第二十一話 追想哀歌 II〜守る理由〜
【前回までのあらすじ】
八歳の春。黒田蓮に「君は『塁兎を助けるヒーローの自分』に酔っているだけ」と薄々気がついてはいたが目を背けていた事実を指摘され、逆上した鬼灯はうっかり本性を見せてしまった。
塁兎「嘘だろ……あらすじが真面だと……」
バルコニーの戸を軽く手で押すと、余り力を込めなくても簡単に開いた。
夜特有のひんやりとした空気を肺一杯に取り込んで、抱えていた独特の形状をしたケースからヴァイオリンを取り出した鬼灯は左手でヴァイオリンを構え、顎で固定する。
重なり合った四本の琴線と弓のバランス。これは重要である。
限界まで張り詰めた四つの琴線の内、たった一本でも切れてしまえば正しい調律は生まれない。旋律は狂ってしまう……
何気無い、それでいて絶対に覆りはしないその均衡があって初めて旋律は出来上がる。
ヴァイオリンを奏でながら、鬼灯は思考の海へ溺れていった。
――初めは守る為だった。自分を守る為にと御託を並べて本心を誤魔化す行為を正当化し続ける内に、すっかり本心が何なのか分からなくなってしまっていた。
気付いた頃にはもう遅く、虚構で塗り固められた空っぽの心にいつの間にかその癖は我が物顔で居座っていたのだ。
だから蟠りを感じても気が付かないフリをして、そっと心の奥に仕舞い込み続ける事で自分を守ってきた。
何故先程から過去形なのかというと、何せその深層に先日無遠慮に土足で踏み込まれ、嫌でも自覚せざるを得なくなったからだ。
『塁兎を心から想う気持ちよりも、『塁兎が困っていたらすぐに駆けつけるヒーローの自分』に酔っているのでは?』
――そんなの鬼灯だってとっくに分かっていた。
それでも認めてしまったら、今まで自分が積み上げて来たものが全て無意味になってしまうのではないか。
そんな筈はないんだと何度も何度も自分に言い聞かせて、回りかけの思考を無理矢理閉ざしては目を逸らし続けてきたのだ。
それを好奇心一つで無遠慮に踏み荒らしていく彼奴が不愉快極まりない。
鬼灯が蓮を厭うのはそんな子供じみた気持ちが大半を占めているが、それだけではない。
空気の流れを掌握する能力に長けていて、仮面を被り本音を隠す事を得意とする鬼灯が、他人の心理の裏をかいて出し抜く事を得意とする蓮のような人間を不得手とするのは必然だろう。
単純明快に言うと同族嫌悪だ。
今まで積み上げてきた時間と、彼と過ごした時間、比べるまでも無くどちらが長いかなんて分かり切っていた。だから尚更認めるわけにはいかない。
「僕が塁兎を守ってあげるよ……塁兎にはまだまだ僕が必要なようだからね」
――それは四歳のあの日から、ずっと自分に言い聞かせてきた言ノ葉。
*
「さぁさぁ、影兎号発車なのでありまっす! ご乗車の方は右向けアイーンなんだぞ!」
「あいーんー!」
真夏なのに黒のパーカーを着た青年がしゃがみこみながら宣言すると、青年によく似た赤の散った黒髪に紅い瞳の小さな子供が元気よくその背中に纏わり付く。
「うっしゃ! 飛ばすからしっかり掴まってろよっ塁兎!」
「はーい!」
青年はしっかりと幼い塁兎を背負うと、そのまま森の小道を風を切って駆けて行く。
その際フードがぱさりと脱げ落ち、塁兎に良く似た顔が露わになるが、瞳の色とメッシュの色は紅ではなく銀色だ。
「おらおら天才錬金術師&魔導学者影兎様のお通りだぞぉぉおお! 皆の者道を空けよォオオオオヒャッハァアアアァ!」
「わぁああ……! とぉさますごぉーい! たかーい! はやーい!」
「どうだっ引きこもり系イケメンの割には体力あるだろ!? ハッハー! 恐れ入ったか! さぁこんなにも素晴らしい父様をもっと褒め称えるんだぞっ息子よ!」
徐々に上がって行くスピードに森の動物達は驚いて避け、結果として道を空ける事になる。
塁兎の澄んだ大きな紅は一層キラキラと輝いて、とても綺麗だ。
