第九話 No.6アンリ(黒田蓮)【急】
作者「ほら間に合った! ギリ土曜日!」
零音「残り1分だけどね」
作者「だってこの時期学校イベント多くて忙しいし充電器死んでたし仕方ないよ!」
零音「今週ほぼ寝てた奴が何を」
色とりどりの煌めきを放つネオンカラーの柱に覆われた回廊は不気味な程の静けさに包まれていた。
壁には蛍光塗料でイラストが描かれていて、薄暗い視界の中でぼぅっと浮かび上がっている。
一つ瞬く度にその色を変え、輝くタイルをブーツで踏み鳴らす音だけが明瞭に耳に届く。
墨汁で塗り潰されたような闇黒の空の下、無駄に張り詰めている空気の中で静寂が肌を突いた。
俺は警戒心を緩めぬままそっと目を閉じ、視覚以外の全ての全身の感覚を研ぎ澄まさせる。
――闇に乗じて紛れ込んだつもりだろうが、甘い。
視界が効かなくとも、気配は感じ取れる。
充分に忍んでいるつもりだろうが、常に鬼灯の気配を気にして生きている俺には手に取るように分かる。
『……上ですか』
『ざまぁっ!?』
頭上へ銃口を向け、カチリと引き金を引くと稲妻が迸った。
暗闇で長い時間過ごしてきていた俺は突然強い光を見るのは良くないと分かっていたので此処でも依然目は閉じたままだ。
瞼越しにも感じ取れる眩い稲妻が発射された瞬間甲高い悲鳴が耳元で鳴ったと思えばそれも一瞬だけで、焦げ臭い匂いと共に背後にボテっと音を立てて何かが落ちてくる。
『目標消滅。まずは一体ですね』
安堵する間も無く、俺の意識は既に別の所へ向いていた。
『きっも! きっも!』
『くそわろ!』
仲間の一匹が殺られた事で血迷ったのか、前から俺に向かって襲いかかってくる『破壊ちゃん』という二体の生き物の鳴き声を頼りに位置を確認して同じように撃つ。
『セトマリッ!』
『きゃふー♡ざ・ま・あ!』
『おいらの偏差値は56!』
『……っ何なんですか、この敵キャラの鳴き声ッ!?』
『説明しよう』
破壊ちゃん達が上げる鳴き声……というより意味不明な台詞に耐えきれずにツッコむと、少女と聞き間違える程可愛らしい声が何処からともなく響いた。
『このキャラはチサキが発案した破壊ちゃん、別名アクセラレータ。キャラクターデザイン担当は塁兎、声優はチサキの声を合成したソフトを使用している』
『チサキボカロ化!? ツッコミ所ありすぎて何からツッコめばいいか分からないんです……がっ!』
『僕はあんたが本能で敵の急所を一発で見極め、姿を視界に入れずとも攻撃できる技術力に全力でツッコミたいのだがね』
会話中でも依然目を閉じたまま破壊ちゃんを撃ち落としていると、引いたような声で嫌味を言われるがその時また破壊ちゃんの一匹が近づいてくる気配がしたので、言い返す余裕も無く俺は破壊ちゃんを撃ち殺す。
『へんたいっ!?』
光が失せると共に生温い飛沫が頰を濡らし、それを最後に破壊ちゃんの気配がなくなった事を察した俺はゆっくりと瞼を開いた。
『全ての目標消滅を確認。……チェックメイト』
『何格好つけてるんだい』
チャット越しに聴こえた嫌味を無視し、眼前に浮かび上がった「ダンジョン攻略完了」の金文字と「レベルが31にアップしました」という赤文字に静かに口角を吊り上げた。
ステータスを念じると、目の前に文字列が浮かび上がった。
【名前】猫々闇里
【レベル】31
【種族】電脳黒猫
【職業】呪術師
【装備】萌え袖黒パーカー、攻撃力上昇鈴、ぶかぶかハーフパンツ、疾風のブーツ、稲光電磁砲
【攻撃力】387
【防御力】162
【魔力】245
【素早さ】1053
【魅力】300(誰もが二度見する可愛い猫耳ショタァ)
【スキル】上級雷属性魔術、中級闇属性魔術、疾風、上級気配探知
『ふふ、順調ですね』
自分のステータスを確認し終えた俺はまたニヒルな笑みを浮かべていた。
レベル上げ自体は順調に進んでいる。
この一ヶ月間魔法系統を重点的に育成していたので、職業も初期と比べれば比較的真面なものになった。
