアクションで固まる零音。同じく狐に抓まれたようにぽかんと固まるテオドールと視線が交差したが、一足先に我に返ったテオドールは背後に炎を纏った虎の幻覚が見える程の気迫で零音を睨みつける。
「……おいクソジジィ……ここは勿論中学生である俺に譲ってくれるよなぁ……?」
「肉体の年齢で言えば僕の方が年下だけど? その手退けてよ」
互いに一歩も引かずに牽制し合う姿はまるで猛獣の様。
しかし、平常なら仲裁役を買って出るアンリは練乳フィーバーに旅立ってしまっているので二人の間に割って入る者は無く、アイスに伸ばされた互いの手を躍起になって退けようと払い合う醜い戦いが始まりかけた時、スッパァァアアンと小気味良い音を立てて襖が開いた。
「あっ三人共いた!」
「よーし、これで早速始められるねぇ!」
風呂に行っていた団員達が同時に帰って来たのだ。
途端に騒がしくなった室内でバトルどころでは無くなったので、二人はアイコンタクトを交わして一時休戦に突入した。
「それでは始めまっす! 第一回、ノワール曲馬団真夏の怪談スペシャルゥゥウウウウ!」
「イエェェェエエエアアァッ!」
「fooooooo!!」
まどかがビシッと拳を天に突き上げると、わぁっと歓声が起こった。
漸く周囲の騒々しさにアンリの意識が戻ってきて、何だ何だと三人は顔を見合わせる。
塁兎と藍がげんなりしていて、鬼灯や由梨愛を初めとする悪戯好きのメンバーが歓喜している所を見るに、きっと由梨愛辺りが何か思いつきで始めたのだろう。
嫌な予感しかしない。
「盛り上がるのは大いに結構だけどさ……誰かこの状況を説明してくれないかな」
「マジそれな」
先程までアイスを巡って熾烈なバトルを繰り広げていたとは思えない程、零音とテオドールは意気投合していた。
 