過る四歳、夏の情景。じめじめした空気から一転してからっとした晴天が目に染みて、鬼灯は木陰に腰を落とし休みながら父子の一連の応酬を見守っていた。
「煩いぞ、二十三歳引きこもり実験厨」
汗を垂らしながら森を駆け抜ける青年に辛辣な言葉を浴びせたのは、鬼灯の隣に座って分厚い本を読み耽っていた女性だった。
塁兎に良く似た紅い瞳をしていて、此方もやはり夏なのにゴスロリに近い真っ黒なドレスを着ている。
「おーいシャノンも来いよー!」
「かぁさまー!」
今し方叱られたというのに全く気にする素振りを見せない青年は走ったまま此方を向き、犬が飼い主に尻尾を振るようにぶんぶんと手を振っている。
塁兎もつられて無邪気な笑顔を見せる。その笑顔が余りにも天使過ぎて、鬼灯は鼻頭を押さえた。
鼻の細い血管よ、切れるのはもう暫く耐えておくれ。死因が鼻からの大量出血による失血死とか笑い話にもならない。
「断る。いい年こいて餓鬼みたいに騒ぐのは己を馬鹿に見せるだけだと何故気付かない?」
「ピャァアアァッ俺の嫁さんが辛辣過ぎるっ!」
シャノンがつんとした態度で誘いを跳ね除けると、影兎はがーんと効果音が聞こえてきそうな程目に見えて悲壮感漂う顔をしたが、それもほんの一瞬で、すぐに立ち直ってニヤリと悪い笑みを浮かべる。
「……でもそこに痺れるゥ! 憧れr」
「やめろ黙れ爆ぜろついでにハゲろ」
「泣くよ!? 俺氏穴という穴から涙流して泣くよ!?」
「勝手に泣いてろ」
「ウワァアア!」
無表情でマシンガンの如く罵倒を浴びせてくる嫁に影兎の硝子のハートは無残に粉砕された。
しかし、図太い彼なら熱処理ですぐに復活しそうだとかつい思ってしまうのは仕方のないことだ。
「少年、悪いな。うちの旦那が子供以上にはしゃいでて」
「いや、気にしていないよ!」
少年というのはシャノンが鬼灯を呼ぶ時の呼称だ。彼女は鬼灯の名前を知っているのだろうが、何故かいつも少年と呼んでくる。
申し訳なさそうなシャノンに居た堪れなくなってきた鬼灯はぶんぶんと頭を振った。
このシャノンは鬼灯の母親の姉に当たる人物で、神族と魔族のハーフの女性だ。蜂蜜色の綺麗な髪を足元まで伸ばしているのが特徴である。
「影兎もシャノン叔母さんも久々の休みだし……寧ろ家族水入らずに僕がお邪魔している方が申し訳ないのだけれどね」
大凡子供らしくない気遣いを交えつつ問題ないと微笑むとシャノンは「そうか」と安堵の表情を見せたが、何処か遠く虚空を注視するような透き通った硝子玉の眼に僅かに切ない色が滲んだ。
その変化は微々たるもので、大抵の人間は気づかないだろうが、この頃から既に他人の顔色を伺うスキルを身につけていた鬼灯は目敏く気が付いた。
「どうしたんだい?」
直球に言及するとシャノンは僅かに目をぱちくりさせて狼狽えたが、気まずそうに肩を竦める。
「気にせずとも良い。妙な夢を見ただけだ」
わしゃわしゃと乱暴に頭を掻き回され、子供扱いに眉を顰めながらその手を払い退けようとするが、大人と子供では力に差があるので敵わなかった。
鬼灯は手を退けるのを諦める代わりにぷいと顔を背け、わざとらしくむくれてみせるとシャノンは僅かに目を見開き、次いでクスクスと笑う。
「……何なのさ」
「はは、すまんすまん……お前は見た目も性格も父親似だと思ってな。ぶふっ、エミリア要素ゼロ……!」
反省の色がまるで無い謝罪に、鬼灯の眉間に益々深く皺が刻まれた。
「ふふふっ……はー……なぁ、少年」
一頻り笑った所でシャノンは一つ息を吐き、すっかり機嫌を損ねた鬼灯の顎を掴んでクイと自分の方を向かせる。
既に爆笑の余韻は消え、少しでも気を抜けば抉られそうな鋭さの宿った眼差しで見詰められた鬼灯は居心地悪そうにユークレースを彷徨わせる。
シャノンは空いていた方の手を上げ、掌の上に煌々と青白い鬼火を出現させた。