呪術師とは物騒だが……この程度ならば許容範囲内だ。
――問題があるとすれば二倍近くに膨れ上がった素早さの数字。
魔術専門後衛キャラとして魔術メインで育成してきた筈なのだが、何故か素早さの数字が異常なスピードで日々膨れ上がり、「疾風」というレアなスキルまで手に入れてしまった。
この疾風というスキルは音速で移動できるというもので敵に攻撃を躱したり、奇襲したりする時かなり便利なのだが……一ヶ月間頑張ってきた魔法は未だに雷属性と闇属性しか取れないのに、普段滅多に使わない分野でレアなスキルがあっさり取れた事に異様な虚しさを抱いている。
『何ニヤニヤしてるのチート野郎……キモい』
『なっ鬼灯あんたなんて事言うのよ!』
見知った声により現実へ引き戻された俺が振り返ると、魔術で作ったのであろう淡い光に包まれた二つの影が揺れながら徐々に肥大してゆく。そう光は此方へ近づいてきているのだ。
『おや、二人共無事でしたか』
『当たり前だろう? この程度の中級ダンジョンで僕が苦戦するとでも思っていたのかい?』
『蓮様ご機嫌よう。いえ……闇里様。なんて麗しいアバターなの……』
鬼灯が得意気に鼻を鳴らし、現実と比べると全体的に青いアバターの彼女が胸の前で手を組んで恍惚とした表情で嘆息を漏らす。
こうなると彼女は面倒なので、さり気なく話題を逸らそう。
『ところで鬼灯、随分早く終わったようですが君はどうやって隠れてた破壊ちゃん達を殺ったんです?』
『は? そんなの上級魔術を発動させたに決まってるじゃないか。
蓮も僕のように、敵のレベルに合わせて戦い方を変える事を覚えたら?』
黒いローブに身を包み、黒い三角帽子を目深に被った鬼灯は紛う事なき正統派魔法使いの格好をしているが、それ以外は普段とあまり変わっていない。
『あんな威力が馬鹿でかいだけの魔導兵器に頼らず、普通に魔法だけで戦えばもっと効率良く狩れるだろう』
『おお……流石効率重視のゲーム廃人ですね』
『うっさい糞猫』
鬼灯の職業は魔導騎士だ。後衛や回復は勿論、剣に付与魔法を掛けて敵を切り裂いたりもお手の物である。
ちなみにユザネは「エルザ」で、ネカマとして活動している。
『今は蓮じゃありません。ユザネで呼んで下さいよエルザさん』
『五月蝿い。ねこねこ……やみりだっけ? そんな変な名前より蓮って呼んだ方がいいでしょ』
わざとらしく頬を膨らませて指摘すると、俺の演技を全て見抜いてしまう彼には効かなかったようで、肘鉄と共に辛辣な言葉が返ってくる。
『もう、ねこねこは合ってますけどやみりは違いますよ。正しい読み方は……』
『アンリ様』
肘鉄をひらりと躱しながら、訂正しようとした所で彼女が先に俺のユザネを呼んだ。
――おっと、先を越されましたか。
『少しお話があるのだけれど、宜しいかしら?』
『ええ、どうぞ』
すっかり置いてけぼりにしていた彼女へ振り返ると、床に届く程長い深海色のツインテールと全く同じ色をした瞳の幼女が膨れっ面で俺を見上げていた。
彼女の目線を合わせる為に、俺はその場に屈み込むと、彼女が俺の耳に顔を寄せる。
『あのぬいぐるみ、後は蓮様の作った頭部とくっつけるだけだから残りのパーツ持ってきてくださるかしら?』
『はい』
俺は一つ頷いて彼女から顔を離すと、彼女はにっこりと笑顔を作る。
『……今日は突然お呼びたてして申し訳なかったわね。ほら、早く戻らないと。今屋外なんでしょう?』
『そうですね。それでは本日は落ちるとします』
言外に「早く帰って持ってきて」と告げた我儘なお姫様に恭しく一礼してみせると、満足そうに微笑まれる。
ログアウトするその瞬間、不自然にならないように鬼灯へ視線を向けると、此方を睨みつけたまま歯を食いしばっている。
彼女と俺が仲良くしている時は常にこんな感じなので気に留める程では無いのだが、殺気が籠った視線を送られるのは決して気持ちの良いものではない。
* * *
――今年一番の猛暑日になるという天気予報に狂いはなく、全てを焼き尽くさんばかりに熱気が降り注いでいた昼間とは打って変わって、ひやりと肌寒い空気が町を包んでいる。
今日ばかりは長袖のセーターを着ていて良かったと思いながら、木製の古ぼけたベンチから起き上がる。
「……もう、今日は帰りましょうか」
陽が完全に落ち切った今、薄暗さのせいで公園の木々や遊具が夜闇の中で不気味に影を落としている。
幽霊の類は信じていないが、如何にも何か出そうな雰囲気だ。
彼女との約束もあるし、さっさとぬいぐるみを彼女の元に届けるとしよう。
一度家にぬいぐるみを取りに戻らねばならないのは面倒だが、何といっても塁兎の誕生日は明日なのだ。今日中に完成させておかなければ間に合うまい。
公園の出口へ向かい始めた時、俺はふと違和感を覚える。
そう、まるで記憶から何かがすっぽり抜け落ちてしまっているような……
「……あっ、ボール!?」
そう、今日は元々公園で遊ぶ予定でサッカーボールを持ってきていたのだが、直後チサキから呼び出しがかかり、ボールを足元に置いてログインして……
足元に目を凝らしてみるが、それらしき物は無かった。
「無い……!?」
改めて辺りを見回すが、辛うじて遊具や木々の位置が分かる程度のこの公園で物を探すなど無理だろう。
ゲームをしている間に盗られたという可能性も無い。
このゲームはプレイ中に一定の距離に人間が近づくと通知してくれる設定になっているが、プレイ中一回も通知は無かった。
では風か何かで転がっていってしまったと考えるのが妥当か……
「もう、勘弁して下さいよ……」
俺は思わず頭を抱え、その場に屈み込んだ。
――ああ、今日はついていない。早く帰らなればならない時に限って、どうしてこんな……
「君、どうしたの?」
「……えっ?」
途方に暮れていると何処からか呼び止められ、素っ頓狂な声を上げてしまう。
俺は人の気配には敏感な方だが、この距離に近づかれるまで気がつかないなんて……
「いえ、少し探し物を……」
「ふーん。もう暗いし、また明日にしたら?」
警戒心を緩めずに答えると、何とも在り来たりな意見を返される。
改めて辺りに目を凝らすが、遊具や木々の影がぼんやり揺れているだけで声の正体らしきものは見当たらなかった。
「そう、ですね……」
「ん。早く帰った方がいいよ」
俺を早く帰るよう諭すこの声は、一体何処から聴こえているのだろう。
幾つもに割れ、反響して重なり合って聴こえる声が何処から聴こえているのか特定するのは難しい。
まだ幼い子供の声にも聴こえるが、初めて聴く声だ。
「……分かりました。それでは」
得体の知れない声。その存在を酷く恐ろしく感じた俺は、そそくさと出口の方向へ小走りに向かった。
「あ、向こうの踏み切りに気をつけてね。遮断機が壊れかけてるから」
去り際にそんな言葉を掛けられたが、俺は一刻も早くこの場から去りたかったのと、俺が使っていたのが踏み切りとは反対側の出口だった為に深く考えなかった。
――この気にも留めなかった一言で、後に俺は後悔する事になるなんて微塵も考えていなかった。
*
*
*
「ここにも無いですか……」
昨日座ったベンチ周りの茂みにしゃがみ込み、数時間に渡って探索しているがボールは未だに見つかっていない現状。
照りつける陽射しが強くなる時間帯なので、日焼け防止の為に長袖のセーターを着ているのだがこれが蒸し暑いの何の。
熱中症防止の為に水筒のミネラルウォーターを一定の時間置きに飲んでいたのだが、そのミネラルウォーターもつい先程切らしてしまった。
俺的には早く涼しい室内に帰りたいというのが本音だが、そうもいかない理由がある。
「蓮様、そろそろ出てきて良いわよ!」
「はいはーいっ」
彼女の声を合図に、俺は背中に括り付けていた荷物を外して後ろ手に隠しながら、笑顔を作って茂みから飛び出した。