鬼灯の無駄に明晰な頭脳は直様それの正体を導き出し、ぱこりと嵌め込まれたユークレースの瞳は驚愕に揺らぐ。
「これ、って……」
シャノンの掌から旅立った鬼火はゆらゆらと巣立ちしたばかりの雛の如く覚束ない足取りで鬼灯の元までやってきて、胸の真ん中まで辿り着くとすぅ……っと体の内側に暖かなものが流れ込んでくる、何とも不可解で心地良い感覚と共に融けこんで消えてしまった。
鬼火が融け込んだ辺りを摩るが、またあの暖かな感覚が訪れる事はなく、其処は何の痕跡も残されていなかった。
「お前なら必ずこの力を活かしてくれると考えたからこれを託す。あの子にはこれからも、私ではどうにもできないような様々な困難に苛まれるだろう。だからどうか……友人としてあの子の側に居て、守ってやってくれ。約束だ……エルザ」
これがシャノンに名前で呼ばれた最初で雑賀の瞬間。
呼んだのがフルネームではなく愛称なのは、鬼灯が本名を嫌っていて実の親ですら愛称でしか呼ばないから気を遣ったのか、それとも本当に知らないのかは鬼灯には分からない。
「……仕方ないなぁ。塁兎は守ってあげるよ。塁兎には僕が必要らしいからね」
彼女の深刻そうな雰囲気に押され、言われた意味の半分も理解していなかった当時の鬼灯はただ訳のわからないまま頷くしかなかったのだった。
*
優しく育むべきものだ。
彼は綺麗なものだけを見て、綺麗な所で育つべきなのだ。
塁兎は良く出来る子だけど精神面が酷く脆いから、 側で盾になってあげる存在が居なければ前に進めない。
それは彼の両親の葬儀の際、今にも消え入りそうだった塁兎の弱々しい姿を見てからずっと思い続けてきた事。
形はどうあれ鬼灯はあの日からシャノンと交わした約束の通り、幼馴染として塁兎を側で見守り助けてきた。
例えそれが蓮の言う通り自己満足に過ぎなくても、シャノン達の為にも塁兎を守っていかなければならない。
――そうだ、蓮などの言葉に惑わされて揺らぐようではいけない。
「……これが、正しいんだろう?」
一曲弾き終わり、辺りに木霊すヴァイオリンの余韻に耳を傾けるが特定の人物へ向けた質問の答えは永遠に返ってくる事は無い。
無数の星が自分達を見守ってくれているような錯覚を覚えながら満点の星空をぼんやり眺めていると、周囲に揺蕩う風の魔素が大きく揺らぐ気配がした。
『鬼灯様は凄いですねー、流石大精霊長様の御子息です!』
『ヴァイオリンの才能に関してはエミリア様譲りの様で!』
淡い翠に発光する光が何個も旋回しながら鬼灯の周りを飛び交う。
この光達は風の精霊。精霊とは土や炎などの無機物たちの分身であり、実体を持たない彼らは人間の目には光にしか映らない。
風の精霊達は鬼灯の奏でるヴァイオリンの音色が好きで、風の届く屋外で弾いていれば何処からともなく現れてヴァイオリンの音色を拾い、森中へ響かせるのだ。
「塁兎の方が上手いけれどねー」
『それは技術の話でしょう? 鬼灯様は音に感情を乗せるのが上手いんですよ! ところで何かお有りでしたか? 今回は一段とスパイシーなお味でしたが』
そう言ったのは、風の精霊の中でも特に鬼灯に付きまとってくる精霊だ。
精霊は食事など摂らなくても生きていけるのだが、彼らは感情の乗せられた音色を好んで食す。
故に彼らは鬼灯の感情の微細な変化にまで気がつく。誤魔化しは利かない。
「……やっぱり分かるのかぁ」
『音楽というものは不思議で、どんなに表情を取り繕っていても音色は弾いている人間の心をストレートに表すんです。だから分かっちゃいますよっ』
肩を竦め苦笑いする鬼灯の周りを元気良く飛び回っていた一匹の精霊は、鬼灯の真正面でぴたりと静止する。
『良いお友達が出来ましたね』
心なしか嬉しそうなトーンで紡がれた言ノ葉が誰を指しているのかなんて、決まり切っている。