そんなギョッとした顔で見ている塁兎と、笑顔の彼女。
二人が並んで立つブランコの前へ駆け寄って、俺は更に優しい笑みを心掛けながら二人の元へと駆け寄った。
「時間が無くて包装できませんでしたが、俺達からのプレゼントです。……改めまして、塁兎。十二歳の誕生日おっめでとうございまーす!」
俺が塁兎の前まで辿り着くと彼女は身体を横にずらして俺の隣、即ち塁兎の前に並び立つ形になり、俺が背中に隠していた大きなうさぎのぬいぐるみをずいと差し出す……というか押し付けると塁兎は転びそうになりながらも受け取り、更に目を見張った。
「……これって」
「あんたがノートによく描いてたラクガキよ。
ラクガキの割にやけに凝ってて目についたからさ、このあたしと蓮様が協力して直々にグッズ化してあげたのよ? 光栄に思いなさい!」
そのぬいぐるみに心当たりがあるであろう塁兎が口に出すよりも先に、彼女が得意気にふんぞり返って答える。
――トランプをモチーフにしたデザインの黒いうさぎ。
継ぎ接ぎや包帯だらけで痛ましいのだが、何処か愛着が湧いてしまうのはこれを塁兎がデザインしたからだろうか?
「これ、二人で作ったの!?」
「ええ! 材料は鬼灯に持ってこさせたけどねっ♪」
驚きと嬉しさが入り混じり、上擦った声で問う塁兎の反応に彼女は更に踏ん反り返り……いや、最早踏ん反り返るというよりかはイナバウアーだ。イナバウアーを決めている。
俺だったらどんなに好きな子でもそんなポーズを決めているのを見たらドン引くが、塁兎は嬉しそうにふにゃりと顔を歪めて笑った。
「……ありがとう」
そう告げた塁兎の笑顔はとても楽しそうで、心から感謝の言葉を告げているのだと伺えた。
「ふん、精々大事に扱いなさいよね!」
それを聞いて、彼女も微笑んだ。飾り気のない、太陽のように明るい笑顔に塁兎がまた少し頬を赤らめる。
――なんだ。
チサキ、塁兎と一緒にいる時の方が楽しそうじゃないですか。
俺も二人には見えないよう、微かに口角を釣り上げた。
――彼女が俺に抱いている好意は本物の恋愛感情かどうか、本物の恋愛を知らない俺には分からない。
そもそも愛なんて目に見えないものは何が本物で何が偽物か、或いは本物の愛なんて存在しないのかすら……俺みたいな小僧には分からないけれど、俺の前では無理にぶりっ子して大人ぶってる彼女よりも、塁兎の前でこうして純粋な気持ちで笑っている彼女の方が輝いて見えたのは確かだ。
「さ、帰りましょ。鬼灯がケーキ作って待ってるわ!」
「うんっ!」
塁兎は彼女が差し伸べた手を握ろうとしたのが、今彼はぬいぐるみを両腕に抱えている。
何とか片手だけで抱え直そうとするが、同年代の子供と比べてもかなり小さい塁兎にはそれすらも憚られる。
「任せてください」
こういう時こそ、俺の出番です。
どうするべきか逡巡している塁兎を見兼ね、彼の腕からぬいぐるみを取り上げて先程俺の背中に括り付けていた時に使用した麻縄で塁兎の背中にぬいぐるみを括りつける。
「あ、ありがと。ところでこの縄どこか」
「あー今日は本当に暑いですねー! 早く帰りましょう!」
尋ねかけた言葉を強引に遮り、公園の出口へと向かう。
折角の誕生日に茂みの中で探し物をしながら二人の動向を伺っていたなんて、鬼灯にすら馬鹿にされそうなストーカー紛いの行動言える訳がない。
塁兎もそれを察してかそうでないかは別として、不思議そうな顔をしたがそれ以上追求する事はなく、すぐ元の楽しげな笑顔に戻った。
それにホッと胸を撫で下ろす前に、ふと塁兎越しにある物が目に入った。
「……塁兎、ちょっと見てください」
「ん?」
今帰ろうとしていた出口とは正反対の方向にある、もう一つの出口。
普段全く使わないその出口に転がっている物を理解した瞬間、俺はほぼ無意識に塁兎の服の裾を引いていた。
首を傾げる塁兎に、それがある方向を指で示す。
「……あれ、昨日俺が無くしたボールです」
「あらそうなの!?」
ぽつりと零した言葉に、真っ先に反応したのは彼女だった。
「蓮様探してたし、見つかって良かったじゃない!」
昨日彼女の家へぬいぐるみを届けに向かった時、ボールの件を話していたのを覚えてくれていたらしい。
彼女が嬉々として手を合わせ、喜んだその刹那。
――不意に突風が巻き起こり、公園の木々が強く揺さぶられ砂埃と木の葉が舞った。
「きゃ……」
「あっ……!?」
彼女が小さく悲鳴を上げ、砂埃で不明瞭な視界の奥でボールがコロコロと公園の外側へ転がってゆくのを俺は見逃さなかった。
「追いかけましょう!」
俺は塁兎のパーカーを掴んでいた手を放し――今度は彼女に握られていない方の手を掴むと、出口へと全速力で走りだした。
「わっ!? ち、ちょっ……!?」
「きゃあっ!?」
考えなしに取った行動により、芋づる式で彼女までもが引きずられる形で公園を飛び出した俺達は土の上を勢い良く転がるボールをただ只管に追い続けていた。
後になって思えばたかだかボール一つ追うくらい、一人でいけば良かったと思う。
だがこの時の俺はとにかくボールを追いかける事を優先していた為、そこまで考えが及ばなかったのだ。
「蓮っ踏み切りだ! 止まれ!」
「あ、本当ですね」
ボールを見失わないように、さっさと取り戻さねば。
それだけを強く考えていた俺は、塁兎に指摘を受けるまで古びた踏み切りの前に来ている事に気付きもしなかった。
ぴたりと立ち止まると、背中に衝撃が走る。止まるのが唐突すぎて、止まりきれなかったのだろう。
「っはあ、はあ……蓮様早い……」
「すいません、ボール見失いそうだったんで……」
彼女といえど、女子には俺の全力疾走についてくるのは流石にきつかったらしく、呼吸が整っていない。
そんな彼女に謝罪しつつ、線路へ視線を戻すとボールは上手い事線路に引っかかって止まったようだ。
今なら遮断機も鳴っていないし、サッと行って戻って来れば大丈夫だろう。
「僕がボール取ってくるから、二人はここにいて」
俺が踏み切りへ進もうとすると、それより一瞬早く塁兎が一歩前へ踏み出した。
「あ、はい分かりました」
「いってら〜」
特に断る理由もなかったし、塁兎に任せる事にした。
塁兎は小走りで踏み切りを駆け、ボールの前に辿り着くと、その場に屈んで線路と線路の間に挟まったボールを持ち上げた。
しかし、そこで不可解な現象が起きた。
カンカンというあの特徴的な音が鳴っていないのに、遮断機が唐突に降り始めたのだ。
もしやと思い左側へ目を向けると、古い電車の車両が塁兎目掛けて突進してくるのが目に入った。
次に反対側を見ると、別の車両がまた此方目掛けて突進してくる。
――踏み切りの中には、まだ塁兎が取り残されている。
「塁兎っ電車!」
声の限り叫ぶと、塁兎は漸く自分が踏み切りの中に取り残されている事に気がつき、更に電車を視界に入れると呆然とした顔で固まり、その手からボールが滑り落ちて線路の上を数回跳ねた後、塁兎の足元に転がった。
「塁兎っ何ぼーっとしてんの!? 早く戻りなさいよ! 馬鹿!」
呆然としたまま微動だにしない塁兎を彼女が怒鳴りつけるが、その間にも刻々と時間は過ぎ、二台の電車が耳を劈く甲高いブレーキ音を立てて塁兎に迫ってゆく。
俺は何もできずに、ただ立ち尽くしてそれらの光景を眺めている事しか出来なかった。
「塁兎ぉっ!!」
いつまでも動かない塁兎に焦れたのか、彼女は遮断機の上に身を乗り出した。
「チサキ!? 何してるんです!」
「放してっ! 放してよ!」
そこで俺はハッとして後ろから彼女を抑え込むが、彼女は俺の手を振り解こうと暴れ回る。
こんな必死な彼女を見るのは当然初めてで、まごついていると背後から視線を感じた。
「な、塁兎っ!」
「鬼灯……!」
今朝から塁兎の為にケーキを作ると張り切っていた筈の鬼灯が、息を切らして俺の背後に立っていた。
――何で、鬼灯が此処に?