鬼灯は先日この精霊に散々蓮に苦言を呈された件について愚痴を聞いてもらったばかりだからだ。
「あはは、君は僕の話を随分ポジティブに解釈したようだねー。そして友達じゃないからね?」
『自分が嫌われるのを覚悟でキツイことを言ってくれるお友達なんて希少ですよ? 大事になさいませ』
頑なに認めようとしない鬼灯に構わず、精霊は何処か上の方から客観的に見守っているような目線で諭す。
鬼灯はその子供扱いが気に食わなかったが、反論しても簡単に言い包められるのは分かっているので、何も言わずに精霊を睨めつけるだけに留めた。
鬼灯はそのIQの非凡さから神童と褒めそやされているが、所詮はまだ小学生。本人が正しいのだと感じていても子供の考えは甘く、穴だらけだ。
種族によっては幾億もの時を生きる、人生経験豊富な精霊とたかだか数年しか生きていない鬼灯とでは何方が格上かなんて考えるまでもない。
「鬼灯〜、そろそろ勉強会終わるから戻ってきていいわよ〜!」
扉がガチャリと開けられる音に反射的に振り向くと、部屋の入り口から色素の薄い髪色をした美少女がバルコニーを伺っていた。
そうだ、今晩は皆でチサキの家にお泊まり会をしに来ていたのだ。
勉強が分からないと言って必死にアピールするチサキと気づかないフリをして流し勉強を教える蓮の攻防戦の甘ったるさに胃凭れを起こし、何度砂糖を吐きそうになったことか。もう喉の奥は既にジョリジョリだ。
それに加え好きな子が他の男とイチャイチャしている様を真正面から見せつけられ、しかも先月生まれたばかりのチサキの弟の世話まで押し付けられた塁兎から発せられる負のオーラに耐え切れなかった鬼灯は、ヴァイオリン片手にバルコニーまで抜け出して来たのだ。
今チサキが探しに来ているという事は即ち、あの修羅場が終わったのを意味する。
鬼灯がバルコニーへ来てから、ずっと開けっ放しだった戸を視界に収めたチサキが此方へ歩いて来るのを確認した精霊達は慌てて散会し、バルコニーには鬼灯だけが残された。
「ごめん、外の空気が吸いたくなってね」
何事も無かったかのように笑顔を作り、チサキの目の前に移動する。だが。
「あれ……? 何で開けっ放しになってるのかしら」
大きな瞳をきょろきょろと彷徨わせたチサキは怪訝そうに顔を顰めただけだった。
……え?
鬼灯にチサキが見えているのなら、当然チサキにも鬼灯が見えている筈。二人の間には視界を遮るような障害物はない。
鬼灯の脳裏に最悪の考えが過った。
「チサキー、鬼灯は?」
「居ないのよ。その分だとそっちも見つかってなさそうね」
「この階は全部屋探したんですがね。何処に行ってしまったのでしょうか?」
チサキを追って部屋に入ってきた後の二人も、困った表情でお手上げとばかりに首を横に振った。
チサキのみならず塁兎達までもが鬼灯を認知していない。今自分の身に起こっている現象を把握はできても理解が追いつかない。
――能力の、暴発だ。
そんな、だって、能力を貰ったばかりの時はいざ知らず、ここ数年は意思に関係なく突然発動するなんてことなかったのに……
鬼灯は堪らずに、バルコニーの柵にもたれ、そのままずるずるとへたり込んだ。
「……あ」
バルコニーへ目を凝らしていた塁兎が何かに気がついた様子で声を上げ、鬼灯の肩がびくりと揺れる。
――塁兎なら気づいてくれるよね? だって僕らはずっと一緒に居たんだ。勿論……すぐに見つけられるよね?
僅かに希望を込めて顔を上げると、塁兎はすぐ其処に鬼灯が居るというのに鬼灯の横を素通りして、床に置きっ放しにされていたヴァイオリンとケースを拾い上げる。
「鬼灯のヴァイオリンだ。どうやらさっきまで此処に居たみたいだね」
「うーん、トイレにでも行ったんですかね?」
「もしかしたら能力が暴発したって事もあり得るわ。この辺りをもう一度探し直しましょ」
――違う。僕は今も君達の目の前にいる。気づいてよ!