彼は俺達が帰ってくるのを待っていた筈だ……もしや、あまりにも遅くて迎えに来たとか?
「塁兎っ今助け……」
「駄目ですっ!」
俺が思考していた数秒の隙に遮断機に手を掛けた鬼灯が彼女と同じように線路に飛び込もうとしたので、慌てて片手で押し戻す。
「触るな! 僕は塁兎を助けるんだ!」
「馬鹿! もう電車がそこまできてるんですよ!? 君が向こうに行った所で何ができ……っ!?」
――説教が不自然に途切れた理由。
鬼灯に気を取られた一瞬の隙に、彼女を抑え込んでいた腕が急に軽くなったのを感じた俺は彼女へ目を向ける。
踏み切りの中に飛び出した彼女は、線路の真ん中で棒立ちになっていた塁兎を力いっぱい突き飛ばしたのが見えた。
――刹那、二人の姿は此方からは伺えなくなってしまった。
目の前を猛スピードで通り過ぎてゆく車両に、全身から力が抜けていった。
「……チサキ?」
やっとの事で絞り出した声は酷く掠れていて、車輪と線路が擦れ合う音と蝉の音に掻き消された。
鬼灯は状況を理解していないのか、それとも理解してはいるのだが受け入れられないのかは分からないが、無言のまま愕然としながら地面に崩れ落ちた。
――ここまでたった数秒の出来事の筈だったのに、俺には果てしなく長く感じられた。
――だが、本当に衝撃的なのはここからだった。
車両が通り過ぎ、遮断機が漸く上がった瞬間に青く澄み渡った空も、葉の生い茂った木々も、錆びた遮断機も、全てが蝋燭の炎が消えるかのように、ふっと色を失った。
「え……?」
不測の事態の連続に思考放棄しかけた脳を気力だけでフル回転させ、慌てて辺りを見回すがモノクロに変わっていないものなんて俺と鬼灯くらいだった。
不気味なのは、あれだけ煩かった蝉の音も一斉に静まり返り、空を羽ばたいていた鳥も羽を広げたまま空の上で固まっている。
あんなに居心地悪かった蒸し暑さも、綺麗さっぱり消え去っていた。
――その時、確かに世界から時間が消えていた。
「なにこれ……何なの……!?」
怯えきった鬼灯が叫ぶようにそう言ったが、その言葉ももう聴こえないくらいに俺も狼狽していた。
遮断機の向こう側、地面に座り込んでいる塁兎は俯いていて……純白のパーカーに赤がべっとりとこびりついている。
それが何を意味するかなんて、分かりきっている。
「チサキ……嘘……」
塁兎は譫言のように呟いた。光が失せ、作り物じみた瞳は最早何も見てはいない。
「何で……どうして……チサキ……っ…………ああぁぁああああああぁあ!!」
怒りと困惑と悲しみが混じり合った咆哮に、世界が震えた。
地は裂け、木々は折れ、遮断機は歪に砕けて地面へ叩きつけられた。
鬼灯の側にも大きな木が倒れてきて、鬼灯は「ひっ」と小さく悲鳴を上げて反射的に俺に抱きついてくる。
――もしかして、この状況を作り出しているのは塁兎……?!
塁兎の咆哮に合わせ、崩れてゆく世界にそんな可能性が脳裏を過る。
「る、塁兎! 止めてください!」
「ああぁぁぁあああああ! どうしていつも、この世界は……! 僕から大事な人達を奪う……!?」
何で塁兎にこんな力があるのかとか、その時は何故かあまり気にならなかった。
ただ、早く止めさせなければ鬼灯も俺も、塁兎自身も危ない。そう思って事はをかけるが、塁兎には届いていない。
「何でいつも僕は……ぼく、は……俺は!」
――彼女が死んだショックで、今彼は自分を見失って本能のままに暴走している。
今の彼を説得した所で無駄だろう……
「ふふ、あは、ははは……こんな世界ならいっその事……」
とうとう狂ったピエロのように笑い出した塁兎の言葉に、本能が全力で危機を訴える。
駄目……駄目です……その言葉の続きを言っては――
「――皆壊れてしまえばいい」
その願いも虚しく、塁兎が言葉を最後まで言い切るとそれを引き金に彼の全身を何処からか現れた赤黒い光を帯びた黒い蔦が一瞬だけ包み込んだと思えば、次に見えた塁兎の姿の異様さに鬼灯も俺も目を疑った。
先程まで硝子玉のようだった瞳は今や紅く光り、背中には血で染め上げたような大きな翼が生えていて、いつの間にか黒い柄に赤黒い刃を括り付けた大鎌をその手に握り締めていた。
その姿を見て真っ先に思ったことは……
「やっぱり……人間じゃなかったんですね」
思っていた事が無意識に、ぽつりと口から溢れた時。左頬に衝撃が走った。
「違う……塁兎は人間だ!」
俺を突然殴りつけ、怒鳴りつけてくる鬼灯の空色の瞳からぽろぽろと大粒の雫が溢れた。
「でも、アレはもう……」
「役立たずは黙ってろ!」
尚も言葉を続けようとすると、鬼灯に思いっきり突き飛ばされた。
普段の俺なら躱せただろうが、この時ばかりは避けきれずに無様に地面に転がった。
鬼灯は手の甲でごしごしと目を擦ると、右手を天に掲げた。
「バルムンク!」
その名を呼ぶと、何処からともなく剣が彼の手元に現れた。
金色の打紐で巻き上げられている鞘を乱雑に抜き、投げ捨てると鬼灯は塁兎に向かって突進していった。
去り際に鬼灯はちらりと俺を見やったと思えば、
「……何もできない奴は邪魔だからすっこんでろ。塁兎は僕が正気に戻す」
と毒を吐いて、ひらりと高く飛び上がると華麗に宙返りを決めながら塁兎の背後に降り、塁兎の翼目掛けて斬りかかった。
塁兎は斬られる直前に身体を逸らしたので、肩に軽い切り傷ができただけで済んだが躱し切ったと思っていた刃が届いた事に少し動揺しているようにも見えた。
鬼灯は躱されたと分かった後、すぐに追撃するが塁兎も鎌で剣の刃を受け止め、応戦する。
鬼灯が隙を見ては攻撃し、塁兎がそれを躱すという光景が繰り広げられている中、傍観者である俺はただ圧倒されていた。
塁兎を防戦一方に追いやった鬼灯の謎の小慣れ感と、執拗に塁兎の翼を狙っている事からあの翼に何かあるのかとは思うが、何よりも驚いたのは先程まで放心状態だった癖に今は果敢に幼馴染みに斬りかっている鬼灯のメンタルの強さだ。
目の前であんな事が起きたら塁兎みたいに発狂しても仕方がないだろうに、冷静に俺に毒を吐く余裕もまだ残っているなんて色んな意味で恐ろしい子だ。
「はあぁぁあっ!」
反撃する隙を与えず、勢いに任せて斬りかかってゆく鬼灯。
あの子確か体力無かった筈だが……そろそろバテないか心配だ。
――だが、鬼灯がスタミナ切れするよりも早く状況は変わった。
それまで鎌で鬼灯の攻撃を受けていただけの塁兎が、突如鬼灯のバルムンクを蹴り飛ばしたのだ。
「なっ!?」
それを好機と見た塁兎が鬼灯へ鎌を振り回すが、鎌は大きいがその分振り回すのも少し時間がかかる。