三人へ手を伸ばしても、鬼灯の訴えは届かない。彼らは鬼灯の目の前でぴしゃりと硝子戸を閉め、内側から鍵を掛けるとそのまま部屋を出て行ってしまった。
――もう一度言おう、鍵を掛けて出て行ってしまった。
それが示唆する事態の重大さにようやっと気付き、弾かれたように立ち上がった鬼灯はドアノブに手を掛け、押したり引っ張ったりを繰り返すが、結果から言うと無駄だった。
「……嘘、だろう」
再び堪えきれずに両手を着いてへたり込む。一人きりの空間は嫌に静けさを増し、夜の冷え切った風が背中の曲線を撫ぜてゆく。
バルコニーがあるのは三階。内側から外側へ出る事はあっても外側から内側へ入ってくるケースは先ず無いので、外側に鍵穴なんてついていない。
一度内側から施錠されてしまえば、外側からは絶対に開けられない仕組みなのだ。
ピッキング技術も役に立たない。
能力の暴走が解けるまでは誰にも認知されない。
携帯電話は勉強会をしていた部屋に置きっ放し。
精霊達に助けに求めようにも、彼らはヴァイオリンを弾かなければ来てくれない。そしてそのヴァイオリンは塁兎が持って行ってしまった。
「……詰んだ」
幼い頃から家族公認で兄弟のように育ってきて、常に親鳥の後を追いかける雛鳥のようにべったりと自分の後ろについて回っていた塁兎ならば当然すぐに見つけてくれるものだと何の疑いもなく思い込んでいた鬼灯は、ショックを隠せずにいた。
――自分はこんなにも塁兎を大事にしているのに。塁兎はそうは思っていなかったのか……?
鬼灯が「自らが塁兎よりも優位に立っていたい」が為に彼に優しくしていたように、彼もまた鬼灯と共にいれば面倒なことは全部押し付けられて楽だからついてきていただけだったのか……?
「そんなこと、ない。塁兎と僕は唯一無二の親友で……」
――唯一無二?
グルグルと、嫌な方向へ回ってゆく思考を否定しようと言葉を発しかけた所で、鬼灯の脳裏にチサキの顔が浮かぶ。
チサキと接する時の塁兎は、近年鬼灯にはあまり見せなくなった明るく自然な笑顔ばかりを見せていた。
――あははっ、今更確認しなくなってとっくの昔から解っていた事じゃないか。
「……塁兎は、僕よりもチサキ達の方が大切なんだ……」
心の何処かでは気付いていたけれど、認めたくなくて、目を逸らし続けていた結論に視界が滲む。
「……僕は、もう必要ない……?」
やっと開いた口から漏れ出たのは、喉の奥にへばりつくような情けない声だった。
今にも決壊してしまいそうな感情を必死に抑え込み、床に着いていた両手の指に力を入れて引っ掻くと白い線が十本伸びる。
とうとう堪えきれなかった涙が溢れて、拭っても拭っても溢れ出てくるので最後には拭うのを諦めると乾いた白に次々と雫が落ちてきて境目をなくし、小さな水溜りを作ってゆく。
――僕は何をやってもすぐに出来てしまう、元々要領の良い塁兎とは違う。勉強も人付き合いも小さい頃からの努力を積み重ねてきて今の僕がある。
ねぇ、お喋りは得意なんだ、面白い話だって沢山知ってるよ。だから誰か僕の話を聞いてよ。ねぇ……お願い、一人にしないでよ。
早く見つけてよ。
「見つけましたよ、鬼灯」
待ち望んでいた言葉をかけられ、顔を上げるといつの間にか戻ってきていた黒と金の瞳の彼がしゃがみこんで鬼灯と目線を合わせながら、いつもと変わらず陽気な声色でそう言った。
「……なん、で……?」
――さっきは蓮も気がつかなかったのに。
喉は小刻みにしゃくり上げるばかりで、続けようとした言葉は上手く出てきてくれない。
鬼灯の言わんとしようとしている内容を察した蓮はいつもの貼り付けたような冷笑ではなく、幼子をあやすような優しい微笑を湛える。
「分かりますよー。だってここら一帯体感温度が十度くらい低いから怪しいと思ってましたし、気になって戻ってきたらやはり其処の床がびしょびしょでしたもん」
鬼灯は自身が大精霊長である母親の力を少しだけ受け継いでいた事をようやっと思い出す。