その攻撃を鬼灯が躱すのは割と簡単だったが、数分も経てば徐々に顔に疲労の色が浮かんでくる。
――このままではまずい。
早くバルムンクを鬼灯の手元に戻さないと、鬼灯まで……
俺は蹴り飛ばされたバルムンクを探し、何一つ見落としがないようにぐるっと周りを見回すと、そう遠くない場所に塁兎の咆哮で倒された木に突き刺さっている黄金に輝く柄の剣――バルムンクがあった。
「あれか……!」
俺は急ぎ立ち上がり、バルムンクの元へ駆け寄る。
近寄って見てみると倒木にかなり深く突き刺さっており、抜くのは中々に骨が折れそうだ。
――それでも、俺にはこれを鬼灯に渡すくらいしかできないから諦める訳にはいかない。
決意を胸に俺は柄をわし掴んで、全力で引き上げる――
……するとバルムンクはまるでスポンジの上にでも刺していたかのようにあっさり抜けた。
「えっ」
予想していたよりも遥かに軽い手応え。必要以上に込めていた力の行き場が無くなり、俺はバランスを崩して尻餅を着く。
「え……えぇええええ…………?」
見た感じあんなに深く突き刺さってたのに、こんな簡単に抜けて良いのかとか、言いたい事は山程あるが今ツッコミを入れている時間はない。
二人が戦っている方へ視線を向ければ、線路の上を猛スピードで駆け回る二人がいた。
塁兎は飛びながら鬼灯に襲いかかっていて、鬼灯は何とか持っているが先程まで傷一つ付けずに楽々と戦っていたのに全身細かい傷だらけになっていて、表情も険しい。
あのまま塁兎の攻撃を躱し続けるのは限界があるだろう。
「鬼灯っ! パス!」
「うわっ……!?」
手段も選んでいられず、俺は鬼灯にストレートでバルムンクをぶん投げると、鬼灯は間一髪キャッチしてくれた。ナイス。
「あっぶな……って何であんたがバルムンクに触れるんだい!?」
「知りませんよ! 細かい事は後にして、さっさとなさいっ!」
「え、あ、うん」
文句を言ってくる鬼灯に、勢いに任せて嗾けると鬼灯はビクッと身体を震わせつつ、高くジャンプして数メートル上空の塁兎に飛び掛かった。
バルムンクを取り戻した鬼灯は疾風の如く塁兎に距離を詰めてゆき、近距離戦へ持ち込んでゆく。
何の感情も感じさせない、今や本能だけで動いている塁兎の額には薄っすら汗が浮かんでいた。
――いける。
「でやぁぁぁあっ!」
俺が確信した時、とうとう鬼灯が塁兎の翼を片方、根元から斬り離した。
「っあぁぁぁあああああ!」
翼を片方斬られた塁兎は地面に落ちた。
斬り放された翼は次第に煙と化してゆき、そのまま跡形もなく消え去った。
地に落ち、翼のあった部分を押さえて唸る塁兎に鬼灯は更にもう片方の翼も斬り離そうとバルムンクを振り下ろそうと構えた。
――その瞬間、今まで俺を眼中にも入れていなかった塁兎の瞳が俺を捉えた。
赤い光は鋭く俺を睨みつけ、塁兎は俺に向かって手を翳すと何かを呟いた。
バルムンクが塁兎のもう片方の翼も斬り落としたのが目に入った途端、ガクンと視界がブレた。
勢いよく水飛沫が上がり、俺は逆さまに沈んでゆく。
「……え?」
そんな声の代わりに、口からゴポゴポと空気の塊が漏れた。
あの時と同じ、冷たく、暗く……底があるかも分からない水の中を沈んでゆく感覚。
言いようのない恐怖が全身を包み、水の中を必死に暴れるが俺の気持ちに反して身体は下へ下へと沈んでいった。
意識が途切れる瞬間、視界の端で黄金色の何かが蠢いた気がした。
【次回予告】
久しぶりの零音と彩葉。
学園ラブコメが今、始まる――!
零音「いやいや一概にも否定できないけどそんな甘ったるい展開じゃないからね!? 期待しないでね!?」
彩葉「それはフリですか?」
零音「違う!」
 