周囲の気温を下げるといっても無意識の内だし、鬼灯自身は幼少期からその涼しい温度が当たり前だったので気に留めた事もなかったので、忘れていても仕方がなかった。
それと、姿は認知されずとも涙は認知されるらしい。
目の前に居るのはあれだけ嫌っていた相手なのに、知った顔が自分を認識しているというだけで安心感に包まれた。
黙りこくっている鬼灯を見た蓮は何を思ったか、鬼灯の頭にぽんと手を乗せた。
即座にぎん、と睨みつけられても蓮はへらへらと笑って鬼灯の頭をわしゃわしゃと掻き回す。
その行動は、鬼灯がこの青の能力を得た日を彷彿とさせた。
「……何のつもり」
「んー? 鬼灯は可愛いなぁ、と思いまして」
「はぁ?」
予期せぬ返答に鬼灯は泣くのも忘れ、ぽかんと口を開けたまま間抜け面を晒す。
幾ら蓮が人をタラシ込むのが得意といえど、今まで鬼灯にそんな言葉をかけてきた事などただの一度も無かった。
「あ、頭打って来たのかい……?」
「俺は至って正気ですよ? はぁ本当黙ってれば可愛い……」
「一言余計……うわっ!?」
訝しみながら距離を取ろうとすると腕を引かれ、突然の行動に受身が取れずバランスを崩し、ぽすりと軽い音を立てて何かに受け止められる。
柔軟剤の良い香りに包まれた瞬間、自らの置かれている状況を理解して硬直する。
柔軟剤の香りは蓮が好んで着るベージュ色のカーディガンから香っていて、鬼灯より体温の高い彼は暖かくて……お分かり頂けただろうか。
――鬼灯は蓮に抱き締められている。
「な、なな何して……! セクハラで訴えるよ!?」
「んー、髪の毛ふわふわ……本当可愛い、鬼灯って本当は女の子なんじゃないですか 〜?」
「ッ! 放せ変た……!」
蓮の暴挙にボンと顔を真っ赤にして、考えもなしにただ抵抗しようと手足をばたつかせてみた所で慣れない甘い香りがふわりと鼻腔を掠める。
その香りにハッとした鬼灯は一気に平常心を取り戻し、蓮の身体を引き剥がした。
「……もしかして、何か飲んでる?」
「えー?」
薄暗いせいで分かり辛かったが、蓮の顔が先程の鬼灯とは別の意味で赤いのは気のせいではないだろう。
本人はこてんと首を傾げ考え込んでいるが、先ほどの香りは間違いなく……アルコールの類の……
「んー……ああ!」
暫く顔を伏せて考え込んでいた蓮は心当たりを見つけるとぱっと顔を上げて両手を合わせる。
「そういえばさっき鬼灯が持ってきてたチョコ食べました!」
蓮が食べたと言っているのは恐らく、手ぶらでお泊まり会をさせて貰うのは悪いからとチサキの為に特別に取り寄せた外国の人気パティシエが考案した高級チョコレートの事だろう。
チサキはチョコが好きだから喜んでくれると思って買ったのだが、確かそのチョコには香り付けに微量の酒が含まれていた。
チサキにあげたのに何故それを蓮が食べているのかは聞かない。蓮に首ったけなチサキの考える事なんてたかが知れているからだ。
それよりも重要なのは……
「チ……チョコのアルコールで酔う人って本当にいるんだ……」
呆れや驚きを通り越して脱力する。
当の蓮は頭を使ったら眠くなったのか、先程からまた鬼灯に寄りかかってうつらうつらと夢現だ。酔っ払いのお約束か。というか寝るの早い。まだ夜の八時だぞ。
「ちょっと、こんな所で寝ないでくれる!? 重い!」
「んぐぅ……マザー、後ファイブミニッツ……」
「誰がマザーだ! 良いから起きろ!」
駄々をこねる蓮が煩わしくて、頭を鷲掴みにすると、蓮はその手に擦り寄ってくる。その様は何だか猫みたいで。
折角熱が落ち着いた顔にまた熱が集まってくるのが分かる。それと同時に鼓動が早鐘を打った。
訳が分からない。だけど恥ずかしくて堪らなくて、蓮から逃れようとじたばたと暴れるがそのくらいでは馬鹿力な蓮はびくともしない。
暑苦しいからさっさと離れて欲しいのに、離れて欲しくないと思う自分もいる。何とも形容し難い感情だ。
「この……ッ! クソ猫ぉおおおおおおぉおおお!」
鬼灯がこの感情の答えに行き着くのは大分先のお話である。
来週水曜はテオドールの誕生日。
 




